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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クリシュナムルティの効果

2022-11-20 12:51:22 | 夢と真実neo
◎瞑想と身心脱落

クリシュナムルティのいうところの瞑想とは、メディテーション全般を指しているのではなく、悟りを指している。その悟りは只管打坐タイプの冥想における悟りである身心脱落のことである。

『言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、自己閉鎖的で破壊的なものである。思考の孤立性は常に既知なるものの領域にあり、祈りに対する答えは既知なるものの反応である。

瞑想はそうしたもののはるか向こうにあり、その領域に思考は入れない。その中では何の分離もなく、それゆえ私という意識を成り立たせる個別性は消滅する。

瞑想は開かれた場所にあり、そこには何の秘密も介在していない。あらゆるものが裸形で、はっきりと姿を見せており、そのような明澄さの中ではじめて、愛とその美しさが現実のものとなるのである。』
(クリシュナムルティの瞑想録P166/クリシュナムルティ/平河出版社から引用)

まず思考がない、想念停止があり、そして自分という個別性が消滅する。その世界はどこにあるかと言えば、薄皮一枚を隔てたところでもなく、または破りやすい卵の殻一枚を隔てたところでもなく、開かれた場所にあるという。これは開悟した者が、彼岸からそれを語る言い方。

我々にとっては、薄皮一枚、卵の殻一枚が隔たっていると説明してもらった方が知的理解は容易であるが、そんな先入観すらも邪魔になることからクリシュナムルティはこのような言い方をするのだろう。

そこに至るには秘密などないとは、最後は只管打坐という冥想にこだわる必要もないとも言っているようにとれ、坐相は自ずと起こるということを意識したものだろうか。

そしてその悟りのなかで、愛や美などの徳目が花開く。これが身心脱落という悟りの効果というものである。愛、美、力強さ、歓喜、智慧、安心、自由それは目に見える効果でもあるが、悟りという根っこがないと花は開かない。

クリシュナムルティにとって瞑想とは、othernessそのものであって、坐ることではなかった。だから彼の著作はいまひとつわかりにくいところがあるのではないだろうか。要するに彼は著作の中で瞑想、瞑想と連呼しているのに、ちっとも瞑想のことなんか語っていやしなかったのだ。

クリシュナムルティの著作は多く、そのテーマは時間、思考、自由、暴力、意識、快楽、教育など、ありとあらゆるテーマに及んでいる。それらは、すべて悟り、othernessにいることによって、どの側面においても真正な生き方が展開することを述べている。それが悟りの効果なるものである。

勿論それは自分だけ得をするとか、自分にだけ都合のよい願望がかなうなんて下世話なことなんかではない。肉体を持つ以上は、下世話な生活からは逃げられないが、大本のところに根を張ることが必要なのだ。

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