人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

警戒すべき米国無内の暴動・・・t連続する警官による黒人射殺

2016-09-30 11:45:00 | 時事/金融危機
 

この妄想記事には大きな間違いが在ります。間違いを探したら、次の記事で答え合わせを!!




私は以前より米国内での黒人暴動がアメリカのアキレス腱になると妄想しています。

今月に入って米国内で警官が黒人を射殺する事件が3件も発生しており、ノースカロライナ州シャーロットを始めとして暴動が発生しています。


1) 米国内の黒人の不満は、黒人大統領のオバマだから抑えられていた
2) 「嫌な白人」のヒラリーが「黒人にも人気」のトランプを抑えて大統領になる
3) 将来的に起きるであろリーマンショックの再来(ドイツ銀行ショック)で景気悪化
4) 失業した黒人の不満が高まる

5) ある意図を持って黒人暴動が扇動される
6) 全米的に暴動が広がり、収拾が付かなくなる

7) 全米に戒厳令が敷かれる

8) ドルが急落し、次の基軸通貨制度への移行が強引に進行
9) ドルで積み上がった債権の価値が吹っ飛ぶ

まあ、妄想に過ぎませんが、オバマの後のヒラリーは・・・・怖い。

準備も万端整っている。

「NDAA 国防権限法」・・・暴動に備えるアメリカ?(人力でGO 2011.12.22)

まあ、強制的なリセットとしては有効な手段の一つかも知れません。

アメリカの各州は連邦から独立してしまえば借金はチャラ。州の財政は健全で、経済規模のそれぞれが国家レベルですから、いくつかの州が集まって「新連邦」を作ればキレイな体で出直せます。借金は旧紙幣のドルに押し付けて・・・。

旧ドル紙幣と新通貨の交換レートを国内外で差を付ければ、アメリカ奇跡の復活も簡単かと。日本が大量に保有する米国債ですが・・・「USAはもう存在しない」と言われれば、ただの紙切れ。(電子化されているので紙すらも残らない)

・・・と、妄想してみる。

「風景に語らせる」新海誠と、「画面に語らせる」山田尚子・・・現代アニメの実力

2016-09-30 09:40:00 | アニメ
 

経済記事は?陰謀記事は?という皆様には大変申し訳ありませんが、もう一度だけ『聲の形』におつき合い下さい。ドイツ銀行が大変だって!!そんなの、もう皆知ってるから良いですよね。


■ 風景に語らせる新海誠 ■


『君の名は。』映画よいり

何かと比較されるアニメ映画の『君の名は。』と『聲の形』。ネットに「リア充は『君の名は。』が好きで、オタクは『聲の形』を支持する」なんて書き込みが有りました。これ、言い得て妙です。

『君の名は。』はSF的要素を除けば「青春ラブロマンス」の王道的作品ですし、一方、『聲の形』はラブロマンスと呼ぶにはあまりにも「痛い」作品です。

ただ、内容とは別に『君の名は。』が一般受し易い理由が在ります。それは「風景の描写がキレイ」な事。この点に関しては新海誠は昔から定評があります。

とにかく見慣れた東京の町でもハっとする程美しい。緻密に描かれている事もそうですが、色彩の選び方や、光の捉え方が絶妙です。

新海監督は「風景に語らせる」監督です。自主製作の短編の『彼女と彼女の猫』で顕著ですが、部屋のドアだとか、コンロで火にかけられたヤカンだとかそういった「部屋の中の風景」がモノローグの背景として人物以上に雄弁です。映画では「モンタージュ」と呼ばれる技法ですが、私小説的な『彼女と彼女の猫』では、「一人称的視点」(多分猫の視点)として雄弁です。

『秒速5センチメートル』辺りから風景は主体を離れ、主人公達を取り囲む「場」に転じて行きます。ナイーブな物語がチンマリと収束してしまいそうになるのを、雄大な景色や美しい景色を描く事で、「世界と繋がった出来事」が進行している様に見せてしまう。

『言の葉の庭』でこの手法はピークに達します。「新宿御苑に降る雨」が物語の進行と見事にマッチして、世界の片隅でひっそりと会う二人を包み込み、陰影を深めます。しとしとと降る雨は、やがて梅雨の終わりを告げる強い雨に変わり、そして夏の到来と共に二人の密会も終わりを告げる。

『君の名は。』では、「雄弁な風景」は物語のコアとして使われています。瀧君が入れ替わりで観ていた景色は「失われた町」の景色だった・・・。「記憶の中の景色」に導かれて瀧
君は糸守町に到達します。観客が物語序盤で、「ああキレイな所だな」と見ていた景色が@「失われていた」という事に、観客も瀧君と同じ喪失感と絶望感を抱きます。

東日本大震災を経験したからこそ描く事が出来、観客も現実として理解出来る描写ですが、「失われた物を(町を)取り戻したい」と願いが観客の心の中にも低通するからこそ、物語後半に向けて観客はグイグイと引き込まれて行きます。

新海誠は、本当に「風景に語らせる」事が上手な作家です。

■ 画面に語らせる山田尚子 ■


映画『聲の形』より


風景の描写なら京都アニメーションも引けは取りません。『涼宮ハルヒの憂鬱』の「サムデイ イン ザ レイン」の「校舎に響くブラバンの練習の音」なんて演出は、今では学校物アニメの定番になっています。

京都アニメーションの作劇の基本は「実写的」或いは「映画的」です。リアルな背景を描く事で、2次元キャラの実在感の弱さを補完する手法と言っても良いでしょう。ただ、それだけでは新海誠やスタジオジブリの「風景の魔法」にはなかなか敵いません。

山田尚子監督が素晴らしいのは映画的技法の中でも「フレームアウト」や「フレームイン」、「パン」や、「偏った構図」という撮影技術をアニメの絵作りに見事に取り入れている点です。

元々は絵を動かさずに画面を動かして時間を稼いでコストカットする目的でアニメはこれらの手法を多用しますが、細田守や山田尚子の演出では、意図的にそれらの手法が使われています。

上で紹介した画面が分かり易いのですが、極端にフレーム中心から外れたカット。画面の余白で主人公の「満たされない気持ち」を表現していたりします。

次のカットは、必死の決意で「好き」と伝えたのに「月」と勘違いされ「宙ぶらりん」になってしまった彼女の想いが、画面の左を余白とする事で良く出ています。


映画『聲の形』より



又、『聲の形』では、女友達の遊びの輪から外れてしまった硝子が一人校庭の遊具に取り残されます。画面は彼女の足元のアップで固定され、遊具を登るにつれて足はフレームアウトし、そして一時の間の後に、画面上から足がフレームインして来ます。これっだけの映像で取り残された彼女の気持ちを雄弁に語ろうとします。

『たまこまーけっと』のTV版でも、たまこ達の頭のてっぺんが画面の下に並ぶ絵で会話が進行する大胆な演出が在りましたが、『聲の形』ではもっと洗練された形で「フレームのマジック」を見る事が出来ます。









映画『聲の形』より



「引き」や「アップ」や「ローアングル」、そして「前景や背景を使った演出」など、映画のカメラワークをとことん勉強して適所にをれをサラリと入れて来る。ここら辺は優れた監督達は出来て当り前なのかも知れませんが、シームレスにそれらを繋ぎ、又、一番効果的な場面でアップを放り込んで来るセンスは流石としか言い様が在りません。交差点で猫カフェのビラを配る植野が突然現れ、下からいきなり見上げて来るアップのカットには、劇場全体が一瞬ザワメク程の破壊力。

『聲の形』は「実写的」な演出を心がけているのですが、時々実験的はフレームワークが効果的に使われている点は見逃せんません。最後に空をパンアップする安直な演出も、山田尚子のそれは一味違います。パンアップされた空の色は、映画全体のイメージカラーです。

■ 音への拘り ■

映像だけで無く、今回は音にも相当な拘りを見せています。

硝子が片側の耳の聴力を失うシーンは原作ではちょっと分かり難い。再開した植野が小学校の時と同様のイタズラで硝子の補聴器を取り上げるのですが、片側しか付けていません。植野は「片側だけ?」と言うのですが・・・

映画版ではこの前に、祖母と診察に言った硝子に医師が片側の聴力が既に無い事を告げるシーンが挿入され、その夜、ベッドの中で聴力が失われた側の耳に手を当ててそれを確かめる硝子のシーンが続き、すすり無く彼女をそっと見つめる妹の視線へと変わって行きます。もう、このシーンの挿入だけで吉田玲子の脚本に100点を上げたい。

しかし、さらに音響で聴覚の失われた側のスピーカーの音が絞られているらしい。これ原作者の要望だったらしいのですが、ここまでヤルのかと思わせる程の拘りです。これだけで、この映画に掛けるスタッフの意気込みの凄さが十分に伝わって来ます。

(これ、ガセネタかも知れません。確認する為に3回目を劇場で観てきました。前2回はスクリーンに向かって左側だったので、環境音や音楽が左側から聞こえましたが、今回は右側に座ったら、右側からしか聞こえませんでした。声はスクリーン上に定位していたので、敢えて広がり感を出す為に環境音はセンター定位が薄いのかも知れません。その為にスクリーンセンターから外れた座席では、極端に環境音や音楽が左右に偏った位置から聞こえるのかも知れません。音の広がりに拘り過ぎた結果かも知れませんが、音響的には中央の席がベストポジション・・・なのはステレオ(5.1ch)だから当たり前か。)

音響や音楽で拘っているのは「響き」。聴覚障害者が補聴器で音を聞いた状態をイメージさせる為に、音楽の牛尾憲輔はアップライト・ピアノの中にマイクをセットしています。だから打鍵音やペダルノイズ、さらには「籠った」音の響きといった「聞き取り難い音」が絶えず伴います。さらにホワイトノイズを追加したり、レコードの針音のプチ、プチっという音を混ぜたりして、とにかく意図的にS/N比を下げています。

一方、川のせせらぎの音や、コオロギの鳴き声、遊園地のザワメキなどリアルな自然の音が全編に散りばめられていますが、これは将也の主観聴覚の様で、彼が心を閉じている時には聞こえない。

何れにしてもサウンドトラックを聴きに行くだけでも価値の在る映画です。

■ 「分かり易い」新海誠と、「分かり難い」山田尚子 ■

新海誠の「風景に語らせる」技法はスタジオジブリなども得意とする所で観客にも分かり易い。一方、山田尚子の「画面に語らせる」技法は、細田守が得意としていますが、深層心理に作用する手法だけに、一般の観客には見落とされ易い。

どちらも素晴らしい技量なので、今回、これを同時期に映画館で観られるだけでもファンにちっては至福なのです。


3回に分けて『聲の形』をピックアップしました。『君の名は。』はあまり語る必要も無く大ヒットする作品ですし、私もあまり「語りたい」という欲求を感じない作品です。それに対して『聲の形』はとにかく「語りたくなる映画」。そして、多くの人に見て欲しい映画。

松竹があまりにも宣伝に消極的なのは、やはりテーマがナイーヴだけに「批判」が怖いのでしょうが、もう少し気合いを入れてスクリーンを増やして欲しい。


だって、北海道は札幌に2館だけ。東北も各県1館しか見られないなんて・・・。尤も『君の名は。』の舞台になった飛騨市や高山市にも映画館は無く、富山まで見に行っているみたいで、地元では上映会の要望が高まっているそうです。昔、親戚の子供達を連れて「名探偵コナン」を見に行った高山の映画館、閉館しちゃったんですね・・・。


<追記>

右耳の聴力を失ったシーンは重要な意味を持っている様です。片方の聴力を失った硝子は髪型をポニーテールに変えます。これだと補聴器をしている耳が露わになるので、従来は耳が隠れる髪型をあえて選んでいたと思います。

ポニーテールで耳を出した理由は将也に彼女の右右の聴力が失われた事を気付いて欲しかったからでは無いのか・・・。そしてその後のシーンで、敢えて手話では無く「声」で彼に思いを伝えようとしたのも、僅かに聴力が残っている間に自分の声で想いを伝え、それを自分の耳で彼の返事も含めて聴きたかったのでは無いか。

とにかく、とても「深い」作品で、ほんの些細なシーンでも裏には大きな意味が隠されています。下手な推理物などより余程面白い。

「赦し」を許せない人々・・・『聲の形』

2016-09-28 11:38:00 | マンガ
 



『聲の形』 大今良時 講談社 より

■ 何かと比較される『君の名は。』と『聲の形』。 ■

時期をほぼ同じくして公開された大人の鑑賞にも耐えうるアニメ映画として、何かと比較される二作品ですが、私は『聲の形』の方が圧倒的に好きな作品です(原作も含め)。

「それは観終わった後に考えさせられる事が多い」と一点に尽きます。

「SFファンタジー」と「社会性を持った作品」を同列に比較する事自体が無理がある事を承知で言うならば、『君の名は。』は観終わった後に「タイムりープの構造」というSF的ギミックにひたすら思考が集中します。

これが『秒速5cm』や『言の葉に庭』であれば、主人公達の心の葛藤や関係性の変化を色々妄想しながら、しばらく楽しむ事が出来たのですが、『君の名は。』は「入れ替わり」というスペシャルなイベントで主人公達の心が強引に結び付けられてしまっているので、彼らの「関係成立の機微」はすっ飛ばされてしまっています。これは新海監督らしく無い。せめて最後に出会えずに終わっていれば「新海風」としての体裁というかポリシーが保てたのかも知れませんが、大衆のアピールする監督となる為にはハッピーエンドの選択しか無かった。これが今の大衆娯楽映画の限界。

一方、『聲の形』は原作からして「ヒット作品の王道」と対局にる作品ですから、当然映画も大ヒットなど意識しては作られていません。原作7巻で積み上げて来た「人間関係」を2時間の枠でどれだけ分かり易く観客に伝えるかという事に専念しています。だから初めてこの作品に触れた観客も、観終わった後に色々と考えさせられる・・・。

■ 硝子の「赦し」は都合が良すぎる?という当然の反応 ■

『聲の形』を初めて観た人も、原作で読んだ人も、最初に大きな疑問に突き当たります。それは「被害者の少女がなぜ加害者の少年を受け入れたのか」という点。これが、読者(視聴者)がこの物語を受け入れるか、否定するかのカギになります。

普通に考えれば、「イジメを受けた側はイジメタ人間を一生赦す事は有りません!!」。ですから、ここで思考停止してしまった人には、この物語は「障害者をネタにしたお涙頂戴物語」として不愉快な作品のリストに入ります。

一方、「赦し」の理由を色々考えると、この物語は様々な思考のネタを読者(視聴者)に与えてくれます。

■ 硝子は「特殊」な性格の持ち主だから成り立つイレギュラーな物語 ■

「硝子は何故将也を許したのか?」、それは彼女が「特殊な性格」の持ち主だったから。そう言ってしまうと身も蓋も有りませんが・・・これに尽きるかと・・。

根本的には硝子は「自己否定の塊」の様な性格です。それを形成したのは硝子の母親の「イジメに負けない子に育って欲しい」という願望。これは「普通の子に育って欲しい」という願望と同義です。母親は硝子を「普通の子」に育てる為に相当スパルタです。髪を男の子の様に短く切ればイジメられないと言い、さらには、8回も補聴器が紛失するまでは硝子が自分でイジメを解決する事を待っています。(普通の親なら1回で校長室に怒鳴り込みます)

母親の願望とは裏腹に、聴覚障害者が健常者と同じ様に社会が学校で生活する事は根本的に不可能で、彼女が友人の輪に普通の子供として入って行く事は始めから無理があります。

硝子は芯の強い性格らしく、何度失敗しても「友人」になろうと周囲にアプローチし、そして当然の事ながら挫折します。

こんな事を繰り返す内に硝子の心は「自己否定」と「渇望」に引き裂かれていきます。「友達にならなければいけない」という義務感と、「どうせ私には出来ない」という諦めに支配され、表面的なアプローチと裏腹に心は固く閉じてコミュニケーションが取れません。

■ 唯一、硝子が真剣に心をぶつける事が出来たのが将也だった ■

硝子の心が閉じている事を、子供達は敏感にそれを感じ取り、イジメや無視という形で彼女を拒絶しますが、将也だけが彼女に興味を持ち続けた。これを彼女が「救い」と感じる事は絶対に在りませんせんが、その繋がりすらも彼女には大切な物だったのでしょう。

だから、「お前なんか大っ嫌いだ」と敵意をむき出しにする将也に硝子は本気の抵抗を見せる事が出来たのではないでしょうか。それは彼女の人生にあっては数少ない「本音」の行動であり、だからこそ将也は彼女にとって「トラウマ」であると同時に「気になる存在」で在り続けたのでは。

■ 彼女の事を考え続けた将也は、硝子にとって特別の存在 ■

高校3年生になってから、手話を覚えた将也が突然現れます。彼が彼女を気にし続けてくれた事は彼女にとっては驚きであると同時にある種の喜びだったのでは無いか。「関係が続いていた」事が彼女にとってはイジメの辛い記憶に勝る喜びだった・・。

勝手な解釈ですが、「現実的」かと言えば「作者の願望」に近い展開ですが、この最初の「赦し」が無ければ物語自体が成り立たない。

最初は単なる「ストーリーの切っ掛け」として描いたシーンだと思います。しかしこのシーンには作者自身が「不自然さ」を感じていたと思います。ですから7巻に及ぶ原作の執筆の間、「赦し」の理由を考え続けていたのでは無いか。

その試行錯誤に積み重ねが、将也や硝子以外の登場人物にも重要な役割を与え、彼らの造形を深いものにします。

この作品の最大の魅力は、登場人物のみならず、彼らを描くことで原作者自身が成長し続けている事に在る。これは新人作家にだけされた「魔法」のひと時です。

■ 全ての努力を無化してしまった自殺シーン ■

原作の難点を一つ挙げるとするならば、硝子が自殺を選択し将也がこれを助けて命の危機に陥った事。

物語的にはインパクトの有る事件ですが、これまでそれぞれの内面や経験を丁寧に描いて来て、彼らの関係がどう改善されるのかが期待される局面で「リセットボタンが押された」感じがして仕方が無い。これでイジメられていた側とイジメテいた側の罪のギャップがキャンセルされてしまった。この物語で非難されるプロットは、硝子が将也を赦した事では無く、それでも消えない将也の罪を自殺事件が無化してしまった事。

ここら辺が少年誌連載の限界かと感じています。


何れにしても50才のオヤジですら、この作品を読んだ後には色々と考えさせられてしまう。これこそが、素晴らしい作品に求められる条件であるとするならば・・・『君の名は。』は映像表現が美しくとも『聲の形』には勝てない。(個人的にですが)


原作の大ファンでライブのMCで原作1巻のあらすじを全部話しちゃったというAIKOの主題歌がアップされていました。





人は「善」でありたいと願うが・・・『聲の形』

2016-09-25 23:30:00 | マンガ
 


■ 耳の聞こえない転校生 ■

映画『聲(こえ)の形』を見て来ました。

活発でクラスでも人気者の少学6年生の石田 将也(いしだ しょうや)は耳の聞こえない転校生西宮 硝子(にしみや しょうこ)に無邪気な興味を抱きます。

彼にとって初めて接する「耳の聞こえない」女の子は退屈な日常に突然現れた「おもちゃ」みたいな物。どの位、耳が聞こえないのか確かめたり、彼女の発声を真似たり・・・それがクラスで受けると彼の行為はどんどんとエスカレートして行きます。

一方、クラスの女子は彼女に色々と気を遣います。彼女の為に先生の「言う」事をノートに書いてあげたり、ノートを使っての筆談をしたり・・。しかし、だんだんと彼女の世話を「面倒」だと感じる様になります。

興味津々で硝子を観察していた将也は「おまえ、うざがられちゃうよ」と告げますが、硝子は自分をカラかって遊んでいる彼に「トモダチ」になろうと手を握ります。将也は反射的にその手を振りほどき、砂を投げつけます。

その日以来、彼の「イジメ」がエスカレートします。彼女の補聴器を捨てたり、水を掛けたり、足を引っ掻けて転ばせたり・・・。クラスメートは彼のイジメに積極的に、或いは消極的に同調します。

とうとう、保護者から学校にクレームがきます。今までに紛失したり故障したりした補聴器の総額が170万円になると・・・。校長は「警察沙汰になって親に迷惑が掛る前に申し出て欲しいと」と生徒達に告げます。すると、教師を始めクラスの全員が「石田君がイジメていた」と言います。「お前らだってイジメテいたじゃないか」と抗弁する石田は完全にクラスメイトにハブられます。子分だった親友二人は彼の上履きを何度も隠し、遊ぶふりをして暴力を振るいます。

そんな石田に何故か優しく接する硝子に将也は怒りを爆発させます「お前さえ居なければこんな事にはならなかった!!」。掴みかかる将也に硝子も必死の反撃をして、二人は取っ組み合いに・・・・。そして、硝子は転校して行きます。


ここまでは『聲の形』のプロローグ。

中学になってもかつての同級生達は彼を無視し、他の小学校から来た生徒達に「石田はイジメっ子だから気を付けろ」と言いふらします。将也は完全に孤立し、いつしか自ら周囲を拒絶する様になります。

そんな将也も高3になり、彼は何となく自分の寂しい将来が見えてしいます。そして彼は自殺を決意し、身の周りを整理して、最後の「清算」を決行します。

・・・・それは、西宮硝子に会って謝る事・・・。

突然現れたかつての天敵を見て硝子は逃げます!!そんな彼女に将也は思わず手話で話し掛けます。「オレと友達になろう」。自分でも考えもしなかった言葉が飛び出して驚き戸惑う将也を何故か硝子は拒絶しません。目を潤ませて嬉しそうに見えます・・・。

こうして、少年と少女の時間が動き出します。それは、周囲も巻き込んで・・・。

■ 「問題作」を社会は受け入れた ■

作者の大今 良時(おおいま よしとき・女性)が19才で2008年に「少年マガジン新人賞」に応募した作品『聲の形』は入賞を果たしますが、賞の特典である雑誌掲載は見送られお蔵入りに。「聴覚障碍者へのイジメ」を描いた作品に批判が集まると考えたのです。

しかし、マガジンの副編集長は、どうにかこの作品を世に出そうと奔走します。社内の法務担当や弁護士に掛け合い、聴覚障碍者に意見を聴きます。「全日本ろうあ連盟」はこの作品に一切の手を加える事無く雑誌掲載して欲しいと告げます。

こうして、お蔵入りになっていた『聲の形』は、『別冊少年マガジン』2011年2月号に掲載されます。読者アンケートでは『進撃の巨人』・『惡の華』を抑えて首位獲得。マガジン編集部は。この作品を読者が求めていると判断し、「週刊少年マガジン」での連載を決定します。

■ 映画『聲の形』をファンは受け入れた ■

こうして、奇跡的に日の目を見た『聲の形』は、多くの若者の支持を集め、アニメ化の要望も高まります。

9月17日から全国でロードショーが始まった映画『聲の形』は、ファンの期待を裏切らない素晴らしい出来栄えでした。原作に思い入れが深い作品程、ファンはアニメに厳しい評価を下しますが、監督・山田尚子と脚本・吉田玲子という最高の布陣で、京都アニメーションはこのハードルのはるか上を超えてみせました。

下は劇場予告です





■ 弱い「異分子」を集団は排除する ■

子供は本能的に「イジメ」をします。これは生物や集団に備わった防衛本能だと私は考えています。「異分子」を集団は排除するのです。

小学校のみならず、大人の集団の会社であっても、「変なヤツ」や「空気が読めないヤツ」は排除されます。但し、その人物が圧倒的な肉体的、あるいは頭脳的能力を備えている場合、彼らはリーダーとなり集団を牽引します。

文部科学省は「イジメ撲滅」に必死ですが、人間が生物である限り、学校が集団社会である限り、洋の東西を問わず「イジメ」は無くなる事は有りません。

■ 集団のかなの序列を決めるイジメ ■

もう一つイジメには「本能的性質」が在ります。をれは「集団の序列」を決める事です。生物の集団にはリーダーと序列が必要です。

子供達は遊びの中でも無意識に優劣や序列を決めています。腕っぷしの強いヤツや、ずば抜けて頭の良いヤツは格上。そして、その他大勢は、その中で序列を競って必死になります。仲良く遊んでいても、絶えず、「オレ、こいつより上だな」と確認し続けます。

こうした序列決めの最下層で「イジメ」が生じます。たいして能力に差が無い者達は、誰か一人を最下層にする事で、溜飲を下げるのです。

「イジメ」の原因に理由は要りません。「給食を吐いた」とか「頭が臭い」なんんて理由で十分です。

尤も重要な事はイジメの対象が「反撃」をしない事です。「反抗」や「反論」は反撃では有りません。物理的、肉体的反撃で集団に危害が及ばない事が重要です。

こうして、小学校のみならず、大人の集団でもイジメは必ず存在し、多くの人達が意識的、或いは無意識的にイジメに加担しています。

私も小学校の頃は「○○菌」なんて遊びを平気でやっていました。

家内は「イジメっ子」が東に居ると聞けば東に走り懲らしめ、西に現れたと聞くと西に走って懲らしめたと言っています。お前は『化け物語』のファイヤーシスターズかよと突っ込みたくなる活躍ぶりです・・・。

■ 「集団への帰属の試金石」となるイジメ ■

イジメにはもう一つの役割が在ります。それは「集団の結束を確認」する事です。これは「生贄」と呼ぶに相応しい。

集団は「罪の共有」や「秘密の共有」で結束を深めます。「文化祭。皆で頑張ったね!」と言うのが「ポジティブな結束の儀式」だとすれば、「○○をハブらねーーー?」と言うのが「ネガティブな結束の儀式」です。

秘密結社の儀式なども「ネガティブな結束の儀式」で、法に触れる様な秘密を共有する事で、結束を深め、裏切りを防止するのでしょう。

■ 「理性の鎧」と「善への希求」 ■

ここまで読まれて「胸糞悪い」と思われた方も多いと思います。それは人が「理性の鎧」を纏い、「善への希求」を本能的に持っているからだと思います。

『聲の形』でも最初クラスメート、特に女子達は硝子に優しく接します。「耳の不自由な子に優しくする」というのは理性的には正しい行動ですし、「自分が正しい存在」である事を証明する事にもなります。人は誰しも「善でありたい」と願います。

「人に優しくしたい」「人に好かれたい」「人に尊敬されたい」と強く願う人は「理性の鎧」を厚くして、自分の中に在る動物的な欲求を必死に抑制します。

『聲の形』の中でもクラス委員長の「川井みき」の「理性の鎧」は強力で、自分の中にある「イジメの欲求」も抑えますが、「本当の自分」の認識も阻害します。彼女は無意識にイジメに同調していますが、自分がイジメに加担しているという意識は抑制されています。

そして、「彼女もイジメに加担していた」と指摘する人間を完全に否定し、自らを守る為には友人すらも無意識に裏切ります。

人は多かれ少なかれ「理性の鎧」を纏い、「善への希求」を内に秘めていますから、私達は「無意識のイジメ」を誰かに向けていても意外にも気付いていない事が多い。

■ 「公認された悪」に対して凶暴化する人々 ■

「○○バッシング」などという現象が良く起こりますが、雑誌やメディアが「公認した悪」に対して、世間の人々は容赦が在りません。

「理性の鎧」と「善への希求」によって抑圧されていた攻撃性が、容赦なく「公認された悪」を打ちのめします。彼らは相手を「悪」と特定する事で「正義の暴力」を執行する事に疑問を持ちません。これは「イジメ」と同質の物ですが、私を始めとしてほとんどの人はそれを「イジメ」と認識しません。

これは一種の集団の「ガス抜き」です。そして、メディアや政治は、この効果を良く理解した上で利用します。

■ 「本能」と「善」との葛藤を描く物語だ ■

『聲の形』が多くの若者の心を捕えたのは、この作品が「イジメル側の理屈」にも自覚的だったからだと私は考えています。

硝子を最後まで受け入れないのは、女子のリーダー格だった「植野直花」(うえの なおか)です。植野は小学校の時代から将也に好意を抱いていたので、将也が硝子をイジメルのは「
好意」の裏返しでは無いかと疑います。同時に将也の気を引く為にイジメに加担します。

彼女は恋敵として硝子を否定的に見ている分、硝子の問題点にも自覚的です。

硝子はイジメた相手に敵意を剥ける事が出来ません。仮に相手を憎いと思っても、それすら自分に原因の有る事だと解釈します。

実は「イジメをエスカレートさせる要因」は、「敵意に対する無反応」です。「敵意」に対して「敵意」を返す事で「コミュニケーション」は成立します。

ところが「敵意」に対して「敵意」が返ってこないと「コミュニケーション」すらも成立しません。生物はコミュニケーションの成立しない存在を本能的に嫌悪し、排除しようとします。

感情的、本能的な植野が硝子とコミュニケーションする為には、硝子の反撃や敵意が不可欠なのです。作者はこの二人の関係を丁寧に描いています。これは女性作家ならではの描写です。

■ 「イジメ」もコミニケーションなのかも知れない ■

『聲の形』に否定的な人達も居ます。その方達のインターネットの書き込みを見ると「イジメタやつを赦すヤツなんて居ない。」という意見が多い様です。

これこそが、この物語の本質です。

何故、硝子はイジメられたのに笑っているのか。イジメタ相手に「友達になろう」と言うのか・・・・。

それは「イジメ」ですら彼女にとっては「貴重なコミュニケーション」だったのでは無いか。耳の聞こえない彼女にとっては「無関心」が一番恐ろしい。

耳が聞こえない彼女は、相手が自分の方を向いて話してくれなければ、相手との繋がりを確立する事が出来ません。敵意を持って向けられる言葉でも、それが自分に向けられている事が、彼女にとっての救いになっていたのかも知れません。

だから彼女は無関心な相手よりも、自分をイジメル将也とより繋がりを求めた。だからこそ、高校生になって再開した彼を受け入れ、必死になってコミニケーションを図ろうとする将也に好意を抱く様になったのでは・・・。

この物語に登場する若者達は皆、実は「認識される事」を望んでいます。「好きな人に見てもらい」「自分を親友と認めてもらいたい」・・。そのすれ違いが物語に微妙な綾を付け、読者の心を掴んで離しません。

それぞれの読者が、登場人物の誰かに自分を重ねているのです。

映画化に当り、省略されてたエピソードも多く、それを惜しむ声が多いのも、そのシーンや登場人物に対する読者の共感が大きいからかと・・。

■ 吉田玲子の脚本には脱帽だ ■

「TV版の長さで見たい」との要望も多い様ですが、私は単行本7巻を2時間に纏めた脚本には驚愕しています。

大事なエピソードを丁寧にツナギ、原作で不自然な所は大人の視線で補い、そして、重要なシーンに十分な時間を作り出しています。ああ、脚本ってこんなに大事なんだって、実感させられます。

そして、当然、山田尚子の演出も冴えています。とにかく「カワイイ」を描かせたら当代一の作家だけに、結構エグイ内容を、美しい青春の一ページに昇華させています。「美化」はアニメーションの得意技です。実写でこれに成功した例はドラマの『のぶたをプロデュース』位しか思い浮かびません。(あの堀北真希ちゃんと、ヤマピーと亀梨はマジで神)


■ 読んでから観るか、観てから読むか ■

私は原作を読んでから観ましたが、映画版は原作未読でも十分に話の内容が理解出来ます。それこそ、吉田玲子の「神脚本」のおかげです。

実はこの映画、原作を読む前に観た方が感動出来ます。

私などは涙を拭く為にハンカチをスタンバイしていたのですが、隣が若い女性だったので、「何、このオヤジ、泣いててキモイんですけど」と思われたくなくて、泣きそうなシーンになると身構えてしまいました。

これ、原作を読まずに観ていたら・・・ハンカチ1枚では足りないでしょう。

劇場は小学生も多く、劇場を後にする彼らが口々に「感動した」「スゲー良かった」と言っていたのが耳に残っています。


当然、この映画、文部科学省も一押しで、文科省のホームページでもスペシャルページが作られています。

http://www.mext.go.jp/koenokatachi/


■ 「偽善」に陥らない細心の注意 ■

この手の作品は「偽善」との評価を受けやすいのですが、作者の主題は「障害者とのコミュニケーション」では無く、等身大の若者のコミニケーションに在る様です。「聴覚障害」は多くの若者が抱える「悩み」のバリエーションの一つに過ぎません。

原作者の母親が手話通訳をしていた事で生まれた作品ではありますが、一人一人の心の葛藤を丁寧にシミュレートする事で、「悩める若者一般」という普遍性を手に入れています。作者と、それを導いた編集者に最大の拍手を送りたい。


興行収入や作家性は『君の名は。』には及びませんが、視聴者の「共感」と言う意味において、『聲の形』は圧倒的に高い評価を受けるでしょう。特に、今を悩む若い世代の支持は高いかと。願わくは、もう少し上映館数を増やして欲しい。学校の先生にも是非見て頂き、生徒達と感想を述べ合うなど、この作品の社会的な役割は小さくは無いはずです。


50才を超えたオヤジですが、岐阜県大垣市に聖地巡礼に必ず行こうと心に決めました。


それにしても『君の名は・』の高山市・飛騨市に続き、大垣市もアニメ聖地となり、今年は岐阜県の年となりそうです。



<追記>

私は硝子の妹の西宮結絃(にしみや ゆづる)と、親友を自称する永束友宏(ながつか ともひろ)の存在が非常に大きな作品だと思います。この物語は、半分はこの二人の為に有るのかも知れません。

この二人は、ちょっとリアルで無いキャラなのですが、「映画」で、敢えて絵柄をリアルに振る事をしなかったのは、ファンへの心遣いでしょう。大人まで視聴対象とするならば、もう少しリアルなキャラの方が違和感は無いのですが、劇場に足を運ぶのは圧倒的に原作ファンであると製作側も予想していたのでしょう。

私はその予想が裏切られる事を望んでいます。子育て中お母さん、お父さんにこそ観て欲しい作品です。石田ママや西宮ママを観るだけで、明日への勇気が湧いて来ます。

異次元緩和・第二形態・・・・財政ファイナンスの永続化

2016-09-24 08:18:00 | 時事/金融危機
 

異次元緩和の掲げた「デフレ脱却」「2%のインフレ率達成」は目的の様に見えて実は隠れ財政ファイナンスの為の口実に過ぎない。

従来の経済学では「金利低下=景気回復」であったが、市中金利はゼロより下がらないので、リフレ政策下でも、マイナス金利下でも「ゼロ金利の罠」は働いています。一方、グローバルな金融市場が在る限り、国内の資金は金利を求めて海外に流出し、さらに圧縮された金利によって国内の投資意欲は減退する。(投資のリスクに対してリターンが少なすぎる)

実はリフレ政策は「デフレ政策」であり、お金の価値が高まる事で長期的には円高要因ともなり得る。

一方、異次元緩和のもたらしたものは、国債発行コストの低減と、新発国債の8割を日銀が事実上引き受けるという「隠れ財政ファイナンス」。ただ、当座、年間80兆円の買い入れである程度財政バランスが取れるので、これ以上買い入れ枠を拡大する必要は無い。

一方で、「2年程度で実現する」とされていたインフレ目標の達成期間は、財政ファイナンスの永続性から考えると邪魔。

そこで、今回の日銀の「異次元緩和第二形態」は10年債までの金利をゼロにペッグし、さらに「実現不可能」な2%のインフレ目標の達成期間を事実上無くす事で、財政ファイナンスを安定して永続する事を目的としている。

異次元緩和の最大の敵は「バブルの発生」ですが、高齢者と国の間でお金がキャッチボールされる現在の日本では大規模なバブルは発生しない。一方、不動産などはプチバブルとなりやすいが、緊急時には「消費財増税」という緊急冷却装置が準備されている。

日銀と財務省はしたたかで賢い。しかし、結局は国内景気はグローバル経済に従属しており、今後、大規模な金融崩壊が起き、世界的に国債や通貨の信用が失われた場合、一番脆弱性を抱えているのは日本である事に代わりは無い。その場合は高率なインフレによって国家の借金は国民の資産と相殺される。歴史は繰り返す。

・・・なんて妄想して楽しんでます。
個人的には、「緩慢な死」よりは「派手な最期」の方が若い世代には良いのでは無いかと考えています。尤も、IMFが乗り込んで来て、一気に規制緩和が遂行され、弱肉強食の社会となるので、「能力とやる気」が無ければ「最悪」の社会となるのでしょうが・・・「座して死を待つ」事もあるまい。