高校時代のお友達Juneさん(仮名)と、卒業以来初めて2人で語りまくりました。
きっかけは、私の「うどんLIVE」に来てくださったこと。
彼女は、お嬢さんが重度の障がいを持っており、成人されたお嬢さんは、現在市内の自立支援施設で「さぬきうどん」を作る行程の中での軽作業をされているそうです。
「うどん屋でLIVE」ということを聞いて、彼女も、「それならウチの娘の施設でも、イベントのときに演奏してもらえないだろうか」との発想から、いらしてくださったのだと思います。
私たちのLIVEに足を運んでくださったのは2度めでした。
Juneさんとは、高校の音楽専攻時代に同じクラスで過ごしましたが、殆ど個人的な交流はありませんでした。
だから、旧交の復活というより、新しい始まりって感じ♪
約4時間、大学卒業から現在に至るまでを、早足で、しかし濃く語りまくりました。
選んだお店は、「隠れ家 蔵人」
オーダー前から話が炸裂しまくりで、画像撮ることなんか頭からふっ飛んでるし、
お料理もとてもヘルシーで美味しかったのは覚えてるけど、何を食べたかも殆ど記憶してません(^_^;)
画像は食べログより「れおれお♪」さんより拝借いたしました
Juneさんは、都内の音大卒業後、香川に帰って教員になり、13年間教員をされていたそうです。
その間、結婚してすぐに女の子が生まれ、その子は生まれつき心臓に障がいを持っていた。
お嬢さんの障がいを受け入れ、ご主人のご実家の敷地内に新居を構え、仕事は続けつつ暮らしていく方法を前向きに模索していた矢先、
お嬢さんが3歳のとき、3度目の心臓の手術中に、事故が起こりました。
彼女は、別室のモニターでその様子を見ていたそうです。
彼女のその話は聞くだけでも身震いして、全身から血の気が引いていく思いでした。
お嬢さんの心臓は20分間停まってしまい、そのために、脳にも重度の障害を負うことになってしまった…
これは医療ミスではないのか…と、追求したい思いもあったけれど、それをしたところで、お嬢さんは元通りにならない。
そんなことに負のエネルギーを消耗させるより、とにかく、一刻も早くお嬢さんのリハビリを開始して、少しでも前へ進みたかった…というJuneさんに深く共感しました。
昨日まで心臓には障害があっても、普通にお話ししたり、笑ったり、はしゃいだりしていたわが子が、術後、重度の脳障害を負って、別人のように、変わり果ててしまうということは、俄かに受け入れ難いと思います。
しかも一生、、、このままで、元通りにならない…って、、、
本当に受け入れ難いと思います。ものすごく長い時間が必要だっただろうと、、、
でも、
「生きていてくれてよかった」
そこに行き着くのだと思います。
Juneさんは、教員を辞め、お嬢さんとの新しい日々が始まり、新しい出会いや想い、
これまでの生活を続けていたら、絶対に経験することのない、本当にたくさんのことを、味わい、噛み締めて来られました。
養護学校の期間、どんな暮らしだったんだろう?
お嬢さんとのコミュニケーションはどんなだろう?
具体的なことをたくさん聞きたかったけど、それは後日またゆっくりじっくり…ってことで、、、、
Juneさんとの話て、いちばん共鳴、共感したこと、、、
それは神さまのことだった。
人の生死は、神さまの領域のことで、もしも医療ミスだったとしても、お嬢さんは一命を取り留めて帰ってきた、、、これも神さまの領域のこと。
受胎も出産も、手術も、なにもかも神さまの次元ではすべてお見通し…
人間の次元で、訴訟を起こし、保障を求めても、本当に納得のいく結果が得られるのか。
祈り、受け入れ、前に進むことで、幸せを実感できるのだよね…と、、
Juneさんから、先日メールをいただいたとき、
「やっと娘をベッドに運び、人心地ついたところです」
…と、冒頭に書いていらっしゃいました。
彼女は、お嬢さんをベッドに運んで寝かせてから人心地付く生活を毎日毎日繰り返してきたのだな…
そんな日々で、いろんなことを、1歩、踏み出すことで、新しい出会いがあって、繋がりがあって、それは恐らく一生続いていくのだと思います。
大変には違いないけれど、彼女は幸せそうです。
あまりにも重いです…が、「一歩前に進む」しかない。
Juneさんの「一歩」という言葉には、とても重みを感じます。「一歩一歩」でも「一歩ずつ」でもなく、
今この、たったの「一歩」なんだろうと感じます。
そして、たったの1歩前に進めたこと、そこでまた道が開けていくことが、なにものにも代え難い歓びなのだろうと思います。
Juneさんは、そうやって、毎日を積み重ね、ここまでやってきたのだろうと、、、
Juneさんが一生を終えたとき、遺されたお嬢さんはどうなるの?
…これはJuneさん親子だけじゃなく、すべての障がいを持つ人について、その親御さんや、周囲の人にとって、最重要課題だろぉ、、、
家族だけじゃなく、社会全体が、障がい者を全面的に受け入れなくては。
教会の礼拝に行くと、車椅子の方がとても多いです。
高齢のため足が不自由という方が殆どですが、それ以外にも、障がいを持った方もいらっしゃいます。
そういう方を日常見かけないのは、社会が彼らを受け入れるようにできていないからなのだと感じます。
外には出ていけなくても、教会の礼拝には欠かさずに通う高齢者の方はとても多いです。
私達健常者の目にとまるよりもはるかに、障がい者や、高齢で自由に出歩けない人たちは多いということです。
私のところにも、先日、車椅子の方が声楽のレッスンを希望されて連絡をいただきましたが、
うちのマンションは、全くバリアフリーではなく、駐車場からレッスン室までに坂や段差がいくつもあり、出張レッスンも不可能とのことで、
ものすごく残念なのですが、今のところ目処がたっていません。
他人事ではなく、私がもしも高齢で車椅子になったら、ここでは暮らしていけないのか…
また別の私のお友達で、去年の夏頃から、突然難病に罹られた方がいます。
それこそ、これまでの生活が一転して、自分の手足が思うように動かせない、介助なくては生活できないことになってしまって、治ることはなく、一生定期的に病院に通って、点滴を受けることになるそうです。
何故自分が…と、悲嘆に暮れ、人間はこんなに涙が出るのかというほど泣いたそうです。
そのお友達から連絡をいただいたとき、「神さまは命までも奪わなかった、このことに感謝して、目標を持って、リハビリを頑張りたい」と仰っていました。
突然襲い掛かった難病で、絶望の淵に追い込まれたのに、そんなふうに私に話してくれるお友達は、ほんとうにスゴイと思いました。
私のほうが励まされたのでした。
人間は弱いし、浅はかな存在だけれど、反面ものすごく強い底力を持っている。
それは神さまと繋がっているからだと思います。
「中途障害」という括り。
そういう方は、本当にたくさんいらっしゃいます。
「生きている」ということは、それだけで本当に尊いものだと、わかっているつもりでも、私達健常者は、日々、欲が出てしまうもの。
Takにはもっと勉強してほしい、私は生活、楽になりたい…などなど、、、
それに、私たちも同じように、事故や病気で、そのようになってしまう可能性はじゅうぶんにある。
もしも、自分や家族がそうなったとき、私は、Juneさんや、難病のお友達のように、前に進むことができるんだろうか。
眩暈で1日起き上がれなくなっただけでも、自暴自棄になって、周囲に迷惑をかけまくった私なのです、、、
いつかは死の苦しみに身を置くことに必ずなるけれど、最後まで今ここにある幸せを、本当に素直に受け止めて、自然に感謝できるように、
そんな柔らかい心をずっと持ち続けていたいな…と思いました。
素材提供:一実のお城