人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

なんでもイヤのネチズン・・・「無責任」の代償

2012-08-30 02:19:00 | 時事/金融危機
 

■ ネットの住人達は、何でも「イヤ」 ■

ネットは「無責任な言論空間」ですが、
それ故に、国民の素直な感情が露になります。

最近のネットには「イヤ」が溢れています。

1)原発はイヤ

2)増税はイヤ


3)福祉削減はイヤ

4)年金削減はイヤ



5)韓国と中国と仲良くするのもイヤ

6)オスプレイはイヤ

8)普天間基地もヘゴノも、本州もイヤ

7)アメリカに従うものイヤ




色分けの理由はお分かりでしょう。

そう、赤と青は相反する内容です。
しかし、本来は立場を違えるはずのこれらの意見を
同じ人が主張しているのが現在のネットの実情です。

要はネットの住人の多くは「何でも反対、何でもイヤ」なのです。

■ 歴史的に官僚国家である日本 ■

結局、国民からは建設的意見は出されませんから、
国会も建設的議論はなされません。

そこで唯一、現実的な判断から国家を運営しているのが官僚達です。

日本の官僚制は、明治以来、あるいは平安時代からの伝統です。

戦国時代に一時、官僚制は勢いを失いますが、
江戸時代には又復活します。

江戸時代は徳川の専制の時代では無く、
徳川幕府は、諸藩の優秀な人材で運営される
巨大官僚社会だったとも言えます。

「お上が決めた事」と言うときの「お上」とは、
「専制君主」を指すのでは無く、「官僚機構」を指すとも言えます。

これは明治にも引き継がれ、
「天皇」は国家権力の象徴ですが、
実際に政治の実権を握っていたのは「内務省」と「軍部」でした。

表向き、「議会制民主主義」の体裁は取っていましたが、
内閣の存在感が薄いのは、今も昔も変わりません。
当時から政権交替は頻繁に起きていますが、
内政や外交に大きなブレが生じないのは
「官僚」と「軍部」による統治が為されていた為です。

■ 官僚政治が無責任なマスコミと無責任な国民を生み出す ■

「お上が決めた事だから」とは、凡そ民主主義の国民の発想ではありません。
民主主義の基本は「自分達が決めた事だから」のはずです。


そもそも、間接的とは言え、今の政府を選んだのは国民です。
ところが、日本人にとっては「首相は内閣は、政治家達が勝手に決めたもの」
という発想が一般的でしょう。

だから、内閣発足直後から支持率は地を這います。

マスコミは政府を批判する方が、国民が喜ぶ事を知っています。
ですから批判的記事をタレ流します。

消費税増税問題にしても、こう書くでしょう。

「日本の財政は将来破綻するから、消費税増税は仕方の無い事だ。
 しかし、財政状態がここまで悪化したのは歴代の政府が無策だったからだ」


要は政府が悪いのだと結論付けます。
尤も、「歴代政府」に対して責任を追及できない事を知った上で書きます。

ところが、政府が無策だろうが、支持率が地を這おうが、
衆参がネジレ状態だろうが、
日本の政治が何も決められなかろうが、
国家の運営は、官僚達によって粛々と進められた行きます。

■ 勝栄二郎が財務事務次官を退任しても変わらない ■

影の首相と噂され、悪名高い勝栄二郎・財務事務次官が退任します。
在任期間は2年とちょっとですから、平均的と言えます。

さて、勝氏が退任して財務省の方針が大きく変わるでしょうか?
多分変わりません。

これが、官僚機構の強みです。

但し、たまに米国の支持を受けた内閣によって、
官僚機構自体がダメージを受ける事があります。

例えば、「通産省」が「経済産業省」となる時に、
業界の指導力を大きく剥奪されました。

「大蔵省」が「金融庁」と「財務省」に解体された事で、
金融機関に対する統制力が大きく後退しました。

これらの官僚機構への攻撃は、
「国民の為」という看板を掲げながらも、
実際にはアメリカの要望によって遂行されたものです。

要は官僚機構は、日本人の敵では無く、アメリカにとって都合が悪いのです。

■ 日本もアメリカも民主主義は機能していない ■

消費税増税は確かに財務省のシナリオでしょう。

民主党単独では、法案が成立しないので、
民自公の三党協力で、法案が可決しました。

国民がこれだけ反対しているのに、
敵対する政党が協力して法案を通すなど
アメリカでは考えられません。

アメリカはリーマンショックの銀行救済の決定時でも
表向きは「政治対決」を演出しています。
母親の葬儀に出席していた議員を飛行機で呼び戻して、
最後の一票を投票させて、金融機関を救済する事を決めました。
これなど、メチャクチャ茶番で、
金融機関救済は共和党と民主党の裏の協議で合意されていたはずで、
さらには、票数を調整して、最後の一票を演出しています。

しかし、アメリカ人は、民主主義に誇りを持っていますから、
この茶番を見て、「民主主義の原則は守られた」として
銀行救済を良しとするのです。

日本とアメリカのどちらも出来レースで茶番ですが、
日本人は「お上が決めた事」と批判しながらも諦め、
アメリカ人は「民主主義の選らんだ結果」として満足します。

本質的には、民主主義が「絵に描いた餅」である事は変わりありませんが・・・。
対立政党が、表にせよ、裏にせよ、結託してしまえば
民主主義はその時点で機能を失います。

■ 低支持率を武器とする日本型政治 ■

最近の日本の政治を見ると、「低支持率」を巧みに利用しています。

ほぼ全ての国民が反対する消費税の増税は、
一党だけで成立させると、その政党は国民の支持を失います。
ですから、主要3党が等しく責任を負う形で、非難を分散化します。

その過程で3党協力の必要性を演出する為に
小沢一郎以下が、民主党の党議に造反したから、
3党協力が必要だったという演出をします。

さらには、「消費税増税に反対した」という勢力を温存し、
次の選挙の芽を上手に残しています。


TPP問題についても、
当初、野田首相が独断専行した様に報道されますが、
野田首相や内閣の支持率が下がれば、
TPPの推進には、大きくブレーキが掛かります。

アメリカが野田首相をけし掛けても、
これ以上が政権維持が難しいと言って、逃げる事が出来ます。

当然、アメリカは次の首相を選ぶ訳ですが、
これも、マスコミと国民に叩かれて、
「決められない首相」になって行きます。

■ 国民不在の政治の反映が、「イヤ」しか言わない国民 ■

結局、国民が何を言おうと、日本は官僚達によって、
まあまあ、どうにか運営されています。

だから、国民はとりあえず「イヤ」とだけ言っていれば良い。
何か、都合が悪い事が起きても、「俺は反対したんだけどね」と逃げられます。

だから、ネットの言論は、「イヤ」で埋め尽くされます。

そうして「肯定的意見」は、
「お前が責任取れるのか」という非難で潰されてゆきます。

■ 高校の生徒会レベルの言論 ■

ネット言論の多くが、かつての高校の生徒会レベルです。

校則反対、制服反対と主張した所で、
実際の学校運営は大人達が粛々と進めて行きます。

生徒会は生徒のガス抜きにはなりますが、
それによって、高校の本質は何も変わりません。

■ 大量の無責任にかき消される、少数の意見 ■

個人のブログでも立派な主張のブログが沢山ある事も事実です。

しかし、今回の竹島問題や尖閣問題では、
多くの良識的なブログも、韓国、中国に対して強硬な意見を展開しています。

それだけ、韓国大統領の天皇発言は、日本人の心を逆撫でした発言です。

一方で政府は、通貨スワップの継続など、現実的な対応をしています。
財務官僚達は、韓国経済が破綻した時のシナリオを綿密に計算して、
経済的負担の少ない方を選択したとも言えます。

韓国が破綻したら、IMFを通じて、日本は莫大な負担をせざるを得ません。

通貨スワップの継続は、「国家間の喧嘩」に対して弱腰とネットは非難します。
だから韓国や中国が付け上がるのだと・・・。

しかし、私は隣国を経済破綻させる事が、国家として正しいとは思いません。

むしろ、日本はアジアの平和と安定を願っていると主張する事の方が、
今は大事な事である様に感じます。

東南アジア諸国は、韓国と違い親日的です。
それらの国家は、韓国の問題点も良く理解しています。
ですから、日本と韓国が子供の喧嘩の様なレベルで争う必要は無いのです。
大人としての喧嘩のやり方があるはずです。

例えば、通貨スワップ継続を表面的には発表しながらも、
裏では、「テメー、これ以上騒ぐと、通貨スワップしてやんないぞ」と脅すとか・・・。
まあ、アメリカが良く使う手ですね。

尤も通貨スワップ継続は、通貨マフィアからの指示だと思います。
通貨の情勢が不安定な時期に、いらぬ騒ぎを起すなという圧力が当然あるはずです。

さらに韓国の格付けを1ランク引き揚げて、後方支援も怠りません。

日韓のイガミ合いも、結局は誰かの掌の上だという何だかトホホな状態であるという事に、
連日、勇ましい事を書きたてるネトウヨの皆さんは、どれだけ気付いているのでしょう?

「イヤ」と言って責任から目を背けている限りは、見えないものが沢山あります。



<追記>

韓国は史上最高の経常黒字を計上し、
それを受けて、格付けが1ランク上がっています。

しかし、経常黒字を押し上げたのは、
国内不況による輸入の減少という、不況型の経常黒字である事に注意が必要です。

ただ、経常黒字が拡大したからという理由で
格付けを引き揚げる、格付け会社って、いったい何なのでしょうね?


厳戒態勢の中の「株高」・・・出来高は半減している

2012-08-28 16:48:00 | 時事/金融危機
 



■ どこが景気回復期待なんだろう? ■

世界経済の失速が明確になる中で、
NY株式市場は、1300ドル台を維持しています。

中古住宅市場が底を打ったとか、
失業率が幾分改善したなどと、
景気回復を印象付ける報道がされていますが、
ダウの出来高に注目して下さい。

1年前に比べて、出来高は半減しています。

要は薄商いの中で、買いが入って株価が維持されているだけ。

■ 厳戒態勢で資金の動きが鈍化しているのでは? ■

8月はバカンスシーズンで順当に行けば大きな混乱は起こらない。
だから、金融市場は、とりあえず厳戒態勢ながら、
積極的にリスク資産を処理する事も無く、
とりあえずは模様見を決め込んでいる様子。

秋からはユーロ危機も又再燃しますし、
中国経済の足元が相当怪しい。

とりあえず、皆さん、逃げる用意だけはしながら、
市場の動きを固唾を呑んで見守っている所でしょう。

期待は唯一、アメリカのQE3。

FEBもここに来て、QE3の実施に含みを持たせています。

オバマは大統領戦を前にして、経済回復をアピールしたい所ですが、
経済的に明るい話題は一切見当たりません。

やや先行指標的な住宅販売が上向いても、
これが景気の下振れで、直ぐに下落に転じるのは
リーマンショック以降、何度も繰り返された事。

オバマは景気回復を印象付ける為には、
QE3の実施を大統領戦後まで、引き伸ばしたいのでしょうが、
どうやら、それを待たずにアメリカの景気が先折れする予感がします。

FRBはQE3を匂わせる事で、景気を繋ぎとめ様としていますが、
市場は、かなり敏感になっています。

■ サムソンの敗訴は政治的思惑? ■

世界的需要の減少からiPhoneの売り上げも半減しています。

アメリカ経済復活の象徴とも言えるアップルの株価低迷は
株価全体与える影響も大きいはずです。

そこで、スマートフォンを巡る特許でアップルの勝訴が用意されたのでは無いでしょうか?
判決後、アップル株は持ち直しています。

アップルとサムソンの訴訟合戦は全世界で繰り広げられていますが、
今後、アメリカ連邦地裁の判決の与える影響は少なくないはずです。

一方、今年の7月にiPadのデザインを巡って」
アップルがサムソンを訴えたイギリスの裁判の判決は傑作です。

英高等法院は「サムスンの商品はアップルほど格好良くない」として
サムスンの特許侵害を認めず、訴えを退けた。


こちらはアップルの訴えをイギリスの裁判所が退けた訳ですが、
サムソンとしては、デザインの裁判で「格好良くない」と言われたら
立つ瀬がありません。

サムソンの資本の多くは欧米の資本です。
韓国の企業だからといって、サムソンを一方的に排斥出来ない裏事情があります。
だから、「格好悪い」とチクリとやる・・・。
そんな、イギリス人らしいブラックな所がステキです。

一方、アメリカ連邦地裁に判決は、明らかにアップルを擁護しています。
アメリカを代表する企業に成長したアップルを守る事は、
アメリカにとっての正義となっているかの様です。


■ 作られた株価に釣られるとイタイ目に逢う ■

本来ならば

Sell in May and go away and never come back.
But remember to come back in September.

という事で、9月には米株式市場は上向くのが通例ですが、
今年はその前にピークを迎えてしまった感じ。

はたして、9月に戻る人達に訪れるのは、幸運か不幸か?

見かけの株高に釣らて下手に手を出すと、身ぐるみ剥がされるかも知れません。
ご注意を!!

夜空を焦がす大松明・・・吉田の火祭り

2012-08-28 15:30:00 | トレッキング/旅行
 



■ 「日本三大奇祭り¥」の一つ、富士吉田の「火祭り」 ■

さて、昨日の続きとなります。

3時半頃に浅間神社の境内に戻って来ると、
既に、観光客が大勢集まっていました。
その間を、ザルを持った子供達が、お賽銭を集めて回っています。



ビシっと祭り装束で身を包んだ男達が大勢境内に集まって、
神輿の宮出しを待っています。

神輿は、普通の形をした大神輿が一基と、
赤富士を模した丹塗りの神輿が一基。

ところで、「日本三大奇祭り」の一つにも数えられる吉田の火祭りは、
実は「北口本宮冨士浅間神社」と境内社である「諏訪神社」の「鎮火祭」です。

「富士山の山仕舞」を意味するこの祭りで、
夏の富士登山のシーズンが締めくくられます。

祭りの特徴は、浅間神社境内と、参道に高さ3メートルもある大松明を多数設置して、
それらに次々に点火してゆきます。

■ 先ず、宮神輿2基が、街に繰り出す ■

祭りの始まりは午後4時半頃。

宮神輿二基が、浅間神社から街に繰り出してゆきます。



1基は普通の神輿ですが、結構な大きさです。
浅草の三社の宮神輿にも引けを取らない、堂々たる風格です。

結構太い担ぎ棒に、大勢の担ぎ手が取り付いていますが、
担ぎ手は決まっているらしく、飛び入りをする事は許されないようです。(当然ですね)

江戸の喧嘩神輿の様に、上下に神輿を揺する事無く、
「ヨイヨイ」の掛け声と共に、スルスルと神輿は進んで行きます。
神輿に乗っいるのは「神様」ですから、本来神輿担ぎとは、こういうものなのでしょう。



赤富士を模った神輿も、同様にスルスルと担がれて行きます。
宮出し後、2基の神輿は、参道の一番上に設置され、
街中に繰り出す事はありません。

比較的静かに、祭りは日暮れの時間を待ちます。



参道の正面にそびえる富士山が茜色に染まる頃、
観光客達がぞろぞろと集まって来ます。
松明の点火は、日がとっぷりと暮れる6時半頃だそうです。

■ いよいよ松明に火が灯る ■



参道の上に置かれていtが神輿が動き出したのは、午後6時頃。
参道中ごろにある、コミニュティーセンターに神輿が設置されるのを待って、
いよいよ6時半頃から松明に火が灯ります。





それまで参道脇に寝かされていた大松明が
10人ほどの男達によって、道の真ん中に次々に立てられて行きます。



そして、参道の上の松明から点火されて行きます。
点火には、長い竿の先からぶら下げられた種火を用います。
小さな木片を集め、火を付けた種火を慎重に松明の上に載せると、
やがて松明に引火します。





火は次第に勢いを増し、炎と火の子が富士山を背景とした夜空を焦がします。





7時を回る頃には、日も完全に暮れ、
松明の炎は、いよいよ勢いを増し、
「熱い、熱い」と言う観光客の姿を、赤々と照らし出します。


もう少し見ていたかったのですが、
帰りの電車が無くなるので、7時を過ぎた所で、祭りを後にします。


朝5時に急に思い立った富士山への日帰りですが、
山頂こそ到達できませんでしたが、
永年の念願であった「吉田の火祭り」が見れて、
満足の一日でした。


これで、今年の夏も終わりだな・・・・。

そう思いながら、降り立った浦安駅は、
高原の涼風に慣れた体には、ウダル様な暑さでした。

今年の夏は、まだまだ終わらない。
次はどこへ行こうかな・・・・。

走って行けるかな④・・・富士山

2012-08-28 00:04:00 | 自転車/マラソン
 



■ 富士山は「日帰り登山」の山 ■

男子たる者、日本最高峰の富士山には毎年でも登らねばならぬ!
ジョギング愛好者たる者、走って山頂へ到達せねばならぬ!


毎年、この時期になると、私の中の日本人のDNAが騒ぎ出します。

この魂の叫びに突き動かされて、過去2回、
富士吉田の駅から、富士山頂まで、駆け上がった事があります。
今から、7年程前になるでしょうか?

夏場の走りこみが順調ならば、5時間程度で山頂に到達し、
5合目スバルライン口には1時間半程度で下山できます。
そう、富士山は私にとっては「日帰り登山」の山なのです。

■ 少々体重オーバーだけど・・・富士山にGO ■

毎年、又富士山に走って乗ろうと思いつつも、
ここ5年ほどは、夏場の走りこみ不足から、実行できずにいました。

年々増える体重に、もう富士山には走って登れないのでは無いか・・・・
そう思うこの頃です。(今年で47歳になるし・・・)

今年の富士山の天候は不順で、週末は雨の予報が続いていました。
しかし、日曜日の朝5時に富士山の天気を調べたら快晴。
これを見た瞬間、富士山行きを決意!!
やはり、日本人の魂の叫びには逆らえません。

今年新調したトレイルラン用のバックパックに
雨具と長袖のランニングウエァー、ウィンドブレーカーを突っ込んで、
家を飛び出します。

■ 「富士吉田駅」は「富士山駅」と名が変わっていtが ■



以前は「富士吉田駅」だった駅名は、知らない間に「富士山駅」に改名されていましたが、
駅前は以前と同じ佇まい。

時刻は9時。
ここからスタートして、順調に行けば5時間後には山頂です。
ただ、当時よりも5Kg増えた体重が不安だけど・・・・。

■ 本日は吉田の火祭りだった ■



駅前の通りを右に折れたら直ぐに、大鳥居が現れます。
この通りをくぐって、浅間神社に向います。



道端に大きな松明が転がっています。
本日は吉田の火祭りの日だったのです。

「日本三大奇祭」に数えられる「吉田の火祭り」は、
この参道に巨大な松明が数多く並ぶ、勇壮な祭りです。
以前から是非見てみたいと思っていましたが、
スバルライン5合目に下山すると、バスは河口湖駅に行ってしまいます。
今年も、「火祭り」は見れそうにありません。
残念・・・。

■ 浅間神社は天狗でも居そうな雰囲気 ■





浅間神社は富士山をご神体と仰ぐ神社で全国に1300社あります。
富士吉田の浅間神社は「北口本宮冨士浅間神社」というのが正式名称です。

富士吉田の浅間神社を「本宮」と思っている人も多いかも知れませんが、
全国の浅間神社の本社は、静岡県富士宮市にあります。
そして、その「奥宮」は、富士山頂にあります。

富士山の8合目より上は、浅間神社の境内です。

富士吉田市にある「北口本宮冨士浅間神社」は延暦7年(788年)に建てられました。
元々、甲斐の国は「諏訪神社」の地ですから、
そこに浅間神社が間借りしているというのが、実際的な位置付けです。

しかし、千年を超える神社の風格は、荘厳という言葉がピッタリです。
杉の巨木で、参道は昼も薄暗く、天狗が出てきても不思議では無い雰囲気です。



本殿の脇に、地元の人が集まっていたので覗いてみると、
何と赤富士の御神輿が!!

まさか浅間神社の宮神輿が、
こんな巨大な貯金箱みたいな代物だとは思っても居ませんでした。
これを、大勢の大人が真剣に担ぐ様は、何とも不思議な光景でしょう。

・・・見てみたい!!

■ 本殿裏から、吉田口登山道へ向う ■

富士山信仰は古代からありましたが、
かつては、修験者達の鍛錬の場であり、
一般の人が富士山に登り始めたのは、江戸時代からです。

江戸の各所に「富士講」が作られ、
人々は、吉田口から山頂を目指しました。
富士山に登って、その帰りに相州「大山」(伊勢原市)に詣でるのが
江戸時代の人々の、「伊勢詣で」に匹敵する、人気の観光でした。



浅間神社は、吉田口登山道の基点でもあります。
本殿裏の舗装道路がかつての登山道です。
周囲は、カラマツや赤松林が広がり、
適度な木陰を、高原の心地よい風が抜けて行きます。

蒸し暑い東京とは別世界です。
道は緩やかな登り坂ですが、汗が滴るような事はありません。



神社から5Km程で「中の茶屋」に到着です。
昔の人は、ここで一服して、これから始まる登山に備えたのでしょう。



ここから、中野茶屋の方に進むのか、
それとも滝沢林道を通って、「馬返し」に向うのか記憶が曖昧です。

エイヤと「滝沢林道」を選んでみます。

実はこれが大間違い。
これから地獄を見る事になるとは、この段階では知る由も無し・・・。

■ 高原のワインディングロードを快走 ■



だんだんと傾斜が増してきます。
6~7%ぐらいでしょうか?
道も適度に曲がりくねって、山道らしくなってきます。

まあ、この程度は楽しい上り坂。
スピードを抑えれば、息が苦しい事もありません。





しばらく登ると、「馬返し」への分岐が現れます。
そちらに進むと、急な登りに次に、未舗装道路が現れます。

あれ、あれ???
「馬返し」までは、舗装道路だったはず。

そう思い、滝沢林道に戻ります。
尤も、滝沢林道も、記憶にある道より整備され過ぎています。
・・・なんだか不安を覚えつつ、さらに登ります。



だんだんカーブもきつくなり、
コーナーにはカーブミラーが設置されています。
カーブミラーに写るのは、青い夏空。



いつしか、周囲の木々の背も低くなり高原の雰囲気。
これは、標高が高くなって、高い木が無くなったのでは無く、
この一体の斜面が、崩落後、あまり時間が経っていない事を表しています。

富士山は、耐えず表面が崩れています。
大きな木に覆われた斜面も、何かのきっかけで崩落すれば、
地表は石ころだらけになり、
コケや地衣類から植物相は再スタートしなければなりません。

ですから、富士山では標高による樹林帯の変化の他に
同じ標高、様は水平方向での植生が様々に変化します。
それは、まさに富士山の斜面にどのように樹林帯が形成されるのかを、
ジオラマで見ている様なものです。



大規模な崩落は、道路を寸断するだけで無く、
麓にも影響を与えます。
ですから、富士山には上の写真の様な砂防ダムが沢山あります。
沢は普段は枯れていますが、
大雨の時などは、土石流が発生するのでしょう。



エ?!標高が上がり過ぎでは無いでしょうか。
さっきから、道の傾斜も10%を優に超えています。

明らかに道を間違えています・・・。
しかし、ここまで来たら引き返せません。
滝沢林道の終点は5合目ですから、もう、このまま行くっきゃ無い。

しかし、10%超えの斜度って、箱根の登りのキツイ所と同じじゃないか!!
登り始めの富士山駅が、が標高700mくらい。
滝沢林道の五合目が標高2300mくらいだから、
標高差1400mって、
エーエーエー、箱根の山登り二回分?!

斜度のキツイ道路は、踵が下がる為に非常に走り辛い。
脛やふくらはぎへの負担が、平地を走るのとは雲泥の差です。
さらに、一歩一歩が桃上げ状態ですから、疲労が溜まります。

これが、登山道ならば、傾斜のきつい所は段々になっているので、
足は平行面を支えに出来ます。
足裏が平行になっていれば、踏ん張りが利くので、
坂道よりは楽に登れます。

試しに歩道橋を階段で登るのと、
自転車用のスロープを登るのとで比べてみて下さい。
階段の方が圧倒的に負担が少ない事が理解出来るはずです。

吉田口登山道は「馬返し」からは山道です。
ですから、五合目まで一気に登っても、
足腰への負担は以外に抑えられます。

一方、この標高差を斜度を車道を走って登るのは大変です。
さらに、距離が登山道の3倍くらいになる。

さっきから、脛とふくらはぎが悲鳴を上げています。

それでも、大声で自分にカツを入れて走り続けます。
すると、道をバリケードが塞いでいます。
一般車両は、ここからは通行止めの様です。



バリケードの近くではアサギマダラ(蝶)が数頭、群れています。

■ 五合目までは後5Kmくらいか・・・ ■ 



白樺の林の下は溶岩です。
植物は、表層に形成された土壌根を張っているのでしょう。
同時に溶岩の隙間を根が押し広げ、岩を砕いてゆくのでしょう。



道路の一部が土石流の通り道になっています。



コメツガやシラビソも増えてきます。
どうやら、5合目まで後ちょっと。
でも、既に心がクジケそう・・・。



6合目への下山道が上方に見えています。
後少しですが、どうやら足は悲鳴を上げています・・・。

写真を撮ると自分に言い訳して、
足も止まりがち・・・。

そういえば、2000mに近づいて、少し空気が薄まっています。
頭もなんだかボーとしてきた。



■ 頂上は断念!! ■







最後の2Kmは歩いたり、走ったりで、
ようやく吉田口5合目の「佐藤小屋」に到着。

実は佐藤小屋の直ぐ近くの標識は2305mとあります。
しかし、GPS測定では、実際には2230m程度だそうです。
これは、ちょっと不思議??

ここまで時間は3時間を少し過ぎています。

さて、山頂目指すべきか、それとも・・・

■ 佐藤小屋で地元のトレイルランナーと談笑 ■

佐藤小屋でたまたま、地元のトレイルランナーの方と知り合いました。
今年も何度か富士山頂まで走っているとの事。

その方曰く。
「滝沢林道ってきついでしょう?ボクも一度トライしてみようと思っているんですよね。」
その方の奥さん曰く
「駅伝を5人で走った時は、喉が血の味がしましたよ」

ヤッパ、超疲れる訳だ・・・・。
これで心が決まりました。

「すみません、ビール下さい!!」

今日は充分に頑張りました!!
山頂は目指さずに、吉田に降りて「火祭り」を見てから帰るルートに変更です。

いやー、火祭り、一度、見に行きたかったんだよね。
ラッキー!!
・・・・なんて、自分を甘やかす私・・・・。


■ 吉田口を駆け下る ■

ラーメンで腹ごしらえして、ビールを二本飲んだらチャージ完了。
今度は、吉田口登山道を一気に駆け下ります。





江戸時代や昭和30年代までは、富士登山のメインルートだった吉田口登山道。
しかし、5合目まで車で登れる様になり、
5合目までの登山道は、ほとんど使われなくなりました。

かつて人で賑わっていた山小屋も、
今では、全て廃屋となっています。



五合目下は、ゴロゴロとした岩の段々が続きます。







途中、親子で駆け下ってきた方と一緒に走って、
30分で「馬返し」に到着。

しかし、7年前に比べて、吉田口登山道を登られる方が増えています。
中高年のグループが多いのですが、
装備からすると、山頂へは行かず、
5合目から、スバルライン5合目に抜ける日帰り登山の様です。

■ 中の茶屋からは、吉田口遊歩道を走る ■



「馬返し」から「中野茶屋」までは、真っ直ぐな舗装道路。
小さなバスが、「馬返し」まで運行しています。
中高年の方は、「馬返し」まではバスなのでしょう。

山頂トレイルラン組も、「馬返し」に車を駐車される方が多い様です。





昔は栄えたであろう「中の茶屋」も、今ではひっそりとしています。



ここからは、「吉田口遊歩道」を「クマに注意」の看板を尻目に進みます。
かつての登山道は、多分、現在の舗装された車道になるのでしょうが、
「遊歩道」は、かつての雰囲気を再現して整備されたのでしょう。





しばらく進むと、赤松林が広がります。
この赤松は融雪時の土石流(雪代ゆきしろ)から、
吉田一帯を守る為に、1624年から1643年に
信州から3万本の苗を取り寄せて作った人工林だそうです。

現代ではコンクリートの砂防ダムや雪代堀が街を守っていますが、
当時は、自然の力には、自然の力で対抗していたのですね。


さて、赤松林を抜けると、浅間神社に到着です。

時刻は午後3時過ぎ。

多分、「火祭り」は5時頃スタートでしょう。
「火祭り」については、明日の記事で紹介します。


本日は、「走って行けるかな」シリーズの第四弾。
富士山編でした。

それにしても・・・へタレな私。
来年は山頂目指して、少し、体重を落とすか・・・。




本日の登りのルート SUNTOの距離計で27Km(地図上で22Km)、標高差は1423m

ゲームとしてのアニメ、或いはラノベ①・・・「境界線上のホライゾン」

2012-08-24 19:02:00 | アニメ
 



■ 「女子大生」のお薦め ■

息子の保育園の同窓会で、大学の文芸部に入った女の子から、
「オジサン、『境界線上のホライゾン』って見てます?」って聞かれた。

既にその時点で、「ダメな大人」確定の私ですが、
流石に、上のイラストの様な「オタク臭満開」の作品は、
40後半のオジサには、見るのが辛いので、見ていません。

しかし「女子大生のお薦め」とあれば、見ない訳にはいかない。
たとえ、それが、オシメをしている頃から良く知っている女子大生でも・・・。

■ オタク向きと侮るべからず ■

一般に「オタク向け」として軽視されるアニメやラノベですが、
私の中では、「大人の鑑賞に耐えるもの」と、
「大人の鑑賞に堪えないもの」という無意識の線引きがありました。

ところが、『境界線上のホライゾン』は、そんな私のボーラーダインを
見事に粉砕して余りある作品でした。

「今時のオタク向け作品」と侮っていると、
私達、オジサンは、オタクのメインストリームから置いていかれる・・・。
そんな恐怖にも似た感情を覚えたのも確かです。

■ アニメはラノベは、映画や小説から、ゲームに進化した ■

私達の世代は、アニメは映画に準ずる「映像作品」。
ラノベも小説に準じる「文学作品」と捉えています。

ところが、『境界線上のホライゾン』を見て、私は見解を新たにしました。
今時の子供達は、アニメやラノベを「ゲーム」の延長線として捉えている

私達がアニメやラノベを評価する基準に、
映画やマジメな文学を基準に評価します。
ですから、映像のリズムであたり、間の取り方であたり、
あるいは、ストーリーの緻密さであったり、
感動を呼ぶ為の伏線の張り方を重視する傾向にあります。

ところが、『境界線上のホライゾン』を見る限り、
映画や文学といった基準では、評価する点はほとんどありません。

ところが、この作品は、大人の私が見ても、とても面白い。

何が面白いかと言えば、世界設定とその活用がゲーム的なのです。

■ ゲームをアニメ化したのでは無く、ラノベやアニメでゲームの世界を描く ■

従来、アニメとゲームの関係性は、
人気ゲームをアニメ化するというのがメインでした。

先日紹介した『Fate Stay Night』が良い例ですが、
ゲームの人気作品のメディア展開として、アニメが存在しました。

そこには、ゲームの世界観を、よりリアルに表現して、
ゲーム・ユーザーを喜ばそうという意識が働いています。

一方、アニメからゲームが派生する例も多々あります。
「涼宮ハルヒ」や「ワンピース」のゲームも存在しますが、
これは、「キャラクター商品」みたいな便乗商売で、
原作に影響を与える様な、ゲームなど多分存在しません。
(ゲームをプレイしないので分かりませんが)

ところあが、『境界線上のホライゾン』を見て感じるのは、
この作品が、ラノベやアニメの形をした「ゲームの中の世界」そのものだという事です。

■ 複雑な世界設定や、キャラクターの個性的な属性や、必殺技設定 ■

従来、ラノベやアニメの荒唐無稽な世界観の設定は、
SFやファンタジーと言った、文学の作法に則っていました。

ある物語を描くのに、世界観を最適化する為に、
科学技術が進歩した未来や、星々の果ての世界や、
魔法使いやドラゴンが当たり前の世界が設定されていました。

しかし、その目的は、あくでも、主人公の活躍や心の葛藤を、引き立てる為のものでした。

ところが『境界線上のホライゾン』での世界観の設定は、
徹底的に論理的に組み立てられており、
それは、ゲームのルールの役割を担っています。


■ 物語のリアリティーを放棄する一方で、ゲームのルールの厳格性を重視する ■

『境界線上のホライゾン』が特徴的なのは、
登場人物達の設定に全くリアリティーが無い事です。

主人公のクラスメイトを列挙しただけでも、眩暈がしてきます。

戦闘兵器ロボット
「ぷよぷよ」な軟体生物
謎のインド人
魔法少女
巫女
騎士
性転換少女
忍者

ところが、彼らが活躍する世界設定は非常に論理的で緻密に設定されており、
彼らの特殊能力も、なかなか凝った設定がされています。

原作者「川上稔」は、この作品の為に
A4で780ページもの設定資料を作ったとWikipediaに書かれています。

この作品の世界設定を、完全に把握しているのは多分原作者だけと思われますが、
ストーリーや個人や国同士の戦闘や、戦略は、
この設定に矛盾する事なく、論理的に展開して行きます。

これは、物語の進行が、ゲームのプレイの進行と同義である事を示します。

■ ゲームを魅力的にする複雑な世界設定 ■

『境界線上のホライゾン』の世界設定を簡単に記します。

人類は技術の進歩によって地上を離れ、
神として、地球を旅立ちます。

しかし、戦乱の結果、神達は再び地上に転落します。(技術の喪失?)
地上に舞い戻った神達は、地球の歴史を再現する事で、
再び神の座を取り戻そうとします。これが「歴史再現」です。

極東の末裔達は現実世界の日本に「神州」を築き、
その他の世界の末裔達は、「重奏世界」に仮想世界を築き、
それぞれ、歴史を再現してゆきます。

しかし、日本の南北朝時代まで歴史を再現した時点で、地脈の乱が生じます。
これにより、「重奏神州」が現実の「神州」に合一する事故が発生します。
その結果、現実の「神州」に虫食い的に「重奏神州」がはめ込まれた世界が誕生します。

この状態で「歴史再現」を続行する為に、
世界の国は、日本の戦国所領と合一する事で、
「歴史再現」を成立させようとします。

例えば、スペイン王が、日本の戦国大名を兼任するしながら、
西洋と日本の歴史を平行して再現して行きます。

それによる混乱を避ける為、「聖譜連盟」が暫定的に世界を統治していますが、
各国間の戦闘も続いています。

戦闘の母体となる集団は、「教導院」と呼ばれる各国の学校です。
「教導院」の生徒は、「生徒会」が国の政治と軍事を統括しています。

基本的に「生徒」に年齢制限はありませんが、
「極東」のみ、「生徒」に年齢制限があり、これがハンデーとなっています。

国家間の戦争は、「教導院」の生徒同士の抗争として実現します。
抗争の手法には色々ありますが、
役職者の戦闘を「相対戦」と称しており、ルールが厳密に決まっています。
「相対戦」は戦闘のみによって行われるのでは無く、
「討論」の形態が取られる場合も多く、相手を論破すれば勝利します。

全く、意味不明ですね。

ただ、これらのルールは非常に厳密、かつ論理的に構築されており、
そのルールにの則って、個人戦と、その延長としての国家間の抗争が繰り広げられます。


■ 魔法少女とリアルな戦闘ロボットの「相対戦」なんていう組み合わせも可能 ■

この世界はある意味「物理法則」を無視した所があります。
むしろ、「バーチャル空間」と考えた方が理解し易い。

ですから、登場人物もバーチャル空間における「アバター」と解釈すれば、
それが、魔法少女であっても、サイボーグであっても、軟体動物であっても
一向に構わないのです。

そして、魔法すらも、バーチャル空間においては、
バーチャル空間の物理法則の一つの運用形態として成立します。

だから、魔法少女とリアルな戦闘ロボットの「ガチ・バトル」も成立してしまいます。

ある意味、この作品の魅力は、この様な「異種格闘戦」にあるとも言えます。

多くのラノベやアニメの世界設定は、リアリティーを維持する為に
世界設定に多くの制約があり、世界観をある程度、統一しています。
例えば、魔法の世界と、ハードなSF設定は、なかなか両立しません。

「とある魔術師の禁書目録」や「Fait」シリーズは、
魔術の成立要件に科学的制約を課す事で、科学と魔術の境界を越えようとしていますが、
現実世界を舞台とする限り、リアリティーの壁が立ちはだかります。

一方、、『境界線上のホライゾン』の世界では、
最初に魔術による物理攻撃を可能という世界設定をしてしまえば、
ロボットに対する魔術攻撃も、そのルールを逸脱しなければ可能になります。

表層的リアリティーを放棄する事で、圧倒的な自由度を獲得したのです。

■ 「論戦」とて、「格闘」と同等に定期される ■

『境界線上のホライゾン』の最大の見所は、
「格闘」や「戦闘」では無く、
「討論」によるバトルです。
要は「論戦」、あるいは「ディベート」。

論理的に整合性が取れ、それにより相手を論破出来るのであれば、
たとえ高校生でも、一国の王に「相対戦」で勝利する事が出来ます。

「論戦」による「相対戦」は、「法律論争」や「禅問答」の様に、
「論理」と「非論理」の振幅を最大現に利用して行われます。

お互いの立場があまりにもかけ離れている場合は、
「議論」は平行緯線を脱する事が出来ません。

主人公はヒロインの関係は、一見「平行線」の様に見えます。
しかし、主人公は、平行線すらも交わるとされる「境界線」の彼方へと、
ヒロインの目を向けさせる事で、感情を持たないヒロインに希望を与えます。

これは、一種の「論理の飛躍」ですが、
この論理の飛躍こそが、この物語の魅力でもあります。

余波、論理的にガッチリと構築された世界を面白くしているのは、
「非論理」や「論理」の飛躍であり、
それは「情緒」と呼ぶに相応しいものであるかも知れません。

『境界線上のホライゾン』の作品としての面白さは、
ガッチリと「倫理構築」された世界に、
ノイズとして混入した「情緒」の作用がもたらす世界の変質なのかも知れません。


主人公はバカで無能ゆえに、「論理破綻」を無意識に駆使して、
「論理世界」の中で、最高の影響力を行使できる存在とも言えます。

「細かい事なんて、おれはちっとも分かんないけど、
 面白ければ、いいじゃないか」
結構、こういうタイプのリーダーを日本人は好みます。



『境界線のホライゾン』を見ていると、
日本文化や日本社会の特質までもが明確になる様な気がします。


「オタク文化」の境界線の先に、
私達オヤジ世代の知らない地平が広がっているのかも知れません。



本日は鍛冶屋さんだって、絶対に敬遠するであろう、「超オタクアニメ」の紹介でした。


<追記>

TVアニメは2シーズン目に突入していますが、
はきいり言って、1シーズン目の方が圧倒的に面白いです。

2シーズン目は、キャラクター同士の戦闘に主眼が置かれ、
既に「ワンピース」と大差無い内容になってしまっています。
これでは、この作品の世界観は生きて来ません。