人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

この映画を10年待った・・・西川美和監督・『永い言い訳』

2016-10-31 06:54:00 | 映画
 



西川美和監督 『永い言い訳』


■ ミニシアター系の映画は「腐りかけたイチジク」 ■

日ごろアニメファンを自称している私ですが、正直に白状すると本当に好きなのは「優れた実写映画」です。ただ、「優れた実写映画」には年1本程度しか巡り会えません。

学生時代は食費を切り詰めてミニシアター通いをしていましたが、いつからか「どれも同じ様な映画」に感じる様になり、実写映画への興味は薄れてしまいました。どの作品も「ほんの少しの差異」を生み出す事に腐心している様に思えたのです。

これ、円熟したジャンルは必ず陥る現象で、例えば能や狂言の「上手さ」や「下手さ」などは素人には分かりませんし、クラシック音楽だって現代曲になった時点で一般の人には何が良いのかすら分からない物になっています。

実写映画も同様で、特にミニシアター系の作品は「現代小説」同様に、世界から隔離され、ひたすら作家の内なる世界に籠る傾向が強くなります。そういう作品を見ると「ああ、又か・・・」と思ってしまうのです。

私がアニメに惹かれるのは、表現として「未熟」である点が大きい。これ、ジャンルとしての未熟さもありますが、何よりも表現者が若くて「未熟」な事が魅力となっています。「これをしてはいけない」とか「こんな表現は幼稚で恥ずかしい」などという自己規制が極めて少ない。だからどんなにバカラシイと思える作品でも、時折搾りたてのレモンの様なハッとする表現に出会う事が出来ます。

これが実写映画、特にミニシアター系の作品ともなると「腐りかけたイチジク」の様な匂いを発散する・・。たまに初期の園子温の様な青いマンゴーみたいな作家も現れますが、やはり次第に腐臭を発する様になります。

■ 渋柿の様な西川美和 ■

邦画、洋画問わず、ちょっと腐りかけたシリアスな映画の中にあって、少し風味の異なる監督として頭に浮かぶのは西川美和監督です。と言っても、劇場で『ゆれる』を2回見ただけですが・・・。

私の西川監督の印象は「渋柿」。人間の見せたく無い面をゴロリと転がして来る。それは包丁で切ってもいない。ただ、ゴロリンと観客の目の前に転がす。しかし、その転がし方は完璧にコントロールされていて、ヘタを上にするのか、ヘソを上にするのか、コロコロと転がすのか、グラグラゴロンと転がすのかが彼女の上手いところ。

それをどう味わうかは観客次第。ただ、美味しそうだとおもって不用意にかぶり付くと「渋い」。とても「苦い」。

『ゆれる』では一見「いい人」に見えた香川照之の魂の暗部に観客は唖然とします。それこそ渋柿を噛んだ後の様な表情で劇場を後にする・・・。

だから、西川美和は素晴らしい監督だとリスペクトすると同時に、私はなるべく敬遠したい監督の筆頭でした。その後の作品は『ディアドクター』すら見ていません。

■ 竹原ピストルという「最強兵器」 ■

そんな私が西川監督の新作を観たいと思ったのは・・・竹原ピストルを起用しているから。そして、彼女自身が「再生の物語」を作ったと語った点。

竹原ピストルは歌手ですが、彼を知る人は少ないでしょう。学生時代はボクシングでそれなりの選手だった様ですが、北海道の大学時代にキーボードの濱埜 宏哉と『野狐禅』というフォーク・デュオを結成します。1999年から2009年まで活動した後に、あまり売れる事もなく解散、ソロとなります。います。

竹原ピストルは「現在の日本で最高のミュージシャンで詩人」だと私は断言します。自分の貧しい生活の3m範囲から生まれて来る歌詞は、やるせなくて、せつなくて、そして優しい。ザックリと鷲掴みした指からこぼれ落ちるような言葉達は、心に突き刺さった後にジンワリと温かさを伝えてきます。

彼の紹介記事を以前書いたので紹介します。

この人が評価されない日本は間違っている!!・・・竹原ピストル『カウント10』

とにかく、立っているだけで、呟いているだけで心にグサグサ・ジンワリ来る竹原ピストルを本木雅弘と組ませて映画を撮るというのだから・・・これは見ずして居られようか!!

さらにこのキャストですから・・。



■ 妻が死んでも泣けなかった男の再生の物語り ■

ちょっとネタバレ注意

作家の衣笠幸夫は、鉄人衣笠と同じ本名である事をコンプレックスに感じる様に男。彼には20年間連れ添った妻がいるが、彼の興味は自分にしか向いていない。彼は、自己中でナルシスト。

そんな彼の前から突然妻が消える。高校来の親友と参加したバスツアーでバスが真冬の湖に転落したのだ。妻の死を知らせる電話が鳴る部屋で、彼は不倫相手とイチャツイテいた・・。留守電から聞こえる警官の東北訛りをバカにして笑った後、彼は妻が死んだ事を知る。(この落差・・・素晴らしい)

現地で遺品を確認し、警察から妻の事を色々と質問されても、彼は妻の事を正確に答える事が出来ない。何を着て出かけたのすら見えていなかったのだ。そして、彼は妻の死に際しても「泣けない」。葬式でそれらしい弔辞を読みTVの視聴者の涙を誘った後で、彼はネットでその反応を確認する。彼は妻が死んでも自分を見ている。

そんな彼の電話が突然鳴る。「幸夫君、幸夫君だよね」と馴れ馴れしく呼びかける面識の無い男は、事故で死んだ妻の同級生の夫。トラック運転手をしている。彼は妻と一緒にに妻の夫が出て来る番組は全て録画していたと言う・・・。

妻の親友の夫という、無学で不躾な男とその小6の息子、幼稚園年長の娘と食事をする事になった幸夫だが、彼らは無作法で別の世界の住人。ただ、その時、ある事をきっかけに幸夫はトラック運転手の子供達を週二回世話をする事になる。

子供の居ない彼にとって、子供の一挙一動は興味深いものであると同時に、彼は戸惑いながらも子子供達に愛情を感じ始める。次第に心を開く子供に、彼の捻くれた心が次第にほぐされてゆく。しかし、それはやはり自己満足や自己欺瞞にすぎないのかも知れないと、彼も薄々は気づいている。自分がどうしようも無い自己中野郎だと自覚しながらも、彼は子供やガサツなトラック運転手との触れ合いにある種の救いを見出し、それを免罪符とする・・・。

■ 腐った渋柿から種が芽を出す話 ■


トラック運転手や子供達は彼を「幸夫君」と呼ぶ。彼は「幸夫」という名を嫌っていたのに、なぜか「幸夫君」と呼ばれる事がきっと心地良く感じている・・・ここら辺がこの話の転換点の様な気がします。

始めは幸夫のイヤな面をさんざ見せられて観客は不快さを感じます。これは腐った渋柿みたいな味。(腐った渋柿は渋くはありませんが、キモチ悪い・・・)ところが、グジュグジュに腐った柿
の種は、必死に新芽を出そうとしていた。そんな、話で後味が良い。

■ 本木雅弘ってこんなに上手かったっけ? ■

この作品、見るべきは衣笠幸夫を演じた本木雅弘の演技。エーー、これがモックン?!って驚愕します。

『おくりびと』の本木雅弘は、演技をしている様で演じてはいなかった気がします。抑制が効いていたので、上手く見えていた。

ところが『永い言い訳』の彼の演技は、役所広司のそれに近い。イヤらしい中年男の味が滲みだしています。もう、汁っぽいというか、脂っぽいというか、加齢臭っぽいというか・・。多分、撮影の為に10Kg程度太ったのでは無いかと思えるダラシナイ体系もイイ。

そして、モックンらしい「はにかんだ」表情が効いています。ちょっと困った様に笑う。

■ フィルムを占拠する竹原ピストルの存在感 ■

一方、トラック運転手を演じる竹原ピストルは…下手だ。怒った様な表情から一転ニヤリとするシーンなどは、監督の要求だろうが、もう少しシームレスに表情を変えられないものかと突っ込みを入れたくなる。セリフ回しも最初は素人のそれだ・・・。「演じる」という点では子役たちの方が数段上手い。

ところが、中盤からフィルムを彼の存在が侵食して行く。これ、幸男の心が侵食されているのとシンクロしているのだけれど、彼は役を演じているというよりは、わが物顔でフィルムの上に「存在」し始める。無作法で、直情的で、温かい竹原がそこに居る。

これが竹原ピストルという男の「存在力」である事を知っていて西村監督は彼を起用しているのだけれど、監督も役者もスタッフもそして子役も彼の存在に引き付けられていくのがフィルムから伝わって来る。

こうして「上手く演じて」いる本木と、そもそも「演じられていない」竹原のギャップが役柄としての彼らとシンクロして観客はもうスクリーンから目が離せない。

■ 10年間待ち続けた映画 ■

『ゆれる』から丁度10年。私はこの映画を待っていたような気がする。「実写映画」はこれだから侮れない。

西川監督と竹原ピストルの対談が面白い

http://otocoto.jp/interview/nagai-iiwake/




<追記>


■ 映画を観るのに、こんなに走ったのは初めてだ ■


ところで、優れた作品の御多分に漏れず、上映館数や上映回数が少ない。イクスピアリで観ようとバスで出かけたが、ネットで調べると上映2時間以上前なのにネット予約は終わっています。悪い予感がしたので、千葉の京成ローザで観る事に。

しかし、上映開始まで時間があまりありません。バスを途中で降りて新浦安駅まで1Km程を猛ダッシュ。千葉駅を降りて京成ローザまでやはり1Km程を猛ダッシュ。映画を観るのにこんなに疲れたのは初めてです。

走った甲斐があって劇場はガラガラ・・・。まあ、映画好きしか来ないですよね。特に地方の劇場ですから。


ちなみに、向かいのスクリーンで掛かっていたのは『聲の形』。『永い言い訳』を観た後に、こちらにもう一度入りそうになりました。今年最高の二作品が並んで上映されているのは壮観。



最後に、幸夫のマネージャを演じた池松 壮亮(いけまつ そうすけ)。何者?上手すぎ・・・。


豊洲とデマとメディアリテラシー

2016-10-28 14:00:00 | 時事/金融危機
 

GUCCIさんの処にコメントしようと思いましたが、陰謀論でコメント欄を汚してはいけないので・・・



豊洲問題はプロジェクトチームの第二回会合で今まで散々デマをまき散らしていた二人の建築士の方が、日建設計と建築構造の専門家にボコボコにされて構造問題には決着が付いた様です。この様な「偽物」を重用し、散々デマを拡散させた小池氏の責任は重大ですが、これを問うメディアは出てこないでしょう。

そもそも日建設計は日本最大の組織建築設計事務所であり、公共建築の設計の実績もダントツに多いので豊洲の設計を任された訳で、彼らの設計がいかに頑丈(悪く言えば過剰強度)であるかは地下ピットの梁の高さを見ればだいたい予想は着くというもの。建築関係者は、散々振りまかれるデマにいつ日建設計が反論するか固唾を飲んで見守っていましたが、「守秘義務解除」が宣言された途端に「デマ」は瞬殺されました。まあ、お二方には少々酷な「公開処刑」となりましたが、それに見合う混乱を都民にもたらしたのだから自業自得かと。

さて、問題は私達が「デマ」になぜ振り回されるかですが、専門知識の有無の問題では無く、「メディアを信用している」という問題に要約されると思います。日ごろ、こちらの方々も「日経新聞デマ」には敏感の様ですが、政治問題になると途端に「メディア=正義」というバイアスが掛かります。朝日新聞をはじめ少なからぬマスコミが「反体制」とか「権力の見張り役」を自認しています。

しかし、豊洲の報道を見る限りメディアはちょっと専門家に聞けば分かる「建築の常識」を無視した報道を繰り返し、フジテレビに至っては画像処理のねつ造までして「豊洲は危険」と報じてきました。実際、彼らが建築の専門家に裏付け取材をしないハズは無く、しかし何故か「事実」は報じられる事無くデマが拡散されました。これはフジTVに限らずNHKまでが同じ様な報道を繰り返しています。

これは冷静に考えれば「異常」な事なのですが、世間はこの「異常性」に気づきません。何故か・・・「報道が私達を騙すためにあるのかも知れない」という当然の疑念を忘れているからです。クーデターが起きた時、先ず占拠する施設が放送局です。要は権力の源泉は実は「報道」にあり、民主主義において「民意を形成する手段」こそが権力が有する宝剣なのです。

では、豊洲問題でメディアは何を実現しようとしているのか・・・単に「小池ヒーロー」を作る事が目的もであるまい・・・。小池氏の裏に誰が存在し、メディアの裏で誰が糸を引くのか・・・これを考えるのが「本当の新聞の楽しみ方」だと妄想して病まない・・いや止まない。

ちらほらと出て来る「カジノ」という言葉。気になりますが、現状豊洲にカジノを誘致する事を黙認するほど都民もバカではありません。まあ、いろいろと地下で蠢く気配はするものの・・・トランプとヒラリーの出来レースに騙されるアメリカ人程は日本人はバカでは無いと信じたい。

民主主義とハサミ

2016-10-27 10:54:00 | 時事/金融危機
 
豊洲やオリンピックのゴタゴタは「正義 VS 悪」の対立構造ではなく「権力 VS 権力」の対立にすぎません。

ゼネコンや日建設計にしても「小池勝利」を確信しているから反論もせずにダンマリ。何故って、そりゃ、ここで反論しちゃったら、次から都の公共工事を落札できなくなるから。日建案、合理的ですよ。さすがは日本の建築設計の頭脳集団。本来は地下ピットの床を防水仕様にして、換気設備尾を設ければ、地下空間を駐車場や防災基地として有効活用出来たのですが・・・。もったいない。それこそ、核シェルターにだって出来る。

都の古参議員と業者の癒着というローカルな利権に、誰かが外から思いっきり手を突っ込もうとしているのが今回の東京の「笑劇場」の舞台裏だと思いますが、東京都民の税金を東京で使うか、それとも地方にばら撒くか・・・そんな問題にも見える。

東京で無駄な箱モノを作っても、雇用は維持管理も含めて東京で発生し続けるが、地方で都税を使われえて無駄な箱ものを作ると、税金は都民が負担するが雇用は地方に流れる。維持管理も含めて地方税だろうとの指摘もあるかも知れませんが、都税は地方にばら撒かれている・・・。

本当は東京を国際的により魅力的な都市にして、競争力を維持するために使われるべき都税が、「つまらない箱もの」に浪費される事こそが問題で、最終的には小池知事は規制緩和も含め、この点にメスを入れる為の刺客かな?一見、単騎突撃で恰好良く見えるが、マスコミが全力で援護射撃をしているので負ける訳が無い。

やろうとしている事は正しいと思うが・・・やり方は有権者を騙す様な方法。ただし、有権者が賢い選択を出来ない以上、トリッキーな方法は有効ではある。これ、国政も同じ。多分アメリカ大統領選挙やフィリピンも同じ。民主主義とハサミの使い方を良く知った人達が居る。

フィリピンに外交的自由は有るか・・・ドゥテルテ大統領とアメリカの真意

2016-10-24 09:44:00 | 時事/金融危機
 

■ アメリカの植民地だったフィリピンと歴代傀儡政権 ■

フィリピンはアメリカとスペインが戦った米西戦争の結果、パリ条約によって1898年にスペインからアメリカの譲渡され、アメリカの植民地となります。その後1934年まで断続的な独立運動を経て、アメリカから独立します。

第二次世界大戦では1942年に日本軍がアメリカ軍を駆逐して、一時フィリピンを勢力下に置きますが、独立は認めていました。戦後はアメリカの統治下に置かれますが、1946年には再び独立を果たします。

その後、アメリカの傀儡ともいえるマルコスが大統領に就き、1986年に革命でアキノ政権が樹立するまでマルコスの半ば独裁政治が続きます。

多くの途上国では戦後「開発独裁」と呼ばれる政治体制が敷かれました。西洋的な中央集権国家の歴史を持たない途上国では、国内の少数民族や多部族を従わせるには、独裁者が武力で国家を統一する必要がありました。一方で独裁者達は海外の資本を呼び込んでインフラを整備します。

投資を行う先進国にしても、政権が不安定な国よりも、独裁でも政治が安定している国の方が安定して投資ができます。イラクやシリア、リビアなども同様に「開発独裁」は国家の発展に大きく寄与しました。

一方、独裁政権は為政者とその家族や親族に利権が集中し、徐々に国民の支持を失ってゆきます。マルコス政権も同様に腐敗し、国民は革命によってアキノ政権を成立させます。

一見、民主的手段によって成立した様に見えるアキノ政権ですが、アキノ氏はフィリピン経済を支配する華僑の一族ですし、彼の後盾はアメリカでしたから、結局はアメリカの傀儡政権である事には変わりありません。

「武力による独裁政治」が「経済による国家支配」に変わったにすぎません。そして、フィリピンの政治が金持ちによる汚職と腐敗にまみれている事は、民主的な政権に代わっても継続していました。フィリピンでニュース番組をつけると、最近でも政界汚職の事件ばかり取り上げています。


■ アメリカ軍の基地を撤退させたフィリピン ■


フィリピンには米軍のスービック基地(海軍)とクラーク基地(空軍)がありましたが、フィナツボ火山の噴火で被害に合い、1991年に放棄されフィリピンに一時返還されています。

この当時、東西冷戦が終結し、フィリピンの軍事的重要度は低下しています。その後もアメリカ軍は軍縮であるトランスフォーメーションを実行していたので、米軍はハワイ-グアムラインまで撤退する予定で、フィリピンの基地の重要性は低下していました。日本の米軍基地で事足りていたのです。

一方、フィリピンは「米国支配」への反感が強い国なので、米軍の基地返還はアメリカの影響力の縮小として国民には好感されていました。

■ 鬼の居ぬ間に・・・ ■

米軍がフィリピンを空白にしている間に、中国は南沙諸島の岩礁を埋め立てて基地を建設するに至ります。

フィリピンに米軍が駐留していればフィリピン政府も強気に出れたのかも知れませんが、この間、フィリピンでは反米、親中国的な政権運営が続いていたので、中国の埋め立ては半ば米国に黙認された形となります。

ところが、近年、中国の野心的な海洋進出が誰の目からも明らかになると、アメリカは中国を非難し、フィリピン国内でも「アメリカに頼る」気運が高まります。

こうして、2012年にクラーク空軍基地が、2015年にはスピークス海軍基地が運用を再開します。

■ 共産党と仲の良いロドリゴ・ドゥテルテ大統領 ■

フィリピン国民は国防上、アメリカに依存しながらも、心の中では反米感情を高めていました。アメリカの資本や企業がフィリピンに進出し、一部の金持ちと利害を同一にする一方で、フィリピン国内の貧困は一向に解決されませんでした。

この様な国民の不満のはけ口となったのが、今世界を騒がせているロドリゴ・ドゥテルテ大統領です。彼はフィリピン共産党の創設者ジョマ・シソンに大学時代に学び、今も彼の支持を受けています。

■ 現代のアヘン戦争 ■

1988年にダバオ市長になったドゥルテは、市長を6期務める間に、ダバオ市の治安を回復させ、大きな経済成長を達成します。彼は半ば強権的に麻薬を取り締まり、市に平和を繁栄をもたらしましたが、その手法を大統領として国政に生かそうとします。

フィリピンには300万人の麻薬常習者がおり、密売組織に巨大な資金を提供すると共に、国民の健康や生活を蝕んでいました。ドゥテルテは一般人が麻薬密売人を「処刑」しても良いとする過激な政策を掲げますが、国民は彼を支持し、大統領に押し上げます。

現在フィリピンでは警官や市民によって多くの麻薬密売人が殺害され、彼らの多くは命を守るために率先して自首し、刑務所に避難しています。これをして、西洋のマスコミは「虐殺」だとか「人権蹂躙」と喧伝していますが、麻薬問題が深刻な社会問題であったフィリピン国民にしてみれば、密売組織の壊滅や、麻薬撲滅は平和で安心できる生活のためには必要な政策であったのです。

陰謀論的には麻薬の密売の資金はマネーロンダリングされてCIAなどの諜報機関の非合法な活動資金になっていると噂されます。議会の承認の必要な透明性の高い資金で、CIAや国防省が非合法な組織を支援する事はできないからです。

昔は共産党と対立する政権を支援したり、あるいは南米などの共産党政権を打倒するためのゲリラを育て、支援するためにこれらの麻薬資金が使われていたと思われますが、現在ではテロとの戦争の敵役(アルカイダやダーイッシュ)を育て支援する資金となっているのでしょう。(妄想)

「麻薬を活動資金」にしたのは戦前も日本軍も同様で、満州でアヘンを販売して資金を獲得していました。ブッシュ一族のハリマン銀行と関東軍は戦前から麻薬で繋がっていたとも言われています。(噂)

こうした「麻薬と欧米の支配」の歴史の点から眺めると、フィリピンの「麻薬戦争」は別の姿を見せる様にも思えてきます。共産党的な思想を持つドゥテルテ大統領が、アメリカ支配の資金源の一つである麻薬組織を潰している・・・そう見えなくも無い。

ただ、不正が当たり前のフィリピンだけに、ドゥテルテが別の麻薬組織の大物と結託してるなんて妄想も膨らんでしまいますが。

■ 中国に接近するドゥテルテ大統領 ■

ドゥテルテ大統領は就任以来、オバマ大統領を汚い言葉で罵ったり、中国との関係を改善しようとしたり、従来の「対米従属」とは決裂する政策を進めつつあります。

南沙諸島問題で中国との対立が深まれば、いずれフィリピンと中国の間に軍事的衝突が起こる可能性は高まります。アメリカはフィリピンの基地を復活させたとは言え、財政的に世界の警察の座を維持する事は難しい。

仮にフィリピンと中国が軍事衝突してもアメリカ軍は傍観する可能性は低くは無い。中国とアメリカという核保有国同士の直接戦闘を避けるために米軍は正面切っての軍事行動は避けるはずです。

冷静に考えると中国との関係を悪化させる事にフィリピンのメリットは在りません。そこで、元々共産主義的なドゥテルテ大統領は、中国に接近し、アメリカと距離を置く政策を取る事が賢明となります。

■ 手のひらで泳がせているだけのアメリカ ■

急速にアメリカ離れするフィリピンですが、オバマ大統領が罵られても、アメリカの対応は比較的に鷹揚です。

フィリピンがアメリカの影響力を離れ、中国に接近すればするほど、中国は南沙諸島の開発を進める障壁が減り、ゆくゆくはフィリピンの国益を損なう様な大胆な行動にも出るはずです。

世論は移ろいやすいですから、今は反米親中国に傾いている人々も、一たび中国がフィリピンの主権を犯す行為を働けば、一気に反中国に傾くはずです。アメリカは戦争に巻き込まれないように、フィリピンと距離を取りながらも、メディアを使ってフィリピンの世論を武力解決に誘導するかも知れません。

国内に確固とした支持基盤を持たないドゥテルテ大統領は、国民の声に敏感に反応せざるを得ません。こうして、フィリピンは反米政権を樹立させた事で、むしろ対中紛争に一歩近づいたとも言えます。


■ 他人事では無い日本 ■

日本も他人事では無く、民主党政権時代にアメリカと距離を取った事で、中国は尖閣諸島へのチョッカイを拡大させました。

民主党内のアメリカの傀儡達が事態を混乱させようと試みましたが、外務省が上手く立ち回って事無きを得ました。

その後、アメリカに抱き着く様な阿部自民へ政権が交代したのは、実は日本の「危機回避」の好手だったのかも知れません。屈辱的ではありますが、対米従属で、アメリカにしっかり抱き付いている間は、中国も日本を簡単には攻撃出来ない・・・。

しかし、戦争を起こす都合は、あくまでも世界の経営者に在るわけですから、いくら日本がアメリカに抱き付こうが、東アジアで戦争が必要と彼らが判断すれば、戦争や紛争を回避する手段を日本国民は持ち合わせていません。

中国もロシアも世界の経営者の一味だと考えるならば・・・。東アジアも中東も、「戦争の原因」をせっせと演出している・・・頭のネジの緩んだ私には、今の世界をそう見えて仕方が無い。

鹿野山ヒルクライム・・・・ピストで秋元ルートを登る

2016-10-24 05:13:00 | 自転車/マラソン
 




■ そう言えば「棚田の夜祭」だった・・・ ■


一昨日の暑さは何処へやら、土曜日は少し肌寒い曇天模様。暑くもなく、寒くも無く、転車乗りにとっては最良のシーズンの到来ですが、春に比べて日照時間が短いので、走行時間は短くなります。

朝飯を家内とゆっくり食べて、家を出たのは9時近く。養老渓谷辺りまでサクっと走ろうと思って家を出ますが、途中で思い出しました。本日は鴨川市の「棚田の夜祭」が開催される日でした。娘に連絡を入れて本日の寝床を確保した後、ルートを急遽変更して、一路鴨川へ。

と言っても、夜まで時間があるので、鹿野山に寄り道します。シングルギアのCAPO君をギアー比3.0の固定に改造してから鹿野山には登っていなかったので、足試しです。斜度の緩い竜宝寺ルートでは面白く無いので、斜度にキツイ秋元ルートで登ってみます。

そういえば「鹿野山 ヒルクライム」で検索するとgoogle先生の上位に過去の記事が出て来てしまいます。坂道で四苦八苦する情けない過去の自分を見る事になるのですが、出来る事ならば「坂道仕様」に生まれ変わった「人力」を見ていただきたい。そこで、今回はギアー比3.0の固定ギアで秋元ルートを足付き無で登りたい!!

木更津の手前で国道16号を離れ、ひとまず上総アカデミーパークを目指します。初めてのルートですが、東京→鴨川行のバスで通った事があるので、記憶を辿りながら進みます。登り基調のコースですが、頑張らずに足を温存します。ピストですから・・・。

鹿野山へは裏側からアプローチしますが、途中「市宿」という集落を通ります。市宿は地学に詳しい方はご存知かも知れませんが「市宿砂層」という海底の砂の堆積層で出来た地形です。そして、その砂は高度成長期の東京の発展に貢献しました。

鹿野山の東京湾側にかつて存在した浅間山は砂の採取で山自体が消滅しましたが、鹿野山の裏側の市宿も砂の採取で山が大きく削られています。かつて昭和40年代は砂を満載したダンプが列を成していましたが、現在も砂の採取は続いています。




■ ギアー比3のピストで鹿野山の秋元ルートを登る ■


鹿野山の裏の登り口、秋元郵便局からは斜度10%を超えるキツイ上り坂が始まります。ほぼ真直ぐな登り坂に心が折れそうになりますが、斜度が緩くなる場所までどうにかペダルを踏みこんで登ります。

斜度が10%を切ってシッティングで少し楽をしますが、再び10%越えが待っています。ここをどうにか・・・どうにか・・・登れません。もう心臓が口から飛び出しそうになって痛恨の足つき。2分程休んで心拍を落ち着けていると、山頂から降りてきて二人組の自転車乗りさんんが「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれます。これで気を取り直して再び登り始めますが、しばらくして今度は腿の前側の筋肉が盛大に攣って脚付き。

しばらく休んで、再度登り始めますが、山頂まで100mを切った保養所の下で再度足が攣って脚付き。結局、3回も足を付いて、20分以上掛かってようやく九十九谷公園に辿り着きました。ギアー比3.0の固定ヒルクライムは10%超えやはり鬼門です。それより緩い斜面は、ペダルの上で体重移動するだけで楽に登って行くのですが・・・。

そんなこんなで、ようやく記念撮影。



少し下ったマザ牧場には「ウシ」が歩いていました。二足歩行で・・・。



■ 雨も上がり、大山千枚田の「棚田の夜祭」は最高でした ■

マザー牧場からは更科口に下り、そこから県道88号線で横根峠に出ます。そこからは下り基調なので、時速35kmオバーで一気に鴨川。

10月末の大山千枚田の夜は冷えるので、「しまむら鴨川店」で裏起毛ストレッチジーンズと、裏起毛長袖シャツを購入し、娘のアパートでシャワーを借りて着替えます。

鴨川市内から大山千枚田は今来た長狭街道を12Km程戻ります。途中、運動公園でシャトルバスに乗り換えられるので、娘のミニベロで出かけますが、シャトルバス乗り場は長蛇の列。基本的に列に並ぶ事が嫌いなので、そのままミニベロで大山千枚田を目指しますが、運動公園から長さ街道までの田んぼの中の道は真っ暗。「田舎仕様」のハイパワーLEDライトが無ければ、田んぼに落ちていたでしょう。(田舎って暗くて怖い・・・)

パラパラと時折小雨が降っていましたが、千枚田は観光客と地元の人達で例年通りの賑わい。3千本の篝火と、1万個のLEDイルミネーションが棚田を縁取ります。









今年も三味線と和太鼓のセッションを堪能しました。



最後は棚田の谷底から上がる花火(これ、結構低い位置で炸裂します)でフィナーレ。





8時に「棚田の夜祭」は終了しましたが、シャトルバスの混雑を横目に自転車で一気に鴨川へ。

充実した秋の一日でした。