フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

2月の記事

2007-02-28 23:52:37 | Weblog
2007-02-28 関流数学家 DEUX MATHÉMATICHIENS DE L'ÈRE EDO
2007-02-27 水木しげるという人 QUI EST SHIGERU MIZUKI ?
2007-02-26 狩野亨吉 - 百科全書派 KÔKICHI KANÔ, ENCYCLOPÉDISTE JAPONAIS
2007-02-25 花粉本格到来 FRAPPÉ VIVEMENT PAR L'ALLERGIE
2007-02-24 百歳 100 ANS
2007-02-23 漱石の手紙 LETTRES DE NATSUME SÔSEKI
2007-02-22 芥川の手紙 UNE LETTRE DE RYÛNOSUKE AKUTAGAWA
2007-02-21 普遍人 HOMO UNIVERSALIS
2007-02-20 「ルート66を行く」  SUR LA ROUTE 66
2007-02-19 佐藤允彦を聞く ÉCOUTER MASAHIKO SATÔ
2007-02-18 パスカルに自分を見る S'ENTREVOIR CHEZ PASCAL
2007-02-17 ブログ2年を経過して RÉFLEXIONS APRÈS 2 ANS
2007-02-16 春一番 LE PREMIER VENT PRINTANIER
2007-02-15 カート・ヴォネガットとの遭遇 RENCONTRE AVEC KURT VONNEGUT
2007-02-14 ミニ句集 PETIT RECUEIL DE HAÏKU
2007-02-13 科学者の努め LE DEVOIR DE SCIENTIFIQUE
2007-02-12 全的に考える PENSER D'UNE MANIÈRE TOTALE
2007-02-11 「私には何の悔いもない」 NON, JE NE REGRETTE RIEN
2007-02-10 老子を読み、翻訳を考える QUELLE EST LA MEILLEURE TRADUCTION?
2007-02-09 山頭火 - かぜ - ゆき SANTÔKA - LE VENT - LA NEIGE
2007-02-08 ジャクリーヌ・ド・ロミイ (II) JACQUELINE DE ROMILLY
2007-02-07 ジャクリーヌ・ド・ロミイ: 野蛮に抗する ROMILLY CONTRE LES BARBARES
2007-02-06 お昼のバスで DANS UN AUTOBUS
2007-02-05 それとともに生きる LIVE WITH IT !
2007-02-04 タオからの連想 "TAO" ME RAPPELLE DE...
2007-02-03 長い沈黙の後に APRÈS LE LONG SILENCE
2007-02-02 「プロジェ」 という言葉を聞いて ÉCOUTANT LE MOT "PROJET"
2007-02-01 老子 「道徳経」 を読み始める COMMENCER À LIRE "TAO TE KING"

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関流数学家 DEUX MATHEMATICHIENS DE L'ERE EDO

2007-02-28 23:16:50 | 科学、宗教+

先日取り上げた狩野亨吉氏の講演記録 「記憶すべき関流の数学家」 を読む。明治40年12月5日、江戸時代の数学者関孝和の弟子2名について関孝和二百年忌記念講演会で話した内容である。当時の雰囲気が伝わってくるのと、どういう人をどういう理由で取り上げているのかを探っていくと、狩野自身のものの見方や人物像が浮かび上がってくるので興味深い読み物となった。当日狩野氏は体調を崩し、若い人に代読させている。

「古来我国の学問は、支那か、印度か、西洋かを手本といたしまして、出来て居ります。学者も亦、自然彼方の人を真似て、得意となつて、誰も亦之を怪しまなかつたものであります。」 という言葉で講演は始る。そんな我国において、日本独自のものを捜し求め、新しい境地を開いた尊敬すべき人もいた。しかし、「我国民は、維新前後の混雑に紛れて、過去幾多の、尊敬すべき、記憶すべき人物を忘れ終うせたが為に、彼の心細いと云ふ感じに打たれて居りましたが、翻って徳川時代の歴史を調べて見ると、却て人意を強うする学者や人物を、多く見出すことが出来る。関孝和先生の如き即ち其一人であります。」

幕府や各藩が数学など推奨したこともないのに、その弟子が社会に広く出たということは 「頗る異とすべき現象」 と狩野は捉えている。その中で、関の孫弟子に当たるこの人を取り上げている。

中根元圭: 1662年 (寛文2年) - 1733年 (享保18年)

彼は、医者であったが、京都の銀座の役人になり、将軍吉宗に知られてさらに学問を続けることが出来た人である。数学、天文学、度量衡、韻鏡、書学、字書などの本を書き、音楽に詳しく日本の音楽を盛り立てようとしていた。彼が71歳の時、吉宗の命を受け、太陽と太陰との地球の距離を測るという日本初の事業に従事する。その結果は相当に怪しいものであったが、当時の測定法では致し方なかったのだろう。老骨に鞭を打っての仕事だったのだろう、その翌年には亡くなっている。学問に一生を捧げた人で、単に数学の分野だけに留まらず、文明史においても特筆すべき人物であったとしている。


関孝和の没後87年目に8人の弟子が碑を建て、祀った。その筆頭にいたのが生涯を浪人で暮らしたというこの方である。

本多利明: 1743年 (寛保3年) - 1821年1月25日 (文政3年12月22日)

越後村上の出身で、実学を修めるため18歳の時に江戸に出て、数学、天文学、剣術を学び修める。24歳の時、塾を開き弟子を取るようになるが、その仕事は別の人に任せて、自分は諸国を遊歴し、地勢、民族、物産、交通の便などを調べる。さらに外国との交流にも積極的で、「西域物語」 を著し、鎖国の時代にあって開国を主張する。その実現に向けて、我国で初めて航海術を学び、幕府から蝦夷地に2度に渡って航海を命ぜられるその道の「オーソリチー」 になる。その後、彼はあらゆる仕官を辞して、年来の目的であった経綸策の実施に向け自らの信念を友人などに諮った。彼の意見は、「独語」 (露西亜に対する策について)、「経世秘策」 (一般経済について)などに見ることができる。

興味深いことに、本多は北方の防備をしっかりしなければならないと説き、手段が穏和であれば、国境を広げることにも反対しないどころか、寧ろ積極的に領地を広けるべきであると主張している。小さな日本は鎖国などしている時ではなく、諸外国と通商の道を開き、首都を大陸に遷すがよしなどと言っている。さらに、北アメリカの内地にも開拓の手を伸ばすように建白までしている。稀有な人物であったようだ。

これだけのことを言いながら、彼が何故に罰せられることがなかったのか、と狩野は問う。そして、第一にはその著書を公表しなかったこと、第二には彼の性格に関わるもので、人間として信用を得ていたことが大きかったのではないかと推測している。自らを厳しく律するところがあり、人をよく受け入れ助ける寛容の人であったという。数学者としてのみならず、憂国の士として記憶に止めなければならない人物であると結論している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水木しげるという人 QUI EST SHIGERU MIZUKI ?

2007-02-27 00:54:11 | 自由人

週末の夜中にテレビをつけると、NHK アーカイブスが流れていた。その日は漫画家の水木しげるが取り上げられていた。彼の作品を読んだことはないし、ご本人についても何も知らない。しかし、話を聞いていると面白そうな人なので、途中からだったがついつい最後まで見てしまった。彼が60代中ごろの映像とのことなので、もう20年も前のことになる。

水木しげる: 大正11年 (1922年) 3月8日 -

第二次大戦中、南の戦地でマラリアに罹るが、隊を抜け出しては土地の人と付き合っていた。彼らの生活が 「木の生活?」 (自然とともにあるということか) で、人間が大らかで言葉は分からないものの気持ちのよい付き合いであったという。言葉だけではないコミュニケーションができそうな人である。むしろ言葉ではない方が人間の中身が出るような人とお見受けした。いずれにせよ、土地の人との付き合いのお陰で病気もよくなり、引き上げる時にはそこに留まりたいと本気で思い上官に申し出たが諭されて日本に帰ってきたという。彼の心の底には今でも、その生活が息づいているように見えた。

日本に帰ってからの生活は苦しく、貸し本作家として6-7年を過ごすが、この時の収入は微々たるもので食うや食わずの生活が続いたという。本当に苦しかったようだが、彼の顔にはその間に刻まれたはずの証拠が全く見て取れなかった。日常の苦境をどこか別のものとして処理できる何かがあったとしか思えない。そのことにまず驚いた。根っからの楽天家で、マイペースで生きるのが自分に一番心地よい生き方とでも思っているかのようだ。南洋での生活が何かを与えたのか、あるいは現世にありながら別世界を見ることのできる視界の深さがあったのだろうか。その理由はわからないが、お顔が特に印象に残った。

もう一つ印象的であったのは、60になったら仕事をしないで、のんびりぼやーっとして生活するのが最高という考え方。仕事をしないということはすべてから解放されるということ、解放されながら生きる、そんないいことがどこにありますか、という調子である。最後まで見てしまったのは、おそらく彼の中に何か共通するものを見たように感じたからではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狩野亨吉 - 百科全書派 KOKICHI KANO, ENCYCLOPEDISTE JAPONAIS

2007-02-26 00:54:43 | 自由人

この週末、金子兜太の 「中年からの俳句人生塾」 を何気なく見ていると、彼が俳句を始めるようになった経緯が書かれているところにぶつかる。旧制高校の時代、太平洋戦争に向かっていた厳しい情勢の中、飄々と時勢を超越している自由人であった1年先輩に誘われて始めたようである。その句会に会場を提供してくれていた英文学の先生にも自由人の魅力を見ていたようだ。その他、戦後に読んだ E.H. ノーマンの 「忘れられた思想家」 に出ていた安藤昌益にも惹かれたという。

 安藤昌益: 1703年 (元禄16年) - 1762年11月29日 (宝暦12年10月14日) 

「朋友を求むることなかれ、而も友に非らざるといふことなし」 との言葉に、弟子が注記をして、この世には 「人は万万人にして一人なれば誰をか朋友と為さん。万万にして一人乃 (すなわ) ち朋なり。故に朋友に非らざる人無きなり」 と記している。

ノーマンの悲劇的最後を何年か前のテレビ番組で見ていたこともあり、医者にして思想家であった安藤昌益についても知りたくなっていた。そしてネットサーフしている時に、この人に出会う。

 狩野亨吉: かのう こうきち、1865年9月17日 (慶応元年7月28日) - 1942年 (昭和17年) 12月22日

若い頃に日本思想史の探究を志し、並々ならぬ熱意をもって古書を蒐集。哲学や宗教に限らず科学や芸術等々を含むその探究によって、安藤昌益だけでなく本多利明志筑忠雄ら、近世日本の科学者を発掘。その学識を讃えられながら、生涯一冊の著書も出版しなかった、自然科学的合理主義による百科全書的な思想家。一高校長を経て京大学長となるも、自己が官吏として生きることと学者として生きることが両立しないと考え、四十三歳で京大学長を辞任。以後はつましく暮らしながら探究を続け、書画鑑定業を営む中で「アイデンティティ」に関する科学的認識論としての「鑑定理論」を研磨した。略歴は以下の通り。

1865年、秋田に生まれる。父親の内務省出仕に伴い一家東京に移住。
1879年、東京大学予備門入学。
1884年、東京大学理学部入学(数学専攻)。
1889年、東京帝国大学文科大学入学(哲学専攻)。
1891年、同大学院入学。
1892 年、第四高等中学校教授。
1898年、漱石らの招きで第五高等学校教授。同年、第一高等学校校長となり、在任中、岩波茂雄をはじめ後に岩波文化人となる学生たちと交わる。
1906年、京都帝国大学文科大学教授、初代文科大学長。
1908年、同職辞任。
1913年、皇太子教育係職の斡旋を再三受けるが思想上の不適任を主張し固辞。
1914年、東北帝国大学総長への推薦を辞退。以後、五十代半ばで文書・図書・書画鑑定等の「明鑑社」を開業し生計を立てる。
1942年、満77歳5ヶ月の生涯を終える。

 (以上は、彼の著作 「安藤昌益」 (書肆心水) の紹介文からの引用)

------------------------------
  彼の興味の抱き方と仕事というものの捉え方に痛く感じ入っていた。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花粉本格到来 FRAPPE VIVEMENT PAR L'ALLERGIE

2007-02-25 00:00:09 | 俳句、詩

  仙台からTS氏が上京 夕食を共にする
  日本の科学の現状についての話に始まり
  人生の奥にあるものについての話に辿り着く
  これからどんどん深くなりそうな予感が気分を高揚させる

    春の宵この世の奥を語り合い  paul-ailleurs

     au soir du printemps
      nous nous parlons
       du fond de ce monde
 

      強い風の中 花粉をたっぷり浴びたせいだろう
      病が一気に襲いかかってくる
      薬を使わない主義者がその掟を破る

        ウサギの目ついに手にする点眼剤  paul-ailleurs

         ayant les yeux congestionnés
          finalement
           j'y mets des gouttes

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

百歳 100 ANS

2007-02-24 07:08:12 | 年齢とヴィヴァシテ

この週末、早朝に目が覚める。テレビをつけると 「百歳」 という番組が流れている。その日は、漢詩とともに生きている元教師が紹介されていた。3年前に奥さんを亡くし、一人暮らし。朝食や夕食後にはりんごを食べるという。大学の時に作った漢詩を先生に褒められたのが切っ掛けで、本格的に始めたのは定年後。万年筆と漢和辞典を手に、自分の気持ちにぴったり合う字を探している時が苦しいが楽しいという。その結果が200くらいの作品になっている。途中に教え子との食事会の様子が映し出されていたが、若い頃彼女と会っていた時より80代の彼らと話をすることの方が楽しいと言って目を輝かせていた。最後に、しっかりとした声でこう語っている。

  「好奇心から詩が生まれる。それが命を繋いできたのかな。」

何気なく語られていた <命を繋ぐ> という言葉に重みを感じていた。肖りたいものである。


------------------------------
2006-07-22 100歳から現在を見る VIVRE EN REGARDANT DE 100 ANS

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漱石の手紙 LETTRES DE NATSUME SOSEKI

2007-02-23 00:13:07 | 日本の作家

今日は、昨日取り上げた内容の訂正になる。芥川龍之介から久米正雄に送られた手紙として紹介したものは、夏目漱石からこの2人に出されたものであった。kounit 様のコメントがなければ、気付かずに過ぎてしまっていた。改めてkounit 様に感謝したい。

もう20年程前になるのでその番組のことは覚えていないのだが、昨日要約された手紙を取り巻く状況は以下のようになる。芥川は大正5年 (1916年) 2月に短編 「鼻」 を発表する。その夏2人は千葉の一の宮に滞在するが、そこに漱石から問題の手紙が送られてくる。少し長くなるが、引用してみたい。

-----------------------------------

 あなたがたから端書がきたから奮発して此手紙を上げます。僕は不相変 (あいかわらず) 「明暗」 を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快楽、器械的、此三つを兼ねてゐます。存外涼しいのが仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日まえから午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。・・・・勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなつてください。然し無暗にあせつては不可 (いけ) ません。たゞ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。文壇にもつと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思ひます。是は両君とも御同感だらうと思ひます。/今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでせう。/私はこんな長い手紙をたゞ書くのです。永い日が何時迄もつゞいて何うしても日が暮れないといふ証拠に書くのです。さういふ心持の中に入ってゐる自分を君等に紹介する為に書くのです。夫からさういふ心持でゐる事を自分で味わつて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の声で埋まつてゐます。以上

  八月二十一日
 久米正雄様
 芥川龍之介様


 返事をもらった漱石は、この三日後にまた手紙を書く。その中に、「牛になることはどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです」 とあり、次のように続いている。

 あせつては不可せん。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知つてゐますが、花火の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後から出て来ます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。/是から湯に入ります。

  八月二十四日
 芥川龍之介様
 久米正雄様
 君方が避暑中もう手紙を上げないかも知れません。君方も返事の事は気にしないでも構ひません。

-----------------------------------

 読んでいると漱石の細やかな心配りが見える。この話に私が反応したのは、おそらく自分への戒めとして捉えようとしたのではないかと想像している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芥川の手紙 UNE LETTRE DE RYUNOSUKE AKUTAGAWA

2007-02-22 00:47:41 | 日本の作家

先の休みに20年ほど前のノートをめくっていて、NHKテレビで夏目漱石の評伝を見た後に残していたメモを発見。予想もしないものが出てくると、当時確かに生きていた、何らかの精神活動をしていたことを確認でき、頭の中に力が漲ってくる。それは、芥川龍之介 (1892年3月1日 - 1927年7月24日) が久米正雄 (1891年11月23日 - 1952年3月1日) に宛てて書いた次のような言葉であった。

「世の中は、根気よくやる人には頭を下げるが、華やかなことは一瞬のうちに頭から去っていく。人はみな馬になろうとするが、牛になれ。そうして、死ぬまで押し続けるのだ。何を押し続けるかと言えば、それは他にはない、他人ではない。それは自分の中にある何か本質的なものなのだ。」

芥川はやはり自身を馬であると感じていたのかという思いが湧いたのか、自ら馬になろうとしている心を戒めようとでも思って控えた言葉であったのか。メモを見た時は驚いたが、その時のことが微かに浮かび上がってきている。


-------------------------------------
(22 février 2007)
この記事について、kounit 様からここで取り上げた言葉は漱石のものではないかというコメントがありました (コメント欄をご覧下さい)。さっそく調べてみたところ、ご指摘通り、漱石から芥川と久米に送られた手紙であることが判明しました。記事にある手紙の要約を読み直してみると、相当思い入れの強そうな書き方をしていますので、その言葉に集中し過ぎて周りを見落としていたのかもしれません。このような誤りが随所に転がっている可能性がありますので、お気付きの点がありましたらコメントの方をよろしくお願いいたします。

kounit 様、ご指摘ありがとうございました。訂正版を明日出すことにします。これに懲りずに今後ともよろしくお願いいたします。

コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

普遍人 HOMO UNIVERSALIS

2007-02-21 00:00:35 | 科学、宗教+

パスカルが近くなっているせいか、朝の車の中、自分の目指す先を言葉にすればどうなるのか、などと考えていて浮かんできたのが、今日のお題になったものである。ラテン語の素養などない身が考えるのである。ありそうな言葉だと思ってはみたがそれが本当にあるのか、仕事場に着くまでの間楽しんでいた。

早速ネットで調べてみると、言葉が存在するのを見つけ元気が出る。Wiki に入ってみると、Polymath の項に辿り着いた。Polymath と言えば、当時何かをすでに感じていたのだろうか、トマス・ヤングという人のことを読んだ時に、このブログでも触れたことをすぐに思い出した。

   THOMAS YOUNG - POLYMATH (ESPRIT UNIVERSEL) (2 décembre 2005)

参考のために Wiki での定義を転載しておく。

  "Un individu aux connaissances variées et approfondies, en particulier des connaissances en art et en science. On dit parfois Homme d'esprit universel."
  (特に芸術と科学の分野で幅広く深い知識を持っている人で、しばしば 「普遍的な精神の持ち主」 と言われる)

  "A person well educated in a wide variety of subjects or fields. Polymaths are also described as persons with encyclopaedic or broad or varied knowledge or learning."
  (幅広い問題や分野について素養のある人。百科全書的な、幅広い、様々な知識や学識を有する人)

  "Renaissance man (a term first recorded in written English in the early 20th century), and also in use are Homo universalis and Uomo Universale, which in Latin and Italian, respectively, translate as "universal person" or "universal man".
  (20世紀初頭に初めて英語の文書で使われた 「ルネサンス・マン」 やラテン語の "Homo universalis"、イタリア語の "Uomo Universale" も使われており、英語では "universal person/man" と訳される)
 
パスカルの "Peu de tout" (すべてを少しずつ) にも通じるこの道は、科学をやる場合には非常に危険である。結局どこにも辿り着かない可能性が高いのと、その中にいる人から尊敬されないことがほとんどだからだ。その意義を感じるのは、おそらく科学を遠くから見ることができるようになった時なのかもしれない。


ところで、話はここから少し拡がることになる。トマス・ヤングの記事をこのブログ内でサーチしている時、以前にその意味がよく分からないままに過ぎていた "SOCIÉTÉ PHILOMATHIQUE DE PARIS" という 2005年12月21日の記事が引っ掛かってきた。そこでは 「パリ数理(純粋)科学愛好協会??」 と訳している。近いけれども、「??」 とあるように意味をしっかり理解していたとは言い難い。手元の辞書に見つけることができなければ、Wiki に行くべきであった。そこにはこういう説明がある。

  Philomath = philo + math
  philo はフィロソフィーのフィロなので愛すること、これは問題がない。問題はmath で、数学というイメージしかなかったためよく理解できなくなっていた。この説明によると、math はプラトンがアリストテレスを形容するのに用いた "mathema" という言葉に由来し、"disciplina, doctrina, cognitio, ars" (規律、教義、認識、技術) が本来の意味であるが、それを広ろげて 「学ぶこと」 という意味で使われているようだ (ただ、数学に限定されると解釈する学者もいるようだが)。つまり、パリの協会は 「(領域を問わない) 学びを愛する人たちの集まり」 であることが明らかになった。なぜか、すっきりとした気分である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ルート66を行く」  SUR LA ROUTE 66

2007-02-20 00:02:15 | 

ルート66」 (Route 66) は、イリノイ州シカゴからカリフォルニアのサンタモニカを結ぶ全長3,755kmに及ぶ国道で、イリノイ、ミズーリ、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの8州を横断している。

La Route 66 (officiellement U.S. Route 66) était une route américaine qui joignait Chicago dans l'Illinois à Los Angeles en Californie (plus exactement, à Santa Monica). Elle est longue de 2 448 miles. La Route 66 traverse 8 états (Illinois, Missouri, Kansas, Oklahoma, Texas, Nouveau-Mexique, Arizona, Californie).

この言葉からまず思い浮かべるのは、子供の頃流れていたテレビ番組、そしてナット・キング・コールの歌である。先日の休みに衛星放送のチャンネルを回していると、この道をゆっくりと行くという番組に行き当たった。アメリカの殺風景な郊外の景色が写されている。学会などでアメリカに出かけて、空港からレンタカーに乗り郊外の道に出る時にいつも訪れる解放感が蘇る。その感覚は何と形容すればよいのだろうか。日本では決して味わうことのできない感覚で、その解放感を味わうためにアメリカまで行っていたと思わせるくらいのものである。最近はヨーロッパに惹きつけられているため忘れていたが、アメリカの漠とした景色を眺めていると、懐かしさと愛おしさとともに青春の記憶が押し寄せてくる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤允彦を聞く ECOUTER MASAHIKO SATO

2007-02-19 00:16:37 | MUSIQUE、JAZZ

その人の演奏会場に入ると、いつもとは違い空気の密度が濃いと感じる。もちろん満席なのだが、数のせいではなさそうだ。お客さんから何かが発散されて空気を満たしているという印象である。

  佐藤允彦 (1941-) 
    加藤真一 (ベース)
    村上 寛 (ドラムス)

佐藤允彦という名前は学生時代から知っていた。中山千夏のお相手として (最近の方はご存知だろうか)。ただ、その音楽に意識的に触れることはなかった。ジャズに詳しかった今は亡き友人HT が、彼は千夏 (当時大活躍をしていた) よりもずっと才能がある、と言っていたのを思い出し、その人の演奏を聞いてみようと思った。その日演奏された曲で覚えているのは、以下の通り。

  "I won't dance" (Jerome Kern)
  "What are you doing the rest of your life ?" (Michel Legrande)
  "That old feeling"
  "Only you" (The Platters) ・・・ 懐かしい、懐かしい気分にさせてくれた。

それから日本の歌 (童謡) を演奏後に (1回だけ演奏前に) どれだけ変形されているのかをわかりやすく紹介し、客を楽しませてくれる。例えば、

        「四丁目の犬
        「あわて床屋

日本人の感情に根ざしてジャズに向かい合っているという印象である。66歳になるご本人がまずお楽しみになっているのかもしれない。人生を、そして音楽を少し遠くから見ることができるようになった余裕が滲み出ている。フランス語に、よりよく理解するために少し離れたところからものを見るというニュアンスの "prendre du recul" という表現がある。そういう円熟の時期に入りつつあるのを感じることができた。それをお客さんが感じ取り、自らの人生を重ねながら楽しんでおり、それが演奏者との間に何とも言えない柔らかなコミュニケーションを可能にしているようにも感じた。アンコールにはドラムスの村上寛さんの "Outrunner" という疾走する曲が演奏されてお開きになった。
 
コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パスカルに自分を見る JE M'ENTREVOIS CHEZ PASCAL

2007-02-18 12:34:01 | 哲学

このところのテーマになっている 「全的に考える」 の影響だろうか。最近パスカルを読み、ある発見をする。ここでこれまでに書いてきたように、理性に基づく仕事に打ち込んできたデカルト主義者 (cartésien) であった私が (これはそう意識していたわけではなく、今になって言えることだが) ここ2-3年でその状態に満足できなくなり、思索を重ねてきた結果が 「全的に考える」 に関連する記事になった。

   科学すること、賢くなること (2006-12-15)
   パスカルによる 「私」 の定義 (2007-01-29)
   全的に考える (2007-02-12)

それは、ある意味においてパスカル主義者 (pascalien) に変わったことを意味していることにに気付いたのだ。すなわち、この間に私が考えていたのと同じことを彼が考えていたことを知り、驚くと同時にパスカルが非常に近く感じられるようになっている。例えば、彼のこんな言葉に対して反応していた。

-----------------------------
「世間では、詩人という看板を掲げなければ、詩の鑑定ができる者として通用しない。数学者その他の場合も同じである。しかし、普遍的な人たちは、看板などまっぴらで、詩人の職業と刺繍師のそれとのあいだに、ほとんど差別をつけない。
 普遍的な人たちは、詩人とも、幾何学者とも、その外のものとも呼ばれない。しかし、彼らは、それらのすべてであり、すべての判定者である。だれも彼らを見破ることができない。彼らは、はいってきたときに、人が話していたことについて話すだろう。ある特質を用立てる必要が起こったとき以外は、彼らのなかで特にある一つの特質が他のものよりも目立つということはない。しかし、そのときには、思い出されるのである。なぜなら、言葉のことが問題になっていないときには、彼らが上手に話すと人は言わないが、それが問題になっているときには、彼らが上手に話すと人が言うのも、これまたその特徴だからである。
 したがって、ある人がはいってきたとき、人々が彼のことを、詩に秀でていると言うならば、それはにせものの賛辞を彼に呈しているのである。そしてまた、何か詩句の鑑定で問題になっているときに、人々がある人にそれを頼まないとしたならば、それは悪い兆候である」

 On ne passe point dans le monde pour se connaître en vers si l'on <n'> a mis l'enseigne de poète, de mathémathicien, etc., mais les gens universels ne veulent point d'enseigne et ne mettent guère de différence entre le métier de poète et celui de brodeur.
 Les gens universels ne sont appelés ni poètes, ni géomètres, etc. Mais ils sont tout cela et juges de tous ceux-là. On ne les devine point et <ils> parleront de ce qu'on parlait quand ils sont entrés. On ne s'aperçoit point
en eux d'une qualité plutôt que d'une autre, hor de la nécessité de la mettre en usage, mais alors on s'en souvient. Car il est également de ce caractère qu'on ne dise point d'eux qu'ils parlent bien quand il n'est point question du langage et qu'on dise d'eux qu'ils parlent bien quand il en est question.
 C'est donc une fausse louange qu'on donne à un homme quand on dit de lui lorqu'il entre qu'il est fort habile en poésie, et c'est une mauvaise marque quand on n'a pas recours à un homme quand il s'agit de juger de qulques vers.<br>


「オネットム。
 人から 『彼は数学者である』 とか 『説教家である』 とか 『雄弁家である』 と言われるのでなく、『彼はオネットムである』 と言われるようでなければならない。この普遍的性質だけが私の気に入る。ある人を見てその著書を思い出すようでは悪い兆候である。何か特質があったとしても、たまたまそれを <何事も度を過ごさずに> 用立てる機会にぶつかったときに限って、それに気がつかれるようであってほしい。さもないと一つの特質が勝ってしまって、それで命名されてしまう。彼が上手に話すということは、上手に話すことが問題になったときに限って思い出されるようでなければならない。しかもそのときにこそは、思い出されなければならないのである」

 Honnête homme.
 Il faut qu'on n'en puisse <dire> ni "Il est mathématicien", ni "prédicateur", ni "éloquent", mais : "Il est honnête homme." Cette qualité universelle me plaît seule. Quand en voyant un homme on se souvient de son livre, c'est mauvais signe. Je voudrais qu'on ne s'aperçût d'aucune qualité que par la rencontre et l'occasion d'en user, "ne quid nimis", de peur qu'une qualité ne l'emporte et ne fasse baptiser ; qu'on ne songe point qu'il parle bien, sinon quand il s'agit de bien parler, mais qu'on y songe alors.

   "ne quid nimis" = rien de trop


「すべてをすこしずつ。
 人は普遍的であるとともに、すべてのことについて知りうるすべてを知ることができない以上は、すべてのことについて少し知らなければならない。なぜなら、すべてのことについて何かを知るのは、一つのものについてすべてを知るよりずっと美しいからである。このような普遍性こそ、最も美しい。もしも両方を兼ね備えられるならばもっとよいが、もしもどちらかを選ばなければならないのだったら、この方を選ぶべきである。世間は、それを知っており、それを行っている。なぜなら、世間は、しばしばよい判定者だから」

 Peu de tout.
 Puisqu'on ne peut être universel en sachant pour la gloire tout ce qui se peut savoir sur tout, il faut savoir peu de tout, car il est bien plus beau de savoir quelque chose de tout que de savoir tout d'une chose. Cette universalité est la plus belle. Si on pouvait avoir les deux, tant mieux ; mais s'il faut choisir, il faut choisir celle-là. Et le monde le sait et le fait, car le monde est un bon juge souvent.

   (『パンセ』 前田陽一・由木康訳)

-----------------------------
最後の言葉は、私に促しの力を持って迫ってくる。

コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ2年を経過して REFLEXIONS APRES 2 ANS

2007-02-17 00:43:14 | Qui suis-je

2005年2月16日からこのブログを始めているので、早2年が経過したことになる。私の独り言に多くの方が耳を傾けて下さったことにまず感謝したい。最初は頭の隅の方にあったものを穿り返すことから始めたが、その作業を続けているうちに paul-ailleurs 的なるものが自ら成長を始め、私の中で非常に大きな存在になりつつある。彼とともに歩みたいとさえ思うくらいに。

以前に、「生きることが私の仕事」 と書いたことがある。自らの根幹に触れるところで生きることができれば最高である、あるいは自らの求めるところにしたがって生きるために仕事をすると意識できれば素晴らしいという意味である。ニューヨークにいた当時、町に出てお店で働いている人とよく話をしたが、彼らは自分のやりたいこと (例えば、ブロードウェーに出る、作家や音楽家になる) をするための手段として仕事をしていた。もちろん、日本でも同じような理由で仕事をしている人に会う。以前は余り望ましくない生活スタイルに見えていたが、最近これは理想の仕事の仕方に近いのではないかとも思えるようになっている。

われわれはいつしか仕事を目的と捉えるようになってしまった。私もそうやってこれまで来たのかもしれない。ただ心の底には、これは社会の中でひとつの役割を演じているにしか過ぎないという思いがあることを、社会に出る前の学生時代から意識していた。今振り返ると、社会での仕事は自らの求めるところがどこにあるのかを探るひとつの試みだったのかもしれないとさえ思える。

ところで、これまでやってきた仕事を永遠に続けることができればどれだけ幸せだろうかとつい最近まで考えていた。つまり定年について否定的に考えていた。ただその時期が近づいてくると、それは必ずしも悪いことではないのかもしれないという思いが芽生えている。自らの求めるものに気付き、それが社会の制約の中で抑圧されていたとすれば、定年は何ものにも囚われず自らの歩みを始められることを意味しているからだ。

ブログの2年を経過したこの日は、仕事とは何か、なぜ仕事をするのか、生きることとどういう関連があるのか、最高の仕事とは何なのか、など仕事を巡る瞑想の機会を与えてくれた。これまでこのブログをやめて現実にどっぷり浸かってみようかと考えたこともあった。しかし、結局今まで続いている。私の中に、ここでの観察を 「生きる」 と同義に捉えようとする動きが出始めているのを感じる。それが 「仕事」 になりつつあるということだろうか。

--------------------------------
今日のお話、どこかで先日の 「全的に考える」 にもつながっているようだ。

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春一番 LE PREMIER VENT PRINTANIER

2007-02-16 00:57:53 | 俳句、詩

 2007-2-15

   春一番過ぎて並木が自己主張   paul-ailleurs

     au lendemain du premier vent printanier
       affirment leur vert
         des arbres de la rue

     le premier vent du printemps
       s'affirment
         des arbres de la rue


 春一番が過ぎ去った翌日、空は快晴。車で仕事場に向かう途中、いつもの並木道に入る。それまで気付かなかった木々の緑が豊かになり、(生命)力と自信が蘇ってきているように感じる。しっかりとした姿になり、私は今ここにいるとでも言っているように感じ、思わず詠いたくなった。木々とともにいるという気持ちが私の中に育ってきているのだろうか。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カート・ヴォネガットとの遭遇 RENCONTRE AVEC KURT VONNEGUT

2007-02-15 00:06:30 | 出会い

その夜、私はニューヨークのアッパー・イースト・サイドにある日本レストランで食事を終え、三番街に向かって歩いていた。その時、サーカスの足長おじさんのような歩き方をする陰鬱な目をした長身の中年男と出会った。

  カート・ヴォネガット Kurt Vonnegut (11 novembre 1922 -)

すぐに彼だと分かったのは、その数週間前NHK教育テレビで大江健三郎と対談をしていたのを見ていたからだ。

 "Are you Kurt Vonnegut ?"
 "Yes."
   [...]
 "I saw you on the TV with Ooe the other day."
 "I felt too tall in Japan."

彼はそう言い残して、この世界には適応できそうもない生物のような歩みで三番街を下りていった。


その時までに彼の本は何冊か読んでいた。

  Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade (1969)
  Slapstick or Lonesome No More (1976)
  Jailbird (1979)
  Palm Sunday, An Autobiographical Collage (1981)

今その内容をはっきりとは思い出せないが、気だるい日曜の午後の光の中、長くなったアメリカを受け入れるべきか否かをぼんやりと考えながら、Palm Sunday を読んでいたことは覚えている。彼の作品に現れる皮肉屋の一面を見て取ることができた時、少し大人になったような気分を味わうことができ、嫌いな作家ではなかった。

  あの遭遇から、もう20年も経っているとは、、、。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする