仕事をしながら、久しぶりに『モーモールルギャバン』を聞いています。
普通なら「イロモノ」のバンドは1年もすると陳腐化するのですが、
このバンドは全然色褪せない。
そして、最近の作品では、確実に進化しています。
以前の記事の再録になりますが、
素晴らしいバンド(素晴らしくオバカでもありますが)なので、
もう一度、紹介しちゃいます。
■ 最近のバンドがツマラナイとお嘆きの貴兄に ■
打ち合わせの合間に時間が空いたので、久し振りにCDショップに入ってみた。
そんなシチュエーションを思い浮かべてみます。
たまには、何か新しい音楽でも聴こうと思ってCDラックを行ったり来たりしても
知っているのはサザンやミスチルまで、
AKB48やジャニタレや韓流なんてガキじゃあるまいし・・・・。
仕方が無いから、洋楽コーナーで大学生の頃聞いていたジャーニーのベスト版が
1800円で安かったから、思わず買ってしまった・・・。
あの頃のロックは良かった、それに比べて今の音楽は何だかなあ・・・・。
「ROCKは死んだ・・・」そんな言葉が思わず頭に浮びます。
多くの40代の男性が、こんな経験をした事があるかと思います。
はたして「ROCKは死んだ」のでしょうか?
それとも死んだのは「自分の感性」なのでしょうか?
■ 今時の若者は何を聞いているのであろう? ■
我が家の息子は今年高校を卒業しました。
友人と誘い合って、あるいは一人でライブハウスにも出かける様になりました。
そんな彼のiPodには、最近のバンドの音楽が沢山入っています。
たまに、iPodを借りると、「これは!!」と思うバンドを見つける事もあります。
そんあ最近の掘り出しものはコレ。
「モーモールルギャバン」という京都のバンドだそうです。
(裸族)
「オイオイ、バカにしてるのか?」とお思いになった方、
よーく、キーボードとベースを聞いてみて下さい。
こいつら、メチャクチャ音楽を知ってます。
もし「てつ100%」が今の時代に結成されたなら、
きっと「菅野よう子」はこんなプレーをしていたかも知れません。
(美佐子に捧げるラブソング)
サンボの山口のパロディーの語りで始まるこの曲、
「エゴラッピン」の様な、JAZZ風のウォーキングベースが引っ張ります。
そして歌詞たるや・・・「安田美佐子さん、愛してます」というオバカなもの。
でも、この曲も悪く無い。
極めつけはコレ。
「パンティー泥棒自転車で走る 3時間たったら元に戻す」
これ、完全に「やくしまるえつこ」のパロディーですよね。
そして、突然、サンボの山口に豹変する。
これ、ヤバイッス!!
(悲しみは地下鉄で)
おっと、今度は昔の「ハナレグミ」ですね。
「家族の風景」みたいな曲だ。上手い。
そういえば、ベースの風貌がそっくり。
(サイケな恋人)
ここら辺は「スーパーカー」以降のJ-ROCKの流れを上手くピックアップしています。
■ 意外に真面目なモーモールルギャバン ■
モーモールルギャバンは京都の大学で結成されたバンドです。
メンバーは、
ゲイリー・ビッチェ(矢島剛) - ドラム/ヴォーカル
T-マルガリータ(丸山知秀) - ベース/コーラス
ユコ・カティ(尾家祐子) - キーボード/ヴォーカル/コーラス/銅鑼
上のYoutube映像をご覧になった方の多くが
お笑いバンドだと思った事でしょう。
しかし、彼らの音楽に対する姿勢はとても真摯な様です。
[[youtube:8Ipm3M-q7bA]]
しかし、これとて、ポーズの様に感じられて実体が掴めないバンドです。
■ 破壊せずに再構築された音楽のキメラ ■
彼らの音楽の特徴は、「雑多な音楽のごった煮感」。
ROCKは元より、JAZZやアンダーグランドシーンの音も、
そして歌謡曲も、日本のアングラシーンの音も良く知っています。
[[youtube:kXPxUMv-S9I]]
(Hello!! Mr.Coke-High )
さて、この曲のサビは、完全にウテナの「絶対運命黙示録」ですね。
作詞作曲は寺山修司の舞台音楽家J.A.シーザー。
こんな、聞く人によって勝手に自分の音楽史が掘り起こされてしまうのが、
モーモールルギャバンの「闇鍋音楽」です。
80年代、90年代の前衛音楽シーンの特徴は、
「解体と再構築」でした。
これはポストモダンの典型的手法で、
進化の袋小路に入り込んだジャンルを一旦破壊して、
それを構成する基本的な要素を、再び論理的に組み替える事で
さらなる進化を目指す方法です。
ところが、「解体と再構築」をされた表現は、
何か大事なエキスが抜け落ちてしまいます。
それはROCKやJAZZであれば
「音楽で金を稼ぎたい」という純粋な欲望だったりします。
だから80年代のNYアンダーグランドシーンの音は、
熱く、エキサイティングではあるのですが、
クールでスノッブな雰囲気が漂う事も否定出来ません。
一方モーモールルギャバンは、音楽の初期衝動をコアに、
その周りに解体も加工もしない素材を張り合わせていきます。
一見音楽のコラージュの様にも見える手法ですが、
むしろ80年代に流行ったパロディーに近いものかも知れません。
ただ、パロディーの底には、オリジナルを相対化する事で、
オリジナルの隠れた一面を暴き出すという動機が働きますが、
モーモーの作品からは、それがあまり感じられない。
むしろ、インタビューにもある様に、
ある一節の思いつきの歌詞と、メロディーを培養液ぶち込んで
色々な細胞がグチャグチャにくっ付くがままに任せて
音楽のキメラを作り出して印象を受けます。
その過程の中で、例えば「パンティー泥棒自転車で走る」なんて歌詞が、
とても強い呪文の力を獲得するのでしょう。
もうこの曲のこの部分の歌詞は「パンティー泥棒自転車で走る」しか無いと
納得させられてしまう力を持っているのです。
■ 歌う目的を失った時代の「歌」 ■
ポピュラーミュージックの多くが歌詞を持ています。
吟遊詩人の昔から、音楽は歌詞と不可分の存在でした。
音楽の本質の半分が歌詞だと言っても過分ではありません。
ROCKが生きていた60年代後半から70年代前半まで、
ROCKの歌詞の多くは、社会の歪みを告発する内容でした。
そして、残りの多くが、若者の心を奪う「愛」に関するものでした。
「ROCKは死んだ」と言われた後もROCKは生き続けています。
むしろ産業として巨大化したとも言えます。
しかし、そこに歌うべき歌詞を見出す事は難しくなります。
ヒップホップがROCKよりも勢いがある時代もありました。
それは黒人達が白人社会への恨みつらみを歌詞(ラップ)にしていたからです。
しかし、これも直ぐに商業主義に取り込まれて、骨抜きにされてしまいます。
現在の恵まれた若者は、歌を歌おうにも歌う事が無い。
これをROCKのパロディーとして相対化して見せるのがサンボマスターの山口です。
日本のROCKはこの問題と30年以上戦ってきました。
「戸川純」に代表されるアンダーグランドのアーティスト達は
歌詞から意味を剥奪する事で、言葉の論理的働きを停止させました。
これはビートニクスに連動する方法論です。
意味を剥奪された言葉の断片は、自律的にイメージを喚起する働きを持ちました。
人間の脳は、「言葉」に対して論理を再構築しなければ気がすまないのです。
椎名林檎も、「無罪モラトリアム」以降は言葉の壁に突き当たります。
特に歌詞の力が強い彼女の歌は、繰り返し再生産による陳腐化を避けられません。
ユーミンや中島みゆきですら、自己複製の罠に絡め取られていますし、
サザンやミスチルは、周囲から期待されるイメージを体言しているに過ぎません。
現代において「歌詞」を歌い続ける事に意味を見出している歌手は
小谷美佐子くらいしか思い浮かべる事が出来ません。
その他の若いアーティスト達の多くが、「歌詞の様なもの」をたれ流すだけか、
初期「BUNP OF CHIKEN」の様に、一瞬だけ光輝いて魅力を失ってゆきます。
■ 言葉の断片の持つ力を憑依によって増幅する ■
モーモールルギャバン歌詞は意味不明です。
いえ、意味は分かります。
「安田美佐子さん、大好きです」は充分意味が分かります。
「パンティー泥棒自転車で走る。3時間経ったら返そう」も、
その現場をイメージする事すら可能です。
彼らのインタビューにある様に、
ステージ上で「パンティー」と叫んだ時に、
会場全体が「パンティー」と叫び返す快感が存在する様です。
幼児はウンチとかオシッコといった
キタナイ言葉が大好きです。
親に咎められると、むしろ嬉々として連呼します。
これはきっと、人間の根源的な欲望の一つで、
成長と共に理性によって欲望は押さえつけられてゆきます。
モーモールルギャバンのコンサートで聴衆は
この根源的欲求を揺さぶり起こされるのかも知れません。
「パンティー」とか「好きだ!」という
普段抑圧されている言葉達が出口を見つけて噴出するのです。
だからモーモールルギャバンの歌詞は、
対照を客観的にスケッチしたものでも、
他人に対する愛の告白でも、
ましてや社会の歪みに対する怒りでも無く、
ただ単に、ゲイリー・ビッチェ(矢島剛) の脳内で
抑圧を押しのけて浮かび上がる「言葉」を
音楽で増幅して聴衆にぶつけているのです。
そして言葉は質感が伴いますから
それを表現するのに最適なアーティストを憑依させて
言葉の力をさらに増幅しています。
これはパクリやコピーでも、
パロディーでもなく、
「擬態」や「憑依」という言葉で表現すべき方法論です。
「憑依」によって憑依対照のアーティストの作品世界や世界観を
一気に自分達のステージに召還しているのです。
但し、これには相当な演奏テクニックが必要です。
3人の演奏が、音楽のツボを良く押さえているからこそ可能な芸当なのです。
ただ、あまり褒め過ぎるのも何なので、
「ビートニクスのポップな幼児退行」と私は捉える事にします。
アメリカのビートニクスの作家達が破壊しようと試みたのが、
保守的なアメリカの文化や風潮であるならば、
モーモールルギャバンが壊そうとしているのは、
「過保護な画一性」というぬるーい文化なのかも知れません。
どちらにしても親に反発する子供である事に変わりはありません。
■ 京都というアバンギャルドの聖地 ■
文化は都市の混沌の中から生まれます。
しかし東京から生まれる文化は、方言が少ない。
東京自体は地方出身者の集合体ですから
エスニックを内包しているのですが、
それぞれのベクトルが打ち消しあって、
NYとかロンドンなどと同じような文化が生まれてきてしまいます。
一方、京都は伝統を重んじる土地柄の反面、
それに抵抗するベクトルも強く働きます。
だから、生まれる文化にエッジが効いている。
モーモールルギャバンもメンバーは京都出身者ではありませんが、
「格好良くありたい」という東京的バイアスに対抗する
「破壊力学的吸引力」を強く感じるバンドです。
文化なんて、ちょっとやそっとでは造れないし壊せない事を
知っているからこそ出てくる表現なのでしょう。