SYOさんを天国におみおくりしました。
私、まだ全然正常な精神状態じゃなくて、行動も書いてることも言ってることも変だとおもいます。ご容赦を、、、
でもなんだかこうしていないと心の均衡が保てません認知症がイッキに進みそうです。
早く仕事に復帰しなくてはと思っています。
SYOさんの葬儀は、教会で、私と牧師先生と教会の役員の方だけで静かに行うつもりでした。
ですので、SYOさんのお知り合いのミュージシャンの方にはご案内をしませんでした。
でも、どうしてもSYOさんの最後のお顔を見たいという方がいらしてくださいました。
SYOさんのいちばんのミュージシャン友達の國井類さんにだけは、お知らせして演奏をお願いしました。
アメイジンググレイスを演奏して下さいました。あまりにも素晴らしかった。ほんとうにありがとうございました。
もっとずっと聴いていたかった。ご家族で参列してくださいました。
SYOさんの葬儀には、本来なら、もうほんとうに大勢のミュージシャンがお別れにどどどどっっっと集まってくださる…
彼はほんとうに香川の宝でした。
いえ「主にある天の器」です。
教会にとっても、奏楽者として、素晴らしい賜物を自然体で生かされて子供のように楽しく自由に演奏されていました。
私が30代の頃、バンド活動を始めて、高松でもLIVEがやりたいと思い、高松の方がたにもお聴きいただきたくて、音楽に関わっている弟、妹を巻き込みました。
そのLIVEに、SYOさんがたまたま見にきて下さいました。
そして、アンケートを書いてくださいました。
それから毎年、年賀状のやりとりが始まりました。
アンケートを書いて下さった方に、私は年賀状を送ることにしていたのですが、ずっと続いたのはSYOさんだけでした。
お互い顔もしらない同士だけど、年賀状はお互いミュージシャンなので、カオ画像ありです。
30代後半、私は独身、それから結婚して息子を産み、離婚しました。そして、高松に帰ることにしました。
SYOさんもその間にお母さまを亡くし、喪中葉書をいただいた年もありました。
年に一度でも、微かにお互いの状況はわかる程度。
私が高松に帰ることになった、音楽活動はずっと続けたいので、どうかお力添えお願いします…という思いをSYOさんにお手紙を書きました。
彼は、すぐに返事を、私の高松のマンション宛に下さいました。
私が引越しで高松に帰ってきたとき、デスクにSYOさんからの手紙が置いてありました。
それからSYOさんとの音楽のお付き合いが始まり、暫くして、匠を紹介する機会がありました。
SYOさんのプライベートなことは殆ど知らず、ちょっと不安だったけど、
SYOさんと匠は、ものすごく自然に瞬時に仲良くなりました。
匠を車に乗せて、3人で家に帰ってくるときでした。
「ショーマイケルさんよ。お母さんの音楽ともだちのピアニストよ。」と紹介しました。
匠は家に帰ったとたんに地球儀を持ち出してきて、「ショーマイケルさんのおうちはどこ?」と聞きました。
SYOさんは、小さな香川県を指差しましたが、匠は日本地図さえよくわかっていない小学2年生。
でもそれからSYOさんと匠はずっと仲良く、コオロギの捕まえかたを教わったり、あちこちの公園や温泉や、本当にいろんなところに3人で行きました。
手を繋いだり、腕を組んで、いつもまるで「親友」のようでした。
匠が成人して、家を出てからは、SYOさんは匠ロスで、一緒に二人で散歩したりいろんなところに出かけても、本当にいつも匠の話しをしました。
ここにも来た、あそこにも行った…二人で歩きながら思い出話だらけでした。
どれだけ匠のことをずっとずっと愛してくださっていたのだろう。
SYOさんは、自宅でゆるゆると、楽しく晩酌中にあっという間に天に召されました。
私はSYOさんに愛されていることをいつも感じていたし、匠のこともすごく愛して下さっている、そんな人が私たちを残して自分の意思で天国にいくワケありません。
SYOさんは、神さまの御手に抱かれて天国へ帰っていったのだと感じています。
これから辛いと思われる放射線治療と抗がん剤の治療をする予定だった。
それも感謝して受けいれよう。
その間会えないけど、まず元気になって帰ってきてね。
でも、完治はしないかもしれない、、、、
ピアノが弾けなくなるかもしれない、、、、
そんなSYOさんを神さまは抱っこして天に連れてかえってくださったのだと感じています。
私は、救急車を呼んだときに言われたとおり蘇生の心臓マッサージをしながら、「SYOさん帰ってきて!」と叫びましたが、
神さまが連れていった感がすごくあり、もうそれにあらがうことはできない、、と感じました。
これが「神さまのとき」と感じました。
そして、葬儀の日、私の妹と弟が来てくれました。匠も母を心配して帰ってきてくれました。
普通は当然のことかもしれないけど、コロナ禍で、みなさまにお伝えしないでの葬儀だったので、弟と妹が来てくれることは私にはものすごく意外だった、そして嬉しかった。
彼らはねーちゃんの夫が亡くなったのだから葬儀に参加するのは当たり前…みたいな感じだったと思う。
他のみなさまがたからも、「だいじょうぶ?」とのお言葉をたくさんいただきました。
まだ全然大丈夫じゃないかもしれません。
私はどれほどSYOさんに甘えてもたれかかって頼っていたか。
その人を失って、これからどうやって自分の足で立って生きていったらいいのか、、、、
まだそんなことは考えられないけど、少しずつやります。
まず3つ。これは、私がSYOさんを失ったかわりに神さまが与えてくださったことだと確信しています。
1 これからも演奏は続けていく。SYOさんの代わりのピアニストはいない。私が弾いて歌う。
でもそのためには、めっちゃベーシストに頼らなくてはいけない。一緒にやってくださいとお願いしたところ、快諾してくださいました。ありがとうKAZUさん。
そして、清繁さんにもこれからもコーラスパートナーとして、承諾いただいた。
東京グループのミュージシャンに、「これからの音楽活動はどうするつもり? まだそこまで考えられないとは思うけど」と下手(したで)~~な感じで言われたんだけど、
実はまず「これからの音楽活動」について考えた。もうまずそれ。じゃないと私の生きる指針を失う。
2 教会の奏楽は私が引き継ぐ。
私はクリスチャンとしてもめっちゃ未熟ですし、曲も全然知らない。でも私が継がないでどうずる、、、、
わからないことだらけだけど、みなさまに支えていただき、やるよ。
SYOさんのようなあんな素敵な奏楽はできないけど、私なりのスタイルをつくっていこうと思います。
3 穴吹家はとても複雑だったのです。私と母のこと。母に会って、語って謝る。約3年ぶり、、、
よくまあここまで意地を張ったもんだ。
この機会を与えてくださったかみさま、ありがとうございます。