「オーストラリア」より
昨日、Takが「ザ・世界仰天ニュース」を観ていて、夫が突然自分は女性だと言い出すってのがありました。
結婚して1年ほど経った頃から、夫はチャットに夢中になり、部屋に篭るようになった。
それは、自分が女性として自由に振舞えるネットの世界に没入したかったから。
何も知らない妻は浮気しているのではと疑り、激怒してPCを取り上げてしまった。
すると、夫は毎日哀しそうな顔で、魂を抜かれたようになってしまった…
Takは、それを観ながら、「もしかして、この人、オカマになりたいんじゃないかなあ?」というのだ。
すみません、差別発言かもしれないけど、Takのそのままの言葉です。こんな表現しか今のところ思いつかないんだと思います…ご容赦を。
エッ( ̄□ ̄;)…
Takがいきなりそんなこと言うなんて、びっくりした~~~
「あっ、そうだよ、そうだきっとそうだ、絶対そうだ」
と、私も同調した。「Tak、なんでそんなことがわかったの? なんかどっかにヒントが書いてあった?」
「知らない、でも、この男の人が魂を抜かれたようなところ、なんとなく目つきが女っぽい気がしただけや。」
いんや~~ Takの勘にもびっくりしたけど、
番組は続く… ある日突然夫は妻の前に女性の格好で現れ、ずっと隠していたけれど、自分の心は女性なのだと打ち明けた。
でも、夫の恋愛対象は女性なのだそうだ。
そんなケースもあるのか… 人間いろいろ、多種多様なのだなあ、、、
自分は女性だけれど、妻のことは、ずっと変らずに愛しているのだと。
妻はとうてい受け入れられない。夫をなじる、無視する、当り散らす夫の女性用の服を切り刻む…
(この展開や、個々の場面自体、相当誇張があるとは思うのですけど…
Takは、その壮絶な場面を観ながらいたたまれず「これはイカン。心を入れ替えて、受け入れるべきや!」と言うのです。
「受け入れるべきや!」
Takには、女装した大人の男性の姿が滑稽には映らないのだな。
大人でも揶揄したり、気持ち悪がったり、露骨に差別する人が大勢いるのに、中学一年生がこんなにしっかりと「受け入れるべきだ」と言うなんて、母はかなり感動しました。
ちなみにTakは「性同一性障害」という言葉と意味を知っています。
Takにとっては、この夫は「障碍者」という括りのようだ。医学的には「疾患」ということのようですが…
そして、彼は障碍者に対して、小さい頃から、健常者と障碍者は、「差別」じゃなくて、「区別」「個性」って、当然のこととして感じているところが前々からすごいなーと思うのです。
身体が不自由でもなく、精神的にも知的にも生活するのに、表面上は特に支障があるわけではない「性同一性障害」
でも、差別されるということが、最も「生きにくい」ことなんだってことに心を向けない人はとても多い。
先月のとあるオフの日に、「
オーストラリア」というDVD観ました。
このことについての記事を、ずっと書きかけのまま、テーマが重すぎてまとめられず、放り出していました。
実は、コレも、Takがその数日前に観てさめざめと泣いたようなのだ。
私も、そのうち観ようと思いつつ、やっと昼間の空き時間でひとりで観て、私も泣きました。
戦中~戦後の農家を舞台としたストーリーとしては、、少し前に何十年ぶりに観た「風とともに去りぬ」とダブるところがあって、
貴族の慈善パーティーで、ダンスのパートナーのオークションが行われる場面なんかは、「風邪と共に去りぬ」と殆ど同じで、
こういうことが、普通に行われていたのだなあ…と、、、
これが当時の教会のチャリティーのようなのです???
「風と共に去りぬ」も、大昔見た映画ですが、改めて観ると、当時とは違う視点や感情移入の仕方で、とても新鮮でした。
「オーストラリア」のメインテーマはアボリジニへの強制的な同化政策への反省、またできる限りの「差別」を浮き彫りにして、世界に向けて問いかけているように思えました。
「差別」という問題に、日本人はわりと疎いというか、無頓着なところがあると思います。
「今の日本には、人種差別や、差別、その他の差別というものは、ほとんどなくなった。」
「少なくとも、自分は、人をそんなことで差別はしていない」と、たぶん大多数の人は思っているのでは…
私自身も以前はそうでした。
これもまた、何十年も前のことですが、住井すゑさんの「橋のない川」を読みました。
その時私は、自分の頭を大きな木槌でガガ~~ン!!と殴られるような衝撃を受けました。
どうか、ここを訪れてくださったみなさま、まだお読みになってない方は、いつかぜひぜひお読みください。できればなるべく早く。
大長編なのですが、日本人として、本当に本当に「必読」と思います。
当時、読後のショックの後遺症で??今まで何も知らなかった脳みそがブルブルと震えまくっているようで、毎晩寝れない日々が続きました。
今、手元に本がないので、うろ覚えでしか書けないのですが、主人公は、被差別の子供でした。以下ネタバレ注意↓↓
明治になって、憲法上は身分の差別はなくなったものの、人の差別の心は簡単に変えようもない。
小学生の主人公は、暗闇の中での小学校の集会で、憧れの女の子に手を握られる。
ああ、この子は、こんな自分のことを密かに慕ってくれているのか…と、彼女への想いを心に秘めて生きていくのだけど、実は、その女の子は、
「エタ」は血もヘビのように冷たい、普通の人間とは違うのだと、周囲の大人に教えられていたので、それを確かめてみたかっただけだった…
物語は、主人公の成長とともに、「結成」「開放運動」へと展開していきます。
けれども、あまりにも根の深い魂の根源的な問題であり、ハッピーエンドとはならず、未完のまま終わっています。
記録された歴史というのは、その時の権力者周辺の記録であって、記述されることのなかった、平民や奴隷の生活こそが、その時代を支えてきた、ナマの、日本や世界の歴史なのだと思います。
そんな礎の上に今の世の中があり、自分もそこに生きていることを、「少なくとも私は差別はしていない」とは、私はいえない。無知ってこわい…
日本は単一民族ではなく、少数民族は存在するのです。北海道、沖縄… そこに住む民族に対する同化政策、そして、戦時中の国家神道の強制、
江戸時代に身分上の差別されてきた人たち、障碍者、外国人への差別、職業の差別、性差別、年齢による差別、社会的弱者への差別…
差別は、人が人を比較し、優劣をつけるところから始まっているのかも。
人は、大昔から今日まで、罪深い過ちを繰り返し続け、今もなお、綿々と続いている、、、
「じゃあ、自分は何をしたらいいんだ?」
…ってことを、少しでも考えてみることに、価値はあると思います。
重い記事になってしまったので、最後に近況などなど…
ただいま失業~求職中であります。
「うどん」、やむを得ず退職しました。(って、重いやんか~~~(^_^;)
折りしも、Takの「中間テスト期間」に突入。
部活も休みになり、さっさと帰ってきて、すぐに机に向かい、私がレッスン中に「どーせ遊んでるに違いない」と思ったら、ノートをまとめて、
トイレに貼って覚えるといいよと先輩に言われたといって、ドアに切り貼りしてました(*^_^*)
次の生徒くんの弟が、「おしっこ~」とトイレにいったとき、「せんせー、トイレに鋏が落ちとった」と…(-_-;)
ちょっとどんよりな日々の中で、なんだかほのぼのな、嬉しい出来事でありました♪