フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

1月の記事

2007-01-31 19:55:18 | Weblog

2007-01-31 科学を上から見る REGARDER LA SCIENCE D'EN HAUT
2007-01-30 過去の自分を現在に引き戻す VIVRE AVEC LE MOI DU PASSÉ
2007-01-29 パスカルによる 「私」 の定義 QU'EST-CE QUE LE MOI ?
2007-01-28 木下ときわを聞く ÉCOUTER TOKIWA KINOSHITA
2007-01-27 バス停の空 LE CIEL AU ARRÊT D'AUTOBUS
2007-01-26 「百科全書」 の精神 L'ESPRIT DE L'ENCYCLOPÉDIE
2007-01-25 ドゥニ・ディドロの人生 LA VIE DE DENIS DIDEROT
2007-01-24 新しい本届く UN NOUVEAU LIVRE ARRIVE
2007-01-23 花粉症始る L'ALLERGIE AUX POLLENS DE CÈDRE COMMENCE
2007-01-22 西と東の遺伝子 L'EST ET L'OUEST : LA DIFFÉRENCE GÉNÉTIQUE
2007-01-21 デカルトの人生 LA VIE DE DESCARTES
2007-01-20 2時間の作文の後に APRÈS DEUX HEURES DE TRAVAIL
2007-01-19 ロベルト・アラーニャで昂揚 GALVANISÉ PAR ROBERTO ALAGNA
2007-01-18 ロベルト・アラーニャ ROBERTO ALAGNA
2007-01-17 日常から這い出す SORTIR DU QUOTIDIEN
2007-01-16 ある冬の日の散策 MARCHER SUR BD. RASPAIL & RUE DU BAC
2007-01-15 オマー・シャリフ語る ENTRETIEN AVEC OMAR SHARIF
2007-01-14 イブラヒムおじさんとコーランの花たち IBRAHIM ET LES FLEURS DU CORAN
2007-01-13 フランス語公式練習始る COMMENCER LE COURS DU FRANCAIS
2007-01-12 一目を失い千眼を得る PERDRE UN OEIL, OBTENIR DES MILLE YEUX
2007-01-11 イタリアからの侵略 L'INVASION DES MOTS ITALIENS
2007-01-10 続フランス語を創った5人 LES CINQ QUI ONT INVENTÉ LA LANGUE FRANÇAISE
2007-01-09 フランス語を創った5人 LES CINQ QUI ONT INVENTÉ LA LANGUE FRANÇAISE
2007-01-08 正月の知らせ、DALF-C2の結果 LE RÉSULTAT DE DALF-C2
2007-01-07 2006年を振り返って EN CONTEMPLANT L'ANNÉE 2006
2007-01-06 正月の一句 HAÏKU DU JOUR DE L'AN
2007-01-05 正月の読書で、ある発見 UNE PETITE DÉCOUVERTE DE 2007
2007-01-04 正月のテレビ EN REGARDANT LA TÉLÉVISION
2007-01-03 ピエール・アドー PIERRE HADOT "LA PHILOSOPHIE COMME..."
2007-01-02 フランス人を癒す精神科医 BORIS CYRULNIK "DE CHAIR ET D'AME"
2007-01-01 今年の初夢 LE PREMIER RÊVE DE L'ANNÉE

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科学を上から見る REGARDER LA SCIENCE D'EN HAUT

2007-01-31 00:50:52 | 科学、宗教+

先日、仕事場で研究のまとめをみなさんに発表する機会があった。その最後に、どのような考えでこれまで仕事をしてきたのかについて触れた。研究者がこのような場所で研究以外のことについて語ることには躊躇したが、その場の雰囲気に乗って話してしまった。その概略は次のようなことになる。

私が研究を始めた時の気持ちは、何か美しいもの、大きな原理のようなもの、世界が変わるようなものに触れてみたい、見てみたいという単純なものであった。したがって、そこには何か具体的な目的、例えばある生命の働きを突き止めたいとかある病気の治療法を開発したいというようなものはなかった。逆に、明確な目標のために進みましょうというスタイルの研究には拒否反応を示し、やる気が失せるところがあった。

ところで、その大きな原理なるものに到達するためには、対象が何であれ自分の興味のおもむくままに追究し続ければ、いつかはそこに辿り着けるとナイーブにも信じていた。正確に言うと、この点について深く考えたことがなかった。自分のキャリアが終わりに近づき、来し方を振り返る機会が増えてくると、これまでやってきたことの意味を知りたくなるのだ。その試みの中、若き日の漠とした夢を思い返し、そこに近づいたという感触が全く得られていないことに愕然とする。これまでの私のやり方は、このような営みを永遠に続けることができるという前提で行われていたようにも思えてくる。いつかは、と希望を永遠につなぐことができるからである。

そんな時 (1年半程前か)、アインシュタインのこの言葉に出会った。

「概念と観察の間には橋渡しできないほどの溝があります。観察結果をつなぎ合わせることだけで、概念を作り出すことができると考えるのは全くの間違いです。
 あらゆる概念的なものは構成されたものであり、論理的方法によって直接的な経験から導き出すことはできません。つまり、私たちは原則として、世界を記述する時に基礎とする基本概念をも、全く自由に選べるのです。」

この中の 「概念」 を私が言うところの 「原理」 に、そして 「観察」 を 「実験」 と置き換えてみると、日々実験を積み重ねていっても私が求めていた大きな原理には辿り着かないのですよ、と言われたように感じた。つまり、科学を進める上で、もちろん論理的な思考に基づいてものごとを進めることは重要なのだが、科学の外にあるものからの揺さぶりがそれ以上に大切になることがあるのですよ、と言われたように感じた。この言葉に強く反応している自分を見た。理と文のぶつかり合いということになるのだろうか。おそらく、若い時にこの言葉に触れても右から左だったと思われる。ある程度の経験があったから、少しは身に沁みたのだろう。それ以来、若い人に話す機会があると、本題の最後にこの言葉を紹介することにしている。先の長い人にとってこれからのヒントになるかもしれない、という思いからである。

そして、このようなお話をその日の最後に、迷った末にしてしまった。そうすると、その場がこれまでに感じたことのないような雰囲気になったのである。どこか和やかな一体感が溢れ、普段なら余り出ない質問が後をついて出てきたのには正直驚いてしまった。みなさん、研究を進める上での哲学、なぜ研究をするのかということについては気にはなっているものの、実際にはなかなか考える機会が持てない、話す機会がない、、、そうこうしているうちに、とにかく何か始めなければならないという状況に追い込まれてしまっている場合が多いのではないかなどと考えていた。そして私の心情吐露とでも言うべき発言により、皆さんの中に réflexions の空間が現れたということではなかったかという思いもある。

それ以来、みなさんの私に対する姿勢が少し変わってきているように感じているが、気のせいだろうか。科学の世界にいる者が、自らの世界を論理の外から見るという視点をどこまで持てるのか、それが異なる分野にいる科学者間、あるいは科学の外にいる人との対話を可能にし、交流・理解を深める大きな要素なのだ、ということを少しではあるが体でわかりつつあるようだ。

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過去の自分を現在に引き戻す VIVRE AVEC LE MOI DU PASSE

2007-01-30 00:24:33 | Qui suis-je

週末の電車の中 あることに気付く

今を生きている自分 そこに至るまであったいろいろな自分
普通は昔の自分を遠くに置いたまま 時には捨て去り それとは別の自分を生きている
少なくとも私の場合はそうであった 
それが忙しく現実を生きるということかもしれない

最近 それが少し違ってきているのではないだろうか 
一瞬 そんな思いが過ぎった

それは これまでに在った昔の自分のすべてを現在に引き戻して 
彼らと話をしながら生きている 生きようとしている という感覚である

そのすべてを引き受けて 彼らの求めるところに従って進むのも面白いのではないか
そうした方が より満ちた人生になるのではないだろうか
そんな思いが静かに溢れてきているようだ

そのせいだろうか 最近もやもやしたものの存在に気付いている
彼らの不協和音のためだろうか
それが何なのか まだ掴めていない

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今日のお話、昨日パスカルと接触したことが影響しているのは間違いなさそうだ。

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パスカルによる 「私」 の定義 QU'EST-CE QUE LE MOI ?

2007-01-29 00:35:39 | 哲学

このブログの姉妹版に 「フランス哲学メモ」 MÉMENTO PHILOSOPHIQUE というのがある。最近、パスカルによる 「私」 についての断章を読み、そこに記事を書いた。今日はその記事をそのまま転載したい。

(注:ブログ「フランス哲学メモ」の記事は「今なぜ『科学精神』」なのか?」の中に移されました。パスカルに関する記事は、カテゴリ「Pascal」にあります。2008年8月)

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Qu'est-ce que le moi ? 「私とは?」

Un homme qui se met à la fenêtre pour voir les passants, si je passe par là, puis-je dire qu'il s'est mis là pour me voir ? Non, car il ne pense pas à moi en particulier. Mais celui qui aime quelqu'un à cause de sa beauté, l'aime-t-il ? Non, car la petite vérole, qui tuera la beauté sans tuer la personne, fera qu'il ne l'aimera plus.

外を行く通行人を見るために窓に身を置く人がいる。もし私がそこを通ったとしよう。彼は私を見るためにそこにいると言えるだろうか。答えは否である。彼は私を特に見ようとは考えていないからだ。しかし、美しさゆえに誰かを愛しているとする。それはその人を愛しているだろうか。答えは否。なぜなら、その人を殺すことのない天然痘によりその美しさがなくなると最早愛さなくなるからだ。

Et si on m'aime pour mon jugement, pour ma mémoire, m'aime-t-on moi ? Non, car je puis perdre ces qualités sans me perdre moi-même. Où est donc ce moi, s'il n'est ni dans le corps, ni dans l'âme ? Et comment aimer le corps ou l'âme, sinon pour ces qualités, qui ne sont point ce qui fait le moi, puisqu'elles sont périssables ? Car aimerait-on la substance de l'âme d'une personne abstraitement, et quelques qualités qui y fussent ? Cela ne se peut, et serait injuste. On n'aime donc jamais personne, mais seulement des qualités.

そして、もし私が私の判断力や記憶力のために愛されているとする、その場合私は愛されているのだろうか。そうではない。なぜなら、私を失うことなくこれらの特質をなくすことがあるからだ。私が体でもなく精神にもないとすれば、一体どこに私があるのか。そして滅びうるゆえに私を構成し得ないこれらの特質がないとすると、どのように体や精神を愛することができるのだろうか。なぜなら、その精神を構成するいくつかの特質がどんなものであれ、ある人の精神の実質を抽象的に愛することになるだろうから。それはありえないし、正しくもないだろう。したがって、人は決しては私の実質そのものを愛することはなく、その特質だけを愛するのである。

Qu'on ne se moque donc plus de ceux qui se font honorer pour des charges ou des offices, car on n'aime personne que pour des qualités empruntées.

職責や公職のために尊敬されている人をもう揶揄すべきではない。なぜなら、人は借り物の特質によってしか愛さないのだから。

(拙訳)
Pensées (1670)
fragment 323 dans l'édition L. Brunschvicg
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読んでいると、「私」 がどこにあるのか、わからなくなる。人が人を見るとき、まずその人の外側 (パスカルも指摘しているが、例えば職など社会的地位)に影響を受ける。それを知ろうとする。この傾向は特に日本で強いように感じる。街に出て知らない方とお話をする場合、まず何をされているのですか、と聞かれる。その情報なしには不安で話ができないというところがあるのだろうか。余談だが、そういう時に 「私の仕事は生きることです」と答えることがある。もちろん、ほとんどの場合相手にされないが、それが本心であり、私の理想である。

本題に戻る。人はその特質ゆえに愛することになるという。その特質がなくなったときには私はどこにあるのだろうか。特質とともに私は消え去るのだろうか。魂のなくなった肉体を愛することができるだろうか。あるいは、以前とは見まがうような醜い体に宿る魂を愛することができるのだろうか。このような状況は、今や日常的になりつつある。記憶力を失い、意志の疎通もできなくなった私を人は愛するのだろうか。事故に会い、全く機能しなくなった体を持った私は愛されるのだろうか。

それは、どこにその人の最終的な存在意義を見ているのかによって変わってくるような気がする。さらに言えば、最後まで残るその人の借り物ではない特質をどこに見ているのか、その特質をどれだけ意識的に形にして捉えているのか、そこにかかっているような気がする。それがはっきりとしたものとして捉えられていれば、その人が滅びた後も、その特質は記憶、記録に残すことができるだろう。そしてその特質に触れることにより愛することも可能ではないのか。「私」の底を貫くような、通奏低音のように鳴り響いている特質だけではなく、ある時期に現れた特質をも含めて 「私」 と定義できないだろうか。

もしそうだとすれば、精神といえども眼に見える形にしておかなければ、そう努めなければ 「私」 は存在しなくなるだろうし、ましてや愛されることなど望めないだろう。しかし、たとえ記録に残しておいた 「私」 だとしても、その存在が保証されているわけではない。古代アレキサンドリアの図書館にあった膨大な記録は影も形もなくなっている。このネット上の記録にしたところで、単純なミスによって一瞬に消え去るかもしれない。そう考えると、「私」 が確実に存在しているのは、私に触れたことのある人が 「私」 と言えるかどうかわからない借り物の特質も含めて記憶している間だけのことになるのだろうか。


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26 mai 2007 人間にとって記憶とは À QUOI SERT LA MÉMOIRE ?

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木下ときわを聞く ECOUTER TOKIWA KINOSHITA

2007-01-28 00:08:13 | MUSIQUE、JAZZ

ある週末の夜、偶然にもこの歌い手に出会う。

木下ときわ
 

Dois Mapas (ポルトガル語で 「2つの地図」 という意味) というユニットで活動されている方。日本女性としては大型である。そのためか、声が深く存在感がある。ややかすれたように聞こえるところもあり、味がある。そして何よりも、真っ直ぐな、素朴な、どこか遠くをじっと見つめているようなお人柄、あるいは真っ直ぐな、素朴な、原始的なものに惹かれているような方とお見受けした。どこまでも静かなのである。盛り上がるところでも決して弾けない。コントロールされている、どこか沈んでいる。意識してそうしているというよりは、この方の内なるものがそうさせるのではないかと思わせる。

当日は次のような歌が歌われた (順不同)。

「コヘンテーザ」 (アントニオ・カルロス・ジョビン)

「海へ来なさい」 (井上陽水)

    海へ 来なさい
    海へ 来なさい

     太陽に負けない肌を持ちなさい
     潮風に溶けあう髪を持ちなさい

      どこまでも泳げる力と
      いつまでも歌える心と
       魚に触れるような
       しなやかな指を持ちなさい

    海へ 来なさい
    海へ 来なさい
     そして心から幸せになりなさい

       風上へ向かえる足を持ちなさい
       貝殻と話せる耳を持ちなさい

        暗闇をさえぎるまぶたと
        星屑を数える瞳と
         涙をぬぐえるような
         しなやかな指を持ちなさい

    海へ 来なさい
    海へ 来なさい
     そして心から幸せになりなさい

「私の快楽」 (木下ときわ)
「百年先のみなさん」 (新美博允)
「旅する人」 (新美博允)
「月の姿のように」 (木下ときわ)
「塩の歌」 (塩田で働く人を歌ったミントン・ナスメント?の作)
「出会いと別れ」 (ミントン・ナスメント?)
「よいとまけの歌」 (美輪明宏)
「アラルナ」(「青いオーム」という意味で、インディオの歌)
「ケサラ」
などなど。そしてアンコールには 「ジンジ」 が歌われた。


この日、彼女のグループが 「極東組曲」 というCDを出していたことを知る。この名前に聞き覚えがあった。どこでどうつながるのかわからないものである。その記憶が蘇ってきた。森美術館での展覧会 (Africa Remix か) に向かう途中のブックセンターで、そのタイトルに惹かれて仕入れていたのである。 一度だけ聞いて、余りピンと来なかったせいか、そのままになっていた。彼女の場合、まず実演に触れてからの方がよいのかもしれない。しかし、こういう行ったり来たりする経験もまた面白いものである。

普段はファースト・セッションで引上げるのだが、その日は帰ろうとすると外は土砂降り。最後まで付き合うことにした。これも不思議な縁である。

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バス停の空 LE CIEL A L'ARRET DE BUS

2007-01-27 00:19:04 | 映画・イメージ
ある週末の朝 バス停でバスを待つあいだ ふと空を見上げる

  二つの家の間に挟まれたところに 空とゆったりと流れる雲 

   そして木の緑と電燈がみえる

     この空間をつつむ朝の空気が心地よい


その姿をみた時の気分を記憶に留めておきたいと思い 写真に収める

  撮り終わったらどうだろう 

     心を鎮めるような (apaisant, lénifiant) 静かな満足感が押しよせてきた

        初めてのことである


写真を撮るということに そんな効果があったとは 

   誰が想像できたろうか

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「百科全書」 の精神 L'ESPRIT DE L'ENCYCLOPEDIE

2007-01-26 20:23:54 | Weblog

昨日触れたドゥニ・ディドロと私の中では同義になっている百科全書 (l'Encyclopédie ou dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers)。その中を貫く精神とは一体どんなものだったのだろうか。Wiki では以下のように規定されている。

Esprit philosophique (哲学精神)
Esprit scientifique (科学精神)
Esprit critique (批判精神)
Esprit bourgeois (ブルジョア精神)

ブルジョア精神がぴんと来なかったが、ここではヴォルテール (フランス最初の資本主義者・資本家とある) に代表されるような考え方、例えば、仕事や富、製造業などの産業に価値を見出す精神を意味し、仕事は重視せず、商売、土や農業には手を染めない貴族の価値と真っ向から対立するものと説明されている。

この中の最初の3つの精神は私も重要であると考えており、求めているものでもある。それがそのまま今の日本に欠けているように感じるのは私だけだろうか。

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ドゥニ・ディドロの人生 LA VIE DE DENIS DIDEROT

2007-01-25 22:25:38 | 哲学

ある方からのメールにこの人の名前を見つけ、興味が湧いて調べてみた。「百科全書」 l'Encyclopédie を仕上げた人として学生時代に聞いたことがあるだけで、どんな考えをもって生きた人なのか全く知らなかったからである。

ドゥニ・ディドロ Denis Diderot (5 octobre 1713 à Langres - 31 juillet 1784 à Paris)

彼が生きたのは、日本で言えば七代将軍徳川家継、その後の吉宗、家重、家治の時代に当たる。ざっと年表を見てみると、思いの外興味深いことを考え、実行していたことを知り、一気に親しみを覚える。

27歳、パリで哲学を学ぶ。この時期の生活はよくわかっていないが、ボヘミアンのような生活をしていたという (il mène une vie de bohème)。
28歳の時、ジャン・ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau に出会う。
30歳でホテルのシーツ整理係の女性 (lingère) と密かに結婚。
33歳にして、"Pensées philosophiques" を出版するも直ちに糾弾される。
34歳、百科全書をジャン・ダランベール Jean d'Alembert とともに出版。
36歳、「盲人に関する手紙」 "Lettre sur les aveugles à l'usage de ceux qui voient" を出版するも、その唯物論的立場 Les positions matérialistes によりヴァンセンヌの森にある牢マルキ・ド・サドミラボーが投獄された) に3-4ヶ月投獄される。昨年その辺りを歩いたことがあり、彼の人生を近くに感じる。
40歳、唯一人の子どもマリー・アンジェリックが誕生。
42歳の時、生涯の愛人となるソフィー・ヴォランと出会う。
49歳、ロシアのエカテリーナ2世が彼の仕事を助けるために書籍を買い上げる。
52歳、百科全書を書き終える。認知度が低いことや出版社 Le Breton の態度に対して苦々しい思いを抱きながら。
59歳、娘が結婚。
60歳、エカテリーナ2世に対する感謝の念からか、サンクト・ペテルブルグへ旅立つ。この旅行が彼の命を縮めることになる (Ce voyage auront certainement raboté sa vie de quelques années.)。
71歳、パリで亡くなる。フランス革命で墓は荒らされ、今はどこにあるのかわからないという。

彼は科学と形而上学との関係について、例えば 「盲人に関する手紙」 において彼独自の方法で解析した。ひとつの体系を構築するのが哲学者だとすれば、彼は哲学者と言うよりは思想家と言った方がよいだろう。問題を提起し、矛盾点を挙げ、思索した。

"Curieux, cultivé, travailleur infatigable, touche-à-tout"
(好奇心に溢れ、教養があり、(後世での評価だけを求めた) 疲れを知らない働き屋で、何にでも手を出した男)

彼の作品の紹介を読んでみると、極めて現代的なテーマを扱っている。いずれ読んでみたいものばかりである。ところで、最近取り上げたエリック・エマニュエル・シュミット Eric-Emmanuel Schmitt さんは、学生時代ディドロについての論文 "Diderot et la métaphysique" を書き、物書きになってからも彼についての本を書いている。いずれ触れてみたい。

Diderot ou la philosophie de la séduction (1997)

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新しい本届く UN NOUVEAU LIVRE ARRIVE

2007-01-24 23:54:05 | 科学、宗教+

注文したことを忘れていた本が届いた。最近よくあることだが。

Lewis Wolpert "Six Impossible Things before Breakfast" (Norton)

ロンドン大学で生物学を教えている方が最近興味を覚えている問題、どうして人間は証拠もないのに、あるいは真理はその逆であることがわかっているのに、ありえないことを信じてしまうのか、という信の問題について考察を加えた本のようである。私の興味ともつながり、なぜ注文していたのかがよくわかる。著者がどのようにこの問題を見ているのか、楽しみにしたい。

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花粉症始る L'ALLERGIE AUX POLLENS DE CEDRE COMMENCE

2007-01-23 19:12:44 | Weblog

昨日のお昼に外に出て戻ってきたところ、鼻がむずむずしたのであれっ?とは思っていたが、まだだろうと決めていた。しかし今日その症状が益々はっきりしてきたので、花粉症と断定。完全に不意をつかれた感じである。去年のブログを見てみたところ、2月28日に花粉症の記事があるので、今年は1ヶ月以上早いことになる。地球温暖化と関係でもあるのだろうか。いずれにせよ、これから憂鬱な (やる気が湧いてこない) 季節が始る。花粉症は、私がフランス語を始めるきっかけになり、病気がなぜあるのかについての考えを巡らせる契機にもなった。ある意味、私にとっての恩人であるので、黙って耐えなければならないと思っている。

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西と東の遺伝子 L'EST ET L'OUEST : DIFFERENCE GENETIQUE

2007-01-22 20:10:55 | 科学、宗教+

今日届いた科学雑誌Scienceに、白人とアジア人との間に遺伝子の発現量に差があるという Nature Genetics の報告が紹介されていた。報告によると、ユタ州のヨーロッパ系の人と東京と北京に住む人から作った142の細胞株について4000余りの遺伝子の発現を調べたところ、東と西の集団間で25% (約1000個) の遺伝子で統計学的に有意な相違が見られたという。ほとんどの差は微々たるものだが、35の遺伝子については2倍以上の差があった。また、日本人と中国人との間ではわずか27遺伝子にしか差が認められなかった。問題はこの発現の違いが何を意味しているのかということだが、現時点でははっきりしたことはわかっていない。

ヨーロッパに行って町並みや建物、室内の飾りつけなどを見るたびに、美しさに対する目がどうしてこうもわれわれと違うのだろうか、といつも不思議に思っていた。私がこの記事に興味を覚えたのは、その感受性の違いが遺伝子のレベルで説明される時が来るのだろうか、という疑問があったからである。この研究の意図はこれらの遺伝子の変化が病気にどのような影響を及ぼしているのかという、より実利的なところにあったようだが、、。

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デカルトの人生 LA VIE DE DESCARTES

2007-01-21 12:11:08 | 哲学

物理学者、数学者にして最も知られたフランスの哲学者。数学に霊感を受けた理性、論理の力 (l'esprit cartésien) を明らかにした近代哲学の父。理性を中心に据えるこの男の底には、想像力、直感を重視するところもあった。その中味については、いずれ触れることにして、今日は彼の人生を振り返ってみたい。

ルネ・デカルト René Descartes (la Haye, 31 mars 1596 - Stockholm, 11 février 1650)

16世紀終わりにラ・エに生を受け、8歳から16歳までイエズス会の学校でよりよい人生を営むために知への強い欲求を持ちながら勉学に励む。しかし、そこで行われている哲学、科学に対しては失望と懐疑の念を抱き続ける。その中で、数学に対する興味と宗教への熱い思い、教会への敬意を覚える。

1618年 (デカルト22歳の時)、軍隊に入り、オランダ、デンマーク、ドイツに駐留。この間、論理学 (la logique)、幾何学 (la géométrie)、代数学 (l'algèbre) の統合を通して、すべての科学、すべての哲学の刷新を目指す。そして、1619年11月10日、3つの夢を見る。この神秘的な出来事を、自分の使命は哲学に打ち込むことであると解釈し、軍隊を辞める。1620年から28年まで (24歳から32歳にあたる) ヨーロッパを広く旅し、偏見を捨て、経験を積み上げ、彼の方法論を深めた。

1628年、オランダに落ち着き、その後20年に渡って住まいを変えながら静寂の中で自らの哲学完成に全精力を傾ける。哲学者には孤独が必要なのだ (Le philosophe a besoin de solitude)。彼の座右銘はラテン語で "Larvatus prodeo" (Je m'avance masqué) 「私は仮面をして前進する」。その大きな成果 「方法序説」 "Discours de la Méthode" が1637年に出版される。デカルト41歳の時である。

「方法序説」 の原題は、
"Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences"
『みずからの理性を正しく導き、諸科学における真理を探究するための方法序説』

となっており、屈折光学・気象学・幾何学 (La Dioptrique, Les Météores, La Géométrie) についての科学論文の序文として書かれたもの。当時の本として特異なところは、専門家向けのラテン語ではなくフランス語で書かれていることである。ごく普通の人々に語り掛けたいという彼の意思を感じる。当時ガリレオが教会と衝突していた原因が、科学と宗教の間の誤解ではないかと考え、その和解を願うようなところがあったのかもしれない。

1641年 (45歳)、「省察」 "Méditations métaphysiques" (ラテン語からの直訳は、Méditations sur la philosophie première)、1644年 (48歳) には 「哲学原理」 (ラテン語からの訳は、Les Principes de la philosophie) を発表。この時期に、オランダに亡命していたボヘミアのエリザベート王女に出会い、文通を始める。この交流の中で自身の思想を深め、「情念論」 "Les Passions de l'âme" (1649年) にまとめる。

その名声がスウェーデン女王クリスチーヌの耳にも届き、1649年2月に招待される。躊躇した彼だが、9月にはスウェーデンに向かう。そこでは毎朝5時から女王にご進講。さらに、新しい環境、冬の厳しさ、知識人の嫉妬などで、その滞在は不愉快なものになった。そして翌年2月には風邪をこじらせ、肺炎によりストックホルムで亡くなる。享年53。

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机に向かうだけの哲学者ではなく、世界中を旅し、心を開き、孤独の中で自らの思索を進め深めていった彼の生き方には惹かれるものを感じる。

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2時間の作文の後に APRES DEUX HEURES DE TRAVAIL

2007-01-20 23:56:05 | Weblog

少しだけ調べながら書いたブログをアップしようとしてどこかのキーを押した途端に、すべてが消えてしまった。こういう経験は今回だけではない。その都度、セーブしながら書き進みましょうと思うのだが、面倒くさいが先になってなかなか実行に移されない。苛立たしいのを通り越して情けなくなる。その記事は明日以降にしたい。

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ロベルト・アラーニャで昂揚 GALVANISE PAR ROBERTO ALAGNA

2007-01-19 08:50:25 | MUSIQUE、JAZZ

昨日の記事のこともあり、今朝の通勤時にアラーニャのCDを聴きながらくる。朝から金管がバリバリ鳴り、彼がこれ見よがしに声を張り上げるのを耳にしていると不思議と興奮してくる。ラテンの血が混じっていると、ここで手を振り上げ歌いだすかもしれないと思うところに溢れている。オペラの醍醐味のひとつなのだろう。その昔、メトロポリタン・オペラをシーズン・チケットで観ていたことがあるが、歌い手によってこれほどまでに声の艶や広がりが違うのかということに驚いた経験がある。この世には奇跡と思われる創造物がいるのだ、ということに改めて目を見張ったその時の記憶が甦ってきた。

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ロベルト・アラーニャ ROBERTO ALAGNA

2007-01-18 22:11:44 | MUSIQUE、JAZZ

今日のお昼の散策で届いたばかりの Le Point を見ているとき、あれ!この人はひょっとして、と思う記事があった。その主役は、

ロベルト・アラーニャ
Roberto Alagna

ほとんど独学というこのテノールが、昨年12月10日、ミラノのスカラ座でオペラ 「アイーダ」 のラダメス役を歌っている途中で啖呵を切るようにして退場したというのだ。この記事を見た時、昨年暮にルーブルのショッピング街で仕入れたオペラの抜粋集を歌っているのがひょっとするとこの人ではないかとの思いが過ぎる。帰って調べてみると、やはりそうであった (CDは "Viva Opera !")。CDを手に入れた時はこの事件がすでに起こっていたことになる。わざわざ目立つところに並べられていたのはそのためで、どうやら乗せられていたようだ。

今回の事件の伏線となったのは、初日の批評家の評が自分だけに厳しく、他のすべての人は好評でカチンときていたこと、地元新聞のインタビュー記事で、「アラーニャがスカラ座は私の役に立たないと語った」 と曲げて書かれたこと、そして当日、出演者入り口で男が待っていて、お前を潰してやるというような素振りをしてきたこと、さらに彼の代役が準備されているという話を聞いていたことなどがあり、ほとんど切れる寸前で舞台に上がっていたことが想像できる。

彼は舞台に上がり、「アイーダ」 が始ってすぐに出てくる 「清きアイーダ」 "Celeste Aida" を歌う。この曲には 「恐怖のB♭」 "Redoutable si bémol" と呼ばれるテノール泣かせのところがあるのだが、そこでブーイングが起こったのだ。これで彼は完全に切れてしまった。

私がアメリカにいた当時、ルチアノ・パヴァロッティがテレビで何度も語っていた話を思い出した。「テノール歌手はいつも闘牛場にいるようなもの、いつ殺されるかわからない。観客はテノールがいつ音を外すのか楽しみにしているのだから。」

彼は "Monsieur Difficulté" と呼ばれ、妻のソプラノ歌手アンジェラ・ゲオルギュー Angela Gheorghiu も "Dragon Diva" の名前をもらっている気分屋で、ご夫妻で "チャウシェスク夫妻 Les époux Ceausescu"、"Bonnie and Clyde" などと揶揄されているらしい。

CDがよく売れているのでのぼせ上がっているのではないか (il a la grosse tête)。ジダンの頭突きは許されても、アラーニャはオペラのジダンじゃないのでオペラ界との関係を壊してしまった、と手厳しい。ただ彼は劇場が戦場になるのだったら歌う気はしない、心が平穏でなければいい歌は歌えないのだと語っている。自らをカレラス、パヴァロッティ、ドミンゴに続く "第四のテノール le quatrième ténor" と名乗る彼は、スカラ座もその殺人的観客もどうでもよいと思っているのかもしれない。・・・当分の間は?・・・

こういう事件そのものが劇的でオペラを見るようである。

コメント
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