Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「他人の目を気にしない」

2005年04月12日 | 一般
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「他人の評価を気にかけないようにしましょう」

他人の目を気にし過ぎないようにしましょう。もちろん、他人の迷惑になるようなことはしてはいけないし、他人に対して思いやりを持つことは必要ですが、いつもいつも他人の意見を重視するあまりに、自分の意見を忘れてしまい、自己を見失ってしまわないようにしましょう。

小さいときから「よその人に笑われるよ」「他人が何と言うか」と、つねに言われて育つと、自分のことより他人の批判が気になって、他人がどう思うかと心配し、外面をよくすることばかりにとらわれて、中は空っぽということになりがちです。これが習慣になると、「さて、自分はどう思うか」と問われたとき、何も出てこないということになってしまいます。

他の人にどう思われるかという考えが出てきたら、「自己志向!」と忠告の言葉を口に出して、習慣を破りましょう。そして「自分の意見はどうなのか」を、すこし時間をかけて育ててゆきましょう。

自分の意見を重視できると、最終的には他人の意見も、その人の意見として尊重しながら聞くことができるようになります。

(心の傷を癒すカウンセリング366日/西尾和美・著)
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熱狂的なエホバの証人の親は、組織の中の影響力のある人から評価されることを意識的、無意識的に重要視します。個人の感受性や考えは「人間的な観点」であり、エホバの証人たるもの「エホバのものの見方」に調和していなければならない、と自分に言い聞かせます。いいえ、自分だけでなくそれを子どもにも要求します。子どもの自発的な意欲も組織の教えに合っていなければ、「暴走」、「エホバを否定しようとする独立的な精神=罪」、とみなされます。「エホバがどう思うか」という観点から物事を見るようにしましょう、と機関紙やものみの塔聖書冊子協会発行の書籍は指導します。

エホバの証人は、組織をエホバから一切の権限を委ねられた、地上における神権的な代表者と主張しています。つまり組織=神であるわけです。中世ヨーロッパの「王権神授説」とそっくりですね。ですから、協会(エホバの証人の統治体が主宰する宗教法人=組織の「目に見える主要な部分」)の見解に合致するかどうかを気にかけるのはつまりはエホバのご意思に従おうとしているかどうかという問題なのです、エホバの証人たちにとっては。

西尾先生のおっしゃるところによると、《「他人が何と言うか」とつねに言われて育つと、自分の感じ方や意見のことより、他人からの批判、評価にとらわれてしまい、自分の意見、感じかたを見失ってしまい、中身はからっぽということになってしまいがち》になるということです。心理療法の本などにはよく、「自己不在」という言葉が出てきますが、このことがまさにそれです。

自己不在の人は他人にかまうことで自分の存在する意義を見出そうとします。子どもを甘やかしすぎる「過干渉」はその一例です(子どもが自分で試行錯誤して目の前の問題や興味を解決しようとするのを妨げて、親が先回りして解決してしまう、など)し、またどんなに虐待を受けても、アルコール依存症の夫の世話をかいがいしくすることで生きている実感を得ようとする妻もそうです。

このことは、掟を破ってインターネットでエホバの証人の組織の偽善と情緒的な虐待を批判しながらも、エホバの証人を擁護したい現役の人たちにもそのままそっくり言えることだとわたしは思っています。そういう人たちは「エホバの証人」がなければさみしくていてもたってもいられないのです。西尾先生は前掲書の中の別の箇所でこのように書いておられます。

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「一人の時間を大切に」

忙しい一日の中からある時間をとって、ひとりでいられる訓練をしましょう。

みんなと話したり、夫婦や恋人(エホバの証人であるなら、仲間の兄弟姉妹たち)と一緒に過ごすことも大切ですが、時には一人でいる時間を楽しく、充実して過ごすことはもっと大切です。

特に共依存の人は、ひとりでいると孤独感におそわれて、誰かがそばにいないといたたまれなくなったり、誰かの世話をしていないと空虚になったりすることがあります。

人間は一人で生まれてきて、一人でこの世を去ってゆくものです。いつも人を頼っていると、一人でいるときを大切にすることができません。一人でも人生を楽しめるようになりましょう。また、自分だけの時間を貴重に扱いましょう。
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自己不在の人は寂しさや空虚さのために他人に干渉します。エホバの証人が他の成員の個人的な決定や嗜好に口を挟んで、自分の考えかたに合うように変えさせようとするのも、それによって「自己存在」を確認しようとしている、と言えるかもしれません、ここで紹介した心理療法士の見解をもとに言えば。

では自己不在感を埋め合わせるにはどうすればよいのでしょうか。
冒頭に引用したように、他人の評価をいったん排除することです。自分がどう思うかをまず考えることです。もちろん、自己不在ですから「中身はからっぽ」でしょう。長年、組織の見解をして自分の信念としてきたのです。自分で考え、自分の意向や意欲を自覚しないようにしてきたのですから。

そのためにも、とにかく何かいろいろやってみるのがいちばんいいと思います。いろいろなことに手を出しているうちに、きっと「これだ!」って思うことに突き当たるはずです。自分が興味を持ったことに時間を割いて着手する、自分はこう思ってるのにっていうことを言葉にしてみる、日記や、同じ人たちの集まるサークルや、HPの掲示板で言ってみる、そういうことからはじめていくうちに、自分の意見や自分の方針が形づくられてゆくのだと思います。

エホバや他人の意見を第一にしてきた人たちは、自分の意見を言おうとすると、いえ、自分の感じたことさえ周囲と違っていたりすれば、そういうことが意識に上ってくること自体に罪悪感を抱いたりするものです。気恥ずかしく思ったり、すぐに撤回したりして…。しかし多くの場合逆に、自分の意見を主張したり考えたりすることを、あつかましいとか、おおげさだとか、考えかたが消極的で内向きだとか、そんなにむずかしいこと考えてないでふつうにしてればいいじゃないとか言って、自分を見つめること、自分の来し方行方を見定めようとすることに嫌悪を覚える、またその嫌悪を怒りや攻撃で表現する、そういう反応の仕方を示すのです。それが自分の子どもに伝えられ、その子どもはまた親になって、子どもにそういう精神態度を伝える…。家族機能研究所代表の斉藤学先生(「アダルト・チルドレンと家族」、「家族という名の孤独」、「封印された叫び」などの著者)がおっしゃるところの「やさしい虐待」は世代から世代へ渉って受け継がれてゆくんです…。

自分の感じ方を素直に表現するなという裏面的なメッセージ、つまり表面からは隠された、しかし表面的な言葉なんかよりははるかに強力なメッセージで子どもを育てる親や、親たちにそうするよう指導する教育機関(エホバの証人をまず指しています)は本当に罪深いですし、その手の連中は人間精神の破壊者だと言っても言いすぎだとは思わないのです、わたしは。

このマイナーなブログを見つけてくださったあなた、あなたもおそらくエホバの証人と何らかの関わりがあった方でしょう。もしあなたが将来、もっと大きなHPなどを開き、掲示板などを設置されたら、そこに書きこみをされる方の中には必ず、自分の真情とも言える意見を書いたのに、すぐに削除する人がいるでしょう。そんな場合には削除された後でも、「いい意見を書き込んでくれてありがとう。削除されたようだけれども、わたしは読みました。またご意見聞かせてくださいね」とひとこと言ってあげてください。人を勇気づけるのにカウンセラーの資格など必要ありません。そのようにすることによって、自分が人間としての幅をエホバの証人以上に身につけていることを示したいじゃないですか。ましてあなたがお子さんをお持ちになるようなことがあれば、子どもさんの自発的な興味や意欲を摘み取るようなことはしないようにしたいですね。
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