フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

英語だけでいいのか? とフランス語教育界 POURQUOI LE FRANCAIS?

2007-07-07 20:56:24 | フランス語学習

私のフランス歴はわずかに6年程度である。それまでどっぷり浸かっていた英語圏から紛れ込んだので、フランス語界 (確かではないが、どうもありそうである) を少しは客観的に見ることができるつもりだ。今日、フランス語界を覗くために日仏会館であった以下のコロックに出かけた。日本でフランス文化を広めるための名案や何か刺激的なお話が聞けるのかと思って出かけた。

  外国語教育ターブルロンド 「英語だけでいいのか?―フランス語教育と人文社会科学

その答えは、「いいはずがない。フランス語 (外国語) を学ぶことにより複眼的な視点を得、それが新しい価値観に目を開かせ、寛容や明確にものごとを把握することに導く」 というようなことになるのだろう。それは、ある意味で教科書的な回答で、想像できることである。今回の会でも、ほぼ同様の意見が多かった。

私の属していた学会でも似たようなテーマのシンポジウムやワークショップが開かれたことがある。どうすれば・・・ができるようになるのか、という手のテーマが公開で取り上げられるようになるとほぼ末期症状であると言って間違いない。おそらく、フランス語界においても同じようなテーマがこれまで何度も論じられてきたと想像できる。私の独断で結論から言わせていただくと、フランス語が日本で優位になることは当分ないだろう。人が生きていく上で必要なものに皆さん飛びつくのは当たり前で、それが今のところは英語になっているからだ。これは致し方ないが、現実である。その上で、フランス語界の人たちは、この状態を変えようという強い意志のもとに、これからを模索しているのかと思った。前半だけの聴講になってしまったので正確ではないかもしれないが、その難しい状況に踏み込み、模索の状況が語られるのかと思ったが、むしろこの状態を分析しながら楽しんでいるように私には見えた。

現実のシステムとして英語優位の状態を変えられない以上、フランス界にいる方が自らの存在に照らして、フランス語や文化との関わりとその意味を主観的に語る以外に人を促しフランスに目を向けさせる名案は今のところないように思うが、いかがだろうか。私自身のことを振り返っても、よっぽどのことがなければフランス語などに入り込まないのが普通だと思うからでもある。如何にそれが人間にとっての高邁な意味があろうが、人を促すことはないだろうというのが私の直感である。ここでも何度か取り上げたことがあるが、知識で人を動かすことはできないのである。

フランス語界の中でいつまでもこのようなお話をしているのではなく、その外に出て積極的に働きかける時期に来ているのではないだろうか。そんな印象をもって会場を後にした。

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翻訳を続けると LES EFFETS DE LA TRADUCTION

2007-06-08 21:58:07 | フランス語学習

昨日、翻訳をしながら気付いたことがある。それは、私のやり方が原文の真意を汲み取ってそれを正確に伝えるべく言葉を探すというよりは、むしろ原文で触れられていることと似たような部分を自分の中に求め、それを活性化しながらあたかも自分の考えのように訳し出しているのではないかということである。そのため、訳し出された日本語がそのまま自分の言葉になって定着しているのである。この2年ほどこの作業を続けてきたわけだが、その過程でいろいろな人の頭の中で起こっていることを日本語に置き換えている間に、置き換えた分だけの考えが自分の中に植え付けられていたのではないか、楽観的に言えばそれだけ豊かになってきたのではないか、そんな想いが巡っていた。事実、訳し出したものを口にしているうちに文字通り興奮してくるものもあった。誤りを犯しながらもこれまで続けてきたのは、このような効果を無意識のうちに感じ取っていたためなのだろうか。

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ポストがプルースト POSTE ? C'ETAIT PROUST

2007-05-05 00:14:08 | フランス語学習

コレージュ・ド・フランスの講演会をランダムに選び、ネットで聞く。すると、ポストという音がよく聞こえる。郵便制度について話しているのかと思って聞くも、どうもおかしい。"poste" に知らない意味があるのかと思い、辞書を引いてみるがそういうこともない。話が文学についてらしいことに気付くが、まだピンと来ていない。そして"swan" という音を聞いた時にプルーストのことを話していることがわかる。今日のお題の通り、私の耳には "proust" が "poste" にしか聞こえなかったという何ともはやのお話。先が思いやられる。ところで、自分が話す時のことを思って講演を聴くと、参考になる表現が溢れている。それがいつのことになるのかはわからないが、、、

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待つ身からの解放、そして・・・  ME LIBERER D'UNE TACHE ET ...

2007-04-14 22:09:10 | フランス語学習

この1週間ほど待つ身を託っていたが、本日遂に解放され、のんびりとした週末となった。しかし後半には、tanguilhem様からの貴重なコメントからフランス語の勉強をすることになった。それは以下のようなことである。

私の記事に、「パスカルに自分を見る」 というのがあり、それに "Trouver moi dans Pascal" という仏訳を付けていたが、それについてのやり取りである (詳細はこちらです)。

私の頭では、moi を名詞として使っていた。その場合は冠詞が抜けているようであり、"Le moi" とした場合はより一般的な自己というニュアンスが強くなると感じられたが、「えいやーっ」といういつものクセでそのまま敢行した。これについてコメントを求めたところ、先月のパリ滞在でお会いしたR様から早速示唆に富むサジェスチョンをいただいた。やはり、"Le moi" の場合には普遍的な自分というものというニュアンスが強いので、私の言いたいところを考えると変えた方が誤解がないのではないか、とのことであった。そしてそこには次のような提案がされていた。

  "Je me découvre chez Pascal"
  "Je m'aperçois chez Pascal"

こうすれば、一般的な自己というより自分の特有のmoiを見つけたという意味になるだろう。さらに、

  "S'entrevoir chez Pascal"

とすれば、自分の中のある要素をパスカルの思想に見つけたという意味と、より普遍的な自己をパスカルの中に見たという意味も込められ、文体としてはこれが一番良いのではないかとの結論になっていた。


一つのコメントから大いに勉強させられた週末の夜となった。

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ベルナール・ド・モンフェラン日記 JOURNAL DE MONTFERRAND

2007-03-05 21:38:29 | フランス語学習

日本語をフランス語に訳したり、日仏の状況をフランス語で説明する時のために、以下のサイトが有用かもしれない。

    ベルナール・ド・モンフェラン日記

日記の主は、2005年まで3年間駐日フランス大使であった。前からこの日記のことは知っていたが、当時はインターネット・エクスプローラを使っていたため文字化けが酷く、読む気が失せそのまま忘れていた。今回、何かのサーフの過程で引っ掛かってきたので読み直してみたところ、教材として使えそうである。

この日記の日本語はフランス語から訳されたものと思われるが、日本語をどのようなフランス語に変換すればよいのかを学ぶ時に役に立つような気がした。普段フランス語を書く時には辞書を引き引き文章を組み立てるのだが、それで通じさせることがある程度できるようになってきている。しかし、どのような表現をフランス人が使うのかということがぴんと来ないのである。フランス語的な表現と言い換えてもよいかもしれない、その感触が掴めないのである。その感触を得る一つの方法として、例えばこの日記にある日仏表現を読み比べていくというのも面白いのではないか。微かな希望 (あるいは花粉による錯覚) が芽生えているのを感じる。

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「プロジェ」 という言葉を聞いて ECOUTANT LE MOT "PROJET"

2007-02-02 00:04:17 | フランス語学習

何人かの方とのやり取りの中で、これからどうするのか、あるいはあなたのやることはこういうことかというような話になり、よく "vos projets" (英語で言えば、プロジェクト) という言葉が耳に入ってきた。そういう時、今までには感じたことのない変化が自分の中で起こっていることに気付く。「あなたの計画は?」 という音を聞いた時とは異なり、その響きは、これからじっくり頭を絞ってプランを立てやっていきましょう、と思わせてくれるのである。どうしてそうなるのかは分からない、しかしそういう柔らかな促しを感じてしまうのである。これも私にとっての英語とフランス語の違いになるのかもしれない。このような、よい揺らぎをもたらしてくれる言葉に、これからも触れたいものである。

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フランス語公式練習始る COMMENCER LE COURS DU FRANCAIS

2007-01-13 23:08:13 | フランス語学習

朝、久しぶりにマルセル・コンシュを読む。今なぜ形而上学なのかの問に、その意味を語っている。じっくり読むと1ページに1時間ほどかかっていた。

午後からは今年初めてのフランス語クールへ。久しぶりである。文章を読んでいるつもりでもまだ漠然と文字を追っていることがあることに気付く。

そして夜はD&Cご夫妻の誕生パーティのため渋谷へ。今までにないほど、人工の街の空虚さを感じる。地下鉄のエスカレータに乗っている時にさえ、その感覚は襲ってきていた。会では隣り合わせたご夫妻の息子さんとフランス大使館にお勤めの方と話し込んだ。またD&Cさんと最初にお会いした時にご一緒していたという日本に長いご夫妻とも再会。軽いアルコールの影響下、相変わらず甘えながら話をしていた。

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イタリアからの侵略 L'INVASION DES MOTS ITALIENS

2007-01-11 19:57:39 | フランス語学習

昨日取り上げたルネサンスの記事の中で、16世紀にイタリアから入ってきてフランス語を豊かにした言葉が紹介されていた。イタリアとの戦争、アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシス Catherine de Médicis (13 avril 1519 - 5 janvier 1589) や芸術交流の影響があるようだ。フランス語になった年とともに、ここに転載したい。

Alerte (警報;敏捷な、生き生きした) ← all'erta (1540)
Appartement (マンション) ← appartamento (1559)
Baguette (細い棒、指揮棒、バゲットパン) ← baccetta, bacchio, bâton (1510)
Balcon (バルコニー) ← balcone (1565)
Ballon (ボール、気球) ← pallone (1557)
Bandit (強盗) ← bandito, banni (1589)
Bilan (バランスシート、現状総括、被害状況) ← bilancio, balance (1578)
Bocal (広口瓶) ← boccale (1532)
Bouffon (おどけた;道化者) ← buffone, buffa (1530)
Caprice (気まぐれ) ← capriccio (1558)
Caresse (愛撫) ← carezza (1545)
Courtiser (言い寄る、阿る) ← corteggiare (1557)
Embuscade (待ち伏せ) ← imboscata, bosco (1549)
Escarpin (パンプス) ← scarpa (1534)
Festin (祝祭、ご馳走) ← festino, festa (1527)
Mascarade (仮面舞踏会) ← mascarata (1554)
Récolte (収穫) ← ricolta (1558)
Réussir (成功する) ← riuscire (1531)
Risquer (危険を冒す) ← risco (1578)
Saucisson (ソーセージ) ← salsiccione (1546)
Sentinelle (歩哨) ← sentinella (1546)
Sérénade (セレナード、どんちゃん騒ぎ) ← serenata (1556)
Travestir (変装させる) ← travestire (1580)
Valise (スーツケース) ← valigia (1558)

予想可能なものもあるが、これが輸入品だったのかというものもある。italomania のお陰なのだろう。こういう化学反応を見るのは面白い。

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正月の知らせ、DALF-C2の結果 LE RESULTAT DE DALF-C2

2007-01-08 00:05:49 | フランス語学習

  Íngrid Betancourt Pulecio (née à Bogotá le 25 décembre 1961)
  Enlevée par les FARC le 23 février 2002 et délivrée le 2 juillet 2008

昨日の呟きが聞こえたのか、昨年10月に受験したフランス語試験DALF-C2の結果がやっと届いた。試験内容は以前に触れているが、文芸・人文科学 lettres et sciences humaines、科学 Sciences の2分野があり、私は科学を選んだ。成績は以下のようになっていた。

  読解・文書作成 (Compréhension et production écrites): 28/50
  聞き取り・口頭表現 (Compréhension et production orales): 30/50

どのように評価されたのかはわからないが、まとめると 58% で基準の50%をどうにか超えていた。これでDELF-DALFの試験は一応クリアしたことになる。実際のレベルはわかっているつもりなので、ありがたい結果である。仏検1級の結果とあわせてみると、細かいところはさておき、とにかく発信しましょうというタイプのようである。なかなか伸びないのだが、この特長を生かしてこれからもやっていきたいという思いを新たにしている。

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フランス語が想起させるもの CE QUE LE FRANCAIS M'EVOQUE

2006-12-27 01:08:49 | フランス語学習

クリスマスに友人MDのお宅に招待を受けた。ご家族・親戚が集まる席なのでお断りしたが、是非とのことで出かけた。いろいろな方とお話させていただき、奥様手作りの創造性溢れる料理を楽しみながら4-5時間があっという間に過ぎていた。おまけにプレゼントまでいただき、恐縮しっぱなしの一日となった。そのプレゼントは奥様が選んだというクロード・ベルナールの 「実験医学序説」。

Claude Bernard “Introduction à l'étude de la medicine expérimentale

実験科学の分野に携わる人にとっては古典中の古典で、岩波の日本語訳は持っているが、まどろっこしいこともありまだ読むところまで行っていない。おそらくMから私が科学哲学のようなところに興味を持ち始めているということを聞いていたものと思われる。いつもながらその心遣いには感謝の念を禁じえない。

その日、Mが私に聞いてきた中に次の質問があった。どうして英語ではなくフランス語に触れることにより、そんなにいろいろなことに興味が湧いてきたのか。その時は、結論めいたことしか話せなかった。以前にも書いたが、自分の中では英語はあくまでも仕事のための言葉、まさしく道具としての機能しか期待していなかったが、フランス語やその文化に触れることによりその背景にまで目が行くようになってきた、というようなことである。

その後、フランス語に向き合ったときに自分の中でどのようなことが起こっているのかを思い出してみた。例えば、私が好きになった言葉に "ouvrir votre esprit" というのがあるが、直訳すれば 「精神を開く」 ということ。そう訳した時、この言葉の意味がより具体的になってきた。現在のみならず過去に存在した世界、そこに生きた、あるいは生きている人や存在する、あるいは存在した物に精神を開く、理解するということだと体感することになった。そう感じた時に、自分の精神がそれまで閉じていたことに目を向けないわけにはいかなかったのである。それからかなり経ってから、それを英語で言えば何のことはない "open your mind" に当たることを知ったが、この言葉からそういう反応は生まれてこない。

あるいは、よくよく考えるという意味の réfléchir という言葉に出会った時に、過去のことを振り返り、周りを見回し考えを巡らせるという具合にその中味を自分の中で反芻しながら読んでいることに気付く。ここでも同じように、それまで réfléxions ということをしてこなかったな、と痛感するようになる。同じようなことが芸術作品を読んだり、見たりする時にも無数に起こっていて、それがあらゆることに対する興味を掻き立てることにつながったのではないか。そうなったのは、フランス語が私にとって処女地であったことが大きいのかもしれない。全く何も知らない状態から始めているので、ある言葉に出会った時に単に日本語に置き換えるだけではなく、その意味するところを考えるという作業を無意識のうちしていたのではないだろうか。

これでMの疑問に答えることになるだろうか。いずれ機会があれば説明してみたい。この話は先日の 「翻訳することは理解すること」 ともつながっているようだ。

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翻訳すること、理解すること TRADUIRE, C'EST COMPRENDRE

2006-12-24 01:23:27 | フランス語学習

先日の会議で飛び出したこの言葉にどうして反応したのだろうか。それを考えていた。

 "Traduire, c'est comprendre."

フランス語を始めてから曲がりなりにも原典を読むようになり、日本語に翻訳する過程で、日本語だけを読んでいた時と明らかな違いを感じるようになったからだろうか。それまで何気なく見ていたものに新しい光が当てられるようになり、無意識に済ましていたものが今までとは違う新鮮なものとして写るようになってきたからだろうか。

翻訳する場合、すでに理解していると思っているものでも新たに日本語に置き換えなければならない。その行為は対象をいろいろな角度から眺めることになり、これまで知ったつもりになっていたものが少し違って見えるようになる。見えなかったものが見えてくるという経験を翻訳の過程で感じ始めている。

ひょっとすると、これこそ外国語学習の重い意味なのかもしれない。物事をより深く理解できるようになるということこそ、外国語習得において強調されなければならないのかもしれない。そして、理解するためにはいくつかの視点を入れ直すことが不可欠であるという意味で、今日の言葉の逆もまた真かも知れない。

 "Comprendre, c'est traduire."

いずれにしても、フランス語を始めた当初には予想もできなかったところに導かれているようで、私にとってはこの上ない経験になっている。

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「思い出す」 ということ SE RAPPELER, C'EST...

2006-12-23 20:03:51 | フランス語学習

以前にも触れていることだが、この脳には自分でも気付かないほどの膨大な情報が詰まっていると思っている。問題はそのほとんどを引き出すことができないので、そのことがわからないだけなのだと。これもよく経験することだが、一度入ったものを何ものの助けもかりずに思い出すとその後引き出しやすくなっている。そうして初めて記憶に残っていると意識できる。実際にはもっと多くのものが詰まっているはずなのだが。

つい最近、ある方との話の中に次のようなことが出てきた。

 「パリ第7大学 Paris VII (校舎はパリ市内に散らばっているが、これは Campus Jussieu のお話) のビルに 『・・・』 が使われていることがわかり全面改修をしているところなので、あまり美しくないかもしれない。」

状況から考えてアスベストのことを言っているのだと思ったが、そうは言っていなかった。むしろその音を聞いた時、映画の 「オーメン」 のダミアンを連想していたが、内容がわかったのでそのままにしておいた。そして今朝、起き掛けにアミアンという音が聞こえてきたので辞書を見てみると、"amiante" (アミアント) がアスベスト・石綿となっている。こういう形で頭に蘇ってきたものはなかなか忘れない。

人には忘れようとしても忘れられないことはあるが、ほとんどは砂が指の間から落ちるように記憶の彼方へと消えていく。時々、意識的に思い出すという作業を入れることにより、少しは人生が豊かになるのかもしれない。

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仏検を終わって APRES LE DERNIER FUTSUKEN

2006-11-19 21:55:34 | フランス語学習

今回は、全く準備なしの受験となってしまった。その気にならなかったことが大きな理由だ。雨の中青山学院まで出かけたが、今までのような高揚感は全く感じなかった。内容はこれまでも書いているようなもので、DALFのように一つのテーマについてじっくり考えさせるということがないため、精神が開くという喜びは得えられない。頭の一部を使う小手先の作業に終わってしまう。さらにあのような頭の使われ方がフランス語を使う生活でされるのだろうか。問題になった文章も答えを出すための材料に過ぎないので、ほとんど頭に残らないという構造になっている。今回は流石に途中で気がそれてしまった。さらに、書き取りという作業があるが、耳が遠くなっていることと反射神経が鈍ってきているということを意識させてくれた点以外は余り得るところはなかった。というわけで、フランス語の試験は今年が本当に最後になるだろう。

帰りの道すがら、久しぶりに鬼束ちひろの 「the ultimate collection」 を聞いてみた。以前に一度聞いた時にはしっくり来なかったのだが、今日は冬に向けての寒い雨の夜、その透明な歌声が意外にすんなり入ってきた。

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その翌日は APRES L'EXAMEN

2006-10-23 22:36:39 | フランス語学習

昨日の試験で持てるものを出し切ったせいか虚脱感が漂う
その中に微かにみえる充実感をゆっくりと味わう
外は雨
秋が静かに深まっていく

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フランス語試験DALF-C2あるいは寺山修司 DALF-C2 OU SHUJI TERAYAMA

2006-10-22 20:42:40 | フランス語学習

先日受けることに決めた DALF-C2 が今日あった。今回は他のことに追われていたこともあり、全くの準備無し。これまでに貯まっているものが使えるのかどうかを見るというつもりで出かけた。

会場の教室には、男性8名、女性3名。科学を選んだ人は男性3名。受験者はおそらくこの11名だけではないかと思われる。筆記試験と口答試験があり、9時から3時間半は筆記で、午後1時半から40分間で対談を2回聞き、1時間かけてまとめてから30分間試験官との面接という手順。

筆記の方は、3つの科学雑誌の記事を読んでその共通テーマを探し、その問題に対する3名のアプローチの違いを論じ、最終的に結論を導き出す。200字くらいにそれをまとめる。さらにその問題について科学雑誌に投稿する形で自らの考えを500字にまとめる。今回のテーマは、一言で言うと 「科学とその価値」 になるのだろうか。科学の本質 (ce qui animent la science)、その伝達 (l'enseignement)、科学に内包する単純化 (la simplification, la simplicité) とその問題、科学者の誠実さ (la honnêteté et la morale) などが論じられていた。科学が単に理性の産物というだけではなく、その過程での驚き・感動 (émerveillement) や美を発見する喜びなども語られていて、自らの考えを深める意味でも参考になる視点が提示されていた。

前半の問題はぶっつけ本番で、読み返すところまでは行かなかった。また後半は半分までしか書き上げることができなかったが、その中で何とかまとまりをつけようとしていた。今回は仏仏辞書に限り持込可であったが、精神的に安定するだけで、ない場合とほとんど変わりはなかった。

去年 DALF-C1 を受験した時には、筆記試験だけで完全に参ってしまったが、今回はそれほどではなかった。DELFとDALFとの間には大きな溝があるが、DALF-C1とC2との間の差はそれほどではないということかもしれない。

1時間の昼休みの後、口頭試験に臨んだが、こちらは農業を取り巻く問題について哲学者ともうひとりが語りあっていたようだ。相変わらず、微妙なニュアンスについては掴むことが難しく、最後まで靄がかかったような状態であった。面接は5分ほどで対談の内容をまとめ、それから10分ほどで 「科学の進歩や研究にとってどのようなものが足かせになるのか」 についての私見を述べるというもの。その後、試験官 (今回はフランス人と一対一) とのディスカッションが15分ほど続いたが、その中でも対談の内容を理解していなかったことが明らかになった。 

口答試験終了直後は昨年のような脱力感はなかったが、それからじわじわと疲れが体を包みだした。帰りの本屋では 「寺山修司名言集」 に手が伸びていた。去年のモーツアルトの代わりという感じだろうか。

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 私は何でも 「捨てる」 のが好きである。少年時代には親を捨て、一人で出奔の汽車にのったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。
 旅するのは、いわば風景を 「捨てる」 ことだと思うことがある。 
                     - 競馬無宿 -

 逃げつづける者の故郷は、この世の果てのどこまで行っても、存在しないものなのだ。 
                     - 勇者の故郷 -

 人には 「歴史型」 と 「地理型」 がある。歴史型は一ヶ所に定住して、反復と積みかさねの中で生を検証し、地理型は拠点をかえながら出会いの度数をふやしてゆくことによって生を検証してゆくのであった。
 従来の日本人の魂の鎖国令の中で、春夏秋冬をくりかえす反復性を重んじたが、私はそうした歴史主義を打破して、地理的、対話的に旅をしながら問い、去りながら生成したい、と思ったのである。 
                     - 旅の詩集 -

 人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ 
                     - ロング・グッドバイ -

 男の一生は、いわばその父を複製化することにほかならない。 
                     - 黄金時代 -

 出会いに期待する心とは、いわば幸福をさがす心のことだ。 
                     - 幸福論 -

 見てきた風景を捨てて、新しい風景をつくるために、
 二人は旅にでかける。
 二人の 「故郷」 を見出すために、いくつかの野を越えて、
 風をわたってゆく。    
                     - さよならの城 -

 成ろう成ろうとしながら、まだ言語になっていないものだけが、ぼくを変える。
                     - 地獄篇 -

 「見るという行為は、人間を部分的存在にしてしまう。
  もし、世界の全体を見ようとしたら目をとじなければ駄目だ」
                     - 青蛾館 -

 貧しい想像力の持ち主は貧しい世界の終わりを持ち、豊かな想像力の持ち主は豊かな世界の終わりを持つだろう。
 世界はまず、人たちの想像力の中で亡びる。そしてそれを防ぐためには、政治的手段など何の役にも立たないのである。
                     - 地平線のパロール -
-----------------------------------

小さな出来事があると、前 avant と後 après がはっきりと現れる。その間に何かが変わっているのが見える。そう気付く時、時の流れに触れることができているような錯覚に陥る。

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