フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

11月の記事

2005-11-30 10:53:03 | Weblog
2005-11-30 太田記念美術館にて天台聲明 TENDAI-SHOMYO AU MUSEE OTA 
2005-11-29 青山から原宿へ D'AOYAMA A HARAJUKU
2005-11-28 根津美術館  LE MUSEE NEZU
2005-11-27 杉本博司展 「時間の終わり」 HIROSHI SUGIMOTO "END OF TIME"
2005-11-26 マイケル・ブルームバーグ再び BLOOMBERG - UN GRAND PHILANTHROPE
2005-11-25 あなたの信は? QUELLE RELIGION VOUS CONVIENT ?
2005-11-24 続々・アインシュタインの言葉から LA PENSEE D'EINSTEIN (III)
2005-11-23 続・アインシュタインの言葉から LA PENSEE D'EINSTEIN (II)
2005-11-22 アインシュタインの言葉から LA PENSEE D'EINSTEIN
2005-11-21 横須賀功光 写真展「光と鬼」 PHOTOGRAPHIES DE NORIAKI YOKOSUKA
2005-11-20 仏検を終わって APRES LE FUTSUKEN,
2005-11-19 アマゾン中毒再び ESCLAVE D'AMAZON, UNE CRISE AUTOMNALE ? 
2005-11-18 外国語を学ぶと... UN AVANTAGE D'APPRENDRE LES LANGUES
2005-11-17 フランス語学習の密かな楽しみ UN PETIT BONHEUR DANS LE FRANCAIS
2005-11-16 昼の食堂で西田哲学 LA PHILOSOPHIE DE NISHIDA AU DEJEUNER
2005-11-15 ポール・ヴァレリー PAUL VALERY ET SA PENSEE
2005-11-14 久しぶりのモーツアルト APRES L'EXAMEN, LE MOZART
2005-11-13 DALF受験記 APRES L'EXAMEN DALF
2005-11-12 語学モード EN PREPARANT LE DALF
2005-11-11 昔の私 SUR LA PHOTO D'ANTAN, C'EST VRAIMENT MOI ?
2005-11-10 丸山健二 KENJI MARUYAMA, ECRIVAIN PROVOCATEUR
2005-11-09 オルハン・パムク再び ORHAN PAMUK - TURC, ESPRIT LIBRE
2005-11-08 バルガス・リョサとの対話 ENTRETIEN AVEC MARIO VARGAS LLOSA
2005-11-07 柴田宵曲 SHOKYOKU SHIBATA - ERMITE REVEUR DU PASSE
2005-11-06 北斎展で想う HOKUSAI, IL EST GENIAL, ADORABLE !
2005-11-05 アルベール・メンミ ALBERT MEMMI - ECRIVAIN NOMADE IMMOBILE
2005-11-04 アラーキー再び ARAKI D'APRES AMATEUR D'ART
2005-11-03 ジャック・ルイ・ダヴッド展 EXPOSITION JACQUES-LOUIS DAVID
2005-11-02 日本の哲学  LA SITUATION DES PHILOSOPHES JAPONAIS
2005-11-01 本に飢えている? LA SAISON DE LECTURE

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太田記念美術館にて天台聲明 TENDAI-SHOMYO AU MUSEE OTA 

2005-11-30 00:15:30 | MUSIQUE、JAZZ

先日の休みに、森美術館からゆっくりと歩きながら根津美術館に続いて原宿の浮世絵太田記念美術館を訪れる。「浮世絵に見る楽器」をテーマにした展示だった。2階に行くと北斎漫画もかなり見られる。入館してしばらくすると館内放送が入った。特に注意していなかったので通りかかった館員に聞いてみると、天台聲明(てんだいしょうみょう)の演奏会がすぐに始まるという。演奏は一時間くらいとのことなので滅多にない経験になると思い、聞いてから帰ることにした。

-------------------------------------
聲明とは仏教音楽の一種で、奈良時代から平安初期にかけて中国から伝来した。経文に旋律を付けて唱えるもので、サンスクリット(古代インドの言葉)を用いる梵讃(ぼんさん)、漢語を用いる漢讃(かんさん)、日本語を用いる和讃(わさん)の三通りがあって、その目的は諸仏讃嘆と祈願。

天台聲明は最澄によりもたらされたもので、空海による真言聲明とともに二大流派になっている。
-------------------------------------

演奏は七聲会(しちせいかい)という浅草、谷中、八日市場から集まった4名の若手僧からなるグループ。プログラムは以下の通り。

「四智梵語讃(しちぼんごのさん)」
「云何唄(うんがばい)」
「散華(さんげ)」
「対揚(たいよう)」
--------------------
「九條錫杖(くじょうしゃくじょう)」
「般若心経(はんにゃしんぎょう)」
「三句念仏(さんくねんぶつ)」
「百八讃(ひゃくはちさん)」
「後唄(ごばい)」

以上の9曲。曲目を声に出してみる。理解できないせいか、音としてしか聞こえない。そのせいだろう、非常に新鮮に耳に響く。天台聲明には大きく3つの様式があるようだ。ゆったりと、たゆたうように、うねるように、あるいは波打つように歌われるもの、イン・テンポでリズム感に溢れるもの、そしてそれが混じっているか、どちらともつかないようなもの。

前半の曲はいずれも一番目の範疇に属するもので、今回初めて聞いたような気がする。腹から出てくる声はながーく引っ張られ、音程も無限に近い変化をする(時にはグリッサンドのように)。割り切れない、境目がはっきりしない複雑な影がある。それぞれの声がハモらない、ぶつかり合う。前衛音楽のようでもある。聞いていると無限あるいは無の中に飛んでいくような、引き込まれるような感じがしてくる。予想外の面白さである。

後半の般若心経は、はっきりしたリズムで生き生きと読経される。夢想していたものが一気に起き上がるという風情だ。リズムは音木(おんぎ)あるいは割笏(かっしゃく)と呼ばれる拍子木のような楽器でとられる。聞き覚えのあるものはこれくらいであった。

その他の楽器では、
錫丈(しゃくじょう):蛇や虫を追い払うために鳴らしたらしい。お地蔵さんが持っているものを短くしたもの。頭が二股になっていてそれぞれに三環づつの鉄輪がはめられているものを「ニ鈷六環(にころっかん)」、その倍であれば「四鈷十二環(しこじゅうにかん)」と言うらしい。

鐃(にょう):フランパン状の銅鑼で、太い紐をひねったような形の棓(ばい)で音を止めるように叩く。

鈸(はち):シンバル様の鳴らしもの。

金剛鈴(こんごうれい):リズムを取るためというよりは、音の持つ色や揺らぎなど、音そのものを味わうことができる。これまさに東洋的か。

伏鉦(ふせがね):念仏鉦(ねんぶつがね)。

鏧子(けいす):金属製のお椀型の鳴らしもので、誦経の時に用いられる。

-------------------------------------

本当にいろいろな世界があるものだと感心してしまった。昔は全く受け付けなかった世界である。最近気付くことは、外から入ってくるすべての刺激に対して垣根が非常に低くなってきていること、しかもそれがよく入ってくることだ。裏返せば今まで本道以外のところには垣根を高くしていて、今その反動が来ているのかもしれない。日本は意識して触れれば触れるほど広くて深い。

----------------------
ある休日の午後(I)
ある休日の午後(II)
ある休日の午後(III) 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青山から原宿へ D'AOYAMA A HARAJUKU

2005-11-29 00:04:31 | 出会い

先日、杉本博司展 「時間の終わり」の森美術館から根津美術館を経て、原宿にある太田美術館へ向かう道すがら面白い経験をした。根津美術館を出て少し休みたくなったのか、近くのフランス風カフェFに入る。歩道のすぐ横のオープンテラスに座り、私が写真を撮っている時である。注文を取りに来た女性がその邪魔をしたと思ったのか、思わず "Pardon, Monsieur !" 。そして私を見て慌てた様子(今日の写真の直後)。フランス人がよく来る店なのだろう。皆さん頭がフランスになっているようだ。

カフェに座る楽しみのひとつに道を通り過ぎる人たちを観察することがある。また飛び込んでくる通りすがりの人の会話の断片を耳にするという、もうひとつの楽しみも味わうことができる。その一瞬、それぞれの生活の一部が浮かび上がってくるのだ。人さまざまであることがわかり面白い。私は根津美術館の印象などに思いを巡らせながらメモを取っていた。こちらに来る前に私の噂をしていたのだろう。若い二人組の女性が、「あー、物書きかー」などと言いながら過ぎていく。普段出会わないような会話が聞こえてきて脳が喜んでいるようであった。

根津美術館の自然の中から原宿へ向かうと現代に引き戻される感じがする。以前はこういう環境に向かう時には気分が高揚してきたのだが、最近はすべてがあだ花のように感じられてしようがない。途中に新しいビルの建築現場のようなところに行き当たる。現場を仕切っている人がフランス人らしい(フランス語の会話が聞こえた)ので、何の騒ぎか聞いてみた。その人はやや憮然とした表情で、あそこを見ればわかるでしょうというニュアンスで、Cartierのマークが入った壁を指差した。明日が開店なので最終チェックをしているという。隣の人は携帯にフランス訛りの英語で話し掛けている。活気溢れる現場である。

その場を離れると道一つ隔ててPradaの恐らくできたばかりと思われる店がある。目と鼻の先という言葉がぴったりで、まさに資本主義のぶつかり合いの現場。会社という生き物になると生存競争を生き抜かなければならない宿命を背負ってしまうのだろう。ただこのようなものを見ても、すべては移ろいゆくものという気がしてしまう。原宿に近づくと、ものすごい人の波。毎日がお祭りという状態なのかもしれない。

このあたりは神社のすぐ横に新しいガラス張りのビルがあったり、昔の信仰を示す名残が現代と至るところで交錯している。この狭い範囲だけ見ても幅があり、歴史を感じさせる。狭い日本と言われるが、全国の隅々まで詳しく見てみると、とんでもなく深く広い闇のようなものが至るところにあるのではないか、そして立ち止まっているとそこに引きずり込まれそうになるのではないだろうか、などと想像しながら太田美術館に向かった。

----------------------
ある休日の午後(I)
ある休日の午後(II)
ある休日の午後(IV) 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根津美術館  LE MUSEE NEZU

2005-11-28 00:05:24 | 展覧会

杉本博司の展覧会がやや欲求不満に終わったため、Amateur d'art 氏がArakiを紹介した記事にあった太田美術館のことを思い出し原宿まで歩くことにした。ビルの中を通り抜け、青山墓地のあたりを過ぎたところだろうか、邸宅が美術館になっているような雰囲気の建物が見つかった。近くに寄ってみると根津美術館であることがわかり、躊躇せず入ることにした。こういう思いもかけない出会いにはいつも心ときめくものを感じる。その予感は今回も裏切られることがなかった。

入るとすぐに庭園があり、六本木ヒルズの人工的な世界から来ると一気に心を和ませてくれる。美術館の中に入る。筑前高取焼の展覧会をやっていた。そのせいだろうか、ほとんどの女性が和服を着ており、中には和服姿の男性も見かける。これほどの和服姿を見たのは久しぶりで、展示品を眺めながら話し込んでいる様子が至るところに見られ、新鮮でなかなかよい。それと西洋美術の展覧会で感じる、どこかお勉強をするという雰囲気はなく、われわれの日常に溶け込んだ品を鑑賞するためか気負いを全く感じさせない。自然なのである。日本人にはこちらがよく合っている、地に足がついているという感じが私をゆったりした気持ちに導いてくれる。そのほか、日本や中国の仏像、青銅器、それに掛け軸にも印象に残るものがあった。

それから館外に出て先ほどの庭園の中に入る。木が高くのびているせいだろう、一瞬自然の中に吸い込まれるような感覚を覚える。下に降りていくと淀んだ池があり、素晴らしい紅葉が目に飛び込んできた(今日の写真)。この写真を撮っている時に実際の風景と写真を比べてみた。普段は違和感をほとんど感じないか、むしろ写真の方が美しく感じることも多いのだが、この景色に限ってはついにその美しさをとらえることができなかった。この景色を見ていて体が吸い込まれてどこかに消えていくような感覚を味わう。自分が眼だけになるというあの感覚である。

いくつかの茶室ではお茶会が開かれていた。老若男女が和服姿でこの景色を眺めながらお茶をたてている。外から見ていると和やかな雰囲気に溢れている。和服姿でお茶会に参加するのも一興ではないか。そんな思いとともに深い秋の一日を味わわせてもらった。

----------------------
ある休日の午後(I)
ある休日の午後(III)
ある休日の午後(IV) 

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉本博司展 「時間の終わり」 HIROSHI SUGIMOTO "END OF TIME"

2005-11-27 00:17:27 | 展覧会

先日、余り気乗りがしないまま杉本博司の展覧会「時間の終わり」に出かけた。すでに彼のエッセイ「苔のむすまで」を読み、その考えをある程度知っていたのとこの本の写真が素晴らしいので会場で受ける印象が予想されたためだろう。実際に思った通りの結果になってしまった。初めて見るというのはやはりスリリングである。

最初の機械を撮った写真では無機質なもの、本来美を意図していないものの中に美が宿っているということを表現しようとしている。これは日頃よく経験することである。特に自分が写真を撮るようになってから自分でも意識できるようになってきた。今まで何でもなかったものが急に美しく見えてくるという経験は何とも言えない。

古代の写真は背景も含めてじっくり見た。そうしているうちに、自分がその現場にいるような錯覚に陥る。それが本当に錯覚なのですか、と問われているようでもある。大きい昔の絵を見ている時にも同じような感覚を覚えることがある。

古代人が見た海を撮ろうとした企て。この中の最初の方にあった霧に包まれた海を見て、20年前の記憶が蘇ってきた。アメリカ滞在5年目くらいだったろうか。ニューヨークから車でニューイングランドに向かい、そこからカナダのノバスコシアまで船で渡った時のこと。デッキに出て大西洋を眺めていると、体の芯まで冷え切ってしまうような底知れぬ寂寥感に襲われた。その海がまさにこれであった。

シャッターを上映時間だけ開けて映画館を撮ったシリーズは説明がないと今ひとつピンと来ない。しかし、その背後にある彼の考え(「人間の眼はシャッターのないカメラだ」)を聞いてみると想像が広がる。時々カメラでシャッターを切って、現実と言われるものを切り取ってやる必要がありそうだ。何気なく暮らしている空間が予想もしない美に満ち溢れていることに気付かされる。それは不思議で幸福な瞬間、そして写真が新たな真実になる瞬間でもある。退屈している現実の一瞬を改めて見直してみると、意外に新鮮なものが浮かび上がってくるかもしれない、などと考えていた。

----------------------
ある休日の午後(II)
ある休日の午後(III)
ある休日の午後(IV) 

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイケル・ブルームバーグ再び BLOOMBERG - UN GRAND PHILANTHROPE

2005-11-26 18:08:12 | 自由人

ブルームバーグの人権と報道の自由に対する基本的な考え方を知り、彼を尊敬するようになったと以前に書いた(14 avril 2005)。今週届いた Le Point でブルームバーグがニューヨーク市長に大差(59% vs 39%)で再選されたというニュースを読みながら、その思いは益々強くなっている。

民主党の強いニューヨークでのこの勝利は何かを意味しているのだろう。一期目には前任者ジュリアーニが得意とした犯罪との戦いをよりうまく片付け、ニューヨークの公立学校システムの建て直しについてもメディアの大物を責任者に抜擢し、財政的援助を裕福な友人(ビル・ゲイツ、キャロリン・ケネディ、前GE会長ジャック・ウェルチなど)に頼み、この3年間で2億75万ドルを集めている。これらの成果がニューヨーカーの支持を集めた原因ではないかと分析している。

1942年マサチューセッツ生まれで、24歳でハーバード大学を卒業後、Salomon-Brothersに就職。15年間勤めた後、権力闘争に敗れそこを辞める。その時に手に入った1000万ドルのうち400万ドルをもとに自ら会社を設立。1994年からは奉仕活動を始める。1997年には自伝 « Bloomberg by Bloomberg » を出版。2001年にニューヨーク市長に選出される。

彼の奉仕精神は素晴らしいもので、市長になる前からアメリカ最大の寄付者の一人 « l'un des plus généreux donateurs du pays » とされている。毎年1億3000万ドルを数百の団体に出している。見返りを一切求めず、名前は絶対に出さないという条件付で。Liz Smith も秘密を守るという条件で莫大な額のチェックを貰ったことを打ち明けている。 «Ell reçoit d'énormes chèques à condition qu'on garde le secret. »

2001年の市長選に出る前に夕食をともにした人の話で締めくくられている。
彼は「ビジネスの分野ではもう自分を証明するものは何もない。どの分野で特徴を出しながら自分を役立てることができるだろうか。」と話したという。
« Dans le business, maintenant, je n'ai plus rien à prouver. Où pourrais-je être utile, faire une différence ? »

そして彼は市長になり、その莫大な資産を有効に使おうと決心した。
« Bloomberg a pensé que c'était là qu'il pouvait être plus utile. »

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの信は? QUELLE RELIGION VOUS CONVIENT ?

2005-11-25 00:54:12 | 科学、宗教+

Sayakaさんのブログに不思議なテストが紹介されていたのでやってみたところ、以下のご宣託がでてきました。



You fit in with:Spiritualism
Your ideals are mostly spiritual, but in an individualistic way. While spirituality is very important in your life, organized religion itself may not be for you. It is best for you to seek these things on your own terms.
40% spiritual.100% reason-oriented.



Take this quiz at QuizGalaxy.com



最初は意外な結果に思った。しかし、最近科学と信についての本を読み、立ち止まって考えていたことが反映されたのかなどと考え、変に納得している。おそらく数ヶ月前にやっていれば違った結果になっていただろう。第一、今ごろアインシュタインの本を読むことになろうなどと予想だにできなかったのだから。この手のクイズには興味はなかったのだが、ちょっとした réflexion の機会にはなるようだ。すぐに終わるので試されてみても面白いかもしれません。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続々・アインシュタインの言葉から LA PENSEE D'EINSTEIN (III)

2005-11-24 00:09:10 | Einstein

アインシュタインの言葉をもう少し。

---------------------------------------------

「ほとんどすべての人にとっては、一時的な成功のほうが原理的な深い考察よりもずっと説得力があるもので、それゆえ流行は人々の耳を聞こえなくするのです。たとえごくわずかな期間ではあっても。」


「教師が子どもたちに伝えなければならない最も大切なものは、知識や認識それ自体ではなく、知識を得たり理解することへの憧れであり、芸術・科学・道徳といった精神的な価値に寄せる深い敬意です。考えることが持つ遊戯のような楽しさや、教える対象である事実や出来事に対する好奇心が前もって呼び起こされないままに、知識を教え込むことは全く有害です。なぜならそうした教育は、食欲がない時の食事が料理に対する不快感を引き起こすのと似た、不快な感情を学習者に起こさせるからです。それとは逆に、ひとたび生き生きとした関心を喚起できれば、その関心は学校という枠を越えて働きかけ、人生全体にわたって精神の活力を高めることになります。」


「学問の研究、そして一般に真理と美の探究は、私たちが一生の間、子供であり続けることを許される領域です。」


「知識は重い負担にはならない――
 そう信じている人は大変な思い違いをしている。
 古くさいガラクタで一杯になった人は、
 めったに新しいことを思いつけなかった。
 頭はカラッポにしておくほうがいい。
 知識のためには図書館がある。
 そこでなら、いつだって知識が君のために待ちかまえているし、
 君が行くまでは口をつぐんでいてくれるのだから。」


「音楽は研究活動に<影響>はしませんが、両者とも同じ憧れという泉によって養われており、それぞれがもたらす慰めにおいて、互いに補いあっています。」


「眺める喜びと理解する喜びは、自然の最高の贈り物です。」


「一人一人の人生が自然な限界の中に収まり、その結果、最後にはそれが芸術家の作品のように見えてくることで十分満足すべきではないでしょうか。」

---------------------------------------------
アインシュタイン・ドキュメント「私は神のパズルを解きたい」(哲学書房、1992)から

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・アインシュタインの言葉から LA PENSEE D'EINSTEIN (II)

2005-11-23 00:07:11 | Einstein

「科学に真剣に取り組んだ人は皆、科学を通じて、世界の法則性の中に人間的なものを遥かに越えた精神がはっきり表れているという確信で満たされるようになります。そのような精神と向かい合ったら、ささやかな力の私たちはへりくだらなければなりません。
 このように科学の研究は、特殊な宗教的感情へと通じていますが、とはいえそれはもっと素朴な人々の信仰心とは本質的に異なっています。
 人間が経験できる最も美しく深遠なものは神秘的な感情です。それは宗教同様、芸術や科学におけるあらゆる深みのある探求の基礎にもなっています。これを経験しなかった人は、私には死人とまではいわずとも、盲人のように思われます。」

 (私語) 今読んでいる « Dieu et la Science (神と科学) » の冒頭には、ルイ・パスツールの次の言葉が引用されていた。
 « Un peu de science éloigne de Dieu, mais beaucoup y ramène. »
 (少しだけ科学をやっただけでは神から遠ざかる、しかし打ち込むと神に近づく。)


「存在するものとその法則性には、卓越した精神がはっきりと現れています。私の考えでは、この思いに満たされた状態が本当の宗教性なのです。不滅なものと私が見なすのは、あくまでスピノザの言う意味においてのみの存在であり、スピノザの言う意味で、存在の『属性』である思惟と延長であって、個々の事物ではありません。
 ただ要するに言えるのは、私はスピノザとほとんど同じ意見であり、確信を持った決定論者として、一神教的な考え方にはなじめない、ということです。」

-------------------------------------
アインシュタイン・ドキュメント「私は神のパズルを解きたい」(哲学書房、1992)から
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アインシュタインの言葉から LA PENSEE D'EINSTEIN

2005-11-22 00:07:26 | Einstein

昨日、アインシュタイン・ドキュメント「私は神のパズルを解きたい」(哲学書房、1992)という本が届いた。今読んでいる « Dieu et la Science » の繋がりだろうか。その中からいくつか引用してみたい。

-------------------------------------------

「人間は馬よりも暗示にかかりやすいものです。そしてどんな時代も一つの流行に支配されており、大半の人々は彼らを支配している暴君に気づくことさえありません。」


「私自身には特別な才能などないことを私は十分よく知っています。好奇心とものにとり憑かれたようになる心、そして辛抱強い忍耐力が自己批判と結びつき、私を私の思想へと導いたのです。」


「知識それ自体のための知識の探求、ほとんど熱狂に近い正義への愛、そして個人の独立性の追及―これらはユダヤ民族の伝統のモチーフです。それゆえに私は自分がユダヤ民族に属していることを運命の賜物と思い知らされるのです。」


「私は正真正銘の『一頭立て馬車』であり、国家にも、故郷にも、友人関係にも、いや自分の家族に対してさえも、心の底から帰属することはなく、むしろこうしたあらゆる絆に対して、いつまでもやむことのない違和感と孤独を求める気持ちを感じ続けてきました。こうした感情は年をとるとともにますます強まっています。」

 (私語) 少し通じるところがありそうである。その違和感に。


「概念と観察の間には橋渡しできないほどの溝があります。観察結果をつなぎ合わせることだけで、概念を作り出すことができると考えるのは全くの間違いです。

 あらゆる概念的なものは構成されたものであり、論理的方法によって直接的な経験から導き出すことはできません。つまり、私たちは原則として、世界を記述する時に基礎とする基本概念をも、全く自由に選べるのです。」

 (私語) ここが真の創造性の発揮される場所なのだろう。概念(仮説)を立てる時にこれほど自由でいられるということに気づくというのは大変なことだ。それができるかどうかでその後が大きく変わってくる。その概念が本当かどうかを確かめることに費やされるその後の生活は充実していそうである。最後には落胆が待っているかもしれないが、一つの科学者の生きる道を示しているようだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横須賀功光 写真展「光と鬼」 PHOTOGRAPHIES DE NORIAKI YOKOSUKA

2005-11-21 07:20:45 | 展覧会

昨日の朝、恵比寿に向かう。特に当てもなかったのだが写真美術館が目に入り、横須賀功光という人の写真展「光と鬼」 « Photon et Ogre »を見る。全く知らない人だったので、興味津々で会場に入った。やや湿気を持ったほの温かさが暗い会場を包んでいる。作品の配置に工夫を凝らしているせいか、最初は迷路に入ったように感じたが、しばらく会場に身を置いているうちに全体像が見えてきた。

私の場合、形として認識できそうなものしか受け付けないようなところがあることに気付く。写真のいろいろなテクニック(詳細はわからないが)を使っているような作品が多数見られたが、余り入ってこなかった。写真家としてはテクニックを競うという人よりは、対象をいかに選び、そこからいかに美を切り出すかというところに集中しているような人の方が好みのようだ。今回の展覧会では人体や仏像を撮ったものが気に入った。

山口小夜子を撮ったシリーズがあった。日本的な現場に白粉をつけた山口がいる。白粉をつけた人を見るとなぜか悲しくなる。理由はわからない。舞妓さん、芝居の役者、白粉を全身につけた舞踏集団、歌舞伎役者などなど。なぜかわからない。未だに歌舞伎を見に行こうと思わないのは、そんな心の動きが無意識に働いているのだろうか。

特に形のはっきりしない写真を見ながら、この人の声や考えを耳にしたこともなければ読んだこともなかったので掴みようがないというもどかしさを感じていた。ピカソの言葉ではないが、芸術において重要なのは何を求めたかではなく、何を見つけたのかであるという。意図ではなく結果だ、ということ。他の分野にも通じるものだろう。確かに、芸術家はその作品でのみ語るべきだという話は知っているつもりだが、作者の意図を知らないよりは知っている方が作品の理解には助けになるのではないか、この人の考えを聞くことにより、ひょっとすると半分以上の作品がもう少し近くなったかもしれないのでは、などと考えていた。

最後に展覧会のタイトル。「光と鬼」の光の部分はわかったつもりだが、鬼の部分がピンと来なかった。作品をつくる時の作者の心のうちにあるものを言ったのだろうか。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏検を終わって APRES LE FUTSUKEN,

2005-11-20 23:51:30 | フランス語学習

今日の午前中、恵比寿の写真美術館でやっていた横須賀功光 写真展「光と鬼」を見てから仏検会場の青山学院大学まで歩く。朝のカフェで聞いた "I've got you under my skin" が鳴り響くのを聞きながら。

試験が始まる前、先週のDALFを同じ会場で受けた人とばったり会い、先週のことや今日の試験のことなどを話す。この方、フランスで3年滞在し仕事もしていたとのことで問題ないと思うのだが、初めての仏検で1級挑戦とのことであった。私の場合は今回が3度目。準1級に受かってからは2度目。過去2回で様子を見ているためか、以前よりはよくわかってきているな、というのが受けている時の印象。しかし正解を見て、全くの錯覚であることが判明。確かに試験の構造はわかってきていたのだが、フランス語の中身となると話は別。以前は全くわからないので点数にならなかったが、今回はどう答えればよいのかはわかってきているのだが、その答えが間違っていて(性の一致、単複の一致、時制の一致などなど)点数にならないという結果だったようだ。残念ながら、進歩しているという確証は遂につかめなかった。

先週のDALFの試験との比較になるが、仏検(日本のフランス語の先生)の求めているところがフランス人が外国人に求めているものと明らかに違っているようだ。私の印象だが、DALFではフランス語の総合的な運用能力やフランスの社会や文化に目を向けているのに対して、仏検の場合よく指摘されるようだがやはりフランス語の知識 (辞書を見ればすぐ解けるような問題など) に注意がいっているように感じる。そのためか、いわゆる試験勉強をしなければ合格は難しそう。DALFの場合は、難しいが楽しくなる試験。仏検の場合はまさに「試験」という感じで、小手先に終わってしまいそうな印象が強い。楽しくないのである。同じ語学なのだが、刺激されるところが違うようだ。日本の語学教育の癖がよく見えるような気もしてきている。

いずれにせよ、当分の間試験という pression から解放されて、思う存分にフランスの海に浸かってみたい。

コメント (7)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アマゾン中毒再び ESCLAVE D'AMAZON, UNE CRISE AUTOMNALE ? 

2005-11-19 08:24:32 | フランス語学習

先日、去年の今頃の記事を見ていたら「アマゾン中毒」という言葉が出てきた。今年も同じ症状を示しているな、というのが最近の感想である。昨日は北斎に関するものが4-5冊。その前の日には、最近翻訳が出た「移民たち」で話題になっている W.G.Sebald の作品が4-5冊届いていた。いつ読むのか?という感じである。

秋は読書への意欲を呼び起こしてくれる。そんなことから、学生時代の試験前には無性に本が読みたくなっていたことを思い出した。先週のDALFに続き、明日はフランス語検定(仏検)を受けることになっている。DALFの後は完全な虚脱状態で、フランス語のお勉強をしようなどという気にもならない。自分の持てるものをあれだけ搾り取られると至極自然なことだろう、と諦めている。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国語を学ぶと... UN AVANTAGE D'APPRENDRE LES LANGUES

2005-11-18 20:10:16 | フランス語学習

外国語を学ぶ過程で面白い、為にもなる経験をしてきたようだ。最近書いていることとも関連があるので触れてみたい。おそらく多くの人にとっては当然のことなのだろうが。

アメリカ滞在中の話で、私の場合は年に一度か二度、イギリス人の先生と顔を突き合わせて一ヶ月ほどかけて一緒に仕事のまとめを書いていた。その時に文章を書くというのはこういうことか、ということを悟らせてもらった。彼はすらすらと書くというタイプではなかった。いろいろと言葉を選び、その場所を動かしながら、一番しっくりきてしかも短い文章をつくるという考えを実現する過程を目の当たりにしたせいだろう。最初はいらいらしていたが、当時まだ20代後半か30代前半だった私は、それまで意識して日本語の文章を書いたことはなかったのだろう。ああこういうことだったのか、と妙に納得した記憶がある。それ以降、日本語を書く時にも参考になっているようだ。無意識のうちに。

また最近のフランス語での経験では、文章を読む時に自分の気に入ったところだけを引っ張り出す癖があることに気がついた。その読み方は、著者が何を語っているのかという全体をしばしば見失わせる、あるいは気にかけないものだった。今回経験したDALFという試験では、その文章が何を言いたいのかを他の人に伝えなければならないので、著者の言いたい本筋は何で(私の場合、むしろアネクドート anecdote に興味がいってしまうタイプ)、それがどのように展開しているのか、ということを意識して読んでいかなければならない。しかも複数の文章を読んで、それぞれのまとめや融合ではなく、そこから全く新いものを自分の言葉で作り上げなければならない統合 la synthèse という試験では、その重要性が強調される。さらに、そのためには そのテーマについて想像を羽ばたかせる、フランス語でouvrir l'esprit 「精神を開く」(何とも素晴らしい表現)と言われている作業をしなければならない。ついこの間の経験なのだが、日本語を読む時の態度が少し変わってきているように感じる。

付け加えれば、この間の経験を通して la synthèse という行為があらゆる場面で重要になるような気がしてきた。ぼんやりと統合などと考えたり、語られたりしているが、その本来の意味をじっくり考えると、これこそ意識してやるべきことではないかとさえ思えてくる。いろいろな解決策が生れてくる可能性も出てくるのではないだろうか。

外国語を学ぶと、予想もしない効果が自分のところに返ってくることもあるようだ。

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス語学習の密かな楽しみ UN PETIT BONHEUR DANS LE FRANCAIS

2005-11-17 20:09:47 | フランス語学習
外国語として英語を使っていた時に抱いていたフランス語に対する印象が少しづつ変わりつつあるようだ。

英語は一般的に、語尾を発音しないようにするので、語尾をはっきり発音されると非常にダサく聞こえたものである。フランス語を始めてみて、語尾をはっきりしなければならないことがあり、最初耳障りであった。しかしそうしなければフランス語らしくないのでは、と思うと意識的にそうすることがある。その過程で、そういう具合に話をしていた人にも共感が沸いてきたように感じる。フランス人がどうしてあの訛りで英語を話すのかもよく理解できるようになり、今ではいとおしいくらいだ。

また以前には単純に美しい音だなーと思っていたフランス語だが、最近ではかなり泥臭い言葉のように感じ始めている。特に生活のにおいや思考の痕が生々しく出るような場合にそれが著しい。これまでの価値観が変わるという経験をすることは、自分の中が揺さぶられることなので結構面白い。節操の無さではなく、それだけの柔らかさを持っている証であると考えたい。自分の中に揺さぶりを加えて、中に一体何が入っているのかを探ろうとする場合、外国語(文化)に触れてみるのが手っ取り早い方法かもしれない。

英語との関連でいえば、同じ綴りの言葉がフランス語にはたくさんあるが、発音だけでなく意味が違うものがある。「faux amis 偽りの友人」と言うようだ。これが結構面白い。昨日出会ったものでは、évaporé というのがあった。英語では蒸発するということだが、フランス語には「軽薄な、軽率な(人)」という意味もあるらしい。この手の発見は脳に小さな振動を与えてくれる。

また、英語に対応する言葉が少しだけ違う形と音になっているのを見つけた時も同じ変化が起こる。これも昨日の例だが、intrinsic (「元々備わっている、内在性の」という意味)とその反対の extrinsic (「本来のものじゃない、外来性の」) がフランス語では intrinsèque (アントゥランセック)、extrinsèque (エクストゥランセック) となる。こういう音の変化に触れる時もなぜか嬉しくなる。そう言えば、フランス語を始めたばかりの頃、ベトナムの形容詞が「ベトナミアン、ベトナミエンヌ」、タイの形容詞が「タイランデー、タイランデーズ」と発音されるのを聞いて、非常に新鮮で無性に楽しくなったことを思い出した。

私の場合、こんな小さなことが外国語を学ぶ時の楽しみのひとつになっているような気がしている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする