Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

日本のアイデンティティー(1)-天皇擁立

2007年02月12日 | 歴史
 途中まで書いていた「倒幕に至る時代の流れ」と題する連作記事を新たに、「日本のアイデンティティー」というシリーズに編集しなおすことにしました。日本史を叙述した本をたくさん買い集めました。それらを読みながら、今日の日本人の思考、思想のルーツをまとめていこうと思います。応援してくださいね!  今回はその第1回です。





徳川時代に「国家」と言えば、それは「藩」を指して言います。藩の領主は、領民に対して王のような支配者でした。藩の領主=大名(一万石以上の領地を持つ封建的領主のこと。「石(こく)」は米の体積の単位で、1石は約180リットル)には、領地を思うままに支配することができました。幕府が支配したのは領主たちであって、領地の民衆の管理は大部分大名に委ねられていました。

たとえば、1853年にペリーの艦隊がはじめて浦賀港に到来したとき、坂本竜馬はちょうど江戸にいました。剣術の修行に出てきていたのです。今でいうところの「留学」です。江戸における土佐藩主山内家の江戸屋敷に書生として住み込み、北辰一刀流の修行に励んでいたのですが、国許から出てくるとき父親から、「修行中大意心得」という書付けを持たされています。そこには3か条の条文が書かれていました。

一、片時も忠孝を忘れず、修行第一之事。
一、諸道具に心移り、銀銭を費やさざる事。
一、色情に移り、国家之大事を忘れ、心得違有るまじき事。

此3か条胸中に染め、修行を積み、目出度く帰国専一に候。以上。

(「坂本竜馬」/ 飛鳥井雅道・著)

この3番目の、「国家之大事」とある「国家」とは、「日本」のことではなく、土佐藩のことであり、第1番目の「忠孝忘れず」の「忠孝」も、土佐藩主へのものを指しています。藩主は、家臣にとって絶対的な服従の対象でした。では「ご公儀」、つまり幕府はどうなるのかというと、藩主を治めるもっと上の存在でしたが、日ごろは公儀のことを考える機会などありませんでした。藩士は、藩主であるご主君に仕えるのが使命でした。さらに天皇となると、将軍職に任命する権威ではあるものの、この時代にはもはや天皇は政治には一切かかわりを持つことを許されていませんでしたので、遠い遠い存在だったようです。

幕府は、その権威の根拠として皇室には依存していなかったということです。むしろ、「禁中並公卿諸法度」によって皇室の権力を制限していたのでした。ここが、徳川幕府と信長や秀吉の異なる点でした。幕府はさらに、京都に「所司代」を設置して、皇室が外様諸侯と結びついて幕府にとって脅威を及ぼすようになってしまわないよう監視すらしていたのでした。また、幕府の帝王学は、京都朝廷が持つ神道の物語ではなく、もっと哲学的にも洗練された儒学の一派である朱子学に立っていました。例を挙げると、たとえば林羅山という幕府の御用学者はこのように述べています。

-----------------------------------

それ天孫、誠に若し所謂(いわゆる)天神の子たらば、何ぞ畿邦に降らしめずして西鄙蕞爾 (せいひさいじ:「鄙(ひ)」は“いなか”の意。日常よく言う “へんぴ” は「辺鄙」と書く。「蕞爾」はとても小さいさまを言い表すことば。字が潰れて読みにくいですが、草かんむりの下に「最」と書きます。江戸から見れば、出雲は西方の辺鄙な田舎町だったのでしょうね) の僻地に来るや。何ぞ早く中州の美国(関東地方のこと?)に都せざる…。天孫のオオムナヂある、ナガスネヒコある、あるいは相拒(ふせ)ぎ、あるいは相闘ふ、是亦(これまた)怪しむべし。想ふにそのオオムナヂ、ナガスネヒコは我邦古昔の酋長にして、神武は代わって立つ者か。(羅山文集;神武天皇論より)

(「吉田松陰」/奈良本辰也・著)

-----------------------------------

だいたいのところは、天神さんならどうして辺鄙な僻地に降り立ったのか、なぜ江戸に都を構えなかったのか、天孫は互いに反目し戦っている、これもおかしい、自分が思うに、朝廷神話の神さんは大昔の酋長だったものを神格化し、神武天皇はそれらを征服して取って代わった指導者ではないか、というような意味でしょう。第二次大戦中の日本でこんなことを言ったら、速攻で特高に捕まえられたでしょうし、最近はイラク反戦ビラを配布しただけで捕まって有罪にされてしまうご時世ですから、右翼に放火(加藤紘一事件のこと)されてしまうでしょう。しかし、江戸時代には神道なんて、また天皇なんて、徳川将軍家からみれば「下っ端」視されていたんですよね。こんなエピソードもあります。

-----------------------------------

松平定信が皇居(もちろん、京都のほうの御苑)の修理を行ったとき、朝廷は「関東の御威光(将軍家の威光、という意)をかたじけなく思って。上を従一位に御推叙あるべしと二たびまで御内意があったが、しかし、将軍家は「例もなきこと」として堅く辞退したという。

(上掲書より)

-----------------------------------

幕府は朝廷をそんなに大きな権威とは見なしていなかったのでした。天皇の権威は、明治政府によって作られたものだったのです。第二次世界大戦では、イデオロギーの中核として、大勢の日本国民に国家への殉死を要求し、また国民のほうでも、今日のイスラム原理主義者のように自ら進んで命をささげた天皇の神格的権威は、つい150年ほど前の政府によって創作されたものなのでした。それは日本人の忠誠を「藩」から「日本統一国家」に向けさせるためだったのです。日本統一国家の必要性を自覚させたのは、徳川政権末期のことでした。歴史的一大転換点となった、ペリー提督の率いるアメリカ海軍の来航が、国家総動員の必要性を幕府自身と、先見の明のある当時の識者に思い知らせたのでした。

現に、ペリーとの交渉に当たった日本側外交官、岩瀬忠震(いわせただなり)は老中にこのような上申書を提出しています。

-----------------------------------

「天下の大事」は「天下と共に」議論し、「同心一致」の力を尽くし、末々にいたるまで異論がないように「衆議一定」で国是を定めるべきである。そのためには、将軍が臨席し、御三家、譜代、外様の諸大名を召し出して、「隔意」なく評論をさせた上で「一決」する。ここで議決されたものを、速やかに天皇に報告し、天皇の許可を得た上で、全国に布告するべきである。(「大日本古文書 幕末外国関係文書」18巻)

(「幕末の天皇・明治の天皇」/ 佐々木克・著)

-----------------------------------

当時の幕閣は、オランダから海外事情について毎年簡略な報告書を受け取っていました。「オランダ別段風説書」といわれていたドキュメントですが、その中から、アメリカが日本に開国を要求する目的で渡航しようとしていることや、それゆえやがては来航すること、なにより東洋の雄、清国がアヘン戦争でイギリス軍によって大敗したこと、欧米列強の軍事力の強大さなどを知っていました。ですから挙国一致の必要性には目の黒い人々は気づいていたのですが、幕府は手付かずにしたまま、あと延ばしにしていたのです。そのころ幕府の財政も諸藩の財政も逼迫していて、その対策に追われていたことも原因したのでしょう。

しかし、いざ、「その時」がきた際の岩瀬忠震の上申書は、財政対策以上に緊急な事態になったことを幕閣に警告したのでした。なぜなら、清国でさえ撃ち払えなかった鉄の海軍を率いる欧米資本主義の帝国主義的侵略に対処するにはもはや幕府だけでは手に追いかねるのは明白だったからです。そのために挙国一致が求められたのですが、そこで頭をもたげてきたのが「尊王」思想でした。強力な欧米の軍の前には、どこの藩ここの藩などと言ってはいられない、自分たちはまず、日本国だという意識が起こされたのです。だから幕藩体制という封建的主従関係の社会ではなく、強力な近代的・中央集権的な統一国家を作り出すために、天皇を擁立しようというのです。もっとも最初は、幕府を倒して天皇制を樹立しようとしたのではなく、あくまで幕府の支配は維持したまま、その権威を強化改革しようとしたのです。この動きは「公武合体」と言われています。

-----------------------------------

天子(天皇のこと)は天工(天の仕業、の意)に代わりて天業(天帝政治)を改め給ふ(=吟味いたされる)。幕府は天朝(天皇政府)を佐けて(たすけて)天下を統御せらる。邦君はみな天朝の藩屏(天帝守護)にして、幕府の命令を国々に布く(しく)。是が臣民たらん者、各々其の邦君の命に従ふは、即ち幕府の政令に従ふの理にて、天朝を仰ぎ、天祖(皇統、とくにアマテラスのことをいう)に報い奉るの道なり。その理易簡にして、其道明白なり。易簡明白なるは大道なり。

(「吉田松陰」/ 奈良本辰也・著)

-----------------------------------

上記引用文は、幕末の水戸藩士、儒学者であった相沢正志斎(あいざわ-せいしさい)による名分論(儒教の哲学で、自然界に天と地があるように、人間にも上下の格差があるのはやはり自然の摂理であるから、下の者は上の者に無条件に服従しなければならない、とする思想)です。この理屈によって、同じ軍人の徳川家に屈従するのではなくて、徳川政権に服することは「天祖」に従うことなのだから、ゆめゆめ謀反を起こそうなどとは考えないように、という思考コントロールを行ったわけです。徳川家康は、武田信玄に手痛い敗北を喫した経験がありますから、優秀な武将が現れて刃向かわれることを怖れ、諸大名を封じ込めようとしたのです。武将たちにとっては「征夷大将軍」の任命は天皇だけが行うものという伝統的な思考があり、それはやはり伝統によって強固にインプットされていたものでした。

このように幕府は封建的諸侯(諸大名)たちを従わせるためには、名目上天皇の権威を利用しましたが、先に見たように実際には、軍事力によって天皇を完全に封じ込めていました。しかし、この名分論にこそ、陥穽があったのです。というのは、幕府に従うのはつまるところ、天朝に従うこと、だからおとなしく徳川家に服するのですが、もし徳川幕府の権威が失墜して救いがたいという状況になったなら、徳川幕府をはしょって、天朝と直接結びついてもいいんじゃないかという理屈があるわけです。そしてまさに、ペリー来航はその幕府の弱体化をまざまざと見せつける事件だったのです。

こうしてついに天皇がふたたび政治の舞台に引き出されたのでした。日本は中央集権的統一国家へと急進的な一歩を、アメリカによって押し出されるようにして踏み出したのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする