昨日の夜、NHK-BS2 で 「からくり絵師 円山応挙」 という番組を見る。聳えるような人物として名前だけは聞いていたが、どんな作品を描いているのかは知らない。案内人の与謝蕪村 (1716-1784) の人間味ある語りで、応挙がわれわれの地平に降りてきて、共感が湧いてくる。自分の目を愚直に信じ、絵に革新をもたらした63年の人生に引き込まれていた。
円山応挙 (1733 享保18年 - 1795 寛政7年)
京都亀岡の農家の生まれ、子供の時から絵を描き始め、その頃の絵馬も残っているという。
20代、不思議な絵との出会いが彼を変える。その絵は 「めがね絵」 と言う。凸レンズの付いた窓から中を見る 「覗きカラクリ」 という箱の中に入れて、自分の世界として楽しむもので、詳細に描かれた異国の風景が入っていた。彼はそれを日本風にアレンジし、独自のめがね絵を描く。遠近法を取り入れ、臨場感を増した三十三間堂、祇園祭、四条大橋、夜の五条大橋 (絵に穴を開け、夜の明かりが点る様を表す工夫までしている) などを箱の中に閉じ込め、都の旅ができる仕掛けである。
30歳を過ぎてから、琵琶湖ほとりの三井寺円満院に通う。そこの坊主が趣味人。この時期に自分自身の目でものを見ることを重視し、新物を臨写する 「新図」 という画風を確立する。これは伝統 (様式) を重んじる当時の画壇に抗ったものであった。
彼の 「写生図鑑」 (国宝) を見るとその凄さがわかる。猿、ねずみ、花、果物、鳥など万物を詳しく描いている。時には遠眼鏡も使っていたようだ。「写生雑録帖」にも見て取れる。
ミケランジェロの修復に携わったことのあるロンドン在住のオランダ人が、応挙はルネサンス精神に通じる近代的な精神の持ち主であったことを指摘していた。ダ・ビンチは 「模倣ではなく、自然を忠実に写すこと」 が大切であると言っているが、応挙はまさにこの精神の持ち主であった、と。
応挙39歳の作、「牡丹孔雀図」 の羽根の描写なども、今にもそこから飛び出してきそうなほど素晴らしい。 彼の写生は実在しないものについても徹底していた。竜の絵の依頼を受けた時には、文献を調べるだけではなく、「竜の手」 を秘宝として持っている寺に出かけては写生をしている。それは 「雲竜図」 (重要文化財) に結実。応挙41歳。
庭に滝がない円満院の住職から滝の絵を頼まれ、「大瀑布図」 を40歳で完成させる。この絵は3m60cmに及ぶため、下が畳に置かれるようになる。そのため、上から見ると下が滝つぼのように見え、下から見るとこちらに滝が流れてくるように見えるという 「からくり絵」 になっている。お客さんを喜ばそうという精神がここにも感じ取ることができる。
彼はまた書筆とは別に絵筆を独特のものとして作らせていた。やわらかい狸の毛に馬の硬い毛を少し混ぜたもので、その筆で描くとより人間が出るという。
「雨竹風竹図」 (重要文化財)
雨に打たれる竹の葉、風に吹かれる竹だが、雨は見えない、風は見えない。描かざる写実を始める。自然の一場面を切り取った応挙44歳の素晴らしい作品である。
「雪松図」 (国宝)
たっぷりと雪をかぶった松が金を背景に描かれる。静かなやわらかな景色。写実を極めたと言われる作品で、大きな世界に繋がるようだ。応挙54歳。
50歳を超え、人生を賭けた仕事に取り掛かる。兵庫県
大乗寺の13室、165枚の襖絵を弟子とともに製作。彼はその中の3室を受け持つ。
郭子儀の間 (1787年)
15人の子宝に恵まれたと言われる郭子儀と子供が無邪気に、天真爛漫、奔放に描かれていてなかなかよい。希望も感じる。
山水の間 (1787年)
静寂を極めた理想郷。隅には険しい山、そこから流れる水が畳に流れ込むように描かれている。畳を大海原として見立てているようだ。実際にその部屋に身を置くと理想郷にいるような、そんな気がしてくるのだろう。
孔雀の間 (1795年)
三番目の襖絵製作を京都で始めるが、天明の大火で灰と化す。結局、完成までに8年を費やす。25畳の部屋に松と孔雀を描く。部屋の奥には頭上に十一面の阿弥陀如来十一面観音。この部屋を死者が出向く阿弥陀浄土に見立てている。阿弥陀を見るために襖を開けると、他の絵と繋がり新たな景色が現れるように工夫されている。最後のからくり絵であった。この頃、痛風や目を患い歩くこともままならなくなっていた。この絵を完成させた3ヶ月後、京都で亡くなる。
番組の最後で、案内人蕪村が応挙との合作(絵に句が添えられている)を手に持ちながら、応挙は絵で人を喜ばせたいと考えていた、絵に誠を尽くした一生だったとまとめていた。
<紹介されていた蕪村の句>
春の海 ひねもすのたり のたりかな
筆注ぐ 応挙が鉢に 氷哉
雪つみて 風なくなりて 松の風