WIND AND SOUND

日々雑感 季節の風と音… by TAKAMI

「使徒の働き」より

2019-10-09 | キリスト教のこと



「執筆中のパウロ」ヴァランダー・ド・ブーローニュ もしくは ニコラ・トゥルニエ による1620年頃の作品




日曜日はは教会の行事の途中から突然体調が悪くなり、夕方から朝までベッドで寝て過ごした。
動悸と吐き気で七転八倒。

私は人生途中からクリスチャンです。

音楽パートナーSYOさんと8月に入籍も致しましたので、
SYOさんの教会である「新生教会」の礼拝に一緒に通っています。それだけが唯一変わったことで、あとは何も変わってません。

しかし私は、自分の教会での音楽の奉仕は相変わらずやっています。
奏楽の当番や、ワーシップバンドでの礼拝。それらの日には、自分の母教会(シオン教会)の礼拝に行きます。

普通、夫婦は同じ教会に礼拝に行くのが当然だけど、以前、私の教会の前任の牧師先生から「このような例外もある」というお話を伺ったことがありました。
それはまあ、、、平たくいったら「水が合わない」教義に違和感がある…などなどです。
私はその時、「音楽奉仕的例外もある」と考えました。SYOさんも私もそれぞれの教会において音楽奉仕的にはリーダーなんだからと、、、
バンドではいつも一緒にやってるんだから、教会はそれぞれでよいだろうと、、、


しかし私も、さすがにSYOさんの教会の牧師先生に入籍のご報告をしたとき、「私はこれからもずっとシオン教会に通います」とは言えなかったな~~
「半年の猶予をください。それまでに、シオン教会のワーシップチームの今後を整えようと思います。」
しかしこれも違うな。今後のことは、神さまにお委ね…です。

そして、まだ正式な転籍はしていないけど、SYOさんと一緒に礼拝に行き始めて、そこでものすごく平安を感じました。
やはり、教会が変わると、礼拝でもいろいろと違っているところがあります。違和感も多少はあります。
でも、夫婦で一緒に礼拝に行くことに、こんなに平安を感じるのかと、、、
新生教会の礼拝は、お祈りの時間が長い。
お祈りの奉仕者の方、みなさんめっちゃ流暢で、どぉやったらこんなお祈りが澱みなく言葉になるのか、、、、

まあ私も自分のLIVEをやるようになってから四半世紀。
最初はMCの原稿書きまくってたからなあ、まああと20ねんもすればお祈りもMCのようにすらすらと言いたいこと満載で長々となるのか\(^o^)/


さてさて。

またまたイントロが長っが~~~~くなってしまったけど、今日は「使徒の働き」を夕方から一晩中聴いたことについて書きたかったのです。







ここでまた、先日、教会の途中で体調が悪くなったところに戻る。
途中から動悸がして、とても苦しくなった。

それで家に帰って、ベッドに横になったまま、何もできないので、いつも聴講している中川健一牧師「ハーベストタイム;使徒の働き」の、これまでの続きを聴きました。
1編1時間。
朝まで7編ぐらい聞いたなーー。朦朧としたり、覚醒したりしながら、、、

「使徒の働き」というのは、新約聖書の中で、イエス・キリストが十字架につけられて死んで葬られて、3日後に甦って、数十日の間、弟子たちに現れて、それから天に昇ったあと、使途たちが伝道の旅に出かけるという章です。「この人こそが救い主キリスト」と伝えようとするけど、そんなにすんなりはいかず、迫害に逢いながらも、イエスの死と復活を生きた証人として伝えるために命懸けで旅をします。


その中で、私がものすごく感動した場面をひとつ。

使徒の働き(59)―ピリピでの伝道(3)―




「パウロ」と「シラス」の使徒の2人が伝道の旅の途中、理不尽に訴えられ、裁判にもかけられず、広場でめっちゃ鞭打たれていちばん暗い奥の牢に投獄された。2人は真夜中に祈りながら賛美の歌を歌った。中川牧師の解釈によれば、2人はあまりの痛み眠れず、魂を神にシフトするため…とのことで、私もそう思う。私もそうすると思う。
すると、牢の他の囚人たちも、その歌に聞き入っていた。

すると突然激しい地震が起こり、牢のドアの鍵が全部開き、足枷も外れた。
眠っていた看守は地震に驚いて起きたが、囚人たちは逃げ、これは必ず自分の責任になって処刑されると思い、短剣で自害しようとした。
するとパウロが「自害してはいけない、私たちはみなここにいる」と言った。

看守は、パウロとシラスの前にひれ伏した。

「救われるためには、何をしなければなりませんか?」

…これは、人生の最も根本的で究極的な質問だと思います。こころが震えました。

賛美のうた→囚人が聞き入る→地震で牢が開く→看守が自害しようとする→救われたい

この場面でこのような展開になることが、もぉあまりにもスゴすぎました。だってコレは、叙事詩ではなく、事実なのであります。

私は中学生のときに初めて聖書を読んでから、長い間この書物は壮大な「叙事詩」なのだと思ってきました。
私にとって、聖書というものは何十年もの間、大変モノクロームな世界と感じていたのですが、全然そーぢゃなかった!
あまりにもリアルだし、どこを読んでも、すべての人々が生き生きと生きてる。
むしろサイケデリック!!
わくわくしまくるのです。

「救われるためには何をしなければなりませんか?」

ここで、

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

とパウロとシラスが語ります。これは大変有名な聖句です。
しかし、自分がイエスを信じたら、自動的に家族も救われるのではないのです。
看守は、パウロとシラスを牢獄からいったん外に出して、使用人も含む家族全員を連れてきてパウロたちはそこで主のことばを語るのです。コレ、真夜中。
その後、2人は看守の家にまで招かれ、夜明け前に食事を供され、鞭の傷の手当を受ける…けど、夜が明ける前には牢に戻ります。

その間、開いた牢の囚人たちはどうなっとんじゃ~~!!とか、私としては大変気になるところですが、聖書にはそーゆう事項は記載されていません。



パウロが捕らえられた「とされている」牢獄



しかし、こんなペラいものではなく、もっと牢獄の中は奥深く、中庭もあったり… この画像を見て即座に信じることはできないな。


伝道の旅は次へと進んでいきます。

中川牧師のメッセージはほんとうにいつも映画を見ているように鮮明でわくわくするのです。
私のオススメは以前からも書いているように「創世記」なんですけど、メシアの生涯の、最後の晩餐からキリストが十字架につけられる場面もあまりにもリアルで本当に私もその場にいました。

「聖書」とは、世界の始まりから、世界の終わりまでを記した書物で、その目的は、神の栄光を現したものです。
新約聖書の、特に「書簡」には、多くの教訓が書かれています。「互いに愛し合いなさい」…などなど。
しかし、これらすべてをやるなんて、私にはムリ!! クリスチャンは本当に互いに愛し合ってるのか!?!?
ムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリムリ

私は大好きな人には大変素直ですが、嫌いとはいわなくても、苦手な人もいるのです。
そういうう人とはそれ相応に心の距離を置き、自分自身のために、自分の気持ちが乱れないようにしている…というのがホントのところ。
あまり近づくと嫌いになりそうだからです。
それでも私は神に愛されているとひたひたと感じる。
なぜなら、


1イエス・キリストは私の罪のために死んだ
2イエス・キリストは死んだ後墓に葬られた
3イエス・キリストは、死んだ後3日目に復活し、現在も生きて働いている

このことを信じているからです。
これは、「福音の三要素」といわれ、これらを心に受け容れた人は、即座に救われます。
そして、いったん救われたら、生涯それを失うことはありません。

「救い」ってナンデスカ? 

…それを自分の言葉で書くのは大変ムズカシです。、また別の機会に、、、、




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