フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

7月の記事

2006-07-31 06:46:59 | Weblog
2006-7-31 シカゴ HARD TO SAY I'M SORRY - CHICAGO
2006-7-30 マーク・トウェインにとって古典とは "CLASSIQUE" SELON MARK TWAIN 
2006-7-29 ミシェル・トゥルニエ再び MICHEL TOURNIER (II)
2006-7-28 ミシェル・トゥルニエ 「読まれるために書く」 MICHEL TOURNIER "J'ÉCRIS POUR ÊTRE LU"
2006-7-27 句集 「何という暑さ」 "QUELLE CHALEUR ! HAÏKUS D'ÉTÉ"
2006-7-26 句集 「何という暑さ」 "QUELLE CHALEUR ! HAÏKUS D'ÉTÉ"
2006-7-25 「神の言葉」 THE LANGUAGE OF GOD (LA LANGUE DE DIEU)
2006-7-24 週末をホテルで PASSER LE WEEKEND DANS UN HÔTEL
2006-7-23 バルテュスの世界に遊ぶ JOUER DANS L'UNIVERS DE BALTHUS
2006-7-22 100歳から現在を見る VIVRE EN REGARDANT DE 100 ANS
2006-7-21 マルク・フュマロリ 反動家? MARC FUMAROLI - REACTIONNAIRE ?
2006-7-20 退屈は最良の教師 マルク・フュマロリ L'HOMME-LIVRE MARC FUMAROLI
2006-7-19 国際電話 相手を呼ぶ音 LE SON D'APPEL INTERNATIONAL
2006-7-18 フランス縦断の旅  TRAVERSER LA FRANCE DANS UN FAUTEUIL
2006-7-17 早川良一郎 「さみしいネコ」 ESSAI "LE CHAT SOLITAIRE" 
2006-7-16 ブリヂストン美術館 - 印象派から21世紀へ MUSÉE BRIDGESTONE - DE L'IMPRESSIONISME À 21e SIÈCLE 
2006-7-15 人形町 雨宿り 自然体 NINGYOCHO - UN ABRI CONTRE LA PLUIE
2006-7-14 ヴォーヴナルグとは QUI EST VAUVENARGUES ?
2006-7-13 言葉は存在の住処? ― フランス語と英語の違い LA LANGUE EST LA MAISON DE L'ETRE ?
2006-7-12 ワールドカップのジダン LA COLÈRE EST MAUVAISE CONSEILLERE ?
2006-7-11 ハイデッガーの二つの顔 (III) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER (III)
2006-7-10 ハイデッガーの二つの顔 (II) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER (II)
2006-7-09 ハイデッガーの二つの顔 (I) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER (I)
2006-7-08 ある土曜日 アフリカ・リミックスなど UN SAMEDI -- AFRICA REMIX 
2006-7-07 町の感情 LE SENTIMENT D'UNE VILLE
2006-7-06 ディディエ・スキバンを聞く LA MUSIQUE DE DIDIER SQUIBAN
2006-7-05 ケ・ブランリー美術館再び LA DOUBLE MISSION DU QUAI BRANLY
2006-7-04 意識のずれを意識する CONSCEIENT DU FOSSE DE LA CONSCIENCE
2006-7-03 ケ・ブランリー美術館の哲学 MUSÉE DU QUAI BRANLY ET JEAN NOUVEL
2006-7-02 ユリシーズの様によい旅をした者は幸せなり HEUREUX QUI COMME ULYSSE ...
2006-7-01 誰がパンテオンへ QUI EST PENTHEONISÉ, DREYFUS OU BLOCH ?

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シカゴ HARD TO SAY I'M SORRY - CHICAGO

2006-07-31 00:19:48 | MUSIQUE、JAZZ

最近、テレビのコマーシャルで忘れることができない曲が流れているのに気が付いた。

Hard to Say I'm Sorry - Chicago


その昔、ニューヨークに住んでいたが、ある別れの時に共に聴いた曲である。日本に帰ってからも1年ほどよく聞いていた。今その時のことが蘇ってきている。

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"Hard To Say I'm Sorry"
   Chicago

Everybody needs a little time away
I heard her say
from each other
Even lovers need a holiday
far away from each other
Hold me now
It's hard for me to say I'm sorry
I just want you to stay

After all that we've been through
I will make it up to you 
I promise to
And after all that's been said and done
You're just the part of me   
I can't let go

Couldn't stand to be kept away  
just for the day
from your body

Wouldn't wanna be swept away
Far away from the one that I love

Hold me now
It's hard for me to say I'm sorry
I just want you to know
Hold me now 
I really want to tell you I'm sorry
I could never let you go

After all that we've been through
I will make it up to you 
I promise to
And after all that's been said and done
You're just the part of me   
I can't let go

After all that we've been through
I will make it up to you 
I promise to

You're gonna be the lucky one
--------------------------------

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マーク・トウェインにとって古典とは "CLASSIQUE" SELON MARK TWAIN 

2006-07-30 00:17:55 | 海外の作家

先日の記事で古典についてのトゥルニエさんの考え (「教室で読まれる作品」) を紹介したが、今週の Le Point に皮肉たっぷりの定義をしている人がいるという小さな記事が出ている。

その人は、古典とは?と聞かれて 「賞賛はされるが読まれることのない本」 と答えている。

"Un classique ? Un livre dont on fait l'éloge et qu'on ne lit pas."

この発言の主はマーク・トウェイン (30 novembre 1835 - 21 avril 1910) である。Samuel Langhorne Clemens という本名を見て、以前にクレメンスが如何にマーク・トウェインを演出していたのかという視点から書かれた本を読んだことを思い出した。

Andrew Hoffman "Inventing Mark Twain: The Lives of Samuel Langhorne Clemens" (William Morrow & Co, 1997)

今回マーク・トウェインの本が2冊出たようだ。

"Ecrits secrets" (Arléa, juin 2006)
"Irrévérence et liberté : Aphorismes" (Arléa, juin 2006)

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ミシェル・トゥルニエ再び MICHEL TOURNIER (II)

2006-07-29 00:20:48 | 海外の作家

つながる時なつながるものである。昨日届いた Le Point に81歳になるミシェル・トゥルニエさんが老境についてのエッセイを書いているのが見つかった。早速、「80歳の方、お元気ですか?」 "Comment vas-tu, octogénaire ?" と題されたそのエッセイを読んでみた。何とも言えぬ味わいがあり、御老境にある方のお話がよくわかるようになってきているふしがある。

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彼が最初に歳を意識したのは大分前になるが、地下鉄でうら若き女性に席を譲られた時。本当に驚き、怒り出す寸前まで行ったという。

"Le premier choque de la vieillesse, je l'ai éprouvé il y a fort longtemps, la première fois qu'une jeune fille m'a cédé sa place dans le métro. J'étais stupéfait. J'ai failli me fâcher."

同じような経験は私には未だないが、若い人の受け答えの中に年長者を敬うような雰囲気を微かに感じることがある。そんな時、これは今まではなかったな、と自らに語りかける。

80歳を超えると、もう未来がない (Je n'ai plus d'avenir.) と感じるらしい。ラ・フォンテーヌが言っている。

"Passe encore de bâtir, mais planter à cet âge !"
「この歳で家を建てるのならまだいいが、種を蒔くなんて!」

彼の感覚では家を建てるのさえ、ということらしい。10年程前なら新しい家に移ろうと決断できたが、今ならいい家を見つけてもその気にはならないらしい。

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それから人の目がある。特に老人を蔑ろにする視線が。
"Il y a un mépris ambiant pour les personnes âgées."

それは古きよき物を簡単に捨て、新しいもの、新鮮なもの、若いものに走る傾向に繋がっている。彼は若者のための政党だったナチのことをよく覚えている。
"Son idéologie comprenait une véritable obsession de la jeunesse."

そして新鮮な肉を食べる夢を見るようになる。戦争はいつも若者を食い尽くすものなのだ。
"La guerre a toujours été une grosse mangeuse de jeunes."

また2003年の熱波により15 000人もの老人が主に老人ホームで亡くなっている。ある意味見捨てられた人々の死である。彼はこの出来事を極めてフランス的と見ている。8月に都会 (パリ) から人がいなくなるという現象 (au mois d'août, on ferme et on s'en va.) と密接に関連していると見ている。イギリスやドイツでは8月にも子供は学校に行っているというのに。この置き去りにされた死。お産が7月に増え8月に減るという統計を見れば、その訳がわかるだろう。8月のバカンスを確保するために日程を調整しているかのようだ。

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児童性愛者の問題は耳にたこができるほど聞かされている (On nous rebat les oreilles avec des histoires de pédophiles.)。しかし老人性愛 la gérontophilie はどうだろう。この問題を心配している人はいるのだろうか。彼はセクハラ紛いのことを言われたり、怪しげな電話やラブレターに取り囲まれているという。冗談じゃなく、これほどもてたことはないと言っている。

ビクトル・ユーゴーはこのことをよく見ていた。彼の有名な詩 "Booz endormi" にはこうある。

"Les femmes regardaient Booz plus qu'un jeune homme,
Car le jeune homme est beau, mais le vieillard est grand.
....
Et l'on voit de la flamme aux yeux des jeunes gens,
Mais dans l'œil du vieillard on voit de la lumière."

「女性は若者よりブーズを見ていた
 なぜなら若者は美しいが、老人は高貴だから
 ...
 そして若者の目には炎はあるが、
 老人の目には知恵の明かりがある (のだから)。」

なぜか元気の出る詩である。

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「老年の慰みは3つしかない。それは権力と富と名声である。」 と言った人がいる。

"La vieillesse ne connaît que trois consolations: le pouvoir, la richesse et la célébrité."

彼はそのいずれも持っておらず、いまだに働きつづけているという。老人は働かせるべき、という彼の考えには私も賛成である。老人はどのように働きたいのか、老人をどのように働かせるのか (活用するのか) を考えるのが、これから重要になるのだろう。

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ミシェル・トゥルニエ 「読まれるために書く」 MICHEL TOURNIER

2006-07-28 00:37:19 | 海外の作家

"J'écris pour être lu, pas par plaisir."

「私は楽しみからではなく、読まれるために書く。」

こう語ったのは、フランスの作家ミシェル・トゥルニエ Michel Tournier (19 décembre 1924 - )。御年81歳。最近の雑誌 Lire に出ていたインタビュー記事である。楽しみから、何の役に立つのかわからない、あるいは役に立たないことを密かに目指して書いているこのブログとは大きな違いである。

この方、本当は哲学者になりたかったらしいが、哲学の一級教員資格試験 agrégation に落ちたため、やむを得ず作家になった。それも上等の。この記事に気を惹かれたのは、彼がシュヴルーズ Chevreuse の手入れの行き届いた庭 (le jardin impeccablement entretenu) がある家に住み、昼食と子供に読書と哲学を教える時以外は世俗を避けてそこをほとんど出ない (Fuyant les mondanités, Tournier ne sort plus guère de son antre.) という件を読んだ時。昨年訪ねた私の友人宅がこの地にあり、あたりを散策した時に彼の家にわざわざ寄ってくれたことを思い出したからだ。こういう形で1年後に繋がってくるとは思いもよらなかった。

哲学の先生になれなかったので、ラジオの世界へ。そこでプラトン、アリストテレス、トマス・アクィナス、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カントという自分の秘密の庭を作る (Je cultivais mon jardin secret: Platon, Aristote, saint Thomas, Descartes, Spinoza, Leibniz, Kant.)。高度に哲学的な問題 (時間、空間、知識、他者との関係など) を選ぶことと誰にでも読んでもらえる物語を書くことを考えていた。それで選んだのがロビンソン・クルーソー (Robinson Crusoé)。そして出来上がった物語が43歳にして初めて出した 「フライデーあるいは太平洋の冥界」("Vendredi ou les limbes du Pacifique")。ロビンソン・クルーソ―の物語には哲学的な問題が少なくとも2つある。一つは孤独。彼は20年もの間一人で暮らしたのだ。それから他者との関係 (フライデーが島にやってきた時に生じる)。

その後出版社プロン Plon に入り、何でもやり楽しんだようである。プロンではマルグリット・ユルスナール (Marguerite Yourcenar) の「ハドリアヌス帝の回想」 (Mémoires d'Hadrien) を最初に読んだ人になる。「メグレ警視」 で有名なシムノン (Georges Simenon) にも会っている。

現代の作家で読むべき人は?との問いに、「ジュリアン・グラック」 と答え、その全ての作品を読むべきだと言っている。初めて聞く名前なので、これから触れてみたい。

Julien Gracq (27 juillet 1910 -)

トゥルニエはこれまで15冊程度しか作品を書いていない (同年代では50冊は書いていておかしくない)。彼の場合は一つのテーマに長い時間をかけるタイプで、陸上のスプリンター sprinter ではなくマラソンランナー marathonien だと見ている。若くして才能を燃やし尽くすよりは、ゆっくり進むのが好みのようだ。彼は先日触れたジャック・ロンドン (Jack London) を崇拝している。若くして (12 janvier 1876- 22 novembre 1916) 亡くなったが、全てをやってから逝った。世界を放浪し、金を求め、しかも作家であった。

古典とは?と聞かれて、教室で読まれる作品だと定義している。彼自身の作品も教室で読まれており、それが最大の誇りだという (C'est ma plus grande fierté)。

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俳句選集 「何という暑さ」 続き "QUELLE CHALEUR !"

2006-07-27 06:30:04 | 俳句、詩

昨日読んだ句集から私の中に入ってきたものをもう少し。

"QUELLE CHALEUR ! haïkus d'été" (Moundarren, 1990)

(1)
提灯で
 大仏見るや
  時鳥

avec une lanterne
 regardant le grand Bouddha
  le coucou !

(2)
来る人に 
 物をもいはぬ
  暑哉

à ceux qui viennent
 il ne dit rien
  quelle chaleur !

(3)
魚はねて
 水静也
  ほととぎす

un poisson saute
 l'eau redevient calme
  le coucou !

(4)
雷晴れて
 一樹の夕日
  蝉の聲

accalmie après le tonnerre
 dans un arbre au soleil couchant
  le chant d'une cigale

(5)
夏嵐
 机上の
  白紙飛び盡す

orage d'été
 les feuilles blanches sur la table
  s'envolent toutes

(6)
雨やんで
 やっぱりもとの
  暑さ哉

la pluie s'arrête
 c'est comme avant
  quelle chaleur !

(7)
夏虫の
 死んで落ちけり
  本の上

les insectes d'été
 tombent morts
  sur mon livre

--------------------------------
子規の句が多いのに少しだけ驚いている。

(1) 子規 Shiki (1866-10902)
(2) 心祇 Shingi
(3) 言水 Gonsui (1646-1719)
(4) 子規 Shiki (1866-10902)
(5) 子規 Shiki (1866-10902)
(6) 輕羅 Keira
(7) 子規 Shiki (1866-10902)

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俳句選集 「何という暑さ」 "QUELLE CHALEUR !"

2006-07-26 22:22:51 | 俳句、詩

今日は一気に熱さが噴き出した。先日、仏版ブログへ PAULE 様からコメントが届いたが、その中に夏の本が紹介されていた。暑さを吹き飛ばそうと注文していたのだろうか。それがよりによって今日届いていた。

"QUELLE CHALEUR ! haïkus d'été" (Moundarren, 1990)

この本の作りは、まず俳句があり (訳者の Cheng Wing Fun さんが筆で書いている、少し異様に見える)、その下にフランス語訳、そして巻末に俳句の作者が出ている。150の夏の句が選ばれている。まず自分が感じるものに印をつけ、その後で作者を見るという読み方をしてみた。今日は次のような俳句が引っかかってきた。2-3日に分けて書き出してみたい。

----------------------------------
(1)
らふそくで
 たばこ吸けり
  時鳥

allumant ma pipe
 avec une boufie
  le coucou !

(2)
端居して
 妻子を避くる
  暑哉

dans la véranda
 fuyant femme et enfants
  quelle chaleur !

(3)
降りさうで
 晴れ行く空の
  熱哉

sur le point de pleuvoir
 le ciel s'éclaircit à nouveau
  quelle chaleur !

(4)
夏川を
 越す嬉しさよ
  手に草履

quel bonheur
 de traverser la rivière d'été
  les sandales à la main !

(5)
晩鐘に
 散残りたる
  あつさかな

avec la cloche du soir
 se disperse
  le reste de chaleur

(6)
いろいろの
 賣聲たえて
  蝉の聲

les cris de marchands
 cessent
  le chant des cigales

(7)
夏川や
 橋あれど馬
  水を行く

la rivière d'été
 malgré le pont
  le cheval traverse dans l'eau

----------------------------------
作者を調べてみると、
(1) 一茶 Issa (1763-1827)
(2) 蕪村 Buson (1715-1783)
(3) 花曉 Kagyo
(4) 蕪村 Buson (1715-1783)
(5) 千代女 Chiyo-jo
(6) 子規 Shiki (1866-1902)
(7) 子規 Shiki (1866-1902)

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「神の言葉」 THE LANGUAGE OF GOD (LA LANGUE DE DIEU)

2006-07-25 23:13:13 | 科学、宗教+

先日の科学雑誌で目にした書評に引かれて注文していた本が今日届いた。

Francis S. Collins "The Language of God" A Scientist Presents Evidence for Belief

著者のフランシス・コリンズはヒトゲノムプロジェクトを引っ張ってきたアメリカの研究者である。ざっと見たところ、科学者の英語で書かれていて文章自体は余り込み入っていないようなので、彼の考えているところが生の形で聞こえてきそうである。科学をやっていてなぜ神の世界に近づくのか。あるいは科学をある程度極めると別の世界が見えてくるのか。

このブログを始めてから 「科学と信仰」 というテーマに興味が湧いている (カテゴリ 「科学、宗教 +」 に少し触れられています)。この両者の関係がなぜ、どのようにこれまで問題になってきたのか。どういう過程で科学から信仰へ移行するのか。その移行に対してどのような批判がなされているのか。

最近、気づかないうちに自らの考えに枠をはめていることを意識できるようになってきている。立ち止まって考えることなく、そんなことはないと勝手に、非常に安易に決め付けてかかっていることが如何に多いかということを。頭の中をできるだけ白くしてから、いわば更地から考え始めることが如何に難しく、如何に重要であるのかということにも気づき始めている。

この本には日本ではほとんど問題になることのない視点からのお話が出ていると思われる。日本語で言うところの 「虚心坦懐」 (よくよく考えてみると非常によい言葉である) に向き合い、科学を行うということの意味を改めて振り返ってみたい。そういう機会になればよいと思っているようだ。

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週末をホテルで PASSER LE WEEKEND DANS UN HOTEL

2006-07-24 21:31:00 | 

どうしてもやらなければならない書き物が出てきたが気力が充実しない時や自分の日常を離れたい時など身近なところでもホテル籠りをすることがある。ルヴェルさんが 「繭の中に入る」 と形容していたこの過ごし方は私も嫌いではない。その間は土地に根付いているような錯覚を与えてくれるので、そこでは時間を気にしないでゆっくり過ごすことができる。それがわかるのは、同じ場所をその日に帰らなければならない状況で見る時とは全く違った街に見えるからである。その意外性が面白く、楽しめる。これからも機会を見てやってみたい。

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バルテュスの世界に遊ぶ JOUER DANS L'UNIVERS DE BALTHUS

2006-07-23 23:20:49 | 出会い

数日前、何を思ったかバルテュスの世界を味わいたくなり、奥様の本を注文していた。彼の画集は何冊か持っているのだが、別の視点で見たいと思ったのかもしれない。

節子・クロソフスカ・ド・ローラ 「グランシャレ 夢の刻
バルテュスの優雅な生活

以前に彼女の 「見る美 聞く美 思う美」 を休日に電車の中で読んだことがある。馴れ初めのところ (50代と20歳の出会い) や息子を亡くすところの話が印象に残っている。それと美しい落ち着きに溢れた姿と心が充実していることを想像させる彼女の表情が気に入ったことも大きい。

どういうわけか、今回も電車の中での出会いとなった。全体の印象は前回と変わりはない。ただ、バルテュスの作品と生活の断面が美しい写真で残されていて、より具体的な想像が可能になっている。それにしても彼の世界は時間が凍りついたように見えたり、永遠の世界 (時間) が切り取られているように見えたりする。その静謐な印象が気に入っている。また彼の大きな生き方にも共振するものがある。

この本には最近触れたマルク・フュマロリさんが子供時代をすごしたモロッコのフェズ Fès のことも出てくる。

「フェズはユネスコで世界文化遺産に指定されている古都。」

「この街は容易にその本性を表示しない神秘的なところとされ、その本体に入り得るには、目に見えるようで見えない神聖の門を潜らなければならないと伝えられています。スフィ派教徒間では、この地を尊び、聖所と呼んで、何世紀もの間、政治と有智人の首都、文化と知性の交流と出会いの地点として栄えたのでした。」

「シルウェステル二世は若いときフェズに学び、アラビア数で数年を過ごしコーランを学びました。ユダヤ教徒の哲学者マイモニデスもこの地で数年を過ごしコーランを学びました。そしてこのことは、ユダヤ教と回教が共存でき得る証でもあります。」

フェズはいずれ訪れてみたい街のひとつになりつつある。

-----------------------------
シルウェステル二世 (フランス人初の教皇、在位999-1003年)
マイモニデス (30 mars 1135 - 13 décembre 1204)

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100歳から現在を見る VIVRE EN REGARDANT DE 100 ANS

2006-07-22 01:18:21 | Qui suis-je

50歳を過ぎたあたりからだろうか。これまでにも書いているが、できるだけアクティブに人生を終えたいという気持ちから高齢で元気のよい人に目が行くようになった (「年齢とヴィヴァシテ」 参照)。その時から、100歳あたりから現在を見るという視点にゆっくりと変わってきたようだ。50歳を迎えるまではただただ先を見て進んでいくという感じで来たことがわかる。それが最近では100歳から今の自分を見ている。そのため、まだまだ人生の半分ではないか、何を年寄りじみたことを言っているのか、というような声が聞こえる。必死に生きてはいるのだが、なぜか安心感がある。100年の時の流れの中で自分の歩みを眺めることができるようになったからかもしれない。

いつまで生きるのかはわからないが、この視点に立つと別の意味で自分を叱咤でき、同時に余裕を持ってものを見ることができる。先日触れたマルク・フュマロリさんの視点ではないが、時の流れの中に今をはめ込むことができるようになるからだろう。大げさに言うと、今を歩んでいる時にそれがただちに自分の中で歴史的な意味を持つようになるという不思議な感覚なのだ。新しい世界が開けてくるようで面白い。

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マルク・フュマロリ 反動家? MARC FUMAROLI - REACTIONNAIRE ?

2006-07-21 20:06:25 | 哲学

マルク・フュマロリさんのインタビューで面白そうなところをもう少し。

Le Point: あなたは反動家 réactionnaire としての役割を気持ちよく引き受けているように見えますが、、

MF:その言葉に驚きはしません。むしろ反対です。réaction というのが時代の型通りの考え conformismes に対しての抵抗する力だとすれば、私は将にそれです。ボードレール、セザンヌ、プルーストなどと共に。新しいものや多数派が真実や美の基準ではありません。

Ce mot ne m'effraie pas -- au contraire ! Si, la "réaction", c'est l'aptitude à résister aux conformismes du temps, alors oui, j'en suis ! Avec Baudelaire, Cézanne, Proust.... Le neuf et le majoritaire ne sont pas des critères de vérité ni de beauté.

ただ、悪臭を放つ、遅鈍な反動家がいることを知らないわけではありません。しかし、もしエドマンド・バーク (Edmund Burke, 1729 - 1797) やメストル (Joseph de Maistre, 1753-1821) やバルザック (Honoré de Balzac, 20 mai 1799 - 18 août 1850) が言った意味での反動家を思い出していただければ、それこそ絶対的に現代的であるように見えます。

------------------------
また初めての人が出てきて、宿題が増えてしまった。

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退屈は最良の教師 マルク・フュマロリ L'HOMME-LIBRE MARC FUMAROLI

2006-07-20 21:31:35 | 哲学

今週届いた LE POINT の IDÉES LITTÉRATURE セクションには、最近本を出したアカデミー会員のマルク・フュマロリのインタビューが載っている。初めて聞く名前なので読んでみることにした。

MARC FUMAROLI (né à Marseille le 10 juin 1932 -)
Exercices de lecture : De Rabelais à Paul Valéry (778 pages; Gallimard, 16 Mar 2006)

自分の人生などには全く興味がない、自叙伝などおぞましい、という。中世学者のル・ゴフさんと同じ考えのようだが、この方は 「現在」 にしか興味がないらしい。

モロッコに住んでいた両親が旅行したマルセイユで1932年に生まれる。今年74歳。子供時代は Fès で過ごす。アメリカに行く1942年までの子供時代は、すべてから遠く離れていて (j'étais loin de tout)、両親の本が置かれているところが彼の宇宙であった (la bibliothèque de mes parents résumait mon univers)。母親は読書家で、父親も母親ほどではないが本を読む人だった。彼は退屈なので本を読んでいた。その過程で孤独や根気のいる仕事 (ma vocation bénédictine) に導かれたようだ。そこでの結論は、、

「退屈ほどよい教師はいない」
Il n'y a pas de meilleur pédagogue que l'ennui !

この退屈のお陰で文学へ転向した。それから長い間戦争に駆り出される。その時は Pléiade に収められたバルザックの全作品を持って行った。プルーストも読むが、本当に気に入っているのはバルザック。最近、日本の北から南まで縦断し、アメリカ風の外見に潜む古い内陸地方を見て回ったが、夜にはバルザックの 「人間喜劇」 全巻を再読した。この旅行から、メモで真っ黒になったノートを持ち帰った。何という生活 (人生) だろう。

私は未来を心配したことは一度もない。私を引き付け離さないのは 「現在」。ただ、長い読書に照らされた 「現在」 だ。

"Ce qui m'intrigue et me retient, c'est le présent - mais un présent au miroir de longues lectures..."

現実世界 (le monde réel) には足を半分しか踏み入れていない。若い頃死ぬかと思う事故にあっているので、ものを考える時どこか超然とした (avec détachement) ところがある。

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国際電話 相手を呼ぶ音 LE SON D'APPEL INTERNATIONAL

2006-07-19 20:42:58 | Weblog

アメリカに久しぶりに国際電話をかける。かけたことのある方はご存知の例の音で相手を呼んでいる。アメリカで最初にしなければならなかったことが電話をかけることであった。仕事場との連絡をする、アパートを探す、その他諸々の生活をスタートするための手続きをするために。その時のトラウマがあるのだろうか。この音を聞くとなぜか緊張が走る。身構える。

フランスにも電話したことがあるが、その時はむしろ少しうきうきしながら相手が出るのを待つ、といった感じ。フランス語の場合は少々間違っても気にならないのだが、英語の場合はできるだけ間違わないようにと考えている。この違いは何なのだろう。仕事の道具として使い始めた言葉とお遊びで始めた言葉の違いなのだろうか。確かにその刷り込みがあるのかもしれない。先日の話ではないが、仕事で精一杯の英語からはその奥までなかなか入り込めない。現実にぶら下がったままといった印象である。遊びの気分で始めたフランス語では精神的な余裕があるために奥深くまで自由に探索したくなるのだろうか。遊びから入ると意外なものが見えてくるようだ。

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フランス縦断の旅  TRAVERSER LA FRANCE DANS UN FAUTEUIL

2006-07-18 23:45:46 | 

7月16日から8日間、フォンテンブローからマルセイユ (パリ、プロヴァン、ヴェズレー、リヨン、オランジュ、アヴィニヨン経由) までフランスを縦断するというなんとも贅沢な旅がNHKテレビで流れている。これまでの3日間は味わうことができた。

フランス縦断の旅

昨年の秋にイタリア縦断の旅を経験したが、そのシリーズのようである。フランスの地方の生活を近くで見ることができる。あと5日間の旅を楽しみにしたい。

(version française)

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