フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

2月の記事

2006-02-28 07:01:17 | Weblog
2006-02-28 花粉症始まる RHUME DES FOINS COMMENCE
2006-02-27 サルバドール・ダリ SALVADOR DALI
2006-02-26 あるブログの終わり LA FIN D'UN BLOG
2006-02-25 お昼のカフェでスウェーデン LA SUEDE AU DEJEUNER
2006-02-24 音楽のない生活とは LA VIE SANS MUSIQUE
2006-02-23 クールベとの最初の出会い LA PREMIERE RENCONTRE AVEC COURBET
2006-02-22 旧友とデジュネ DEJEUNER AVEC UN AMI DE 30 ANS
2006-02-21 365回目のブログ LE 365e BLOG
2006-02-20 イル・ポスティーノ "IL POSTINO" THE POSTMAN
2006-02-19 エンリコ・マシアスの 「オリエンタル」 L'ORIENTAL D'ENRICO MACIAS
2006-02-18 生きることか語ることか VIVRE OU RACONTER
2006-02-17 研究か瞑想か RECHERECH OU MEDITATION
2006-02-16 ボサノバ、あるいはポルトガル BOSSA-NOVA OU LE RORTUGAL
2006-02-15 フォトブログ
2006-02-14 胃カメラを呑む UN EXAMEN PAR LA GASTROSCOPIE
2006-02-13 神戸でベルギー人と RENCONTRER DEUX BELGES A KOBE
2006-02-12 お昼から神戸牛 KOBE BOEUF AU DEJEUNER
2006-02-11 最近のモーツアルト MOZART SUR L'IPOD NANO
2006-02-10 プロとアマ PROFESSIONEL OU AMATEUR
2006-02-09 モーツアルトの人生 LA VIE DE MOZART
2006-02-08 立呑みを試す MANGER ET BOIRE DEBOUT
2006-02-07 iPod 始める
2006-02-06 遠くからものを見る REGARDER DES CHOSES DE LOIN
2006-02-05 いつものSでジャズを聞く
2006-02-04 行方不明者発見 RETROUVER UN DISPARU
2006-02-03 バッハに吸い込まれる PERDU DANS LE BACH
2006-02-02 新しい検索サイト NEBULOSCOPE
2006-02-01 エンリコ・マシアス LA CHANSON D'ENRICO MACIAS
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花粉症始まる RHUME DES FOINS COMMENCE

2006-02-28 00:14:06 | Weblog

先週始めからそれらしい傾向があったが、もう堂々とくしゃみが出、目がおかしくなってきた。また頭に靄がかかるような状態にもなりつつある。これから辛い3ヶ月が待っている。今年はどんな妄想が出てくるのか、苦しい中の唯一の楽しみである。

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(version française)

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サルバドール・ダリ SALVADOR DALI

2006-02-27 00:51:16 | 映画・イメージ

今朝、NHK-ETVでサルバドール・ダリ (1904-1989) の特集を見る。ダリに対する見方を変えた数年前のダリの町フィゲラスの訪問を思い出しながら。これまでの蓄積が静かに滲み出る、想像が自由に羽ばたいているような、そしていまだに美しさ・若さを失わないゲスト岸恵子の話を聞きながら、ダリの人生をもう一度味わっていた。

スペイン訪問時に仕入れた彼の対談集を読み直す。この本も彼の印象を変えるのに役に立った一つ。
Entretiens avec Salvador Dali (Alain Bosquet)

Virtual Dali

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あるブログの終わり LA FIN D'UN BLOG

2006-02-26 00:18:43 | ブログの効用

"Respirer Paris, cela conserve l'âme." (Victor Hugo, 1802-1885)
「パリの空気を吸う、それで精神が保たれる」

Les Misérables にあるこの言葉を掲げる Journal d'un Vrai Parisien 氏のブログが終わりを迎えたことを知る。何かが終わる時というのはいつも名状しがたい感情が沸き起こる。本人が一番それを感じているのだろう。読みながらそれを感じ取ることができる。

彼のサイトは仏版でブックマークしていて、本人からもコメントをいただいたことがある。私のブログタイトルを訂正していただき、今度パリに来た時には会いましょうと言ってくれていたが、果たせなかった。

01 octobre, 2005 16:46
Vrai Parisien さんのコメント... (記事はここです)

bonjour, je découvre aujourd'hui ton blog et le lien que tu as fait vers le mien... Merci beaucoup et plus encore, bravo pour ton français merveilleux, un peu exotique encore, mais vraiment très sympathique (juste une toute petite remarque : on écrit "dans le hamac" et non "dans l'hamac"... Mais c'est une petite nuance qui ne change rien.
Quand tu passeras à Paris, bien sûr fais moi signe. je serais très très heureux de te saluer personnellement. Amicalement.


15 octobre, 2005 20:19
Vrai Parisien さんのコメント... (記事はここです)

Bonjour en passant... Que tes billets sont agréables à lire ! Quelle délicatesse, et en effet, la photo avec la fumée des bouilloires est celle d'un moment de grâce !


読み直してみると、優しい言葉をかけてくれていたことがわかる。やはり寂しい気持ちになる。新しいタイトルとフォーマットで再び現れることを期待したい。

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(version française)

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お昼のカフェでスウェーデン LA SUEDE AU DEJEUNER

2006-02-25 00:18:49 | 

今日は花粉が始まっているので近くを散策。家族でパンを作っている小さなカフェに立ち寄る。パンとコーヒーの昼食である。中に入ると誰もいない。突然音楽が流れ始める。それが戦前か戦後すぐかの時代物のジャズ。ご主人、いや奥様の趣味なのか。お姿を拝見してもどうしても結びつかない。意外な感じである。SP盤のような音を出しながら女性シンガーが歌っているが、やや気だるい雰囲気を漂わせた音楽で、お昼ではあるが人気のないカフェによくマッチして非常によい。曲名は一つもわからなかった。

その音楽を聞いていると一つの情景がすぐに浮かんだ。数年前、仕事で滞在していたストックホルムの夕方。裏町の裏通りだったか、東欧出身の人 (ハンガリーだっただろうか、今は思い出せない) がやっているレストラン・バーに入った。異邦人の経営するそのお店の装飾が歴史物で埋め尽くされ、その瞬間に異空間に引きずり込まれるような錯覚を覚えた。怖さも感じた。その時に流れていたのがこの音楽である。場所と時間を超えて歴史の中のどこかを彷徨っているような不思議な体験をした。音楽がなければもう少し違った時間になっていただろう。

健康的な日の光を浴びての昼食であったが、頭の中はその時の気だるい、やや不健康とも思える時間を追体験していた。今日音楽が流れていなければ、スウェーデンでのことも思い出すことはなかっただろう。昨日の話と少しは繋がっているのか。

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音楽のない生活とは LA VIE SANS MUSIQUE

2006-02-24 00:51:12 | MUSIQUE、JAZZ

最近、元気のよい女性運転手と話す機会があった。音楽なしには生きて行けないと言う彼女は、車内で心休まる音楽をかけていた。ギター、サックスなどのヒーリング・ミュージックというのだろうか。私の心を癒すように流れていた。彼女の場合、毎日聞くCDを決めているという。家ではたまに泣くこともあるという。元気を出すために音楽に寄りかかることもあるようだ。

そんなことを熱を込めて語る彼女の話を聞いていて、フランス語を始めた当時、France Culture のページで引用されていた言葉を見て非常に新鮮に感じたことを思い出した。

"La vie sans musique est tout simplement une erreur, une fatigue, un exil" Friedrich Nietzche (1844-1900)

「音楽のない生活 (人生) は誤りであり、疲れを催すもの、流刑にあったようなものである」

彼女のような存在に出会うとこの言葉の意味がよくわかる。ブログ一周年のこの時期、意識してはいないのだがその源にある記憶が呼び起こされてくる。

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クールベとの最初の出会い LA PREMIERE RENCONTRE AVEC COURBET

2006-02-23 00:50:48 | 展覧会

ブログを初めて1年が経ったせいだろう。フランス語に触れ始めた頃のことが思い出される。始めてから1年くらい経ったある日のこと。当時はまだ向こう側を見たいのだが高い壁が立ちふさがっていて、見ようにも見られないというもどかしさを覚えていた時期である。フランス語を直に味わいたい、フランス文化に浸ってみたいという思いから France Culture のサイトに入った。その途端に驚いてしまった。何と女性の局所 sexe が堂々と描かれた絵がそこにあったからだ。フランスは違うなー、と思わず感心してしまったことを覚えている。

それがギュスターヴ・クールベ (1819-1877) との最初の出会いであった。その絵が彼の 「世界の起源」 (L'Origine du monde) であることがわかったのは、それから一年以上経ってからのことであった。あー、芸術作品だったのか、と自らの不明をいつものように恥じたが、同じものが NHK やアメリカの放送局のページに出るだろうかと自問してみた。やはりそれはありえないだろう。これはフランスだからこそありえたのではないのかな、と思っているが、いかがなものだろうか。この領域に詳しい方のご意見をお聞きしたい。

クールベ展 (17 avril 2005)

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旧友とデジュネ DEJEUNER AVEC UN AMI DE 30 ANS

2006-02-22 00:13:48 | 出会い

お昼に突然の電話があり、学生時代からの友人M氏と会う。それぞれの近況というか、この厳しい時代についてのお話をした後、近くのフレンチ・レストランで昼食を取る。私がいかに現世の出来事に疎いかということを思い知らされる。レストランにはパリジャンの serveur (ウエイター?) がいたので少しだけ話をする。パリでは9区に住む学生で、1年が終わるこの4月に帰るという。日本では仕事をして、日本に生きて日本を感じ、日本語を学んでいるという。非常に感じのよい青年の口から放たれるフランス語の響きは柔らかく、お昼から心地よい。食事も一気に美味しさを増す。

それで思い出したことがある。先日、NHK-TVだったか、京都の和食の料理人とフランスの料理人が技を交換する過程を追った番組が流れていた。その中でフランスの料理人が、フランスは石の文化でやや冷たく、自然との関わりも厳しいが、日本はその関係がもっと柔らかい、優しい文化だ (douce, douceur という言葉を使っていた) という感想を漏らしていた。しかし、その話し振りや物に接する態度を見ていて、フランス人も非常に柔らかい、優しいものを持っていると感じた。その印象が今日に重なって思い出されたのだろう。いつもの対比になるが、アメリカ人ではこうはいかない。文化がどれだけの歴史の長さ(複雑さ)を知っているのか、どこに美を見出すのかというようなことにかかっているのだろうか。厳しい話が多かった中、涼しい風が吹き抜けるような昼食となった。

帰りのバスを待つ間、古本屋で本を仕入れた。渡辺守章、山口昌男、蓮實重彦による対談集 「フランス」 (岩波書店、1983年)。定価1600円のところ400円也。お話を聞く感じなのでどんどん読んでいける。

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365回目のブログ LE 365e BLOG

2006-02-21 00:03:25 | ブログの効用

気が付くと、去年の2月16日に始めて以来、今日で365回目の記事を書いたことになる。当時のことをぼんやりと思い出すことができるが、それから自分の中身も大きく変わってきているようだ。1年しか経っていないのだが、実際にカバーした期間は2001年春からほぼ5年間に及ぶ。その記憶を頼りに脳の中を穿り回していたことになる。疲れるわけである。

この間、いろいろの方に訪問していただき、コメントをいただいた。そのお陰で力を得、私の世界も広げることができた。ただただ感謝したい。

そろそろ自分の中から抜け出して、また生きてみようかという気にもなりつつある。もう少し様子を見てみたい。

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イル・ポスティーノ "IL POSTINO" THE POSTMAN

2006-02-20 00:31:53 | 映画・イメージ

先日、パブロ・ネルーダのお話から 「イル・ポスティーノ」 という映画で彼が描かれているということを知り、最近届いた DVD を見てみた。

始まって早々にアコーディオン?に乗って哀愁の篭った音楽が静かに流れる。画面の色とともに心に染み入り、すぐに引き込まれる。昔ながらの港町に老齢の漁師の父親とその仕事に疑問を持っている息子マリオが暮らしている。漁師がいやならアメリカや日本に行って仕事をしてみろと親父に言われたりしている。そこに祖国チリを追われた詩人パブロ・ネルーダ夫妻が来る。彼が人民の詩人で女性に絶大の人気を誇っていた人だとは知らなかった。

マリオはネルーダのための郵便配達人に応募しその職を得る。配達をしてネルーダと触れるうちにマリオは詩あるいは言葉の力に興味を持つようになる。詩集を読むようになる。比喩と隠喩、メタファー("メターフォレ"?"メタフォーレ"?)についてネルーダと話すようになる。ネルーダは、詩は説明するのではなく、その中に入って感じるものだ、というようなことも話す。そのうちマリオは詩の虜になる。

ネルーダは景色を詩で描写する、詩で会話する。そこでメタファーが大きな役割を演じる。力強い。詩の力を感じる。

マリオは街の店で出会った女に一目惚れ。恋の病をネルーダに相談する。恋する男のどうしようもない情けなさが自然に滲み出ていて、他人事として見ていると滑稽でもあるが共感するところ大。その彼女ベアトリーチェと詩で愛を語るようになる。マリオを全く買っていない母親と彼女やネルーダとの会話が非常によい。彼女は結局結婚し子供を授かる。そしてネルーダがチリに帰ってから再びこの街に戻ってくるところも心に沁みる。

主人公のマリオの声に力がない。役作りなのか、本人の病気のせいなのか(この映画完成後に亡くなったという)。ところどころに覗く海と空など背景が美しい。届くかどうかわからないものに愛情を込める。大きな声を出すことはないが、しっとりと心を満たしてくれる。素晴らしい映画であった。紹介していただいた方々に感謝したい。

この後、
La rose détachée et autres poèmes:ネルーダの詩集
J'avoue que j'ai vécu:回想録
La solitude lumineuse:外交官としてアジア(コロンボ、シンガポール、バタビアなど)に滞在していた時の印象記

を注文していた。

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エンリコ・マシアスの 「オリエンタル」 L'ORIENTAL D'ENRICO MACIAS

2006-02-19 00:22:23 | MUSIQUE、JAZZ

最近エンリコ・マシアスの 「オリエンタル」 というCDを聞いている。以前に取り上げた 「さらば我が祖国」 や国を離れてた辿り着いた町に受け入れられたことを巴里と語り合う "Paris, Tu M'as Pris Dans Tes Bras" などが入っている。喜びを歌ったようなものでさえ、その中に影を感じてしまう arabo-andaluse の音楽。しっとりと心に染み入る。この流れが何となくわかってくると、その昔聞いた 「思い出のソレンツァーラ」 も違った意味を持って聞こえてくる。背後にある掴みきれない歴史がその顔を覗かせるようでもある。

1. L'oriental
2. Enfants De Tous Pays
3. Oh Guitare, Guitare
4. Adieu Mon Pays (さらば我が祖国)
5. Mon Ami, Mon Frère
6. La Femme De Mon Ami 
7. Souviens-toi Des Noëls De Là-bas
8. L'île Du Rhone
9. El Porompompero
10. Ouvre Ta Main Et Donne
11. Paris, Tu M'as Pris Dans Tes Bras (巴里よ、お前は私をその腕で受け止めてくれた)
12. Ma Patrie (我が祖国)
13. Les Filles De Mon Pays (私の国の娘たち)
14. J'appelle Le Soleil
15. Mon Coeur D'attache
16. Chanter
17. Solenzara (思い出のソレンツァーラ)
18. La Lavande
19. Non, Je N'ai Rien Oublié (いいえ、私は何も忘れていない)
20. Les Millionnaires Du Dimanche
21. Les Gens Du Nord
22. Constantine
23. Dès Que Je Me Réveille (目覚めてすぐに)
24. Aux Talons De Ses Souliers

それにしてもこのような音楽を聴きながら歩くことになろうとは、思ってもいなかった。

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生きることか語ることか VIVRE OU RACONTER

2006-02-18 00:38:17 | 哲学

以前にサルトルの嘔吐 La Nausée を読んだ時に気になる対比があった。自分のこれまでの体験からピーンとくるところがあったのだろう、再び飛び出してきた。それは VIVRE OU RACONTER。

自分なりにその対比を考え直すと、「VIVRE 生きる」という中には現実とぶつかりながら生活していてそれで手一杯という状況、と理解してみる。新しいことを始める時、新しい環境に身を置く時はこの状態になる。それに対して 「RACONTER 語る」 の中には、現実に直接絡むことをせず、あるいはこれまでの体験について遠くから観察し、その意味を見出し語る状態と捉えてみた。

そうするとブログを始める前は現実に能動的に向き合い、その中に満足を見出していたように思えてくる。ブログを始め、「我観察する、故に我あり」 と自らを見た時に、今までの自分の位置が心もとないものに感じられた。しかし、この1年余りを RACONTER の時間、それ以前を VIVRE の時間として使ったと考えればそれなりに存在理由があったということになる。VIVRE に身を沈めていた過去もなかなか面白いものに感じられてくる。

VIVRE と RACONTER を同時に進められれば素晴らしいようだが、別の考えも浮かんでくる。人生を長い目で見れば、VIVRE に 100% のエネルギーを注いだ時期を持つ。これは体に記憶を詰め込むと言ってもよいだろう。そしてその後にその記憶を解きほどき RACONTER する、というのも味があるかもしれない。動いている現在を見るよりは、止まった過去を見る方がよく見えてくることがあるので。いずれにせよ、この二つの要素を意識しておくことが重要に感じられる。

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研究か瞑想か RECHERECHE OU MEDITATION

2006-02-17 00:19:07 | 科学、宗教+

この対立について最近気付いた。研究とは過去の蓄積を調べ自らのものとし、さらに新しいことを探ること。瞑想はそれを前提として、言い換えれば一度取り込んだものを忘れて、自分の中から出てくるものを観察すること、それを関連付けて紡ぎ出すこと、ということになるのか。この両者を意識してやる必要があるのではないかということ。

人の書く本を見ていて、研究的なものと瞑想的なものがある。研究的なものの中にも本格的なものから事実の羅列に過ぎないものもある。瞑想的なものも同じように、ちょっとした語りを本にしたものもあれば、真剣に自分に向き合って書いているものもある。前者は立ち読みで1-2時間で言いたいことがわかってしまう。個人的には後者の本が自分の中に入ってきて、少しは後に残るように感じている。

瞑想が引き出されるのは、自然の中や広いところに身を置いて日常的なものから隔離されている場合が多い。あるいは、街中にあるカフェ、特に外気に触れるオープン・カフェで、広いスペースを取っているところなども捨てがたい。家でゆったりしている時にはほとんど出てこない。

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ボサノバ、あるいはポルトガル BOSSA-NOVA OU LE RORTUGAL

2006-02-16 01:24:29 | MUSIQUE、JAZZ

先日、モーツアルトとアファナシエフのピアノを仕入れて店を出たところでSのマスターにばったり会う。お誘いを受け、ボサノバを聞く。

聞いていると、この世界も広く深いことを思い知らされる。ポルトガル語の歌を聴いていると、なぜかその底に深い悲しみのようなものを感じてしまう。ポルトガルという国の辺境性、辺縁性なのか、大学を出てまもなく訪れたポルトガルの人里離れた寺院や寂寥感漂う海辺の印象がその言葉を聞いた時に重なるためなのか。前途に無限とも思える可能性を見ていた20代中ごろ、その青年の思い描いていた世界と余りにもかけ離れたものを前にした時の戸惑いなのか。

そんなこんなで、ポルトガルの言葉や音楽を聞くと人生 (人間) の哀愁を感じてしまう。南米は自分にとっては未開の地。どんな形でもこれから触れ合う機会を作ってみたい。

そう言えば、先日の会でイベリア半島の隣組、スペインからのお客さんと話すことができた。率直なところを聞いてみたが、どうもフランスとは相性が悪いようだ。ポルトガル、イタリアとはうまくやれるのだが、とのこと。それにしてもラテン系の人とは話が弾む。以前からの知り合いのように。

美術の話になった。私がダリの町の美術館を訪ねて以来、それ以前の印象が崩れ、彼は誠実で優れた芸術家だと思うようになったと言うと、スペインにはもっと偉大な芸術家、ベラスケス、ゴヤ、、がいる、と返してきた。ダリはあまり評価していないようであった。またマドリッドにはいい美術館があるのだが、お客さんが来た時しか見に行けないとぼやいていた。巴里でも同じようなことを聞いた。どこでも忙しい人にとっての芸術は同じなのかもしれない。

その彼はマドリッドからアメリカの大学に移ることになったという。彼に声をかけた人とは7-8年前バーゼルでお会いしているGTさん。世界は広いようで狭い。

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フォトブログ

2006-02-15 00:05:23 | ブログの効用

先日の神戸の会合で一緒になった M 氏が 「がんばってますね」 と声を掛けてくれた。何のことかと思いきや、どこで調べたのか私のブログをたまに見ているらしい。彼の印象は、文章はともかく写真がきれいですね、というもの。自分ではわからないのだが、以前にもそう言われたことがある。文章は長くて回りくどくて読む気がしないらしい。それはそれとして、写真についてのお言葉、ありがたく受け入れることにした。

初めてのことについて文章を書くのは大変なので、写真に少しの文章というスタイルも面白いかもしれない。つい最近の出来事ながら、ブログがそのように変容してきているようでもある。

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