フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

講演会 「死刑廃止」 ROBERT BADINTER-ABOLIR LA PEINE DE MORT

2006-10-29 12:23:05 | 講演会

再び、フランス語による講演会に出かける。テレカンファランスであった。演者は、ロベール・バダンテール Robert Badinter (30 mars 1928 -) さん。1981年9月17日のフランス国会において、当時の法務大臣として 「殺す正義」 "justice qui tue" を痛烈に非難した歴史に残る演説をされた方であることを初めて知る。

その原文: Discours de Robert Badinter à l'Assemblée nationale日本語訳

当時は60%以上が「死刑廃止」に反対していたが、今では大多数が賛成しているという。彼の論拠をしっかりと理解できなかったのは残念だが、キーフレーズとして耳に残ったのは死刑は無益で効果がなく、危険でもある "La peine de mort est inutile (inefficace) et dangereux"。危険というのは特にテロが多発する国でのことが念頭にあるようだ。被害者家族との関係についても最後に語っていたのだが、靄がかかっていた。アムネスティの方のお話では、日本でも死刑賛成が今では多数を占めているという。このような状態でどうしたらよいのかとロベールさんに聞いていたが、世論調査の結果は気にせず、世論の変化を待つことなく、勇気 (le courage を強調していた) を持って進むことが重要だと答えていたようだ。

ロベールさんの話を聞いていて、彼の中でこの問題に対する問いかけがなされ、思索を重ねてきた跡が滲み出ているように感じた。会場ではアムネスティの方が質問をされていたが、自らの中でどのような思索がなされてきたのかをつかむことは私には難しかった。「死刑廃止」 がアプリオリに目の前にある命題で、それを実現するためにはどうしたらよいのかという捉え方をされているように感じた。どのような哲学で 「死刑廃止」 に導かれたのかという点をもう少し深く知りたかった。その点が理解され、納得されなければその実現は難しいように感じた。

最も知りたいと思うことが分かる程度にフランス語を聞けるようになりたいものだ、という思いで帰途についた。

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「パリの思い出」 "SOUVENIRS DE PARIS"

2006-10-19 23:49:03 | 講演会

IFJで2人の写真家を囲む会があった。

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「ヴァレリー・ヴェイル Valérie Weil &フィリップ・シャンセル Philippe Chancel を囲んで」

パリを始め、ロンドン、ニューヨークの、肩の凝らない旅行話のように、ショーウィンドウや普通のお店を通して、詩的散策へと誘う。リポーターが様々な事実を集めるように、彼女もそうすることでドキュメンタリー写真とコンセプチュアルアート、それぞれの伝統を取り入れた都市空間の写真を撮り続けている。抽象的な風景と型破りなルポルタージュの狭間で、それぞれの都市と分かる美術館や観光名所に、大都市の魂が通う訳ではないことを Souvenir シリーズは思い起こさせる。エド・ルシャとジョルジュ・ペレック同様、ヴァレリー・ヴェイルはどんなテーマであれ、どんな物であれ、芸術に値しないものはないと主張する。見ることや驚くことのできる力を持つことが大事なのだ。
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この案内にある最後の二つの文章は原文では以下のようになっている。

"Sur la piste de Ed Ruscha et de Georges Perec, Valérie Weil affirme qu'aucun sujet, aucun objet n'est indigne de l'art. Il faut garder cette capacité à regarder et à se laisser étonner."

ここのところは、最近私の中で起こっていることと繋がるのですぐに反応した。何気ないもの (このブログにも出しているように、ショーウィンドウに飾られているものも含まれている) の中にも美を見出すことができるようになっている。極言すると存在そのものが美しいということに気付き始めたと言えるかもしれない。そこまでの徹底した視線があるのか、どのような切っ掛けで今のような仕事をするようになったのかなどついて、ヴァレリーさんの考えを聞いてみたくなり出かけた。

実際には、世界の大都市のショーウィンドウの中にあるもの(la nature morte 静物と言っていた) に美を見出し、撮りつづけている。それぞれのものの位置関係、錯覚を呼び起こすようなイメージ、語りかけるようなイメージ、反復するもの・イメージなどに興味を持っているようである。彼女の写真が会場に展示されているが、私の目から見ると対象そのものがすでに美しく見えるものであった。彼女が引用していたペレックの言葉 (私の耳に聞こえたところによると) 「慣れ親しんでいるものを調べ (見) 直し、それを再構成して美・真実を見つけることが重要である」 には全く同感であった。

今年、彼女の写真集 「東京の思い出」 "Vitrine (Souvenirs?) de Tokyo" が出るという。また同席していたフィリップさんの北朝鮮の写真集 "DPRK" はフランスでは今日発売されたとのお話であった。

(version française)

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ブリュノ・クレマン 「誤解礼賛」  "A MALENTENDEUR, SALUT !"

2006-10-05 23:55:03 | 講演会

IFJからのメルマガで面白そうな講演会があることを知り、傘に落ちる弾けるような乾いた雨音に耳を傾けながら会場へ向かう。案内の要旨に次のような言葉があったからである。

「科学、哲学、政治、文芸批評、絵画などの分野において、誤解が実りをもたらすことを示したい。嘆かわしいのは誠実さや賢明さで、それらは退屈や予想できること、反復や言い換えにしか導かない。誤謬こそ幸福で、豊穣で、活力に溢れている。」

特に、最後の "C'est l'erreur qui est heureuse, qui est féconde, qui est dynamique !" に惹かれてしまった 。[ これは全くの余談だが、なぜ惹かれるのが若い人の心なのか、いや心の若い状態でなければ惹かれるということは起こらないということなのか。この字を見ながらそんなことを考えていた。] ところで、誤謬を失敗に置き換えると、人生においても示唆を与えてくれる元気の出る、dynamique な言葉になる。「失敗に乾杯!」。利口さは堅苦しさや精神の硬直化に陥りやすいが、失敗こそ豊穣の土地で、未来に繋がるものを生み出す可能性に溢れている。そのあたりを聞きたくて、雨にも負けず出かけることになった。

演者のクレマンさんはパリ第8大学教授で、紹介者によるとジャック・デリダ Jacques Derrida (El Biar, Algérie, 15 juillet 1930 - Paris, 9 octobre 2004) が1983年に創設した国際哲学コレージュ (Collège international de philosophie) の会長を務めている (今日の写真、左の方)。声を張り上げることもなく、静かに考えをなぞるような話し方で、フランス人によく見られるタイプだと思った。彼の思考に沿って一生懸命に聞いていたが、お話をまとめることは至難の業である。引用に富み、文学、哲学の領域で使われる言葉に溢れているからだろうか、残念ながら部分的にしか理解できなかった。しかし、誤解を恐れずにいくつか書いてみたい。それこそが豊かさを生み出すかもしれないから。

昔から作家が作家に興味を示すことがある。例えば、サルトルがギュスターヴ (フローベル) に、ヴォルテールがパスカルについて書いているように。ただその場合は常に誤謬 le malentendu に終わる。理解などできないのだ。それは裏切り trahir、裏切られる être trahi ことになる。キーワードは la trahison。

他人を支配することになるレトリック rhétorique についても語られる。ソクラテスとゴルギアスの話を例に出し、ゴルギアスの主張、突き詰めると専門の領域ではなくとも言葉を修め説得する方法を学ぶことにより専門家と同じように対応できる。修辞はそういう力を持っている。レトリックが malentendu の発生に寄与するということを言いたいのだろうか。

ギリシャ時代の神託 l'oracle も出てくる。それは理解不能な話し方で語られる (parler de manière difficile à comprendre)。直接的には語られない (parler de façon oblique, pas directe)。その曖昧さ、不確実さ (l'obliquité という言葉を使っていた) を理解しようとする時、malentendu を生み出す。

17-18世紀のフランスの作家、ベルナール・フォントネル Bernard de Fontenelle (11 février 1657 - 9 janvier 1757) についても触れられていた。特に、彼の "Histoire des oracles" 「神託の歴史」 (1687) がよく取り上げられていた。この書は神託 oracle とか、迷信 superstition、奇跡 miracle、超自然現象 surnaturel などを攻撃の対象にしているようである。古代に語られ、その時代に真理として受け止められていたことも時代とともにその意味は失われ、変質していくのが常である。そういう時には、元に返り本来の意味を回復することも重要になる。キーワードは récupération。最近のフランス政治においては、ドゴールの書を読み直すということが行われているというお話であった。

この夜のお話には私が期待した、どのようにして誤謬・過ち・失敗が豊かさを生み出すのかという点にははっきりとは触れられていなかったように感じたので、質問のコーナーでこの点を聞いてみた。かなり丁寧に説明してくれていたが、理解できたところは次のようなことになるか。同じテクストでも時代が変わると違った意味を持ってくる。セルバンテスと全く同じ文章を後の世で書いても、それは全く違った意味を持ってくる。実際にそれをやった人がいると言っていたようだが、確かではない。それも豊かさ la fecondité を生み出すものになる。また例えば、と言ってベケットの芝居を出していたが、その芝居では厳密な指示があるとは言うものの演出家によって出来上がりは変わってくる。というようなお話で、文学・神学・哲学における解釈というところに重点が置かれているようであった。

講演会が終わってから分野外なのですが、と言ってブリュノさんと話をする。どの分野かと聞かれたので科学の分野だと答えると、それなら今日のテーマに相応しい例がもっと沢山あり、しかもそれが豊穣の結果を生み出すことがしばしばであるという話になった。結論から言うと、その辺りの哲学的な分析を聞きたくて出掛けたのだが・・、という思いである。話が長くなりそうだったので、主催者の方の下でワインをやりながらいかがですかというお誘いに乗り、参加者の方を交えたお話に加わってきた。

フランス語を始めた経緯を話すと、話題にも出ていた oracle でも聞こえたのかという反応。フランス語のお陰で興味がどんどん広がっていると言うと、それはフランス語のせいではないのではないか。外国語をやると一般的にそういう効果がある。さらに食い下がってみたが、考え直してみると彼の言う通りかもしれないという結論になってくる。今の状態をフランス語をやる直前と比較して見ていたから、フランス語をやって初めて世界が開けたように感じているかもしれないが、英語をやっている時にはまた別のひょっとすると今よりも大きな変化が起こっていたかもしれないのである。おそらくそうだろう。英語をやる前の状態を今自分の中で再現できないのでそれがわからないだけなのだろう。ただ、フランス語により今までとは違う世界に導かれていることだけは言えそうである。

隣にいたポーランドの方は、私が100歳からものを見るようになっているという話をすると、100歳というのはポーランドでも重要だと言う。乾杯 A votre santé ! をポーランド語では 「100歳!」 と言うのだそうである。日本には 「10000歳 !」 というのがある、と切り返すところまではいかなかったが。3時間ほどの充実した旅になった。

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(version française)

コメント (2)
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