人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

『星野、目をつぶって。』・・・つまらない事で悩む青春

2022-03-23 03:07:00 | マンガ
 


「星野、目をつぶって。」より


■ マンガは誰に向けて書かれるのか ■

「マンガやアニメなんて下らない」と言う大人は、マンガやアニメが誰に向けて発信されているかを考えていない場合が多い。例えば、本日紹介する『星野、目をつぶって。』は、少年マガジンに2016年から2018年まで連載されたラブコメ作品ですが、対象は明らかに同年代の中高生。

思春期特有の「悩み」を誰もが抱えながら、それでも学校という集団生活の中で、どうにか自分と他人のバランスを取りながら成長していく高校生達の物語は、同時代の若者の共感を呼ぶ作品ですが、これを50代、60代の大人が読んでも「ああ、そんな時代もあったな・・・」程度の感想しか得られないでしょう。

だからと言ってマンガが下らないものだとは私は決して思わない。いえ、むしろ、少年少女の心を失ってしまった事に悲しみすら覚える。(私はこの作品に胸キュンでしたが・・・)

「絵本」を下らないと言う大人は居ないのに、マンガやラノベ、アニメは何故「下らない」という評価をされるのか・・・・。一般的にはマンガやラノベは小説の下位互換、アニメは実写映画の下位互換と考えられているからだと思います。

しかし、現代の子供達はラノベすら面倒だと言って読みませんから、この様な子供達に何かを伝える手段としては小説は全く機能しません。「読んでもらえない」のだから・・・。だからマンガやアニメが有効ですが、何を伝えるのかという姿勢は問われます。

読者の欲する「異世界に行ってオレ最強」などというテーマにはあまり価値を認めませんが、『星野、目をつぶって。』が提示する「本当の自分とは何?」というテーマは思春期の子供達には永遠のテーマであり、マンガだからこそ、彼らが読み、そして何かを伝えられる。

誰かに読んで欲しい、誰かに何かを伝えたいならば、その時代やターゲットにあった手法を用いなければ無意味です。


■ 青春特有の自己否定と、その裏返しの「人の役に立ちたい」という強迫観念 ■

『星野、目をつぶって。』は、冴えない素顔をメイクで隠して「イケてる」グループで高校生活を満喫する星野 海咲(ほしの みさき)と、友達も居ない、そして他人をツマラナイ奴らと軽蔑している美術部員の小早川 瑠依(こばやかわ るい)のラブコメです。

星野はイジメられた経験から、メークをして遠くの中学に通い、そこで新な自分と友達作りに成功します。一方、小学校の頃から孤立しがちな小早川は、友人へのクラスメイトのイジメを機に不登校のまま小学校を卒業し、中学、高校とボッチ街道をまっしぐら。

星野のメイクは星野の幼馴染の美術教師が施したものですが、その役割を美術教師は小早川に押し付ける。二人にとって有益だと考えたからです。充実した高校生活を送りながらもメイクの下に本当の自分を隠した星野と、充実した高校生活に密かに憧れながらも、それが出来ない自分を隠す事も無い小早川、一見相反しているかに見える彼らですが、共通しているのは「誰の役に立ちたい」という「自己否定が生み出す強迫観念」。

星野は困った人を見ると後先考えずに行動するし、それを止めようとする小早川も結局は自分を犠牲にしても相手を助けてしまう。そんな二人の周囲には、いつしか仲間が出来、小早川に思いを寄せる女子も現れます。

ここまでは一般的なラブコメと大差ありませんが、高校2年生の彼らは、助けた方も、助けられた方も、問題もコンプレックスも決して解決した訳では無い。内に抱えた問題を共有するだけで、彼らは「変わる事は出来ない」。

実は人間なんてものは、どんなに器用に自分を取り繕っても、本質は思春期の頃も中年になってもあまあり変わらない。変わらない事にある種の諦めを抱く時、人は「大人になる」のかも知れません。しかし、高校2年の彼らにとっては「変わりたいのに変われない」のは大いに悩みであり、日々変わろうと葛藤する。そして少しずつ、自分の本当の姿を見出して行く。

主人公達が助けた友人達が、もがきながらも何者かになろうとする一方で、星野は変化を恐れて前に進めない。素顔の自分と、メイクをした自分を統合する事が出来ずに、自分の本質をどんどん見失って行く。一方、小早川は自分の殻を破って目覚ましい成長を遂げる一方で、それが本当の自分なのかに悩みを抱く様になる。そんな二人の関係は、いつしか相互依存になり・・・。

掲載誌の『少年マガジン』には『聲の形』という聾唖の少女を巡る虐めと許しの素晴らしい作品が有りますが、『星野、目をつぶって。』は、もう少し一般的な高校生の現代的な悩みを軸に、序盤はコメディータッチで物語が進行します。しかし、中盤以降は、かなり濃密な群像劇へと変化して行きます。葛藤と軋轢の中で彼らは問題解決の尻尾を掴んで行く。

「子供向け」の作品と決して侮ってはいけない。私達が大人になる時に「誤魔化した」何かを、もう一度目の前に突き付けられる・・そんな作品だと私は思っています。


■『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』と『星野、目をつぶって。』の違い ■

物語の構造は、超ネガティブな主人公が無理やり「奉仕部」に加入させられて、生徒のお悩み解決に奔走するラノベ作品の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』に良く似ています・・・と言うかこの作品が現代の若者達に与えた影響は、夏目漱石が明治の若者に与えた影響に等しいものがある。

ただ『星野、目をつぶって。』は、『やはり俺の・・・』のその先、さらには『聲の形』のその先の何かを模索している。作者は連載の最後を「或る種のバットエンド」で終わらせているが(単行本のエピローグでフォローはしているが・・・)、人は簡単には変れない事を強調したかった様だ。

自分との付き合い方、他人との付き合い方を調整する事を覚えながら、人は大人になって行く・・・。ある種の誤魔化しではあるが、30歳にもなれば、本当の自分がどうだとか考える事も無くなる。

■ 『夜のピクニック』へのオマージュ ■


『星野、目をつぶって。』のクライマクスは、2昼夜を掛けて80kmを歩き通す学校イベントだが、このシーンは恩田陸の『夜のピクニック』を模している。歩き通して意識すらも半ば混濁する中で、共闘意識が芽生え、他人との境界が曖昧になる・・・ナイトハイクイベントの心理効果を『夜のピクニック』は上手に描います。

一方、『星野、目をつぶって。』は、長く伸びた隊列の前後の移動のダイナミズムを利用して物語を進めて行く。マンガには動きが必要なので、「同じメンバーと歩く」というシーンの連続ではマンガ的には単調になるから。隊列の前後を移動する事で、今まで関わった友人達とに関係に決着を付けて行くという発想は面白いのだけれど、少々慌ただしく散漫な印象を持つ。

『夜のピクニック』をマンガ的に表現したいという作者の意気込みは否定しないが、むしろ主人公の二人を固定して、友人達がすれ違って行く様な演出の方が良かったかも知れません。


■ 50才、60才が読めるか? ■

私はデザイナーとう仕事柄、若者の感性に貪欲である事を自分に義務付けていますが、一般的な同年代の男性、或いは女性がこの作品に共感出来るか非常に興味が有ります。

「オレはまだオヤジ(或いはオバサン)じゃないぜ」という青春まっただ中の方にはお勧めの漫画です。



「初めての彼女がハイスペック過ぎてついていけない」が面白すぎる件について

2022-03-04 11:48:00 | マンガ
自転車動画を見ていたら、最近Youtubeばかり見るようになってしまった。

昔はYoutuberって騒がしくて、露悪趣味な人達ばかりでしたが、最近はセンスのある内容の番組も増えてきました。地上波は既にオワコンですね。これだけ趣味趣向が細分化した世界で「マス」の情報は価値が薄らいでゆく。

同様にマンガ雑誌やライトノベルも過渡期で、投稿系のサイトからヒット作が生まれる時代。稚拙な内容も多いのですが、編集者が取りこぼした才能が沢山有ることには驚かされます。

最近、面白かったのはYoutubeにアップされている、簡単なマンガ絵に文字と音声のセリフが付いたジャンル。ネット広告に良くある「このサプリ飲むとどバードっと○ン○が出てこんなのスリムに」って音声付きのマンガ広告あるじゃないですか。アレをスマートにセンス良くやった感じ。あるいは「絵付きのラジオドラマ」といった方が伝わり易いかも知れません。

たまたまYoutubeでおススメに出てきた「初めての彼女がハイスペック過ぎてついていけない」と言う作品に「やられたー」って思わず声を出してしまった。

内容は文学オタクの高三男子が、下級生の旧華族の令嬢と恋に落ちると言う内容。

おいおい、いつの時代のマンガだよって内容ですが、文章(セリフ)は明治大正期の日本文学調。ところがシチェーションはとても現代的。それでいてロマンスの王道の骨格をしっかりと受け継いでもいる。

西尾維新や森尾登美彦がこの路線の大家だけれど、それをものすごく分かりやすくしながらも、文学的な「あるある感」が散りばめられていて、「名人芸」の領域に入っている。

全部見ると1時間半の内容ですが、リソースを極限まで絞って、これだけ面白い物が作れるという事に驚きを禁じ得ない。

影響を受けて、昨日のブログが「言い切り」の文章のなってしまう程には「ツボ」でした。最近、アニメに食傷気味だったので、少し楽しめるかも。

往年の日本文学に親しんだ事のある人には絶対にオススメ。

今期アニメのオススメと最近ハマった漫画

2021-08-09 03:03:00 | マンガ
 

『かげきしょうじょ!!』より

今期アニメは殆ど観るものが無い。そんな中、唯一面白いのが『かげきしょうじょ!!』。白泉社だから『花とゆめ』に連載された作品と思いきや、元々は集英社の『ジャンプ改』に連載されていた作品というから驚きです。現在は白泉社の『MELODY』にて連先が継続されています。

宝塚と思しき歌劇団の要請学校に集う少女達の物語ですが、完全に王道少女漫画。但し、歌劇団の女子高が舞台ですから、教員以外は男性は日常からは排除されているので、「ゆり作品」という目で眺めれば『じゃんぷ改』での連載も分からなくもありません。

幼い時は歌舞伎役者になる事を夢見た、身長178cmの長身少女の「渡辺 さらさ」は、「オスカル様」になる事を目指して「紅華歌劇音楽学校」(宝塚以外の何物でも有りませんが)に入学します。同期にはアイドルグループを退団した人や、祖母も母も紅華の劇団員だった人など経歴も年齢も様々。上級生のきつい指導や、教師の導きによって彼女達は将来のスターとして育て行く。

往年の少女漫画の王道ストーリーですが、人物の造形や細かなエピソードは現代的です。連載開始が2012年ですから「最新」では在りませんが、女性が観ても、男性が観てもハマル!!



『六道の悪女たち』(ろくどうのおんなたち)

キャンプの夜は長い。テントに入ってやる事が無い・・・かと思いきや、BOOKWALKERで無料マンガを読み始めると止まらない。先日もオリンピックのロードレースを観る為に道志村のキャンプ場に泊まった折に、無料で10巻まで読めるので、ついつい読み始めて「激ハマリ」してしまいました。

六道君はヤンキー高校に通う気の弱いオタク。中学からの親友の「大佐」と「課長」と3人でヤンキーのクラスメートから虐げられる日々。そんな六道の元にある日、死んだ祖父から荷物が届く。家に代々伝わる陰陽師の巻物、それが光った時に六道の額に晴明桔梗の五芒星の紋様が浮かびます。

これで力を手に入れたと思い込んだ六道君はヤンキーに挑みますが瞬殺される。しかし、何故かヤンキーの連れの女が六道君を庇ってくれる。それからも、何故かヤンキー女(悪女)だけに好かれる彼は、とうとう最強・最凶のスケバンに惚れられてしまう。暴力だけの為に生きている「歩く破壊衝動」の様な悪女が、六道君の前では従順な子犬の様になってしまう。

それからも、一癖も二癖のある悪女達に好意を寄せられる六道君ですが、彼は陰陽道の力で好意を寄せられる事に甘んじる事は無い。彼は彼女達を更生させる為に、自らの信念を貫き、それが周囲のヤンキー達の心を掴む。

イヤー、ヤンキー漫画にこんなにドハマりするとは思いませんでした。基本的にはシチュエーションコメディーですが、「ヤンキーならではの勘違い」が笑いのツボをグイグイ押します。そして、一人の少年が成長するという王道少年漫画としての魅力に溢れています。『僕のヒーローアカデミア』にも通じる作品ですが、ヒーローよりもビランに近いヤンキー達の友情と情熱と愛の物語は、正統派ジャンプマンガよりも圧倒的に魅力的です。

ちなみに、「紙の本」で手元に置いておきたくて、ヤフオクで全巻ゲットしました。現在はカミサンが読んでます。「あなた、これ息子に読ませなくては!!」ってカミサンもハマりました。24巻から先になかなか進まないので「面白くなくなっちゃった?」って聞いたら、「終わっちゃうと寂しいから取ってある」って・・・。



『御手洗家炎上する』

書店に並んでいる時から気になる作品。これも無料で2巻まで読めました。

医者の御手洗家が火事で全焼します。火元は台所。原因は妻の火の消し忘れ。彼女は火事の責任を負って娘二人を連れて離婚して家を出ます。

そんな彼女の後釜に収まったのは、娘のクラスメイトの母親。人付き合いの苦手な医者の妻が、唯一親密に付き合っていたシングルマザーです。最初はほつれたカーデガンを着て、疲れた面持ちの友人は、だんだんと医者の妻に装いが似て来ます。そして、後妻として息子二人を連れて御手洗家に収まってしまう。

時は経ち、御手洗家を追われた長女も25歳になります。彼女は家政婦として、かつての実家である御手洗家に勤め始める・・・その目的は・・・母の座を奪った女から、かつて母のものであった品々を取り戻す事。そして、火事の真相を突き止める事。

ミステリーとしてゾクゾクする内容です。これも・・紙の本で揃るでしょう。ドラマ化が決定した田村由美の『ミステリーという勿れ』は、実はミステリーとしては相当に無理が在りますが、『御手洗家炎上する』はシンプルながらも「謎が謎を呼ぶ」ミステリーの王道。そして人の性(サガ)が恐ろしい。



緊急事態宣言で暇なお盆休みをお過ごしの皆さま、暇つぶしに如何でしょうか。

ステイホームの正月に読みたいマンガ

2020-12-31 08:16:00 | マンガ
 

いつもなら「今年のアニメベスト」を発表する年末ですが、コロナの影響でベストを付け難いというか、「コレダぁーーーー!!」ってアニメが思い浮かびません。

そこで、今回は趣向を変えて「正月休みに読みたいマンガ」のご紹介。最近は書棚がイッパイになてしまってマンガも電子書籍で買う事も多く、そんな中で「紙の本」に拘って買った作品の紹介になります。


 『恋と嘘』 11巻 ムサヲ作



少子化対策の為に、厚労省のコンピューターが遺伝子的にベストマッチの相手を指定する「ゆかり法」が施行された時代。16歳の高1男子の根島 由佳吏(ねじま ゆかり)には小学校から思いを寄せる女の子が居ました。ネジは「ゆかり法」でペアーを決められてしまう前に、どうしてもその思いを彼女に告げるべく、公園に呼び出します。約束の時間に遅れて現れた高崎 美咲(たかさき みさき)は、自分もネジの事がずっと好きだったと告げます。両想いだった事に感動する二人はキスを交わしてお互いの思いを確かめますが、直後に美咲は自分の事は忘れてくれと言う。混乱するネジの元に、政府から「理想の相手」の通知が届きます。携帯の画面に表示された相手の名は・・美咲だった。ところが、その画面は直ぐに消えて、別の女性の名前が表示されます。

美咲の拒絶に混乱するネジですが、法には逆らえず仕方なく政府が決めた相手の真田 莉々奈(さなだ りりな)とお見合いをする事に。浮かない表情のネジに莉々奈は激怒します。「あなた失礼だわ、何故私を見ようともしないの」って。そんな出会いをしたネジと莉々奈ですが、彼女はネジと美咲の話に感動してしまいます。そして二人を結び付けようと奔走する。ところが、莉々奈はいつしかネジの事が・・・。

2017年にテレビアニメが放送され、実写映画化もされた『恋と嘘』。マンガ配信サイトの「マンガボックス」で発表された作品ですが、55歳のオヤジにして胸がキュンキュンする様なピュアーなラブストーリー。アニメ放映後にその後が気になって続きをマンガで読んでいます。

もう莉々奈が可愛くて、トニカクカワイイ漫画ですが、11話にして美咲のヒロイン力が爆発します。タイトルの「嘘」とは何か・・・初めて明かされる真実に驚天動地、心慌意乱。あんなに「美咲の野郎はクソビッチだ、ネジに思わせ振りな態度をしやがって」と思っていたのに、もう莉々奈と美咲のどちらを応援したらイイのかオジサンは分からなくなってしまいました。

アニメを観て満足していた君!!原作を買いなさい!!

「消しゴム」が恋愛の「最強アイテム」だる事を証明する作品としても重要。



『人馬』墨佳遼(スミヨシリョウ)作



上半身が人、下半身が馬。ギリシャ神話ではケンタウロスに相当する生き物?が、日本には古来住んでいた。人は彼らを「人馬」と呼んだ。

人馬は山中に住んで人と多く接触する事は無かったが、戦乱の世に人馬の戦闘力を戦に用いる様になり、人馬は狩られる立場に。人を避け、深山でひっそりと暮らす人馬ですが、人馬狩の手はそこにも及ぶ様になります。屈強な体躯で人馬狩を退けて来た「松風」は、甥を助ける為にとうとう人の手に落ちます。

人に飼いならされた人馬は、多くの場合両腕を切り落とされます。鍵を開けて逃げる事を防ぐ為です。そんな人馬の一匹である「小雲雀」は飼い主のお気に入り。美しく賢い。彼は他の人馬達の反感を買っても人間に媚びています。しかし小雲雀は松風に逃亡を持ち掛けます。彼は人に心を許してはいなかたのです。屈強の松風を飼いならす事に拘った飼い主は、彼の腕を残していたのです。

こうして松風と小雲雀は、人の手の及ばない高山に住む松風の家族の元を目指します。しかし追手は直ぐに迫ります・・・。

圧倒的画力に目を奪われて大人買いした『人馬』。『シュトーヘル』の様な硬派の戦闘が続く作品と思いきや、人馬の愛で満ち溢れた「優しい」作品でした。愛を育み、子を産み、子を育て、家族を守り、そして代を重ねる。新人ながら墨佳遼は注目の作家です。

「大人のマンガ読書」に最適の一冊としておススメしあます。


『子供はわかってあげない』 田島列島



作品は少ないながら熱烈なファンが多い「田島列島」。女性作家らしい柔らかなタッチが魅力ですが、私は六田登が描く女性キャラを連想してしまいます。ちょっと下ぶくれな所が似ているのかな・・・。

『子供はわかってあげない』は2014年の作品。失踪した父を探す女子高生と、何故か彼女と縁がある書道部男子の話ですが・・・どう表現した良いのか全く分からない不思議な作品。いわゆるボーイミーツガールとも違います。何となく友達になって、何となく関係が深まって、なんとなく好きになって行く・・・。『恋と嘘』の様に高校生の恋愛にキュンキュンするでも無く、父探しの謎が物語に進行に大して重要な訳でも無く・・・ただ、少年は少女に出会って、ちょっとだけ大人になるという話の様な気もするし、そうでない気もするし。要は、フワフワとした展開の中で、なんだか最後はとっても良い作品に出合ったという確信が残る。言語化不能・・・というのが最も適した評論。実写映画化もされていますが・・・これ、無理でしょう。アニメ化も無理だと思う・・・マンガでしか成り立たない世界。


『水は海に向かって流れる』 田島列島 作



高校進学で下宿生活をする事になった男子高校生と、年上のOLの恋の物語。実は彼の父の不倫の相手は、彼女の母親だった。これも一見ショッキングな設定ですが、内容的には下宿の不思議な住人達との交流を楽しむ、捉えどころの無い作品。

でも、これ、現代の30前後のナイーブ女性の理想の恋愛なのでは・・・なんて思ってしまいます。

田島列島の作品に関しては、言葉で説明は不可能なので、読むしか無いのですが、意外にこれは実写に向いた作品です。TVドラマにしたら、若い女性は胸キュンなのでは・・。


『詩川百景』 吉田秋生 作



『海街diary』で幅広いファン層を獲得した吉田秋生の最新作。実は『海街』のスピンオフ作品。海街の最終巻の巻末に、『詩川百景』のイントロダクションが掲載されていました。(商売が上手い)『海街diary』自体が前作の『ラバーズキッス』のスピンオフだったので、吉田秋生の常とう手段とも言えますが・・・。

『海街』の1巻でスズちゃんと異母姉妹達が初めて出会う山形の温泉街が舞台です。姉妹達の父は離婚した後に、温泉街で子持ちの女性と結婚していました。男性に依存しなければ生きていけないその女性には前夫との間に二人の子供が居ました。スズの父が死んで、彼女はすぐに別の男性と結婚し子供を産みます。しかし、生活が出来ないので、長男と生まれたばかりの赤ん坊を親戚に預け、次男を連れて街を出て行きます。

物語は、残された兄妹と、兄が働く温泉旅館の孫娘を中心に展開しますが、海街同様に魅力的なキャラクターが次々と登場する群像劇。1巻が発刊されるのみですが、登場人物の数は海街並みなので、誰が誰だか・・・という感想も聞かれますが、もう何巻もこの温泉街の話を読み続けているかの如く、登場人物が作品にしっかり居場所を作っているのはサスガとした言いようのない手際。

実は温泉宿の孫娘、街一番の美人だけど、どこか醒めた所がある。吉田の旧作の『吉祥天女』や『ラバーズキッス』時代を思わせるキャラクターです。これからの展開が気になって仕方が無い。

舞台の河鹿沢温泉は山形県に在るとされていますが、架空の温泉街。GoToで家内と聖地巡礼に行こうと思っていたのですが、ちょっと残念。山形県は学生時代に出羽三山に行ったきりですが、是非再訪したいと思っていた地です。山形に似た雰囲気の温泉街があれば、是非行きたいと思っております。どなたか、おススメがあればお知らせ下さい。



コロナに明け暮れた2020年。私的には「陰謀論」に確信を持った年でした。

ブログの内容もコロナ関連が多くなってしまいましたが、そんな年の最後だからこそ、このブログらしく、オタク記事で絞め括りたいと思います。


本年も一年間、私の妄想にお付き合い頂きありがとうございます。来年は、コロナが終わる事を願っています。(終わると本当の危機が来るので、願って良いのか分かりませんが)


それでは、皆さま、良い新年をお迎えください。

「腐女子」考・・・オタクにおける性差

2020-11-06 06:37:00 | マンガ
 

■ 「腐女子」って何? ■

『鬼滅の刃』の記事で「腐女子」という言葉を使いましたが、「腐女子って何?」と思われる読者も多いかと。

「腐女子」とは、マンガやアニメの登場する男性キャラクター同士を勝手にカップリングして、脳内でイチャイチャさせて、勝手に悶絶する生き物です。性別は圧倒的に女性が多い。

具体例を上げれば、ジャンプで連載されていた『ナルト』で、主人公のナルトと、ライバルのサスケを同性愛のカップルに見立てて、二人がイチャコラする妄想で頭がイッパイになってしまったり、さらには同人誌などの二次創作で二人のイチャコラシーンを描いてしまう・・・。

腐女子が何時の頃から発生したのか定かでは有りませんが、私が小学生の頃の同級生の女子は、既に登場人物で様々なエッチな妄想を思い切り膨らめていましたから、40年以上前から先祖は生息していたと考えられます。(そんな女子に少女漫画を借りて感想を言わされていた私って何なんだ・・・)

一説には吉田秋生の『バナナフィッシュ』が観測出来る数の腐女子を生み出した最初の作品とも言われています。『バナナフィッス』のコアなファン、パナイですからね。ニューヨークまで聖地巡礼に行っちゃう。


■ 宗教としてのカップリング ■

今回、腐女子についてネットでブログなどを見ると、腐女子の「カップリング」に対する、並々ならぬ「拘り」を感じます。

「ナルトとサスケはテッパンだけど、ナルトとチョージは地雷」とか・・・。

「カップリング」とは作品の登場人物(男性)の誰と誰をくっ付けるかという選択。実はこのカップリングには「宗派」が存在している様で、異なるカップリングを信仰する「宗派間の対立」は極めて激烈です。もう絶対に相手を認めようとはしない。

二次創作本も宗派毎にきちんと棲み分けがされている様です。

■ 二次創作を原作の一部と認識する感性 ■

「腐女子」の恐ろしいのは二次創作を原作の一部だと認識している点。原作に少しでも男同士の絡み(接触)を見付けると、そこに至るイロイロや、その後のイロイロを勝手に原作に付けたしてしまいます。

「原作のコマに描かれていない所を、自分達で補完する」というのが「腐女子」の基本スタンスです。だから、『ナルト』の原作のラストで、ナルトとヒナタ(大好き)が結婚して、サスケとサクラ(コイツ嫌い)が結婚すると、腐女子はパニックに陥ります。

「原作が地雷」とか「公式が地雷」と腐女子は表現しますが、原作が自分達を裏切ってゲロゲロのカップリングをしたと感じるのです。そして作品への「歪んだ愛情」も醒めてしまう・・・。

「脳内の妄想と、現実との境界が曖昧」というのが腐女子の腐女子たる所以。

これ、腐女子に限った事では有りません。我が娘の韓流スターへの偏愛を見るにつけ・・・脳内がプリンで満たされているとしか思えません。会った事も無い「押し」の子と、妄想の中で日々生活している様にしか見えません・・・・。現実に妄想を介入させる能力を一部の女性は持っているのかも知れません。


■ 男のオタクと腐女子の決定的な違い ■

男のオタクも相当に気持ち悪い存在です。二次創作など、もうキャラクターへの冒涜としか言いようが無い。(彼らにとっては愛情表現なのですが)ただ、男のオタクに関しては性的にはある程度の理解が可能です。主体はあくまでも自分にあって、自分がキャラクターをイチャコラする妄想に浸ります。

「カワイイ」→「好き」→「性的に支配したい」

ところが「腐女子」は脳内変換がオタク男子とは異なる。自分は「観察者」で、イチャコラの主体は男性キャラ同士。まあ、男のオタクでも「ユリ」が好きな方は同じ傾向かも知れませんが・・・。

「好き」→「男同士を絡ませる」

この違いな何か・・・。男のオタクにとっては「キャラクター」こそが神なのでしょう。だから「神の寵愛を自分が受ける事を夢見る」。「〇〇ちゃん、マジで神」って表現をする。

一方、腐女子の神は「カップリング」に宿る。「これ神カップリングじゃね」なんて表現になる。当然、神カップリングに自分が割り込む様な無粋な真似はしません。


■ 恋愛における能動性と受動性の結果 ■

男のオタクの妄想の主人公はあくまでも自分です。イチャコラの主体は自分とキャラクター。これは男性の性行為が「能動的」な事を反映しているのでしょう。

一方、女性の性行為は一般的には受動的です。だから腐女子の多くは、好きな男性キャラを脳内で攻略しない。男性キャラが自分を攻略する妄想は可能ですが、何故かこの方向に走らない・・・。これ、女性の妄想が男性に比べて「現実的」だからでは無いかと私は妄想しています。「自分の様な女にイケメンキャラが言い寄って来る事なんてあり得ない」という現実がきちんと見えている。これは腐女子の方々の自己評価が総じて低い事とも関連が有りそうです。

実際に男性の場合は、金さえあれば美女と一夜を共にする事も、チョー美人の奥さんを獲得する事も夢では有りません。一方、女性の場合は「外見」の恋愛に占める割合は無視出来ません。美人は恋愛カーストの上位に君臨する。

「どうせ自分は」という達観を持つ女子は、マンガやアニメの世界に自己投影をする事無く、「崇高なカップリングを崇める」事で、その性的衝動を代償しているのかも知れません。むしろこの歪みこそが彼女達には「愉悦」なのでしょう。


■ 一次創作としてのBLと、二次創作としてのBL ■

「腐女子」にも二つのタイプが有る様で、マンガやアニメの登場人物を勝手にカップリングしてキャッキャ・ウフフする腐女子と、BL小説やBLマンガをガッツリ愛読する腐女子が存在する様です。前者はソフトな腐女子、後者はハードな腐女子とでも言えなくも無い。

実は、BLの一次創作をしているマンガ家には有能な方が多く「オノナツメ」や「えすとえむ」など今を時めく漫画家もBL出身だったりします。「えすとえむ」、『うどんの女』で評価を確立しますが『愚か者は赤を嫌う』などのBL作品も、あるいは『ゴンドリーナ』といったトランスセクシャルの作品も素晴らしいものが有ります。

この様な1次創作の作家に比べ、二次創作の作家は世に出る事は少ない。二次創作という行為は原作に対しる宗教的な奉仕であって、創作のポテンシャルの目的が「創造」では有りません。「創造」は神の領域であって不可侵。


本日は「腐女子」をテーマに、オタクにおける男女の性差について雑に考察してみました。