◎正しい教えが伝わらなくなった時と伝わり切った時
出口王仁三郎の説明では、立替には、破壊シーンと復興シーンがあって、破壊シーンが立替であってノア、復興シーンは立直しであってナオ。
立替とは、自分の心のことであって、「立替を 世人のことと な思ひそ 立替するは 己が身魂(みたま)ぞ(出口王仁三郎)」のことで、神人合一を言う。この結果の人間を、水晶身魂、クリスタル・ピープルと呼ぶ。
出口王仁三郎の随筆集水鏡から。
『世の終末と立替
キリストの本当の教が伝はらぬやうになつた時。仏法に於ては釈迦の誠の教が伝はらないやうになつた時、それが世の終りである。即ちキリスト精神の滅亡、仏法精神の滅亡を意味する。此時にあたつて、本当の耶蘇教、誠の仏法を起すのが世の立替である。』
(水鏡_世の終末と立替/出口王仁三郎から引用)
このようにキリスト教も仏教も本当の教えが伝わらなくなった時、それが世の終りであるとしているが、逆に一方で正しい教えが世界中に伝わり切った時に世の終りが起こるとしているのがイエスやノストラダムス。
大悟覚醒、人間が逆転して神になる場合、自分も家族も人間関係も財産も名誉も社会的地位もすべてを捨てる段階が必ず起きる。これは自我の死だが、これが世の終わりにしてノア。自我は死んで、不思議なことに神知る自分として再生するのだが、これが復活、復興であってナオ。
未成熟の者は復興はないのだろうが、人間には、堪えられないことは起こらないの法則もある。その辺を踏まえて、キリスト教では、「正しい教えが世界中に伝わり切った時に世の終りが起こる」と、成熟が万人に起きるまで世の終わりがないかのような言い回しをしているが、これは出来上がりの至福千年からみれば結果的にすべての人は成熟を経て神を知っているので、「成熟が万人に起きたから」世の終わりと至福千年が発生したと言えることは言えるのではないか。
こうした人にやさしいキリスト教の教えには見るべきものはある。一方で砕霊という無慈悲なものがあることを唱える道教は、人に厳しい支那の風土を反映していると見るのか、神仏は必ずしも人間に都合よく動くばかりではないと見るのか微妙なところがある。
2024パリ五輪閉会式で、イエスの最後の晩餐のパロディが披露され、現代フランスは涜神の巷であったことを改めて証明した。現代フランスには、正しい教えが伝わらなくなった時が来たのか、はたまた伝わり切った時が来たのか。