WIND AND SOUND

日々雑感 季節の風と音… by TAKAMI

クリスチャンのお祈り

2017-02-19 | キリスト教のこと



「晩鐘」ミレー Wikipediaより




私はクリスチャンですが、それにしては毎日のお祈りが短かすぎます。
日々慌しく、出勤途中の自転車が、いつも神さまとの会話タイムです。

お祈りとは、神さまとの会話です。
たくさん神さまとの会話の時間をつくると、いくらでも神さまは、すぐ傍で聞いていてくれます。

なので、ぜひ、神さまに毎日たくさんお祈りをしましょう。
神さまは、ほんと~~~に、私達が神さまに向かって語ることを喜ばれます。

…というのは、元をたどれば、実は私の幼児体験なのです。

私は、子どものころも(特に幼稚園時代)、よく「お祈り」してました。
あまりよく覚えてないけど、
「…しませんように」っていうのが多かったなあ。
特に私は、当時胃腸が弱かったのか、よく吐いていたので、吐きそうになったとき
「吐きませんように」ってのが多かった。
でも、それが叶うか叶わないかは五分五分だったかなあ、、、
それでも、子どもの頃、私は神さまにお願いを聞いてもらってる感すごくありました。
神さまにお祈りしても、吐かないと治らないときは吐くんだ…ということもわかっていました。
こう書くとこじつけのようだけど、神さまは、祈り手には、その人にとって最善の結果を与えてくれるのだと、私は実は幼稚園の頃から確信していて、私にとっては、それは「事実」でした。


「神さまにお祈りをする」ということは、祖母たちに教わりました。
父方、母方の祖母とも、仏教徒で、毎日の勤行で仏壇にお経をあげる人でした。

ある時、雛人形を飾っていた時、人形にも心があるんよと、祖母が言いました。
「じゃあ、私のつくったこのお雛さまにも心がある?」と聞いたところ、
「仏さんのところに持っていって、心が入りますようにと、お祈りしたらええ」
と言われました。
私は、幼稚園(小学校だったかも)で作ってきた雛人形(卵の殻に顔を書いて、毛糸の髪の毛をつけて、牛乳ビンに乗せて服を着せたもの)に心を入れたくて、
素直に仏壇に持っていって、「心が入りますように」と、いつも私がお祈りしている神さまにお祈りをしました。
これで、このお人形たちにも心が入ったと、素直に信じていました。


でも、だんだんお祈りをしなくなってきました。
自分勝手なことを祈っても、こんな私の祈りを神さまがきいてくれるわけない。
ちゃんと努力もせず、合格祈るのは気が咎める、
ワルイこといっぱいしてきたのに、病気平癒もムシがよすぎる、、、

宗教に本格的に興味を持った中学生以降は、もう「神頼み」的なお祈りをするのはやめました。
家内安全、商売繁盛、合格祈願…それらを5円や50円のお賽銭でその場限りでお願いするのは、神さまに失礼…なような気がしてきたので、自分自身のことは全くお祈りしなくなりました。
初詣に神社にいったときや、旅行などで訪れた寺社仏閣で手を合わせるときは、いつも世界の平安を祈りました。
「これなら、神のこころに叶っているだろう」


私は、子どもの頃から、宇宙は「神」が創ったと信じていたのですが、
その神さまが、初詣やお寺のお参りや、そのた全世界のいろんなところでの宗教行事で数限りない人々それぞれの祈りをちゃんと聞いて、応えてくれるのか、、、、
そんなワケないだろ。
じゃあ、そこは、それぞれに祀られている神さまの担当なのか!?!?
神さまと仏さまの違いってなんなんだ?
「神」とは「摂理」であって、「法則」であって、まああまねく「愛」ってのもあるかも、、
だから、その法則に乗っ取って生きていれば自然と願いは叶うものだ。
それが、クリスチャンになるまでの、私の「神」についての考え方でした。





私が教会に通うようにって、聖書の「みことば」で、まず心にど~~~ん!と響いたのは、これです。

神は「あなたがたの髪の毛まで一本残らず数えられている」(マタイ福音書10章30節)



マジですか!?
私の知らない自分の髪の毛の数を知っている神さま。
私より私のことを知っているのか( ̄□ ̄;)!!
これだけでもうじゅうぶんなのでした。
私をこの世界に創り出して、あとは「摂理」に基づいて生きろよ…ってことじゃないのか。


じゃあ、やっぱり神さまにお祈りをしよう。
…ってことで、私は、また再び、幼稚園時代のように、ぐだぐだとした自分勝手なお祈りをすることにしました。
これ「お祈り」っていうのか??
お祈りは神さまにお話しする…な感じ。しかしそれを、神さまは必ずすぐ傍で聞いてくれるのです。
そして喜んでくれる。それだけでいいよ私は。

幼稚園の頃の感覚が甦ります。


イエス・キリストの言葉「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
(ルカ福音書18章17節)



「子どものように」とは聖書では、純真、無垢というよりも、自力では生きていけない、弱い者という意味合いで語られています。





さて。
キリスト教では、「とりなしの祈り」というのがあります。
自分の周囲で、心や体が弱っている人、病床にある人、困っている人、受験生、、、
これらの人たちを、神さま、どうぞ心にとめて、支えてください…というもの。
私は、教会に通い始めた最初の頃、牧師先生が礼拝の中で、この「とりなしの祈り」をされている最中に涙が止まらなくなりました。
私にとっては全くお会いしたこともない、知らない人たちでしたが、その方たちのことを、牧師先生が、ひとりひとり名前を挙げて、イエス・キリストの名前によって神さまにお祈りするのです。

教会に集う方たちも、それぞれ毎日、個人で「とりなしの祈り」をされてます。

恥ずかしながら私は、とりなしのお祈りをしようにも、咄嗟にその方たちを思い出せないことがとても多く、
「その他全部まとめてお願いします」…と、こんな大雑把に神さまにお祈りするってどぉよ、、、(-_-;)
ですので、今後、必ず手帳に書くことにしました。

Sさんの体調不良が3日以内に治りますように。
Yさんのお母さまの腰の痛みが早く治りますように。
Mさんの受験が良い結果でありますように…などなど。

手帳には、その他にも、今日買わなくてはいけないものを書く。これも併せて決心しました。

先日は、おにぎり用の海苔と、洗濯機の上の電球を買うところまでは覚えていたけど、あと一つが何だったのか、思い出せませんでした。(これを書いている今も思い出せない)
とにかく、こーゆうのはすべて手帳に書く!!
書くだけではなく、毎日手帳を開いて読む!!こうしないと書く意味はないのです。
(あたり前なんですけど、よほどの決意をしないとこれができない)

昨日は、棚を整理していたら、節分用の大豆が出てきた。
節分の10日ほど前に買ったものです。ずっと捜していたものです。
節分には「酢大豆」を作ろうと思っていたのですが、どこに置いたのかさっぱり思い出せず、放置状態でした。まあ、いつか出てくるだろうと諦めていました。
きっとこれからも、加齢とともにこんなことが多くなっていくのだろうなあ、、、


本日は「お祈りのオススメ」でした。
お祈りは、寺社仏閣にいったときだけじゃなく、いつでもどこでも、心に願いが生まれたときに、「わたしを創造した神さま」にお祈りすることオススメします。


私にとっては、「とりなしの祈り」をもっとちゃんとするためと、買い忘れ防止のための、手帳の活用をするという決意表明でもあります。

ではこれから、「酢大豆」を作るとしよう!!



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