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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

臨死での冥想

2025-04-13 06:24:41 | 道教neo

◎チベット密教などとの共通性

(2008-04-26)

柳華陽は、慧命経で、華厳経の『安住寂静の諸禅定による智は不死道に至る』を引いて、この安住寂静とは、鼻から気の出入りがなくなり、両手の六脈にも脈動がなくなることであるとして、呼吸停止、脈拍停止の状態であるとしている。

更に華厳経には、『三禅により、脈が止まれば諸根は止まる』とあるそうなので、仏教の冥想レベルの一つである三禅は、脈拍停止の状態でないと起こらないことが知られていた。この時、不死道に至る智が発現するとする。

一般には、有餘涅槃とは、肉体を残しているがマーヤ(無明)を断ち切って輪廻転生しない状態とされ、無餘涅槃とは、肉体とのつながりがなくなった状態とされる。

慧命経では、まず有餘涅槃の呼吸がある状態があり、その後、無餘涅槃となり、無餘涅槃の無餘とは出入りの息がないことであると断定している。

このように臨死での冥想は、チベット密教の専売特許ではなく、道教・煉丹でも同じであったことに、双方とも同じクンダリーニ・ヨーガとして同根であることを感じさせられる。

このように死そのものを扱う超マジな技術であるからこそ、以下のような修行者は相手にしてはいけないと柳華陽は戒める。

1.金やもうけのことばかり気にして、真の生き方にあまり関心のない人
2.修行を初めてもすぐ飽きてしまう人
3.心にもないうまい言葉を並べる人
4.過度に慇懃な態度で言葉な丁寧で巧みな人(心に誠がない)
5.先祖に徳がない者(子孫が修行しても成就しがたい)

(参考:慧命経/柳華陽真人/たにぐち書店)

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親切な師家

2025-04-13 05:59:36 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎パワハラ・セクハラ・無理・理不尽・不条理

(2018-04-10)

 

平林寺僧堂師家白水敬山は、美濃井深の正眼寺の小南惟精老師のところで15年修行。その臘八接心の時の記録。

『一月十六日

今夜から山上の新隠寮に休むからその用意をして置けとのことで、蒲団などを持ち運ぶ。昼一度、夜二度、新隠寮の風呂に入られる。入浴せられる時お湯加減を問う。

突然湯を衲(ころも)にブッかけて「世間の下男下女ではあるまいし修行底の者なれば、わしが湯に足を入れたその姿をみて湯加減を見てとれ」と叱られ、

「白隠禅師が初めて正受老人(白隠禅師の師家道鏡慧端禅師)の所に行かれた時、風呂をわかせと命ぜられてわかされた。

正受老人は風呂に入ってすぐ栓を抜き、『今日までどんな修行をしてきたか知らぬが、風呂をわかすこともできぬ。わかし直せ』と叱咤せられたので、白隠禅師はまた山の下から水を汲み上げてわかし直された。

「わしはお前に湯をブッかけたが、栓は抜かぬぞ」と垂誡される。』
(講座禅 第5巻/西谷啓治/禅と文化 筑摩書房P316から引用)

臘八接心は、通常は12月なのだが、ここでは寒さ厳しい1月に8日間不眠で坐禅する。

この老師は、湯も抜かなかったので親切だと言っている。正受老人とこの老師とどちらが親切なのか。

ここは修行場であり、俗世間ではない。

恐怖の恵み。

終戦後、応召から戻ってきた人を禅寺で受け入れる時に、『戦地に比べれば、ここの修行は生ぬるいでしょうが、云々』などという前置きを目にすることがある。

現代は、全く戦場ではないが、ここまで個人の持つ価値観が揺るがされ、何が正しいか判別のつかない人が増えてくると、『もう沢山だ。もういい加減にしてくれ。』と、パワハラ・セクハラ・無理・理不尽・不条理な仕打ちに対して、反射的にリアクションして、それを引きずるのが当たり前みたいになっている。

よって現代人には、この白水敬山のような修行はもう成立しないのかもしれない。

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出口王仁三郎と本田親徳との出会い

2025-04-13 05:47:12 | 古神道の手振りneo

◎古神道本流

(2010-04-23)

 

出口王仁三郎と本田親徳との出会いは、あまりにも古神道のビッグ2の出会いのなので、史実ではなく、作り話だろうとする説を読んだことがある。

ところが、
『○本田親徳翁との初対面

王仁が本田親徳翁に会ったのは梨木峠である(明治二十一年十八歳の折)。本田親徳は伏見のお婆さんにいなりがかかっているのを見て研究したのである。十七歳の娘の子とは本田先生の子である。(昭和十八年)

(参照)「神霊界」大正七年六月一日号「霊学研究に就いて」
「神諭」大正七年十二月二十六日(女子が十八歳になりた春、丹波国大枝坂の梨の木峠で神界からの経綸で霊学中興の偉人・本田九郎親徳に途中に対面いたさせたのも、皆神の経綸の引合わせで有りたぞよ)』
(新月の光(下)/木庭次守編/八幡書店から引用)

文中の女子は出口王仁三郎のこと。出口王仁三郎がその邂逅を認めているのだから間違いなし。

この切羽詰まった時代に、もはや霊言などを相手にする余裕はないが、当時霊学という切り口で、死の世界をも包摂するテクニックを中興した偉人たちの遺産がなければ、古神道の現代における展望もない。出口王仁三郎は無我に行き着いてピークを見たというのが一里塚なのだと思う。

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孤独な鳥は空中で一回限りの大爆発を起こす

2025-04-13 03:45:43 | 覚醒のアーキテクチャー

◎突然の爆発と全知

ダンテス・ダイジの『孤独な鳥は空中で一回限りの大爆発を起こす』という言い回しは、あまり知的想像力を刺激せず、ぴんとこなかったが、どうもそうらしいと思うようになった。

『もう生々化々の流れも消えた無想定
静寂———喜怒哀楽は消え果てた。
秘められたさわやかさ

突然の爆発!
マーヤーとブラフマンのファッキング!
あなたは『神』に貫通されたのだ
鳥飛んで鳥のごとし、魚に泳いで魚に似たり
石ころは笑う!』
意味だけが生きるのだろうか?(老子狂言/ダンテス・ダイジ)から引用)

『マハーヴィーラは、チャクラや跳躍については決して語らず、爆発について語る。ある瞬間にあなたはこれであり、次の瞬間にはあれである。つまり、連続も跳躍もなく、爆発がある。通過すべき中間点はない。』
(OSHOバグワンの“I Am the Gate Chapter #5 冥想と内なる覚醒への道”)

これに対してのOSHOバグワンの説明。
『マハーヴィーラはチャクラや跳躍については決して語らず、爆発について語ります。あなたはこれであり、そして次の瞬間にはあれである、と。跳躍するための多くの停留所さえありません。これは別の道です――爆発、あなたはただ爆発するのです。ある瞬間にあなたはこれであり、次の瞬間にはあれである。連続も跳躍もなく、爆発があるのです。通過すべき中点はありません。』

さらに、
『両目がひとつになったとき、天上の光が見える。その時、光の爆発が起こる。
1. 洗礼者ヨハネの火の洗礼は、その爆発のこと。』

太乙金華宗旨の冒頭のOSHOバグワンの説明)

また、
『5.想念と隙間との間の移動
OSHOバグワンは、前後の想念から隙間に進むことには連続性がなく、爆発だと表現する。彼の口ぶりでは、爆発とは、「個なる想念・夢」から「隙間である全体に」、連続性なく一足飛びに進むことをいう。そして前後の想念の方が夢であって、隙間の方が現実。現実とは、永遠不壊であるという意味。 』
想念の隙間とその深度/ジェイド・タブレット-04-05)
ここで、隙間と爆発の関連が述べられる。無想定から有相三昧へ行くのが、爆発。

爆発後は、これ。
『私は、絶対無の光明とあらゆる多様多元の宇宙が、何もかもが私だったことを生きていたことを知った。
・・・そして、それも忘れ果てることだろう。』
格言3-12見性においては/老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

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