フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

早川良一郎 「さみしいネコ」 ESSAI "LE CHAT SOLITAIRE"

2006-07-17 17:30:23 | 日本の作家

昨日は、根津、千駄木のあたりをのんびりと歩きながら、土地に根を張りながら生活をしている人たちの日常を観察する。それから根津神社へ。歩いて御茶ノ水あたりまで出る。近くの本屋に入り今日のお題の 「さみしいネコ」 に手が伸びる。作者の早川良一郎という人は初めてなので普通は手にすることはないのだが、おそらく定年前後の日常から広がる話題がテーマになっていることと、池内紀氏の解説に惹かれたことが大きかったのではないか。50代から書き始め、最初は自家出版で199部。それがその筋の人の目に留まり、日本エッセイスト・クラブ賞をもらう。さらに60代にもう一冊書いているという。その経歴にも興味が湧いたことともあっただろう。

早速、近くのカフェでページを捲ると余りにもすんなり入ってくるので驚きながら読み進む。それから日比谷公園のカフェで、八丁堀の居酒屋で、、、ページを捲る。

この方、平凡なサラリーマン生活での観察から、周りの人々の中にある微妙な心の襞を淡々と共感を持ちながら語っている。これは落語に出てくる長屋生活の感覚ではないかと思わせるものもある。子供の頃、親爺の本棚にあった大人向けの随筆 (今題名は思い出さないが) の感触を思い出すところもある。当時の仕事盛りの日本人の生活感覚が滲み出ているようにも感じる。肩が凝らない、もっと言うと肩の力が抜けるエッセイである。

奥さんや娘さんとのやり取りも面白い。パイプをやられたようで、葉巻の話も出てくる。私もたまにやるのでついつい引き込まれる。犬のチョビとの生活も心が和む。チョビの話を読みながら、中学の頃家で犬を飼っていたことを思い出していた。おそらくテリアの系統で、チャーリーを名づけていた。その頃どんな関係だったのか今となってははっきりしないが、チャーリーが死んで庭に穴を掘って埋めた時には、何とも悲しい気持ちになったことが思い出される。そう言えば、学校に入る前には家でニワトリを飼っていて、朝その卵を食べていたことも記憶の中から甦ってきた。それにしても親はどういう考えでニワトリなど飼っていたのだろうか。近いうちに聞いて見たいものである(注)。

(注):このニワトリについて母親に確かめる機会があったが、知り合いの方から贈られたものとのこと。最後は卵を産まなくなって・・・と話していた(25 septembre 2008)。


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「さみしいネコ」 紹介文より

 早川良一郎は麻布生まれの麻布育ち。旧制麻布中学三年のとき父親を説得してロンドンに留学。日本大学仏文科卒後、経団連事務局に定年まで勤める。がむしゃらに働き出世街道をかけのぼるのではなく、坦々とサラリーマン人生を全うした人物である。
 群れることを好まず、党派や派閥などといっさい縁がなく、ひっそりと人と世の中をながめていた。他人へのいたわり、私的なことの領域に対するつつしみ、こまやかな神経が通っていて、しかも少しも窮屈ではない。こういう人こそ本当の教養人といえるだろう。

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一日休みが増えるだけで、これほど有効に休むことができるということを今まで知らなかった。精神衛生にもよい影響を及ぼすような予感がする。新たな発見になった。

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ブリヂストン美術館 - 印象派から21世紀へ MUSEE BRIDGESTONE

2006-07-16 13:39:04 | 展覧会

昨日は日本橋、人形町のあたりをさ迷い歩く。その前にブリヂストン美術館が目に入り数時間を過ごす。今は亡き叔父により連れて行かれたところである。記憶にある最初の美術館かもしれない。

なつの常設展示 ― 印象派から21世紀へ

会場は明るく、綺麗で、手がよく入っているという印象。一時間ほどですべてを見て回る。コンパクトに中心的な作家の作品が詰まっているという印象。この一年で以前とは比べものにならないほど自分の中の感度が増していることを感じる。もう少しここで時間を過ごそうと考え、音声ガイドを借りてみた。非常に真面目な案内である。以前にも触れたが、裏ガイドを作るような遊び心溢れる美術館は出てこないだろうか。密かな願いである。

入り口には5-6点の彫刻が置かれている。ブランクーシ Constantin Brancusi の 「接吻」 が目に留まる。階段のところにあったマイヨール Aristide Maillol の 「欲望」 も印象に残っている。ロダン Auguste Rodin のものもいくつかあった。例えば、小さい青銅時代。

ロダンの弟子でもあったブールデル Bourdelle の 「弓を引くヘラクレス」、「風の中のベートーベン」など。昨年パリのブールデル美術館を訪れた時にたっぷり触れることができた作家だが、今回ベートーベンの彫刻を見て、彫刻家 (あるいは画家) が肖像を描くという意味を少し考えさせられた。それはベートーベンの足、ゆび、爪をまじかに見た時である。筋肉質の脹脛に比べて、全体のサイズが小さいためか、足の指先がやけにかわいらしくのだ。ベートーベンの足の細部にこういう形を与えるということは、対象に対するかなり具体的な思いがなければ製作できないということをはっきり意識することができた。そこには対象に対する思い入れや想像力が確かに介在しているということを。"À l'homme était Dieu Beethoven" (神であった男ベートーベンへ)という言葉が下の方に刻まれている。このほかには、衣の下に隠された豊満な下半身を感じさせる 「ぺネロープ Penelope」 も印象に残っている。

この展示で見られる代表的な画家には以下のような人がいる。この一年ほどでそのほとんどの画家に触れていることに驚いている。

Camille Corot
Jean-Francois Millet
Gustave Courbet
Eugene Boudin
Camille Pissaro
Alfred Sisley
Edouard Manet
Edgar Degas
Claude Monet
Pierre-Auguste Renoir
Paul Cezanne
Odilon Redon
Paul Gauguin
Vincent van Gogh
Pierre Bonnard
Henri Matisse
Pablo Picasso
Maurice Utrillo
Paul Signac
Raoul Dufy
Hans Arp
Joan Miro
 
今回、モディリアーニ Amedeo Modigliani の 「若い農夫」 が出ていたが、印象深い絵を描く画家であることを再確認。アンリ・ルソー Henri Rousseau の醸し出す雰囲気にはいつもながら惹き込まれる (「イヴリー河岸」、「牧場」 が展示)。ジョルジュ・ルオー Georges Rouault の素晴らしさに改めて感動。それからどこかで見たことがあるような気がするのだが、ゲオルゲ・グロッス George Grosz (26 juillet 1893 à Berlin -l6 juillet 1959 à Berlin) という画家の批判精神に溢れる絵にも、その形のためか親しみを感じた。

日本の画家では、
山下新太郎
黒田清輝
青木繁
藤田嗣治
菅井汲
佐伯祐三

古賀春江 (1895年6月18日 - 1933年9月10日):初めての人。あの時代に、こんなシュールな絵をやっていた日本女性がいたのかと少し驚いたが、調べてみると男性であった。

国吉康雄 (「横たわる女」、「夢」):少しマルク・シャガール Marc Chagall を思わせる 「夢」 を見ていて感じる。アメリカに長くなり、ひょっとするとこのままずーっといることになるかもしれないと感じた時に見た夢のことを思い出させてくれた。こんな感じだったな、という思いである。彼はまさにそれ以上に感じていただろうから、その頭の中に共感していた。

岡鹿之助の 「雪の発電所」 を見て驚いた。一瞬、自分の子供時代に戻ったような錯覚に陥る。子供の時に焼きついている家の近くの風景そのものがそこに描かれていた。

岸田劉生 「冬瓜図」:今まで静物画には興味を覚えなかったが、この絵の色と筆遣いを見ているうちになぜ画家が静物画を描くのかということに思いが至った。おそらく、なぜそこにものがあるのかという哲学的な問いからのこともあるだろう、あるいはそうは意識はしないものの、ものがそこにあることに対するこころからの驚きから始まっているのではないのか。そう考えることができた時に、静物画が非常に近いものになっていた。ものに対する画家の目を探るという視点で、これから静物画を見てみようという気持ちが芽生えていることに気づく。

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今回もボールペン使用で注意が入り、白けてしまった。入り口で借りようという考えが一瞬浮かんだのだが、そのままにして2階に上がった。なかなか学習しないようだ。

もうひとつ気になったこと。印象派の絵画のタイトルがすべて英語になっている。趣が全くないのでがっかりする。帰りに何とかならないかと話してみたが、煩雑になるので英語にしているとのビジネスライクなお答え。単にフランス語かドイツ語を加えるだけでよいのだ。部外者から見れば、わずかそれくらい、というようなことなのだが、、。せめて芸術をやっている人くらいは余裕が持てないものだろうか。残念に思いながら会場を後にした。

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人形町 雨宿り 自然体 NINGYOCHO - UN ABRI CONTRE LA PLUIE

2006-07-15 19:38:14 | 

この週末が連休であることに昨日気づき、すべてを忘れて街に出ることにした。日本橋、人形町のあたりを彷徨い、迷い込もうという魂胆である。朝、外に出るとむーんという熱気が体を包む。その中を歩く。熱いが朝の空気は新鮮で気持ちがよい。東京駅のあたりを過ぎるとブリジストン美術館が見える。この美術館には今は亡き叔父に最初に連れてきてもらった思い出がある。当時は絵画 (広く美術) には全く興味がなかったが。40年ほど前に思いを馳せ、ここで数時間過ごす。この詳細は改めて書いてみたい。

それから人形町の方へ歩き始める。古い町並みを見ながら、景色の中に身を委ねる。午後、ヴォーヴナルグでも、と思いカフェで休んでいると突然の雷と雨。傘を持ってこなかったことを少しだけ悔いる。ほんの少しだけ。近くのビルに雨を避けられるところがあったのでそこへ向かう。今日は不思議である。いつ止むとも知れぬ雨とともにいるという感覚。あなたまかせなのだ。雨宿りという言葉を思い出す。こんな精神状態になるなど、想像もできなかった。すべてを忘れると自然と一体になれるということか。この世に生きている過程で溜まってきたものを捨て去ると自由なこころがついてくるということか。今書いた文章を見て、自然体とは自然と一体になれる心のことなのか、と感じている。

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ヴォーヴナルグとは QUI EST VAUVENARGUES ?

2006-07-14 23:55:07 | 科学、宗教+

先日このブログへのアクセス・キーワードを見て驚いた。「ヴォーヴナルグ」 で70件ものアクセスがあったからである。このブログでは一つのキーワードで多くて10件、普通は数件のアクセスなので異常なアクセスになる。以前には 「マチュピチュ」 で同様のことがあった程度。どこかの学校の課題にでもなったのであろうか。

この人の名前を見た時の正直な反応は、この人誰?というもの。そのページを読み返してみると、ショーペンハウアーが引用した人であった。ショーペンハウアーの発言は覚えているがこの人については全く記憶に残っていない。今回、謂わば歴史に埋もれている人を掘り起こすような面白さを感じながら、まずウィキペディアを調べてみた。

リュック・ド・クラピエ、ヴォーヴナルグ侯爵
Luc de Clapiers, marquis de Vauvenargues
(6 août 1715 – 28 mai 1747)

日本で言えば、8代将軍徳川吉宗の時代の人。エクサンプロヴァンスの貧しい貴族の家に生れた彼は、学校でギリシャ語やラテン語を習うことはなかったが、翻訳でプルタークを読み、その崇拝者になった。18歳からの10年間は軍隊生活。戦いに次ぐ戦いであった。その後友人が文学への道を薦めるが、貧しくてパリに出ることはできず。外交官への道を探るもならず。

結局、30歳でパリに落ち着くが、ヴォルテールなどとの交際を除いては引きこもりの生活をする。ヴォルテールの薦めで、父には逆らい文筆生活に入り、"Introduction à la connaissance de l'esprit" 「精神認識序論」、 "Réflexions et Maximes" 「考察と箴言」 などを著す。わずか31歳でパリで亡くなる。彼の 「精神認識序論」 はネットで読める。

Introduction à la connaissance de l'esprit (1746)

ざっと目を通したが、江戸時代のフランス語とは思えぬほど読みやすいという印象を持った。

両著は 「不遇なる一天才の手記」 として訳されている (関根秀雄訳)。早速手に入れてみたが、30歳そこそこで、これほど断定的にものが言えるのかと驚かされる。悟ってしまったのだろう。やはり天才か。今日のところは、900以上ある箴言のうち200程度に目を通したが、その年齢のせいか、見ているところが違っているのか、今ひとつ中に入ってくるものが少ない。その箴言からいくつか。

「戦争の重荷は隷従のそれほどではない。」
« La guerre n'est pas si onéreuse que la servitude. »

「隷従はあくまで人間を引き下げる。人間がこの境遇を好きになるまで。」
« La servitude abaisse les hommes jusqu'à s'en faire aimer. »

「偉大な事柄をなしとげるには、おれは決して死ぬはずはないくらいの意気込みで生きなければならない。」
« Pour exécuter de grandes choses, il faut vivre comme si on ne devait jamais mourir. »

「大多数の人々は己の身分の枠内に小さくなっていて、思想の上でその枠をつきぬけるだけの勇気すら持たない。だから、偉大な事柄の思索のためにいわば小さな事柄ができなくなってしまった人たちも、なるほど世間にはいくらもあるけれど、小さな事柄にばかりかかずらっていて偉大なことは感ずることすら出来なくなった人たちに至っては、益々多いのである。」

この連休に街に出て、吉宗の同時代人の声にもう少し耳を傾けてみたいと思っている。ピンとくるものが出てくるかどうか楽しみにしながら。

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今回、このブログの中にある話題や言葉を頼りに辿り着いた方々の興味を一つの基点として、ブログの中身を味わい直し、世界を広めることができるということを知った。これからの一つの楽しみになりそうである。

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言葉は存在の住処? ― フランス語と英語の違い LA MAISON DE L'ETRE 

2006-07-13 01:55:59 | フランス語学習

私の中での英語とフランス語の違い。未だに不思議なのだが、フランス語を始めて、急速に歴史や文化・文学・絵画・哲学など広い分野に興味が湧いてきたのだ。おそらく教材の中にそういう財産が鏤められていることが大きかったのだろう。それらを説明するためにはそれを感じる受容体を働かせなければならなかったからだろうか。この言葉を学んでいる過程で、世界が広く深くなっていくように感じて嬉しい限りである。このことをフランスの方に話すと皆さん笑っているが、実感である。英語の教材ではもっと現実に即した、実利的な話題が多いような気がするのだ。

英語は日常の実務を処理する言葉。現実と向き合う時の言葉。そこから文化的なところに入ろうという気にはなかなかならない。フランス語は、現実を過去に蓄積された歴史・文化・哲学などに照らして考えようとする時に有効、あるいはそういう方向に私を誘ってくれるというのがより正確かもしれない。ハイデッガーではないが、確かに 「言葉は存在の住処」 "La langue est la maison de l'être."、精神・文化の居場所であることを実感しているこの頃である。

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ワールドカップのジダン LA COLERE EST MAUVAISE CONSEILLERE ?

2006-07-12 01:54:07 | 自由人

ある人の底力は、究極の場面で発揮されることになる。逆に言うと、それがないと極限状態では目を覆うようなことになる。その状態を想像して日々鍛錬する以外にない。これがワールドカップの私の中での教訓である。

ところで、ジダン Zidane のプレーを見て感じていることがある。彼のプレーには自分が自分がという自己主張を余り感じない。その代わりに、全体を見回して全体を生かすようにプレーしているように見えることが多い。以前から気づいていた彼のプレーの感触はどこかで出会ったことがあるような気がしていた。それを今回の頭突き事件とともに思い出した。

私の滞米時代にインディアナ大学からプロに進み、ボストン・セルティクス Boston Celtics で大活躍したバスケットボール・プレーヤーのラリー・バード Larry Bird (7 décembre 1956 -) だ (マジック・ジョンソンと同年代)。調べてみると、1978年にプロになり13シーズンプレーした後、1992年に引退している (その後、インディアナ・ペーサーズ Indiana Pacers の監督をし、2003年からはその会長をしているようだ)。彼のスタイルは予想もできないような美しいパスを出し、まさに人を引き立てる、無私 (désintéressé) に見えるものであった。このようなプレースタイルはそれまで見たことがなかったので、衝撃を受け、感心しながら見ていたことを思い出した。それがジダンのプレーと重なったのだ。

彼の復帰に関していろいろな憶測がされたことは以前に (2005-8-18) 触れた。しかし最終的には大正解の復帰になった。

決勝での頭突き事件は、フランス・チームの成功から見ると些細なことだろう。私もやっと数年前から "La colère est mauvaise conseillère." (怒りから行動すると碌なことにはならない。← 怒りは悪しき忠告者。) を頭に浮べるようにしているが、これとて自分の存在に触れることが関わってくるとそうは言っていられないだろう。もしジダンにも彼の存在を掻き乱す言葉が吐かれたとすれば、彼の行為は正当化されてしかるべき。抑える必要はなかったはずだ。それくらいの個の強さがなければ世界では勝てないのではないか。この事件の真相はまだ明らかになっていないが、ジダンに関しては寛容でありたい、というのが今の姿勢である。

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ハイデッガーの二つの顔 (III) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER

2006-07-11 22:15:14 | Heidegger

これまで述べてきたハイデッガーの明るい面と暗い面の関係はどう考えたらよいのだろうか。彼は暴力と死の教義を唱えたナチそのものだとするエマニュエル・フェイ Emmanuel Faye のインタビューと、彼は不等に非難されているとするハイデッガーの擁護者フランソワ・フェディエ François Fédier の著作からの引用が Le Point には掲載されている。

両者の主張を聞いてみると、同様の状況は日本でも見られる。フェイによると、ハイデッガーはガス室についてはほとんど語っていない。強制収容所についてにおわすような発言をする時もユダヤ人という言葉は一切使わない。歴史的真実を否定する彼の態度は、修正主義 révisionnisme の父といってもよい。その流れから全否定主義者 négationniste も出てきている。これからは、彼の思想 heideggérianisme を否定するのではなく、彼の作品を批判的に読むこと、その中にある哲学と哲学ではないところをはっきり区別することが重要になると結んでいる。

フェディエの話は、ポイントとなる 1942-44年におけるハイデッガーの直接の証人 になる Walter Biemel の証言を元に構成されている。例えば、ハイデッガーは、フライブルグ大学でナチ式の挨拶をせずに講義をした唯一の教授であった。「ナチズムの信奉」 "Adhésion de Heidegger au nazisme" という場合、ユダヤ人虐殺、下等人種の奴隷化、将来のための優秀人種の選択を意味しているはずだが、彼がこの犯罪的なイデオロギーに同意しただろうか。彼が学長の時には、ユダヤ人を中傷するビラを禁止したり、ユダヤ人やマルクス主義者の著作の焚書 autodafé を禁止している。これらの事実は、彼が学長として求められている責任をしっかりと理解していたと考えた方がよいのではないか。彼は1934年2月に辞意を表明し、4月27日に承認されている。

ハイデッガーの中でどういうことが起こっていたのか。それを知ることは彼の100巻を超えるとも言われる全集は勿論だが、それよりもむしろまだ手が加えられていない未発表の生の声や彼との接触のあった証人の声に耳を傾ける方がより示唆に富む情報が得られるのかもしれない。ただ、ハイデッガー・アーカイブスはどんな研究者にも開かれていないようだ。

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体制に阿る学者はどこの世界にもおり、自らの中にその要素を否定することは難しい。進んでお抱え学者の道を選ぶ者もいるのがこの世である。しかし彼らの軽さは目を覆うばかりだ。問題は身を委ねるところが、心の底からの信念と一致したものであるのか、自らそこに寄り添おうとしたのか、あるいはそこに巻き込まれたものなのかということだろう。

彼の生きた時代にどれだけの人が体制に異を唱えていたのだろうか、私は知らない。最近の東アジアの情勢を見ていると、一瞬にして空気が変わりうる瞬間がある。緊急事態にあるとして、それまでの積み重ねなどあっという間に吹き飛んでしまってもおかしくないと思わせる瞬間がある。本当に微妙なことで大きく変わるのではないか、と思わせることがある。呑気な状態での正義を気取る発言をしている言論人の真価が問われるのは、話すことが憚られる状況でそれができるかどうかだろう。言論人を見る時、そこまでの気骨が本当にあるのかどうかを一つの基準にして見極めることにしている。頼りになりそうな人はそれほど多くないというのが今の印象である。

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ハイデッガーの二つの顔 (II) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER (II)

2006-07-10 20:59:20 | Heidegger
           (1933年11月11日、上の写真でX印がハイデッガー)

正式な見解では、同僚に推 (押) されて1933年4月21日にフライブルグ大学学長を引き受け、翌34年4月23日に辞めたが、その後10年以上もの間このことを恥じていたことになっている。しかしいろいろな文書を見ていくと、全く違った真実が浮かび上がってくる。暗い側面 (face sombre) が見えてくる。

1910年 (21歳)、アルゲマイネ・ルントシャウ Allgemeine Rundschau に発表した最初の論文にはすでに反自由主義 antilibéralisme、反ユダヤ主義 antisémitisme の傾向が見られる。この論文で、アブラハム・ア・サンクタ・クララ Abraham a Sancta Clara (2 juillet 1644 - 1 décembre 1709) という強烈なナショナリズムとユダヤ人虐殺を唱えたことで知られている説教師を褒め称えている。これが若さゆえのことでなかったことは、1964年 (75歳) になってからもユダヤ人とトルコ人を激しく非難したこの説教師を 「われわれの人生における師」 と見なしていた。

1916年10月18日 (27歳)、彼の妻エルフリード Elfride に 「われわれの文化、大学がユダヤ化されることは実に恐ろしいことで、ドイツ人種が頂点を極めるためには内的な力をしっかりと見つけ出さなければならないと思う」 と書き送っている。

"L'enjuivement [Verjudung] de notre culture et des universités est en effet effrayant et je pense que la race allemande [die deutsche Rasse] devrait trouver sufffisamment de forces intérieurs pour parvenir au sommet."

1918年10月17日 (29歳)、「これまで以上に緊急に総統が必要であると認識している」 と妻に打ち明けている。

"Je reconnais, de manière toujours plus pressante, la nécessité de Führers."

1920年8月12日 (30歳)、「すべてがユダヤ人と彼らに便乗する人達によって占領されている」 と結論している。

"Tout est submergé par les juifs et les profiteurs."

1932年 (43歳) には、息子のヘルマン Hermann が最近認めたところによると、ナチ党に投票している。フライブルグ大学学長の職を退いたのは、ナチに対する抵抗から辞めさせられたのではなく、ナチ内部の意見対立の結果だった。彼の 「学長演説」 "Discours du rectorat" はナチズムの古典となり、反ユダヤ主義の学生団体によってしばしば引用され、1943年だけで100万部以上出回っている。また同年、紙不足の真っ只中にもかかわらず、彼の作品が政府承認のもとに印刷されている。この哲学者がナチによって迫いやられたと誰が信用するだろうか?

"A qui ferait-on croire que ce philosophe fut persécuté par les nazis ?"

大戦後は連合国により教職から追放されるが、1951年には復権した。しかし彼は一度たりともナチズムを弾劾したことはなく、ユダヤ人虐殺についてもはっきりとした態度を表明していない。

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ハイデッガーの二つの顔 (I) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER (I)

2006-07-09 13:26:14 | Heidegger
       Martin Heidegger (26 septembre 1889 - 26 mai 1976)

先週届いた Le Point の文化欄に、ハイデッガーとナチとの関係について特集が組まれている。ハイデッガーの死後30年ということと上級教員資格試験 (agrégation) に彼の哲学が初めて取り上げられたことが関係しているらしい。ハイデッガーを知らずして高校の哲学教師にはなれないということになる。

私も先日ハイデッガーを味わうために生まれてきたとのご宣託をいただき、最近彼の 「ヒューマニズムについて」 を暇を見て齧っているので、初めての言葉に溢れている6ページの記事を読んでみることにした。

ハイデッガーのナチ問題については、1987年にヴィクトル・ファリアス Victor Farias が出した "Heidegger et le nazisme" (Verdier) により再燃し、例えば、ジャック・デリダ Jacques Derrida などの発言や ユーゴ・オット Hugo Ott "Martin Heidegger. Éléments pour une biographie" (Payot, 1990)、エマニュエル・フェイ Emmanuel Faye "Heidegger, l'introduction du nazisme dans la philosophie" (Albin Michel, 2005) などに対し、フランソワ・フェディエ François Fédier を中心とした激しい敵意に満ちたカウンターアタック "une virulente contre-attaque" (今年の4月には "Heidegger à plus forte raison" が出ている) が続いているという。

南ドイツのカトリックの村に樽職人 (tonnelier) の息子として生まれる。その生まれからか、彼は終生土地にしっかりと根ざした人間としてあることを望み、根無し草として世界に生きること ("cosmopolite"、"déraciné") を拒否した。彼にとって資本主義の論理は異質なものとしてあり、自然を技術で加工していくことの先に見えるものを予見し、犯罪的な破壊であると見ていた。

初めは神学を勉強していたが、20歳の時に哲学に転向する。しばらくは目立ったこともなかったが、37歳の時に発表した "Sein und Zeit" ("Etre et Temps" 「存在と時間」) で一躍有名になる (Le retentissement est immédiat.)。それは古代ギリシャのプラトン、アリストテレスの時代からある問題だが長い間忘れられていた 「存在の意味 le sens de l'être」 に光を当てたからである。彼はすでに存在するいろいろなものの属性について問うのではなく、「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」 という問題について考察を加えた。そこに彼の真価があった。また理性の支配する領域に詩的な語り口を求める。そのためフライブルグ大学でも人気が出て、ハンナ・アーレント Hannah Arendt、エマニュエル・レヴィナス Emmanuel Levinas などの優秀な学生が集まった。

1960年代から80年代までは、彼とナチとの関係についてはほとんど話題にならなかった。ここまでは彼の明るい顔 (face claire) になる。

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ある土曜日 アフリカ・リミックスなど UN SAMEDI -- AFRICA REMIX

2006-07-08 22:20:23 | 展覧会

今日は、ケ・ブランリーつながりでアフリカ関連の展覧会に出かける。道すがら、なぜか鈴木聖美の 「TAXI」 という歌が湧き上がってきた。

アフリカ・リミックス (森美術館)

美術館に向かう途中で本屋に立ち寄る。写真関係を中心に見る。荒木が新しく写真集を出したようだ。以前に見たことのある写真に絵の具を塗りたてているやつである。それから寺山修司の歌をテーマに森山大道が写真と文章で膨らませている 「あゝ、荒野」、藤原新也の 「渋谷」 に目が留まる。谷崎潤一郎歌、棟方志功板 「歌々板画巻」 (中公文庫) を仕入れる。

展覧会会場は人が少なく、西洋名画の展覧会と違って上から傘が被られているような雰囲気がなく精神を自由に保つことができ気持ちよく見て回ることができた。展示物の彫刻、絵画、写真、インスタレーション、ビデオなど多様である。政治的なメッセージのある作品がいつもより目に付いた。そのほか、アフリカの生活を想像させるような写真や映像に興味を引かれる。今回は特に写真を撮っている人の名前を控えてきた。以下は今後のためのメモになる。

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Cheik Diallo (né 1969 Mali)
Eileen Perrier (né 1974 Ghana)
Hicham Benohoud (né 1968 Maroc)
Omar D. (né 1951 Algérie)
Akinbode Akinbiyi (né 1946 Nigeria) 二ヶ所で取り上げられていた
Balthazar Faye (né 1964 Sénégal)
Santu Mofokeng (né 1956 Afrique du Sud)
Zwekethu Mthethwa (né 1960 Afrique du Sud)
Tracey Derrick (Afrique du Sud)
Sérgio Santimano (Mozambique)
Rui Assubuji (né 1964 Mozambique)
David Goldblatt (né 1930 Afrique du Sud) 本など多数出ていた
Luis Basto (né 1965 Mozambique)
Guy Tillim (né 1962 Afrique du Sud)
Allan de Souza (né 1958 Kenya)
Otobong Nkanga (né 1974 Nigeria)
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会場を出た後、近くのオープンカフェで2時間ほど 「戦後日本の『考える人』100人100冊」 という特集をぱらぱらと捲る。

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町の感情 LE SENTIMENT D'UNE VILLE

2006-07-07 21:44:37 | 

先日私の訪れた町を羅列したフランス語版記事について、フランスの Liguea 様からコメントが届いた。これだけの町を旅人として時間を過ごすというのは大変ではないですか、というものだ。生活しないことがわかっている町で、誰に会うこともなく。あるいは、それが不可能なのに住みたいと思うような出会いが待っているかもしれないのに。さらに、全ての町について ambiance、sentiment 雰囲気や印象 (町の持つ感情) 以上のものを持っていますか、という質問で終わっていた。

それ以上かどうかわからないが、町の持つ雰囲気や感情については全ての町について残っていて、はっきりと思い出すことができる。町の中に身を置くことにより、土地の人に出会うことにより誘発される心の中の揺らめきと言った方がより正確なのだろうか。それが心を少しだけ豊かにしてくれているように感じる。やはり旅はすべきなのだろう。

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ディディエ・スキバンを聞く LA MUSIQUE DE DIDIER SQUIBAN

2006-07-06 00:34:04 | MUSIQUE、JAZZ

昨日今日と天候が思わしくない。こういう時には何か違うもの、ゆったりと心に染みるものを聞きたくなる。そこで iTunes を探したところ、ひとつのCDに行き当たった。

ディディエ・スキバン Didier Squiban というブルターニュ出身のピアニストのアルバム "Rozbras" 「ロスブラス」である。

12のイメージがピアノソロにより奏でられる。おそらく、彼の土地ブルターニュのイメージだろう。ただこのタイトルの意味はよくわからない。

2003年夏、セーヌ河畔を当てもなく彷徨っていた。しばらく歩くと、スポーツコンプレックス Omnisports を過ぎたあたりに、古い町並みの中にアメリカの郊外で見かけるような小さなお店が集まったところを見つけ、そちらに向かった。ベルシー地区 (実はこの名前を思い出すのに30分くらいかかった。そこに関連のあることを思い出そうとするのだが、なかなかうまくいかなかった。結局、それを繰り返しているうちに突然飛び出してきた) のモール?である 。

その中にあった明るい、ユニークな音楽の流れている、アフリカの品も置いてある店に入り、流れている音楽について店の若者に聞いてみた。その時、フランスのキース・ジャレットのような人でバックグラウンド・ミュージックとしてはよいのでは、と紹介してくれたのがこのCDである。アフリカ音楽とあわせて記念に手に入れた。思い出の品である。

それ以来余り聞いたことはなかった。しかし今日は静かに、まさに心に染み入るように彼の音楽が入ってくる。なぜかわからないが、この天候とパリのその日の空気を思い出させるこの音楽との相性がよかったのかもしれない。

ネットサーフしてみると、彼は昨年春に日本に来ていたことがわかった。その時はアンテナは全く張られていなかったということになる。

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(version française)

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ケ・ブランリー美術館再び LA DOUBLE MISSION DU QUAI BRANLY

2006-07-05 00:47:01 | 展覧会

ケ・ブランリー美術館の設計者、ジャン・ヌーヴェル氏のインタビュー記事について数日前に書いた。そのタイトルは "Je relie le sens et le sensible" となっていたが、日本語にはしなかった。本当の意味がピンと来なかったからだ。

先ほど久しぶりに Le Monde のサイトに行くと、今日のお題となったタイトルでこの美術館が取り上げられていた。その記事は以下のように始まっている。

Esthétique ou ethnographique : de quel côté penche le Musée du quai Branly ? Les trois premières expositions temporaires de la nouvelle institution marquent bien sa double vocation : mettre en valeur des objets sur le plan esthétique mais aussi leur donner du sens.
(審美的か民俗学的か:ケ・ブランリー美術館はどちらに組しているのか?この新美術館の最初の3つの特別展は、展示物を美的な面で強調すると同時にそれらに意味を与えるというこの美術館の二つの使命をよく表している。)

この最初の二つの対比を目にしてはっとした。le sensible と le sens の意味するところを自分の中ではっきりと感じ取ることができたのだ。美に関することと学問 (民俗学など) 的なこと、「情(操)」 と 「知」、この二つを結びつけることにヌ―ヴェル氏は努めた、と理解した。これがこの美術館を創るに当たっての一つの哲学になっていたということになる。こういう具合に、自分の中の小さな謎が氷解していくのを見るのはなかなか気持ちがよい。

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ところで、最初の3つの展覧会とは以下のことである。

"Ciwara, Chimères africaines", jusqu'au 15 décembre. Catalogue sous la direction de Lorenz Homberger, Cinq Continents/Quai Branly éd., 94 p., 25 €.

"Nous avons mangé la forêt...", Georges Condominas au Vietnam, jusqu'au 15 décembre. Catalogue sous la direction de Christine Hemmet, Actes Sud/Quai Branly éd., 128 p., 29 €.

"Qu'est-ce qu'un corps ?", jusqu'au 25 novembre. Catalogue sous la direction de Stéphane Breton, Flammarion/Quai Branly éd., 216 p, 45 €.

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意識のずれを意識する CONSCEIENT DU FOSSE DE LA CONSCIENCE

2006-07-04 00:39:04 | Qui suis-je

あることに気づくとする。その翌日にはそのことをずっと昔から知っていたような気になっている。それはそれでよいのだろうが、感動がなくなる。そのためにも、日々の小さな発見を書いておくことは重要であると思う。そうしたちょっとした意識のずれを記録しておくと、後で読み返した時生きていることを実感できる。ずれを意識するという活動をしていた自分がそこにいたことを確認するからだ。そうでもしないと、これから“のぺらーっとした”人生になりそうな予感がする。

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ケ・ブランリー美術館の哲学 MUSEE DU QUAI BRANLY ET JEAN NOUVEL

2006-07-03 22:42:22 | 展覧会

Musée du quai Branly の色使いが何とも言えずユニークだと先日書いたが、このことを Olivia Cham さんに話したところ、興味深いインタビュー記事があるからと知らせてくれた。この建物の設計者ジャン・ヌーヴェルさんが語っているものである。タイトルは "Je relie le sens et le sensible" となっている。

Jean Nouvel (12 août 1945 - )

この方、有名なところではアラブ研究所 Institut du Monde Arabe (1981-1987)、カルティエ財団 (Fondation Cartier pour l'art contemporain; 1997)、ルツェルンの国会議事堂・文化センター (Palais de la culture et des congrès de Lucerne; 1999) など、日本では電通タワーの設計している。最近ルツェルンのコンサートホールで行われたクラウディオ・アバドの演奏会をテレビで見たが、その時紹介されていた湖と接するように設計された斬新なデザインは記憶に残っている。この方の作品だとは知らなかったが。またこれからの仕事として、マンハッタンのグラウンド・ゼロに建つタワーの設計も任されていたり、サンクト・ぺテルブルグのマリインスキー劇場やコペンハーゲンのコンサートホールの仕事も決まっており、相当エネルギッシュな建築家のようである。

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今回の設計に当たっての哲学は?と問われて、他者の文化・文明のための区域 (territoire) を創造することと答えている。建物というよりはそのための場所(territoire) というイメージで仕事を進めたようだ。全的な建築 "une architecture totale" という言い方もしている。公園が全体の三分の二を占め、ギャラリーはセーヌ川の曲線と共鳴し、テラスはエッフェル塔の日陰になるという素晴らしい立地条件である。建物が平凡なので、色や光、細部で勝負したようだ。色使いが特徴的だったのは彼の哲学の現れであったことがわかる。

アフリカ・オセアニア文化の美術館では、例えばマスクなどはそれが本来あるべきコンテクストから抜き取られて、芸術作品として展示されることになる。しかし彼は芸術作品として扱わないと言う。そのものが感情を揺さぶる力を維持していること、またそのものがある状況 (踊っている人の顔にあるマスク) を想像することが重要になるので、そのための映像や文献も用意しているとのこと。人類博物館とアフリカ・オセアニア博物館のサンテ―ズをこの美術館はしている。"Ce musée fait la synthèse entre le musée de l'Homme et le musée des Arts africains et océaniens."

最後に今日の建築を揺り動かしている問題は?と問われて、"le conflit entre architecture générique et spécifique" と答えている。彼は建物が建つところの地理や歴史との対話なしに、土地の人との協調なしに、いつも同じような形を落下傘で落すようなやり方で世界を矮小化するのには反対。仕事はいつも冒険であり、探検でなければならないが、90%のプロは場所に対する意識がない、と厳しいお言葉。

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オリヴィアさんによると今は大変な人出で、行きたいという気にならないらしい。私が行けるようになる頃(があれば)には落ち着いていてほしいものである。

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