WIND AND SOUND

日々雑感 季節の風と音… by TAKAMI

「蓮の露」

2006-09-14 | アーティスト魂
今日は良寛さまのビデオを観ました。
「乳の虎」(1993 NHK正月ドラマスペシャル)
当時、ビデオデッキを持っていなかった私に、友達が録画してくれて、ビデオデッキと一緒にプレゼントしてくれたもので、私の宝物なのです。

良寛  桂 枝雀
貞心尼 樋口 可南子
高橋 長英  佐藤 慶  岸部一徳 ほか 

海のむこうに佐渡の島を臨む出雲崎の大名主の長男として生まれた良寛さまが、家を捨て、出家し、寺も持たない「乞食僧」としての生き方をなぜ選んだのか。
そして、晩年の、彼を慕う「貞心尼」との心の交流を描いた作品です。

私が良寛さまに惹かれる理由は
「自ら選んだ極限の清貧生活の底にある強い克己のこころ」と
「とても単純でわかりやすいことばで詠まれた深い歌」
なのです。

良寛さまというと、子供たちと手まりやかくれんぼをして無心に遊んで庶民から慕われている…というのが一般的イメージだと思いますが、知れば知るほど、畏敬の念をいだくものであります。

ドラマの中で、佐藤慶扮する長岡藩主が、直々に良寛の粗末な庵(五合庵=画像)に赴いて、城下へ迎えたいと要請するも、良寛は
「焚くほどは風がもてくる落ち葉かな」
と詠んで、藩主を追い返すという場面があります。
生きるにぎりぎりの生活をしている良寛にとって、風が運んでくる落ち葉は、焚いて暖をとったり、湯を沸かしたりするための大切な糧であるのに、藩主が通られるというので、お伴の家来たちがその落ち葉をすべて掃き取ってしまった。けれども、明日にはまた明日の落ち葉をいただくことができます、、、という意味の句をしたためて静かに藩主に差し出すのです。

ドラマでは、この一部始終を「ます」(後の貞心尼)が物陰から見て、鞠をついて無邪気に遊ぶだけの人ではなかったと、畏れを抱き、いっそう良寛への思慕を強くして、自分も尼僧になって、それなりの修行をしてからでないと、良寛においそれとは会いに行くことはできないと、剃髪を決意する…というストーリーになっています。

貞心尼は、数年の修行の後、自分で作った手鞠に歌を添えて、良寛さまを訪ねます。当時ですから、アポなし。その時、良寛さまはお留守で、歌と手鞠を託しました。


  これぞこの、仏の道に、あそびつつ
              つくやつきせぬ、みのりなるらん


仏の道と、手鞠つき遊ぶ姿をかけあわせ、良寛さまの語調を真似て、仏の道への思い、良寛さまへの思いをうたった歌です。これに対し、

 
  つきてみよ、ひふみよいむなや、ここのとお
             とおとおさめて、またはじまるを


これは「蓮の露」の中の有名な贈答ですが、この返歌を受け取ったときの貞心の天にも昇るよろこびが私にはとってもよくわかる。
この後、貞心は良寛を訪ね、それから歌のやりとりが続いていきます。

二人で炉辺に座して、筆を取って歌を詠みあうしずかな、ゆるやかな時間。

これをLIVEといってよいでしょうか?
ただひとりのあなた(の心)に「うた」を詠む。そして届ける。そして今度はただひとりのわたし(の心)にうたが届く。
こんな響きあいが次々と環をつくって波紋のように広がって宇宙と共鳴するような…
至福のLIVE。


  襤褸(らんる) また襤褸
  襤褸 これ生涯
  食は わずかに路辺に取り
  家は じつに蒿莱(こうらい)に委ぬ
  月を看(み)て 終夜(しゅうや)嘯(うそぶ)き
  花に迷うて ここに帰らず
  ひとたび 保社(ほしゃ)を出でてより
  あやまって この駑胎(どたい)となる


良寛は、寺を持たず、説教をするでもなく、子供と戯れ、歌を詠み、その人その生活そのものが「仏法」だったといえるかも。

「蓮の露」の至福の世界や、雲行流水のこころに強い憧れを感じながらも、
私は、匠の技でつくられた美味しいチョコレートや、鶉のパイや、シェリー樽の中でまどろんで時を待つスコッチウィスキー(こちらは神の技)が人々のこころを解きほぐす、、、いやいや、私を幸せにしてくれることも知っているのだ。

なので、この記事はまとめようがありません…


Comments (4)
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