人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

画餅のミサイル防衛

2017-03-29 05:28:00 | 時事/金融危機
 

韓国に配備されるTHAAD迎撃ミサイルが、北朝鮮と中国を刺激していると報じられています。

もっとも、ミサイル防衛には根本的な欠点があり、中国がそれを認識していない訳が無い。

1) 迎撃高度25KmのPAC-3では首都圏近郊だけしか「警戒」出来ない
  (防衛では無く警戒・・)
2) 弾道弾の落下最終段階はマッハ6~12、対するPAC-3はマッハ4~5
   PAC-3では落下最終段階の弾頭の迎撃は「神業」に近い。

3) 韓国が配備するTHAADの迎撃高度は150km
   大気圏外での迎撃を担当します
4) 北朝鮮から飛来する弾道ミサイルの到達時間は8~10分
   ミサイルの最高高度付近での迎撃は発射から4~5分後。
5) 仮に日本がTHAADを導入しても、ミサイル発射から迎撃までの時間が短すぎ、
   突然のミサイル発射に対して、迎撃ミサイルの発射は間に合わない。

6) 迎撃ミサイルが進化すると同様に弾道ミサイルも進化している。
   ダミーを含む多弾頭化(デコイ)や、センサーを欺くチャフ、姿勢制御によって
   迎撃を交わす方が技術的に迎撃的中率を上げるより簡単。

7) 多数の弾道ミサイルを同時発射する「飽和攻撃」に対して、
   迎撃ミサイルは無効。迎撃網を抜けたミサイルによる被害は甚大(核弾頭の場合)

要は、韓国や日本にTHHADを配備しても自国防衛の役に立たないという事。但し、アメリカへの大陸間弾道弾の迎撃には一定のメリットがあります。

イスラエルのアイアンドーム迎撃ミサイルも、ヒズボラのロケット弾を結構な確率で迎撃し損ねています。ロケット弾って・・・ロケット花火を大きくしただけの低速の代物ですが、これすら完全に迎撃する事は難しい。

まして、ヒズボラも手心を加えていて、飽和攻撃をしていません。飽和攻撃をされればアイアンドームなどは完全に無効化されてしまいます。

この責める側と守る側の「非対称性」がある限り、ミサイル防衛は「画餅」に過ぎませんが、ビジネスとしてのうま味は多い。もちろんビジネスパートナーは北朝鮮。



<追記>


ミサイルが全く無意味かと言えばそうは無く、敵国に直接ダメージを与える弾道ミサイルは有効な攻撃手段です。日本は「専守防衛」が足枷となって、敵国への直接攻撃の手段を保留していません。

安部政権の憲法改正議論には賛否両論ありますが、防衛コストの低減といった意味においては、日本が自前の弾道弾を開発して配備する事が、アメリカ製の迎撃ミサイルシステムを導入するよりは抑止効果が格段に高い。

日本会議のアナクロ趣味は、アメリカを欺く為のブラフで、自民党結党以来の目的である、「自主憲法制定」と「日本の本当の独」立は、自民党や官僚達の間では未だに悲願では無いのか・・・。

一方でアメリカがミスミスお得意様(下僕)を手放す訳も無く、森友問題の背景には「憲法改正後の日本の自立」を牽制する目的も有るのでは無いかと妄想しています。

森友問題の本質は、「政治の腐敗」などといった単純な物では無く、戦後の日米関係の清算とその牽制にあるのでは無いか・・・そう思うと、国会で追及される安部首相を擁護したくもなる・・。そして、首相夫人こそがC○○のエージェント・・・ゲグンゲフン・・・。

今回も野党や左派系メディアは便利に使われている・・・。

「マグロ?経済」・・・ヘッジ疲れ

2017-03-25 03:48:00 | 時事/金融危機
■ 「マグロ経済」 ■

本日のテーマは「マグロ経済」。
「マクロ経済」ではありません。

最近の市場動向に?という感覚を覚える方は多いはず。
トランプラリー以降、市場は〇〇危機が意識されると少し下げ、危機が回避される直前・直後にスルリと戻す事を繰り返しています。

過剰流動性を抱えた市場は、最初のうちこそは「少し触れられる」だけで過剰に反応していましたが、だんだんと「不感症」になり、最近はちょっとやそっとでは動じない「マグロ」になってしまいました。

■ 「市場との対話」という名の「予言の自己実現」 ■

日本のバブル崩壊や、リーマンショックを経験した事で、世界は「一本調子のバブル」をなかなか作る事が出来ませんが、一方で「マグロ化」した市場は「下がり難い」。その状況の中でリスクは拡大し続けています。

既に債権市場は金利上昇局面で危険度が高まっているので、逃げ出した資金が株式市場に流入しています。これがトランプラリー以降の株高の原因ですが、人々はポジティブな原因をこじつけて株価上昇を正当化し、自己暗示に掛けている。

この「変な均衡」を崩すのはやはりFRBの利上げですが、ここにも「市場との対話」という自己暗示が働いています。市場は極端な危機が顕在化するまでは「予言の自己実現」によってある程度の平成を保つ事が出来、FRBは市場をある程度コントロール出来る。


■ 「予言の自己実現」とは何か? ■

「予言の自己実現(自己成就)」は社会学者のマートンが提唱した考え方です。


「自己成就的予言(self-fulfiling prophecy)とは、最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすることである。」


マートンは銀行の破たんを例に挙げています。

1) 銀行が破たんするという噂が立つ
2) 実際には銀行の経営は健全である
3) 人々は銀行が破たんすると思い込み預金を引き出しに殺到する
4) 結果、健全だった銀行が破たんする
5) 「銀行が破たんする」といった人々お誤った「予言」が現実の銀行を破たんさせた

実は「予言の自己実現」は悪い結果ばかりを招く訳ではありません。

1) 銀行が破たんする訳が無いと人々は考えている
2) 実際には信用創造によって成り立つ現在の金融システムは初めから破たんしている
3) 人々は「金融システムが最初から破たんしている」などとは考えるた事も無い
4) 結果、人々は預金を引き出してタンスに仕舞込む事は無い
5) 経済は継続する

■ FRBが用いる「予言の自己実現」のテクニック=「市場との対話」 ■

1) FRBは利上げに対するポジティブとネガティブな発信をバランス良くばら撒く
2) 利上げ前に利上げにポジティブな発言を増やす
3) 市場が利上げを予測してリスクの調整に入る
4) FRBは利上げ直前にネガティブとも取れる発言を流す
5) 市場は利上げが無い場合を警戒して、過剰なリスクヘッジを避ける
6) 結果として市場は全体的にはニュートラルな状態を保つ

「市場との対話」などとカッコイイ呼び名が着いていますが、実際は「利上げしちゃうぞー」「いや止めようかな」の繰り返しで、利上げ当日まで市場が極端なポジションを取らない様に揺さぶりを掛けているだけなのです。

個々の投資家レベルではリスクを取っているケースも多いのですが、全体としては相殺されてイーブンになる所がミソです。


■ 「ネガティブ・フィードバック」による「予言の自己実現」 ■

市場の調整原理はネガティブ・フィードバック(NFB)回路に似ています。NFB回路とはオーディオアンプの歪率改善に利用される技術です。

1) アンプの回路は入力信号を正確に増幅出来ない(歪の存在)
2) アンプの出力信号の少しの量を反転して入力に戻す(負帰還)
3) アンプが生じるであろう歪みを打ち消す信号が負帰還
5) 入力信号は負帰還によって今後生じるであろう歪みを予め補完される

市場でNFBの働きをしているのが「リスクヘッジ」です。将来の変動に対して「逆張り」で変動を抑え込む働きを持ちます。

NFBはあまり大きなゲインで掛けるとアンプの出力が低下します。逆位相の信号が本来の入力信号を相殺してしまうからです。同様に過剰なリスクヘッジは利益を相殺してしまいます。

現在の市場はまさにNFBの掛かり過ぎたアンプの様な状態で、ブレグジットやトランプの登場と言ったネガティブ要因(歪)に耐性があると同時に、利益(ゲイン)が得にくい状況にあるのでは無いかと思います。

■ 調整を誤ると自己崩壊(発振)するNFB回廊 ■

NFB回路は単純で非常に効果的な歪低減回路です。
しかし、時としてNFB回路はアンプを破壊する事があります。

1) NFB回路からの信号は通常入力信号と逆相
2) 回路の設計によっては一部周波数で位相の回転が起こる
3) NFB回路の信号に正相の信号が混入する
4) 正相信号はNFB回路によって増幅を繰り返す
5) ついには回路を破壊する

発振はカラオケでも度々発生します。「ハウリング」です。

1) マイク(入力信号)がスピーカーの音を拾う
2) マイクが拾った音がアンプで増幅されてスピーカーから音として出力される
3) マイクが増幅された音を拾う・・・
4) この繰り返しが起きる事により、ある音が増幅されし続けてハウリングが起きる

市場における「発振」や「ハウリング」は、「市場のパニック」や「売りが売りを呼び」などという状況に相当します。

現在の市場は「ヘッジ疲れ」しているとも言われ、大きな危機が発生するかも知れない状況で本来積みあがるはずのポジションが減少しているとの分析もあります。市場参加者が最近感じている「違和感」の原因は、リスクヘッジの弱まりを反映させたものかも知れません。あまりにリスクヘッジを効かせると儲からないからヘッジが弱まって来たのです。

この様な市場の「回路乗数」の変化が、ある時、悪いポジティブフィードバックを起こすと、市場は「発振」を起こし、それを切っ掛けに「パニック」が発生し、市場は崩壊を迎えます。

「マグロ経済」は市場が不感症になる事で、市場の安全装置を知らず知らずの内に弱めてしまうのでしょう。

『リトルウィッチアカデミア』と『La La Land』の類似性・・・ジャンルの本質回帰

2017-03-22 10:59:00 | アニメ
 

■ 「魔女もの」の王道に立ち返る『リトルウィッチアカデミア』 ■



『La La Land』を観ながら、私はこのアニメを思い出していました。現在放映中の『リトルウィッチアカデミア』

「魔女っ子」ものは日本のアニメの伝統芸ですが、そこに『ハリーポッター』という新しいエッセンスを加えた作品。東宝とTigerという異色の組み合わせが、東映動画のお株を奪う演出とクォリティーを見せているのも注目すべきかと。

『魔法少女まどか☆マギカ』から魔法少女モノは破壊と再構成による「新ジャンル」となってしまいましたが、『リトルウィッチアカデミア』は『サリーちゃん』から続く伝統的な魔女モノの流儀を忠実に守りながら、このジャンルが子供達に何を伝えて来たかを問う意欲作です。

11話の「蜂騒ぎ」が特に素晴らしく、演出的には、斜め下から人物が直線的に登場したり、バタンと後ろに倒れて驚きを表現したりと、「どんだけ昭和だよ」と突っ込みたくなりますが、噴水の前のシーンは「アニメ冥利に尽きる」というのも。

こういう表現は実写では絶対に出来ません。

私的には『La La land』と同じ目的と意欲をこの作品に感じてなりません。

小さな女の子がいらっさるご家庭では、是非DVDを借りて来て一緒に観て欲しい。このアニメはに夢と魔法が詰まっています。

成熟のその先へ・・・『La La Land』が目指す王道回帰

2017-03-22 05:42:00 | 映画
 



■  『セッション』のデイミアン・チャゼル監督、今度はミュージカルだ!! ■

前作『セッション』が素晴らしかったデイミアン・チャゼル監督。

音楽映画の常識を覆す『セッション』・・これって軍隊物だよね

彼の最新作『La La Land(ラ ラ ランド)』はアカデミー賞14部門に最多ノミネートされ話題になっていました。作品賞の最有力候補の一つでしたが、プレゼンターのフェイ・ダナウェイが作品賞として読み上げたのは『La La Land』!!

キャストやスタッフが大喜びでステージに上がり、スピーチが始まった時・・・『La La Land』のプロデューサが「これはジョークでは無い、作品賞の発表は読み間違えだった・・」と言い出したから会場全体が愕然となります。どうやらフェイ・ダナウェイが主演女優賞と作品賞を読み間違えたらしい・・・。

そんな前代未聞の珍事もあって、話題と期待が高まった『La La Land』。先週の土曜日に娘を連れて観て来ました。

何と、今度はミュージカルです。

■ 冒頭のミュージカルシーンだけで十分に映画史に残る ■

多くの方が既に書かれている様に、冒頭のハイウェイのミュージカルシーンは映画史に残る名シーンだと確信します。ドローンを使っての撮影だと思いますが、何が凄いって、これノンカットですよね。5分近くあろうかと思われる大人数のダンスシーン。それも固定カメラでは無く、ドローンが車の間を縫いながら撮影して行くという複雑な進行をシームレスで撮影しています。

「いったいどんだけリハーサルしたんだよ・・」と思わずため息が出てしまいますが、一方でかなり既視感の在る映像。映画としてでは無く、「OK GO」のミュージック・クリップや「フラッシュ・モブ」と呼ばれるYoutube映像にかなり近い感じ。



OK Go - I Won't Let You Down - Official Video



広場で突然人々がJAZZを演奏し始めるフラッシュモブ映像

フラッシュ・モブというのは広場などの群衆の中に役者やダンサーやミュージシャンを予め仕込んでおいて、突然に、或いはだんだんと音楽やダンスが展開されてゆくというYoutubeなどに投稿される映像ジャンルです。

ドローンを使った撮影や、フラッシュモブなどは現代映像を象徴する表現ですが、これをミュージカル映画の冒頭に持って来るあたり、やはりデイミアン・チャゼル監督のセンスが光ります。


■ 『雨に歌えば』から『オール・ザット・ジャス』を俯瞰するミュージカル映画 ■


ミュージカルはハリウッド映画の伝統的ジャンルです。ヨーロッパ大陸でオペラがオペレッタへと大衆化し、それがアメリカで独自の進化を遂げます。ダンスシーンはレビューの伝統を受け継いでいます。

本来劇場で上映されるジャンルであったミュージカルを映画にしたものが「ミュージカル映画」です。劇場作品を映画化した作品には『ウェイストサイド・ストーリー』や『オズの魔法使い』など名作も多い。一方でオリジナルのミュージカル映画も制作されています。

アカデミー賞の作品賞にミュージカル映画がノミネートされたのは1979年の『オール・ザット・ジャズ』以来ですが、冒頭のダンスシーンの直後のカフェのシーンで、カップを真上から捉えた映像は、まさに『オール・ザット・ジャズ』のシーン転換に使われたグラスとアスピリンのカットへのオマージュ。

一方で、ダンスシーンは様々なミュージカル映画のそれを彷彿させる演出が散りばめられており、まさにハリウッドのミュージカル映画の歴史へのトリビュートとなっています。

■ 日常を夢へと昇華するミュージカルという装置 ■

物語は女優を夢見てオーディションを受け続けるエマ・ストーン演じるミアと、自分のJAZZクラブを開いて本当のJAZZを聴かせたいと夢見るライアン・ゴズリング演じるセブの恋物語。

始めは「イヤなヤツ」と思っていたのに、ついつい惹かれ合い、一緒に住み始め、お互いの夢を応援し・・・そんな手垢の着いたストーリー・・・しかし、題名の『La La Land』は「陶酔境、恍惚、我を忘れた境地」のスラング。そしてロサンゼルスを指す言葉でもあります。まさに夢を追いかける若者とそれを取り巻く街の「浮ついた」或いは「夢見がち」な内容にはピッタリな題名です。

夢を追いかけて都会に出て来て、努力し、恋をして、そして挫折を味わうのは、多くのアメリカの若者の共通体験です。ですから、どんなに手垢が着いていても、多くの人達に共感を生む「ステロタイプならではの強さ」があります。

シリアスシーンの演出は、重すぎず、軽すぎず、そして、やはり「どこかで観た映画」のシーンを彷彿とさせます。

一方、思わぬシーンをミュージカル仕立てとする事によって、多くの若者達の日常がスクリーンの上で「夢物語」に昇華します。

■ 実はJAZZ映画だった ■

ミュージカル映画への愛情に溢れた作品と思われがちですが、実はデイミアン・チャゼル監督が描きたかったのは、前作同様にJAZZ。彼は学生時代にJAZZバンドに入っており『セッション』はその体験から生まれた作品。

セブは多分バークレイ音楽院を優秀な成績で卒業したピアニスト。彼はJAZZの歴史に造詣が深く、そしてJAZZの巨人達を敬愛して止まない。しかし、彼の生活の糧は、レストランで甘ったるいBGMを演奏する事・・・。これに我慢がならない彼の演奏は、だんだんとエスカレートしてフリージャズになってします。当然、仕事はクビ!!

執拗にJAZZの魅力を語るセにミアは「アイ・ヘイト・ジャズ」と言います。「ジャズなんて大っ嫌い」って感じですが、これは多くの現代のアメリカの若者の共通の感覚でしょう。彼女の好きはJAZZはケニー・Gの様なスムースで美しい音楽。或いは、ダンサブルでポップなJAZZ。現代の若者の多くが「オシャレなジャズ」は好きだけど「古いジャス」は嫌い。セブはそれが許せない。

セブは夢を追いすぎるばかりに仕事もろくに有りませんが、しかし彼の才能は優れています。大学の同級生が彼をバンドに誘いますが、その演奏は・・ファンクジャズ。シンセサイザーやキーボードでの派手な演奏を要求され、派手なスーツでツアーを回る。聴衆はJAZZなんてちっとも理解なんてしていない、派手でノリノリならばそれでイイと思っている連中。

「金」と「夢(信念)」を秤に掛ける事になるセブですが、将来の夢の為に彼は「金」を取る。そう、いつまでも夢を追うだけでは夢は実現しないとミアに諭されたから。しかし、本意で無い演奏をするセブと夢を追い続けるミアの間に溝が深まって行きます。

実はこの映画、役者を目指すミアよりも、JAZZを愛するセブを描くの比重が不自然に高い。セブのJAZZの付き合わされるミアの描写も多い。これ、観客も「セブ=監督自身」につき合わされているんですよね。

彼はミアを連れてJAZZクラブを巡りますが、同時に観客もニューオリンズ・ジャズやビーバップにつき合わされる。これこそが、監督の狙いなのでは・・・私はそう妄想してしいます。

■ ベタなオリジナル・ナンバー ■

ミュージカル映画だけにサントラは重要ですが、実はJazzの曲はどれも「超ベタな駄曲」。これjazzファンならお気づきでしょうが、あえてそういう作曲を依頼したのだと思います。

キースの弾くピアノの曲もどこかで聞いた事のある様なメローで、キャッチーで耳にこびり付く。でも、これで良いのです。映画だから。ニーノ・ロータの曲だって実は超ーーーキャッチー。劇場を出て、思わず鼻歌で歌える様な曲が映画には求められる。

観客の多くはJAZZを知らないので、複雑なコード進行や、変拍子を「良い曲」とは解釈しません。あえて観客がイメージする「分かり易いJAZZ」を提供する事で、音楽が物語を邪魔しない様に配慮されています。この作品の中のJAZZは舞台の背景の「手書きの書割り」の様に分かり易くデフォルメされているのです。

JAZZなんて理解できないであろう観客への、監督からの「サービス」と「皮肉」が、このサントラには込められているのだと勝手に妄想しています。

■ オーソドックスを突きつめた先にあるもの ■

この作品の魅力でも有り、同時に欠点でもあるのは、「全部ぶっ込みました感」です。家系ラーメン屋で「全部載せ」を頼んじゃった感じに似ています。

ドローンを使うなど現代的な映像表現の一方で、書割りの背景を使ったミュージカルシーンや、80年代のMTVを彷彿とさせる演出、ワイヤーアクション感が半端ないロマンティックなシーンなど、ミュージカル映画の名シーンを全てぶっ込みました・・・闇鍋的な作品でもあります。

ただ、それぞれの表現が「オーソドックス」と言うか、「その時代の素材をそのまま出した」感じがして、現代的な解釈や表現をむしろ避けている感じがします。

最初にも書きましたが、ストーリーも敢えてステロタイプとする事で、「ハリウッド映画とは何か」という本質に立ち返ろうしている様に私には思えてなりません。

「映画の面白さはCGの緻密さや火薬の量で決まるんじゃない。親友がラスボスだった・・・みたいな突飛な設定でも無い。・・・どれだけ観客が夢を見て、共感出来るかなんだ!!」

そう思ってこの作品を見ると、移動経路を地図の上の飛行機の模型で示したり、フェードイン、フェードアウトを黒いアイリスで演出したりと、昔のハリウッドが生み出して来た映像表現へのオマージュに溢れています。

ただ、これだけ「コテコテ」だと、「お腹一杯、胸いっぱい」になりそうですが、そこは絶妙なストーリーでバランスを取っています。ハッピーエンドを確信する観客が最後に観るものは・・・。

「あーー面白かった」って劇場を出るのではなく、そこはかと無い切なさを胸に観客達は家路に向かいます。



<追記>

ブログを10年程書いて来て、私も大人になりました。
10年前だったら、きっとこの人のこの評論と同じ様な事を書いたと思う。

菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね

しかし、アニメを見る様になって「ベタなものの良さ」「ステロタイプの力」みたいなものを実感した今となては、大嫌いなアカデミー賞作品だって、評価すべき所は評価すべきと「一皮も二皮も」剥けました。


まあ、サントラに関しては、「ありがたがる程のモノじゃない」と言っておきます。映像が無ければ「ベタなコピー」に過ぎないですから・・・。