フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

こんもりとした木々 DES ARBRES EPAIS

2006-08-03 00:48:10 | 写真(家)

以前に撮った写真で、木の見え方が頭にある姿と違うことに気付いていた。木が立体的にこんもりと見えるのである。夜に撮った写真だったので光、あるいはフラッシュの関係かと思ってそのままにしておいた。先日車の中から並木道の木々を見ていたら、以前に撮った写真と同じように見える。よく見ると外側に淡い緑の新しい葉っぱが出ていて、それが木全体に立体感を与えているのだ。いつも観察しておられる方にとっては、何を今更、というようなことだろうが、私にとっては小さな発見となった。

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ある門前にて DEVANT UNE PORTE ...

2006-06-04 15:43:13 | 写真(家)
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木村伊兵衛、荒木経惟、そして写真とは IHEI KIMURA ET NOBUYOSHI ARAKI

2006-05-24 00:41:57 | 写真(家)

週末、テレビをつけると写真家木村伊兵衛の特集をやっていた。

木村伊兵衛 (1901年12月12日 - 1974年5月31日)

木村には 「コンタクト」 と題する何気ない日常を撮ったシリーズがあり、主にそれが取り上げられていたようだ。以前に秋田のシリーズをどこかで見た記憶がある。とにかくひとつの流れの中でフィルムに写 (移) している。ある一瞬に賭けるというのではなく。これは荒木が本の中で語っていたこととも通じる。

私も最近感じていることがある。写真を撮り始めて1年ほど経つが、最初はとにかく美しいというよりは綺麗なもの、あるいはそう思われているものを撮ろうとしていた。そのうちに、それまで全く気付かなかったところに美しい形や色を持ったものがあることに気付き始める。それを写真にとり、眺めているうちに現実の見え方が変わってくる。写真に現れたものに影響を受けているのだ。それから、ある考えで写真を撮ったつもりが、後で見直すと全く違った雰囲気や思考が誘発されるということが意外に多いことに気付く。本当に何気ないものの中にも何かが見えてくることがある。それがわかった時、写真を撮るその時点の自分には余り拘らなくなった。

こういうところに考えが至ると、木村の 「コンタクト」 シリーズの意味が非常に身近に迫ってくる。去年の木村伊兵衛賞受賞者の鷹野隆大は木村の写真を見せられて、「記録として意味がある、私も50年後のために撮っている」 というようなことを言っていた。そのエッセンスには全く同感である。ある時点をフィルムに留めることが最も重要なことで、あとは後の自分に任せる。これがどういうふうに見えてくるのか、という大きな楽しみが増えるのだ。そう考えるようになってから、写真の意味が変容し、自分にとって非常に大きな存在になりつつある。

メランコリックな眼をした荒木がコメントしていた。

「木村の写真を見ると懐かしさを感じる。懐かしさを感じない写真は駄目だね。その写真家は人間をやってこなかったんだ。」

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(version française)

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DANS LE HAMAC DE ...

2006-05-15 22:54:50 | 写真(家)

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ある雨の日曜日 UN DIMANCHE PLUVIEUX

2006-05-08 22:40:46 | 写真(家)








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アラーキー再び ARAKI D'APRES AMATEUR D'ART

2005-11-04 00:03:40 | 写真(家)

久しぶりに Amateur d'art 氏のサイトを訪れる。以前に、彼と荒木との関係を書いたことがある。特に緊縛の写真からか、西洋で荒木に対する受け止められ方は必ずしも芳しいものではなく、彼もそれまでは忌避していたようだ。しかし、荒木の記録映画(Arakimentari)を見てからその印象が変わったと言う。

今回は、ロンドン(1月22日まで)とパリ(10月23日で終了)の展覧会を見て、さらに荒木にぞっこんになっている様子が伝わってくる。敬意のようなものまで滲み出ている。荒木に対する先入観を捨てて作品に触れるように読者に勧めてさえいる。そして、人生を愛し女性を愛するための最も優れたガイドであると締めくくっている。

« Il n'y a pas de meilleur guide pour aimer la vie, et les femmes. »

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荒木経惟 (II) NOBUYOSHI ARAKI - LECON DE PHOTO

2005-10-15 18:35:56 | 写真(家)

昨日読み始めた荒木経惟の 「写真ノ話」 の残りを読む。改めて書こうと思ったのは、先日のブラッサイ Brassaï の展覧会に彼も女の子と一緒に行っていて、「夜のパリ」 が素晴らしかったという感想を話しているのを読んで、あの空間をどんな風に味わっていたのかという想像を掻き立てられたから。その他にも面白い話があった。例えば、

「なんにしろ、創るということはドキュメンタリーからはじめなければいけないのです。ドキュメンタリーということは、人間の本質をつかみとることです。ドキュメンタリーは凝視の連続です。そして発見、感動です。」

「巨匠といわれる絵描きなんかだって、現物見ないでカタログで影響受けたりするって言うでしょ。現物よりカタログから影響受けるほうが多いんだよね。」

(バルテュスの『街路』の話をしていて)
「『街路』にはいろんな職業の人が描かれているんだよな。子供とか、コックとか。それで、そこにいるのはみんな個人なの。個人個人、個人と個人の間には一見なんの関係もない、個人それぞれが何かをやってる。で、街路でその個人の人生が交差するっていうことなんだろうな。街路は人生の通路っつうかさ、そういうことなんじゃない。そういうのに案外やられたね、『少女』たちより。
 『街路』をみて、オレのイメージと同じだって思ったけどバルテュスはオレよりもずっと前にオレと同じことやってたわけよ。『あれ、な~んだ、もうやってんじゃねぇか』っていう感じ。だからね、いま何か新しいことを思いついたとしても、世界で同時に五人くらいは同じことを思いついているらしいから、そんなもんだよ。」

日仏の見方の違いが窺えるようなお話も。

「きれいなんだもん、とかさ。しょうがないんだよねー、もう可愛くってさ~とか、そういうのがいいの、オレ(笑)。『それはどうしてですか?』とか、『なぜですか?』っていうのが駄目なんだよ。
 はじめのころね、ヨーロッパからいろんな人がインタビューに来てくれて、『それはなぜ?』とか、『どうしてですか?』って聞くわけ。とくにフランスっつうか、パリから来たのがうるさいんだ。『なぜ?』『どうして?』って。」

それから、彼の写真を見ていて、この人は一枚の写真では勝負してはいないな、と感じて昨日書いた。本人もそういう意識でいるらしいことを今日読んで、やはりそうかという思い。

「一点作品にしようなんて意識はもうないんだ。一点無駄なしっていうようなへっぴり腰は駄目なの。ガンジーの火葬に行って撮ったその一点が名作だとか、そういうんじゃないんだよ。ブレッソンさん、ごめんなさい。たとえば、ガンジーの火葬に行くときにぶつかったインドの女のデカイけつとかさ、そういうようなことまで含めないと駄目なんだよ。面白くないんだよ。」

乳がんで乳房切除し、今年亡くなった歌人の話も出てくる。写真を撮るということはその人と関係を結ぶこと。最後まで気持ちを傾けている様子が伝わってきた。巻末には、やはり今年亡くなった杉浦日向子さんとの対談が載っている。彼の心に溢れる優しさが読み取れて、思いもかけない出会いとなった。

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荒木経惟 NOBUYOSHI ARAKI - UN PHOTOGRAPHE ROMANTIQUE

2005-10-14 23:54:51 | 写真(家)

お昼の散策時に荒木経惟の 「写真ノ話」 を読む。昔から気になっている存在だ。常に自分に注意を払っていて、正直。そのツッパリの奥にシャイな自分があり、痛々しくもあり、どこかに深い悲しみを湛えている。この本は語りなので、まさにラジオを聴く感覚で読める。気がついてみると、白水社から出ていて小さくフランス語の題が添えられている。

題名 Leçon de photo
第一部 朝 le matin
第二部 昼 l'après-midi
第三部 夜 le soir

彼にとっての写真とは、日記のようなもの、人生そのものだと言う。常にカメラを持って、その時の自分の周りを撮る。それによって自分が撮られることになる。昔の写真を見ると当時の自分がよくわかる。その当時がどのように今に繋がっていたのかということまで見えてくる。写真に撮っておかなければ、すべてが記憶のかなたに消えていく。まさにブログである。彼の言っていることはよくわかる。彼はこれを40年もやっていたことになる。

写真とは何かを学んだのは、彼の父親と母親が死んだ時だという。その人のよいところを撮ろうとすること、そのためにアングルを選ぶこと。極端に言ってしまうと、それが彼の写真哲学のように感じた。

彼の言葉をいくつか。まず、「日本人ノ顔」 というプロジェクトについて。

「で、撮ってて思うんだけど、顔を撮るっていうことは人と会うっていうことだけど、人の顔の中にすべて、人生とかなんかあるということなんだね。それと、他人と会って、面と向かって、面と向かうことで、相手にエネルギーを与え、向こうからもエネルギーをもらっているような関係性ね、人との関係性、それが写真っつうことなんだよなって思うのよね。そういう関係性、そういうことを、ずーっとやってきたみたいな感じなの。」

近くの子供を撮っていた写真を始めたころを振り返って。

「こうやって四十年分をまとめてみて、このころの写真が一番いいなと思うんだけど、なぜそう思うかというと、やっぱり動くことだって気がついたのよ。生きるっつうか、何かやるっていうことは動くことなの。"生"は動くこと、そっからアタシの場合ははじまってんです。だから、しょっちゅう動いたり変わったりしてるでしょう?実際は変わんないんだけどさ。...
 ...やっぱり、子どもたちの仲間に入って一緒になって子どもたちの世界に入って、子どもになって撮る、そういうことね。アタシは大人になんかなりたくないのよ。っつうのは、ずーっとこういう感じで子ども世界にいたいっていうような感じがあるわけ。」

今や誰でもカメラをいじる。私のその仲間である。そういう時代において写真家とは一体どういう職業なのだろうか。彼の写真一枚だけを見てもそれほど感動しない。彼の命をかけて撮っている写真全体を見る時にある感動が襲ってくる。そしてその後に、一枚をその全体の中に置いて見直すとすべて意味を持ってくる。写真家とは写真を撮ることによって生きている、自分を晒す職業のような気がしてきた。

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パリの Amateur d'art 氏が最近 Araki について書いている。Araki を書いた日はアクセスが一気にシュートしたらしい。

Amateur d'art 氏は彼のことをズーッと怪しい男と思っていたようだ。次のような言葉が続いている。trop porno chic, trop de bondage, un vieux pervers (余りにポルノチックで、ボンデージに溢れ、倒錯老人)。しかし、Arakimentari という映画をロンドンで見てその考えが変わったという。彼が愛すべき人間であり、写真家であることを発見したから。そして、次のような賛辞を送っている。

"Un lutin, vif, nerveux, sautillant, aux cheveux en bataille, rigolard, plen de respect pour ses modèles. Loin d'être misogyne."
(元気がよく、神経質で、考えや動きまでが飛び跳ね、ぐしゃぐしゃ頭の、おどけた、モデルに対する敬意に溢れた悪戯好きの小悪魔。人間嫌いとは程遠い。)

最後に彼はパリのギメ美術館太田記念美術館の浮世絵を見た印象から、荒木を結論付けている。

「江戸という時代が自由 (la liberté)と放縦 (la libertinage) に溢れていた官能的な時代であり、それが明治によって突然打ち切られてしまった。現代の日本人はそのアンビバランスを未だに引きずっているのではないか。Araki はその象徴である。」 

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気がついた展覧会。
荒木経惟 「飛雲閣ものがたり」 (epSITE、新宿)
Araki: Self*Life*Death (Barbican, London)

(version française)

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宮田美乃里 MINORI MIYATA - UNE POETE PURE ET ENTIERE

2005-09-16 23:27:25 | 写真(家)

今日のお昼は、S書店に立ち寄る。帰りがけに手に取ったのが、宮田美乃里という乳がんで片方の乳房を摘出した歌人の歌と、彼女の存在をアラーキーこと荒木経惟が写真に収めたという 「乳房、花なり。」。

全く無防備なお昼時、強烈なブローを食らった思いであった。帰ってネットで調べるとすでに今年の3月に34歳で亡くなられている。

10分ほどの短い時間。写真にはすべて目を通した。歌も飛び飛びに読んだ。歌の良し悪しもわからない身ではあるが、何か強烈なものが伝わってきた。人間という悲しい存在の底の底から激しい声を上げているのを見、聞くことができたような気がした。

若い人間が先の見えてしまう状況に陥った時、抑えた表現などはできないだろう。人間の持っているエネルギーが予想もつかない方向に乱れ飛び、手がつけられないかのようだ。ほとんど暴力的な感情の迸りである。人間の持てるエネルギーのすべてを搾り出して逝った、という印象である。私などは、おそらくそれを小出しにして生きているのだろう、という思いも心に過ぎった。午後は、疲労感が体に漂っているようだった。

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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (VI)

2005-08-16 07:43:46 | 写真(家)

1952年に占領軍による検閲が解かれると、山端の写真展が東京で開かれた。3年後にはその中の1点が « The Family of Man » と題してニューヨークの現代美術館 (MOMA: Musée d'Art moderne de New York) で展示された。ご飯の入った茶碗を持った子供の写真で、その周囲で起こっていたおぞましいことについては何も語るものではなかった。

原爆投下50周年には、山端の写真に写っている人を探し出す企てがなされた。もちろん、生存していた人は僅か。その中に、子供にお乳をやっている若い母親 (la jeune mère allaitant son enfant) として写っていた女性がいた。彼女にその写真を見せた時、子供がどのように死んだのか、衰弱して亡くなるまでに数日しかかからなかったことなどを語った。

彼女の心の中を、おそらく初めて見るその写真に接した時に心に去来したものを想像することは誰にもできないだろう。考えられないような長い時間を越えて、子供が再び目の前に現れた。生き返らすことのできない子供として。彼女は一つのことしか言えなかったであろう。あの子供はこの上もなく大切な存在で、何者もその死を正当化できないだろう、と。

山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (II)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (III)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (IV)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (V)

PHILIPPE FOREST - SARINAGARA - 小林一茶

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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (V)

2005-08-14 20:31:37 | 写真(家)

山端の48回目の誕生日 (le 6 août 1965)、それは広島に原子爆弾が落ちてから20年目でもあったが、末期の十二指腸癌が見つかる。その一年後 (le 18 août 1966)に亡くなり、今多摩墓地に眠っている。その死に意味を持たせようとする考えもあるだろう。例えば、生き延びたという苦しみ、恥が密かに細胞を暴走させ、20年かけてゆっくりと組織を埋めていった。あるいは、彼の死は意図されたもの、彼が見たすべての犠牲者の苦しみに加わるために、悔恨の手段として、など。しかし死に正義はない、死は罪ある人もない人も選ばずに常に偶然に襲うのだ。

彼の最後の写真は初島でのバカンスで撮られた岩を砕く波、その泡の荘厳さを捉えたものだった。そこには歴史の記憶のない世界の素晴らしさだけが表現されていた。

彼の人生には重要な瞬間と行為があった。それは一人の人間の一生を正当化するに余りあるものである。その瞬間、彼の撮った写真を暗室で見てその映像の意味を理解し、それを残そうと決意した。終戦当時、彼の写真は朝日、毎日、東京、読売などの大新聞に取り上げられたが、それだけだった。アメリカの占領軍による歴史上類を見ないほどの徹底した検閲が始まると、原爆を想起させるすべてが禁止された。それは1952年に解除された後も現在に至るまで影響を残している。

この背後で、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission) は放射線の長期効果について生存者をモルモットのように扱い(traitant vivants comme des cobayes)、その死体を戦利品として独占していたのだ。誰がこのことを知っているだろうか。誰がそれを知ろうとしただろうか。


山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (II)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (III)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (IV)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (VI)

PHILIPPE FOREST - SARINAGARA - 小林一茶

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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (IV)

2005-08-12 22:57:36 | 写真(家)

なぜ現実の生より復元された生(la répresentation de la vie)に力があるのか? なぜ現実に意味を持たせるためには一度イメージを通らなければならないのか?

この問いに対して、哲学があらゆる答えを用意している。現実の表象としてのイメージはその現実が存在すると同時に存在しないということも意識させる。それがもう存在しないということを意識することによって、その現実が愛すべきものになる。われわれの生の真実に至るためには、そのイメージをもう一度見る必要がある。イメージは現実を失われたものとして突きつける。

それゆえ、イメージの深いところに悲愴な (pathétique) ものがついて回る。このことを山端は知らず、おそらく初めて自問しただろう。現実よりもより真実に近づける写真の持つ力の本質を。彼は次にように説明している。それは悲愴さに満ち溢れた中でその現実を一人で感じ取ることができ、そしてわれわれにもう一度見ることを強いる。カメラの目的は最初にこの目で見逃していたことを映像として切り出すことである。

彼はその目の前に現れるイメージの恥ずべき美しさ (la scandaleuse beauté) に捉えられた。イメージを不幸や時間が持つ悲愴の深みへと導く何かによって。

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彼は前世紀の最も残虐であった軍隊の一員として働いていた。写真家としての彼の能力が正当化し、熱狂させた残虐行為に巻き込まれながら。彼は全くの偶然からありえないことの証人 (le témoin de l'impossible)、しかも不適格な証人 (un témoin indigne) になった。彼にとって長崎は啓示を受けた場所ではないようだ。彼は生き、しかも二度生きたがために、狂気の淵に追いやられることはなかった。広島や長崎を思い浮かべるだけで呼び覚まされる耐え難い悪夢から逃れるために命を絶つ人ではなかった。

山端は平和運動のために動くこともなかった。平和運動のために彼の写真が使われる時は、常にためらいと極度の慎重さで対応した。平和が戻ってきて彼は二度目の幸福を味わっていたのだ。家族に囲まれ、仕事でも成功して。彼は天皇の正規の写真家でもあったのだ。戦争の悲惨さを描き、スペインの王室で仕事をしたゴヤ (1746-1828) を思い浮かべただろうか。それがまさに山端のやったことであった。


実物と模倣について

山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (III)

2005-08-09 23:52:56 | 写真(家)

それから山端が撮った写真、例えば、すべてが破壊された中、唯一残った鳥居、防空壕から顔を出し微笑んでいるようにも見える少女、有名な2人の兄弟 (兄は生きているだろうが、弟は死にかかっている)などを撮った写真についてフォレストはコメントを加えている。

「彼はこの間何を考えていたのだろうか? 私は何も考えていなかったと言いたい。」

Il n'avait en vérité rien éprouvé: aucune pitié, aucune émotion, le froid fonctionnement de toutes ses capacités mentales, la plus stricte insensibilité devant le sort insoutenable....
Et c'est seulement plus tard que sont venues la souffrance et la honte.
(彼は実際のところ何らの同情も、感情も示さなかった。すべての感情面を冷静さで覆い、耐え難いことを前にしても最大限の無関心・無感覚をもって対応した。、、そしてそのことに苦しみ、恥を感じるようになるのはずっと後になってからであった。)

山端はその日の午後3時に長崎を発ち博多の師団に向かう。行きと同じ12時間をかけて。

証人とはどういうものだろうか? それはものを見て、もう一度見て、その視点を修正し、唯一の至上の真実を受け入れる人ではないのだろうか。

彼が暗室で写真を現像し、その映像が現れた時、彼はその現実を見たのだ。その意味を理解したのだ。生活・生命の実態よりその再現(représentation)の方がより衝撃的である、面と向かっては涙を流せないが肖像画にはそれができるのだ。

どうしてだろうか?


山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (II)
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山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (VI)

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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (II)

2005-08-08 21:47:06 | 写真(家)

山端は、「新型爆弾」 « bombe d'un nouveau style » と言われた中身を知ることもなく、博多から長崎まで向かうが、麻痺状態(La désorganisation est totale. C'est dans un pays presque paralysé qu'il faut progresser.)で12時間を要す。長崎に降り立ち、町の様子を記してはいるが、その時彼の中にどのような思いが過ぎったのかについては何も語っていない。

原子爆弾は一瞬のうちに体も精神も無に帰する最も穏やかな死をもたらすものだ、という間違った考えが広まっている。広島でも長崎でもどれだけの人が一瞬に死んだと言うのだろうか。それ以上に、その後苦しみを引きずって死んだ人、今も苦しみ続けている人、さらにこれからもその重荷を背負っていかざるを得ない人がいるのである。いずれにしてもその統計を取ってどうなるというのだろうか (A quoi bon compter ?)。

La vérité n'est pas statistique : elle n'est jamais affaire de chiffres.
(真実は統計ではわからない。数の問題では決してない。)

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広島、長崎の多くの証人が語っている。

Les rivières gorgées de cadavres 死体で溢れた川
Le bitume et la pierre littéralement liquéfiés 文字通り溶けたアスファルトや石
La chair vaporisée 気化した肉
Les ombres fixées sur le mur 壁に残った影
Les corps carbonisés sur place その場で炭化した体
La pluie noire 黒い雨
Les décombres 瓦礫
Les brasiers 大火
Le monde déformé comme sous l'effet d'une imagination malade 狂った考えにとりつかれた時に見るような歪んだ世界

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1945年8月10日の夜明けから山端は長崎を歩く。山端の語ったことには欠落と矛盾が多く、彼がどのように感じていたのかを知ることは難しい。

Je crois que Yamahata, ce matin-là, se trouvait tout à fait perdu, comme dans un songe, et que, se levant, le jour ne fit pour lui que substituer un rêve à un autre. C'est dans ce songe qu'il avançait avec l'enfantine confiance qui fait ne s'étonner de rien.
(彼はその朝、夢の中のように完全に迷い、起きてもその日は夢から夢を渡り歩くようなものだったと思う。その夢の中で彼は何ものにも驚かされることのない幼児の持つ自信とともに進んだ。)


山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (III)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (IV)
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山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (VI)

PHILIPPE FOREST - SARINAGARA - 小林一茶

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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (I)

2005-08-07 21:56:16 | 写真(家)

フィリップ・フォレスト PHILIPPE FOREST の 小説 SARINAGARA は、小林一茶(1763-1827)、夏目漱石(1867-1916)、山端庸介(1917-1966)をモチーフにした物語である。一茶については以前に読んでいた。この季節なので、爆撃された直後の長崎に入りその惨状を写真に収めた山端の人生から浮かび上がってくるものについて、フィリップ・フォレストの目から見てみたくなり、彼に関する章 « HISTOIRE DU PHOTOGRAPHE YOSUKE YAMAHATA » を読んでみた。

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「日本語ほど外国語を受け入れる言葉はない。」 Aucune langue autant que le japonais ne se montre accueillante aux mot étrangers. でこの章は始まる。外国語がカタカナで表現される中で、photographie は « vérité fixée » とでも言うべき写真 (真実を写す) と訳された。(先日のパリの出来事を思い出す。)

18歳の誕生日にLeicaを貰い、翌年大学を辞めて父親のところで働きながら写真家になる。それから日本海軍の従軍記者 journaliste embarqué としてアジアの戦場に出向く命を受け、1941年から44年までシンガポール、マレーシア、中国などで過ごす。この間に彼がどのようなことをしていたのか不明の点が多いという(relativement évasive)。日本軍の残虐行為 la barbarie を多数見ているはずで知らないはずはないのだが、写真には全く残っていないという。

Tout cela, Yosuke Yamahata l'a très vraisemblablement vu. Il n'est pas possible qu'il ne l'ait pas connu. Ses photpgraphies n'en montrent rien, pourtant.

1945年8月6日午前8時15分、人類最初の原子爆弾が広島に投下された。歴史の教科書が書き、人々が繰り返しているのであたかも本当のように思われている仮説がある。もし本土決戦になれば、日本の狂信的な防衛戦により原子爆弾以上の犠牲が出る、それを防ぐために原子爆弾が軍事的に必要であった、という考え。しかしそれは嘘。

On sait tout cela, et c'est un mensonge.

著者は、アメリカは正当な理由なしに(強いてあげればどうしても使いたかったという理由でのみ)原爆投下を認めた、そしてそれは史上最大の戦争犯罪として記録されるだろうと書いている。(21 juillet 2005)

Le président des Etats-Unis donne l'ordre de commettre ce qui restera sans doute comme le plus grand crime de guerre de l'Histoire.

広島に原爆が投下される前日、山端は博多の師団に向かっていた。トゥルーマンは二つ目の原爆投下を命令。8月9日、小倉に落とす予定だったが天候のいたずらで長崎に向かうも雲厚く計画を諦めようとした時に下が見えるようになった。博多にそのニュースが入った時、山端は長崎行きを命じられる。


山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (II)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (III)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (IV)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (V)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (VI)

PHILIPPE FOREST - SARINAGARA - 小林一茶

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