フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

雪舟再び SESSHU REVISITE

2007-03-06 21:23:56 | 日本の画家

昨日の夜、BS放送で 「雪舟・画聖と呼ばれた男」 に出くわす。雪舟は昨年山口まで出かけて見ているので、強い印象を残した画家になっている。

   2006-11-11 雪舟展に向かう
   2006-11-12 雪舟展にて
   2006-11-13 雪舟 山水図 絶筆

雪舟役の梅津栄さんが国宝の 「四季山水図卷 (山水長巻)」 の中に入ってそこに描かれている人たちと会話を交わしているところは、私が普段やっていることを映像にしてくれているな、と思わずにやりとしていた。今回の番組で特に発見はなかったが、雲谷庵で弟子と暮らす雪舟の生活振りを見ている時、庵を結ぶ生活への強い想いが再燃してくるのを感じた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浦上玉堂という人 URAGAMI GYOKUDO

2006-11-20 23:01:43 | 日本の画家

昨日の新日曜美術館で素晴らしい人が紹介されていた。

浦上玉堂 (1745年 - 1820年10月10日)

一言でまとめると、武士から文人へ、役人から芸術家へ、50歳という人生の半ばでギア・チェンジした人、あるいはすることができた人ということになるだろう。

若い頃から芸術 (書画、琴、詩) に打ち込み、35歳の時には明からの名琴 「玉堂清韻」 から玉堂の名前を取る。自ら琴を演奏するだけではなく、琴を製作したらしい。そのせいか、仕事もままならず、50歳の時に脱藩・出奔する。当時岡山だけでも2,000人ほどが出奔しており、彼もお咎めなし。二人の子供を連れ、琴・絵を友として、それまでに築き上げていた人的ネットワークを頼りに諸国を渡り歩き、晩年は息子を頼って京都に落ち着いたという。

その間の彼の姿勢には見習いたいものが多い。とにかく、気ままに描く、人に見せるためではなく、自分の喜びのためにだけ描く。自由に伸びやかに。生涯に300点ほどの絵をものしている。彼は中国の文人にその理想の生き方を見ていたようで、深山幽谷に庵を結び、心静かに生きること。また、万巻の書を読み、千里の道を辿るという生き方。

玉堂の生き方には深く共鳴するものを感じる。一つの行き先を指し示しているようにさえ思える。

彼の絵には、小ざかしさがなく、ほがらで、おおらかで、素朴な絵心が表れているという。彼の絵はまだ千葉市美術館で見ることができる。是非彼の作品に直に触れておきたいと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私は虫である」 JE SUIS UN INSECTE

2006-11-16 20:02:33 | 日本の画家

山口から帰った日の夜、NHKアーカイブスという番組で、ある昆虫画家の人生が流れていた。10年ほど前の番組だろうか。80過ぎの画家がファーブル昆虫記の虫たちを淡々と描いている。その質素で慎ましい暮らし振りが映し出されている。必要なものしかないような家に住み、ひたすら描いている。私の心を打ったのは、そのお顔の高貴さである。その美しさに思わず惹きこまれてしまった。番組終了後、現在の姿が出ていた。95歳 (?)。まだ矍鑠 (かくしゃく) としている。小学生に自然の大切さを輝く目で語りかけている。かくありたしと思わせてくれる一瞬であった。ファーブルの絵はまだ完成していないという。

その画家は、熊田千佳慕 (くまだ ちかぼ) という。
知る人ぞ知る人なのだろう。
嬉しい出会いであった。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪舟 山水図 絶筆 LE DERNIER TABLEAU DE SESSHU

2006-11-13 00:09:56 | 日本の画家

雪舟の絶筆であると思われる 「山水図」 (国宝:今日の写真) がある。これも顔を近づけて見たい絵である。曲がりくねった道を登る二人の姿も見える。何を思うのか。そのうちの一人は雪舟自身なのか。

当時の禅僧の間で行われていた 「詩画軸」 という形態がある。それは軸の下に描かれた水墨画に触発された思いを漢詩に詠い、その余白に書くという詩と画が一体になった軸。この山水画についても以参 (牧松) 周省 (いさん ぼくしょう しゅうしょう) と了庵桂悟 (りょうあん けいご) の詩が上に書かれている。

以参 (牧松) 周省
「険しい崖の小径は、羊腸のように曲がりくねり、白髪の高士と蒼頭の侍童は、さまよい歩いているようだ。かつて住んだ韋村には、枯れた竹が短く生え、前代からの蕭寺には老松が長くそびえている。東へただよい西にとどまる、千里の船旅のような人生は、北の郊外や南の果てをめぐる、夢のようであった。私もまた、彼に従って帰りたい。青山がそびえるあのふるさとへ。」

了庵桂悟
「日ごろから詩や画で胸の内を晴らそうとしている。人の生き場所とは、いったいどこなのだろうか。重なり連なる山々は、剣の先のようにそびえ、はるか遠くの入江へつづく堤は、屏風のように横たわる。小径は岩の隅をまつわりめぐり、楼閣は木の陰で高くそびえている。牧松は韻 (詩) を遺して亡くなり、雪舟もまた逝った。私はこの空の果てで残りの命を長らえて、春の夢から覚めた思いでいる。」


会場を出ると、激しい雨。雨宿りをかねて、美術館入り口に設けられた茶屋で雪舟膳をいただく。赤飯、野菜の煮物、お澄まし、それに栗の甘露煮という簡素なお膳を、テントに当たる雨音を聞きながら味わう。これから向かう中也記念館のことなどを思いながら。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小泉淳作という画家 QUI EST DONC JUNSAKU KOIZUMI ?

2006-11-07 21:51:31 | 日本の画家

先週の新日曜美術館で山本丘人という日本画家の特集が流れていた。その中で、尊敬する師のことを語っている見覚えのある画家が出ていた。小泉淳作である。以前に同じ番組で、仕事場を北海道に作り、京都建仁寺法堂天井の双龍図の制作に当たっている彼の姿を追っていた (ように記憶している)。その時、作品の迫力のみならず、彼の厳しい目が強い印象を残した。飽くことなき追求心、満足することを知らない、反骨の心がその目に表れているのを感じたのだ。そして、その目に再び会った。

彼のことをネットで調べてみると、以前に流し読みをしていた 足立則夫著 「遅咲きのひと」 で取り上げられていることを知る。その内容はネットでも読むことができる (こちらです)。

この方、1924年鎌倉生まれで御年82。父親は政治家で彼は妾宅で生まれたという。5歳で母親を、11歳で父親を亡くす。彼はこう語っている。「私にとって最大の不幸だと思われるのは、この世の中にとって全く報いを期待しない無条件の好意を与えられる親の愛情をほとんどうけることが出来なかったことだ。おかげで私は人から好意を受けたりした場合、この人はどういうつもりで自分によくしてくれるのだろうと考える習慣が若い頃から出来たことだと思う」

大学 (仏文) を中退して芸大の日本画科に入る。そこで山本丘人に師事する。軍隊、療養などのため卒業は27歳の時。画では食べていけないので、デザインで生計を立てる。48歳になった時に陶芸で生活できるようになり、画だけで食べられるようになったのは59歳からだという。まさに 「晩生の画家」 であり、大器晩成である。画壇でも一匹狼を通す。70歳で妻に先立たれ、孤独の中で自らの芸術を高めている。若くしてどこかに達したような錯覚に陥っていないところが、彼を慢心させることなく前に進める力になっているように感じる。そして彼の目はまさに彼の人生を表していたことを知る。

しかし本当のところ、どんなことを考えながらこれまで歩んで来られたのだろうか。
随筆集 「アトリエの窓から」 を注文していた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水登之を見つける RENCONTRER TOSHI SHIMIZU

2006-08-09 23:33:32 | 日本の画家

先日、吉祥寺美術館のショップで画集を見ている時に、もう一人の画家が飛び込んできた。画家の心、その野太い心を強く感じたというのだろうか。とにかく印象が強かった。レジェのようでもあり、先日横浜で見たゲオルゲ・グロッスのようでもあり、ホッパーやアンリ・ルソーの雰囲気を感じたりするところがあるが、全てを通してみるとやはり違う。

清水登之(1887年1月1日-1945年12月7日)

画集の中にあった彼の娘 (中野冨美子) さんが語る逸話を読んでいる時、この画家を以前に新日曜美術館で見たことを思い出した。終戦の2ヶ月前に長男育夫の戦死の公報を受け取ってから、毎日のようにお墓 (と言っても出征の前に取っておいた髪の毛と爪が埋めてあるだけの) に行くようになる。ある日彼女が心配して父親の後を追っていくと、彼女の兄の墓の前で 「育夫!育夫!」 と嗚咽する父親の姿を見つけ、その悲しみの深さを感じたという。登之はすべての希望を失い、その半年後に白血病のために亡くなる。享年58。

テレビではこの話だけがなぜか強い印象を残していて、絵の記憶はほとんどなかったが、今回初めて絵の方から近づいてきてくれたという感じである。そう誘う力があるのだろう。彼の絵を見ていると知らないうちにその中の物語に入っていっている自分に気づく。

二十歳に渡米し、いろいろな仕事をした後シアトルで絵を始め、ニューヨークへ。それからパリにも足を伸ばしている。海外で外国人として暮らした経験を持つ人の心にはどこかで共感しているところがあるようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発見: 野田九浦 J'AI DECOUVERT KYUHO NODA

2006-08-07 23:13:29 | 日本の画家

先日のお休みに、「アフリカ」 の看板に惹きつけられて吉祥寺美術館に立ち寄る。そこの小さなミュージアムショップに入り、絵葉書を見る。その中にあった相撲取りの絵に吸い寄せられる。見ると同じような空気を静かに発散しているものが数点見つかった。その作者を見てみると、

野田九浦 (のだ きゅうほ:1879年12月22日 ~ 1971年11月2日) であった。

1924年から武蔵野吉祥寺に居を移してからは、上高井戸に画室を設けたり、70代になり金沢美術工業大学の先生を4年ほど勤めるが、終生武蔵野の地で過ごし、亡くなる。享年91。

外の暑さのせいもあったのだろうか。昔の日本人の凛とした姿がけれんみなく描かれているその世界が懐かしくもあり、非常に清々しくも感じた。描かれているのは、雪舟、宗祇、芭蕉、其角、蓮月尼、江漢、彼の師である寺崎廣業、それから彼が若い時に師事したという子規などの文人画人、中国の歴史上の人物。それにそれぞれの道を歩んでいる市井の人々も含まれている。登場人物の魂が浮き出てくるような印象を受ける。それはまた九浦の眼差しの奥にある彼らの姿でもあったのだろう。

子規に俳句を学んでいたのは18歳から23歳くらいまでだが、「道三 (どうさん)」 の号で終生創り続けたという。画集にあった句からいくつか。

訪客の
 帽子を這へる
  毛虫かな

松蝉を
 追ふ子が独り
  西大寺

彼の雲の
 行方我身や
  秋の風


この方、日本画のみならず、洋画を黒田清輝に学び、何とフランス語も勉強していたという。益々親しみが込み上げてくるようだ。

それから山喜多二郎太 (1897~1965) という人の作品も絵葉書になっていたが、その素朴な味も気に入った。

-------------------------------
今日の写真は1937年 (昭和12年) 58歳の時の作、「相撲」です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曽我蕭白 SHOHAKU SOGA - PEINTRE HERETIQUE ET ...

2006-04-02 10:23:51 | 日本の画家

昨晩もNHK-BS2 「天才画家の肖像・曽我蕭白(しょうはく)」 を見る。途中他の番組に切り替えられたが、二日続けて日本美術との出会いとなった。

曽我蕭白 (1730-1781) 

京都に生まれ、17歳までに兄、両親が亡くなる。昨日の円山応挙 (1733-1795)伊藤若冲 (1716-1800)池大雅 (1723-1776) などと同時代人。当時の画壇の流れは正統な様式を重んじるものであったが、奇想、異端、無頼などと評される個性で特異な世界を構築する。

どうも彼のような人 - 正統、主流というところからは距離を置き、タブーをも犯しながら大それたことをやってしまうような人 - に惹かれるところがあるようだ。同時代人からも邪道扱い、怪しいやつと思われていて、おそらくその評価が戦後まで続いていたのだろう。日本よりは海外でまず評価された後、日本でもその地位が確立されるというありがちな経過をとった。

「雲竜図」 (ボストン美術館所蔵)

この絵は途方もない構図で奇想天外の美を表現している。円山応挙とは同時代だが、構図の大胆さが全く違う (蕭白自身、応挙には相当の対抗心を持っていたようだ)。この絵はどこかの襖絵だったものを切り取ったと考えられ、辻惟雄氏がその場所を特定しようとしていた。絵のサイズから考えて、その絵が収まるお寺を探すという手法であるが、結局見つからず。ただ伊勢市の中山寺(ちゅうざんじ)に襖絵を再現する試みをする。

絵が収まった部屋に身を置き、その野放図で自由な絵の前で、ヒックマンというボストン美術館の学芸員だった人が、彼の絵を一度見ると忘れられないと言っていた。話はずれるが、ヒックマン氏は美術館をすでに退職、今でも自宅で研究を続けているところが紹介されていた。その様子を見て、こういう生活もなかなかよいものだな、などと考えていた。また、この美術館の近くに2年も住んでいたのに入ったことはないように記憶している。もったいないことをしたものだとは思うが、後悔はない。当時はそれどころではなかったと言うことだろう。

最後に、50歳の時の絵 (題名は失念) が紹介されていた。獅子が深い谷を渡るが、崖の上からまっさかさまに落ちている獅子もいる、という動感溢れる絵である。生存競争の厳しさを言いたいのか、その意味するところは未だ不明である。この絵の2年後、京都で亡くなる。

雪山童子図
群仙図屏風
松に孔雀図」 など

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円山応挙 OKYO MARUYAMA - ESPRIT DE LA RENAISSANCE

2006-04-01 10:30:07 | 日本の画家

昨日の夜、NHK-BS2 で 「からくり絵師 円山応挙」 という番組を見る。聳えるような人物として名前だけは聞いていたが、どんな作品を描いているのかは知らない。案内人の与謝蕪村 (1716-1784) の人間味ある語りで、応挙がわれわれの地平に降りてきて、共感が湧いてくる。自分の目を愚直に信じ、絵に革新をもたらした63年の人生に引き込まれていた。

円山応挙 (1733 享保18年 - 1795 寛政7年)

京都亀岡の農家の生まれ、子供の時から絵を描き始め、その頃の絵馬も残っているという。

20代、不思議な絵との出会いが彼を変える。その絵は 「めがね絵」 と言う。凸レンズの付いた窓から中を見る 「覗きカラクリ」 という箱の中に入れて、自分の世界として楽しむもので、詳細に描かれた異国の風景が入っていた。彼はそれを日本風にアレンジし、独自のめがね絵を描く。遠近法を取り入れ、臨場感を増した三十三間堂、祇園祭、四条大橋、夜の五条大橋 (絵に穴を開け、夜の明かりが点る様を表す工夫までしている) などを箱の中に閉じ込め、都の旅ができる仕掛けである。

30歳を過ぎてから、琵琶湖ほとりの三井寺円満院に通う。そこの坊主が趣味人。この時期に自分自身の目でものを見ることを重視し、新物を臨写する 「新図」 という画風を確立する。これは伝統 (様式) を重んじる当時の画壇に抗ったものであった。

彼の 「写生図鑑」 (国宝) を見るとその凄さがわかる。猿、ねずみ、花、果物、鳥など万物を詳しく描いている。時には遠眼鏡も使っていたようだ。「写生雑録帖」にも見て取れる。

ミケランジェロの修復に携わったことのあるロンドン在住のオランダ人が、応挙はルネサンス精神に通じる近代的な精神の持ち主であったことを指摘していた。ダ・ビンチは 「模倣ではなく、自然を忠実に写すこと」 が大切であると言っているが、応挙はまさにこの精神の持ち主であった、と。

応挙39歳の作、「牡丹孔雀図」 の羽根の描写なども、今にもそこから飛び出してきそうなほど素晴らしい。 彼の写生は実在しないものについても徹底していた。竜の絵の依頼を受けた時には、文献を調べるだけではなく、「竜の手」 を秘宝として持っている寺に出かけては写生をしている。それは 「雲竜図」 (重要文化財) に結実。応挙41歳。

庭に滝がない円満院の住職から滝の絵を頼まれ、「大瀑布図」 を40歳で完成させる。この絵は3m60cmに及ぶため、下が畳に置かれるようになる。そのため、上から見ると下が滝つぼのように見え、下から見るとこちらに滝が流れてくるように見えるという 「からくり絵」 になっている。お客さんを喜ばそうという精神がここにも感じ取ることができる。

彼はまた書筆とは別に絵筆を独特のものとして作らせていた。やわらかい狸の毛に馬の硬い毛を少し混ぜたもので、その筆で描くとより人間が出るという。

「雨竹風竹図」 (重要文化財)
雨に打たれる竹の葉、風に吹かれる竹だが、雨は見えない、風は見えない。描かざる写実を始める。自然の一場面を切り取った応挙44歳の素晴らしい作品である。

「雪松図」 (国宝)
たっぷりと雪をかぶった松が金を背景に描かれる。静かなやわらかな景色。写実を極めたと言われる作品で、大きな世界に繋がるようだ。応挙54歳。


50歳を超え、人生を賭けた仕事に取り掛かる。兵庫県大乗寺の13室、165枚の襖絵を弟子とともに製作。彼はその中の3室を受け持つ。

郭子儀の間 (1787年)
15人の子宝に恵まれたと言われる郭子儀と子供が無邪気に、天真爛漫、奔放に描かれていてなかなかよい。希望も感じる。

山水の間 (1787年)
静寂を極めた理想郷。隅には険しい山、そこから流れる水が畳に流れ込むように描かれている。畳を大海原として見立てているようだ。実際にその部屋に身を置くと理想郷にいるような、そんな気がしてくるのだろう。

孔雀の間 (1795年)
三番目の襖絵製作を京都で始めるが、天明の大火で灰と化す。結局、完成までに8年を費やす。25畳の部屋に松と孔雀を描く。部屋の奥には頭上に十一面の阿弥陀如来十一面観音。この部屋を死者が出向く阿弥陀浄土に見立てている。阿弥陀を見るために襖を開けると、他の絵と繋がり新たな景色が現れるように工夫されている。最後のからくり絵であった。この頃、痛風や目を患い歩くこともままならなくなっていた。この絵を完成させた3ヶ月後、京都で亡くなる。

番組の最後で、案内人蕪村が応挙との合作(絵に句が添えられている)を手に持ちながら、応挙は絵で人を喜ばせたいと考えていた、絵に誠を尽くした一生だったとまとめていた。


<紹介されていた蕪村の句>

春の海 ひねもすのたり のたりかな

筆注ぐ 応挙が鉢に 氷哉

雪つみて 風なくなりて 松の風

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする