フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

科学フランス語のサイト LE SITE DU FRANCAIS SCIENTIFIQUE

2006-05-24 07:00:17 | 日仏のために

ここ半年ほど、パリにあるパスツール研究所のプレスリリースの翻訳を依頼されています。まさに厚顔無恥極まりないのですが、こちらも公開しながら教えを乞おうと考えました。仏版ブログには語法の誤りなどの貴重なコメントをいただき、目を開かされているからです。サイトは以下の通りです。

パスルーツからのフランス語

この分野の専門家の方にはご批判を、専門家をご存知の方にはこのサイトを紹介していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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正当性 LE BIEN-FONDE

2006-04-26 19:09:28 | 日仏のために

"Il viennent de démontrer le bien fondé d'un modèle qui avait été proposé dans ... "

今日はこの文章の "le bien fondé" に四苦八苦した。「モデルに基づいている le bien 、、」 としても意味が通じない。いろいろ組み合わせてみたが駄目なので、ネットにかけてみた。そうすると出てきたサイトはすべて "le bien-fondé" と trait d'union (ハイフン) がついている。どうしてハイフンを付け忘れたのだ、という思いとともにパッチリと目が覚めた。一塊で 「正当性」 という意味で、「・・・で提唱されたモデルの正当性を彼らは示した。」 というような流れになる。その間の苦しみが嘘のように飛んでいった。

人の意識は不思議なものだ。何かを決め付けていると、見えるものも見えなくなる。ちょっとした視点の変化で、今まで見えなかったのが嘘のように見えてくる。今日は少し大げさなまとめになった。

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フランス大使館へ A L'AMBASSADE DE FRANCE A TOKYO

2006-04-19 23:48:32 | 日仏のために

パリのP研究所の所長と研究者5-6名が東京を訪れたのを機に、フランス大使公邸でソワレがあった。私はP協会の広報をお手伝いさせていただいているご縁で、初めて大使公邸に入ることができた。会場にはフランスと関連ある仕事をされている方、P協会の会員の方、研究関係の方々など。皆さんの背景を探ってみると多様なフランスとの繋がりが浮かび上がるのだろう。その中にパリの日本館長をされていたI氏、P協会の会員で現在浪人中のK氏、日本に長いフランス人女性タレントMさんなどの顔も見えた。

私自身は相変わらず間違いを気にせずいろいろな方々と言葉を交わした。滞日7年のフランス製薬会社の責任者は、私がフランス語を始めた経緯を話すと、にんまりしてそれほんと?という表情 (いつも受ける反応)。以前にP協会を通じてこの方のお世話をしたことがあることが判明。

日本滞在2年で大使館勤務 (生命科学担当) 半年の方は、いずれ科学関係のジャーナリストになりたいとのこと。彼からは、「怠け者」という意味の feignant という言葉を教えてもらう。また彼の上司であるアタシェの方は日本に来てまだ半年なので印象を聞いてみた。普通の道に何気なく神社のようなところがあり、この国の精神性を感じ、心地よいという返答。私も最近やっと街中に隠れるようにあるお寺や神社の存在に気付くようになってきたが、おそらくフランス語を始めてからものを見る余裕ができたためではないかと反応すると、眉を上にあげて瞳を輝かせていた。

上海で研究所を始めたVD氏からはブルーノ・ガンツ Bruno Ganz (1941-) というドイツ語圏の俳優 (フランス語も話すらしい) を教えてもらう。調べたところ、最近の映画では 「ヒトラー 最期の12日間 Der Untergang (la Chute)」 でヒトラーを演じている。この他、日本の大学関係の方々とも。またこの夏にP協会のフェローシップでパリに向かうことが決まっている若い研究者の方も紹介された。フランス語の方も合わせて、活躍を期待したい。

春の宵、フランスの香りの中に身を委ねる贅沢を味わわせていただいた。

        春の宵
          仏蘭西の香に
            時忘る 
          (paul-ailleurs)

     "au crepuscule de printemps
       mêlé avec des francophiles
         j'étais perdu dans le temps"
             (paul-ailleurs)

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カネッティ三兄弟 LES TROIS FRERES CANETTI

2006-03-29 20:48:38 | 日仏のために

半年ほど前からP協会の広報のお手伝いをさせていただいている。フランスで行われた科学研究の成果を日本語で紹介するのがその役目である。今回はカネッティ三兄弟の名前を冠した賞 (結核研究に授与される) を受賞した研究の紹介であるが、その中にカネッティ兄弟についてのお話も出ていた。

エリアス、ジャック、ジョルジュの兄弟はスペイン系ユダヤ人家庭にブルガリアで生まれ、それぞれ文学、文化、科学という異なった分野で大きな足跡を残した。ということなので知る人ぞ知る兄弟のようだが、私にとっては初めての名前。興味を持って読んだ。

彼らの両親ジャックとマチルダ・カネッティはジョルジュが生まれてからブルガリアを離れ、イギリスのマンチェスターに移住する。1912年に父親が心筋梗塞で亡くなる。その時マチルダはまだ28歳。息子たちにドイツ語を学ばせるため、1913年からウィーン、チューリッヒ、ローザンヌ、フランクフルト、ミュンヘンを渡り歩く。しかし、ナチズムが台頭してくると、マチルダはジャックとジョルジュを連れてパリに落ち着く。1926年のことである。長男のエリアスはウィーンに残り、1929年に化学の研究で博士号を授与される。ジョルジュはエリアスのもとに行き医学を勉強。1931年にはフランスに戻り、1936年にパスツール研究所に加わる。パリに留まったジャックは1932年にポリドールに入社。母親のマチルダは1937年結核のため亡くなる。

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エリアス・カネッティ Elias Canetti (1905-1994): 作家、ノーベル文学賞

最初の作品 « 眩暈 » を1931年ウィーンで書くが出版には至らず。バベル Babel、ベルトルド・ブレヒト Berthold Brecht、カール・クラウス Karl Kraus、アルバン・ベルク Alban Berg、ロベール・ムジール Robert Musil などの知識人や芸術家と付き合う。1938年、水晶の夜 (Kristallnacht; la Nuit de cristal) の後、妻ヴェザとともにドイツを去り、イギリスに亡命する。1942年から彼の人生についての作品 « 群集と権力 » の執筆に打ち込む。1960年にこの作品が発表され、ドイツのみならず世界に知れ渡る。1977年から1985年にかけて自伝的三部作が発表され、その第一部 « 救われた舌 » は弟ジョルジュに捧げられた。1981年にノーベル文学賞を受賞。1994年、チューリッヒで亡くなる。

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ジャック・カネッティ Jacques Canetti (1909-1997): レコード製作者、 3 Baudets 劇場監督

彼はポリドールでジャズのラジオ放送を指揮し、ルイ・アームストロングなどのアメリカのジャズマンを初めてフランスに招聘する。マルセル・ブルースタイン・ブランシェ Marcel Bleustein-Blanchet の側でラジオ・シテの芸術監督として、エディット・ピアフ Edith Piaf (*) やシャルル・トレネ Charles Trénet (*) を発掘した番組など多くを手がけた。ナチズムに真っ向から反対し、偽名で巡業を計画し、1942年には北アフリカに行きアルジェに劇場を建てる。"解放"とともにパリに戻る。1947年から1962年にかけて、彼はモンマルトルの中心で「3 Baudets劇場」の監督として活躍し、ポリドール、さらにフィリップスの芸術監督になり、そこで根気強く芸術家をサポートした。

ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassens (*)
ジャック・ブレル Jacque Brel (*)
ギー・ベアー Guy Béart
フェリックス・ルクレール Félix Leclerc
フランシス・ルマルク Francis Lemarque
セルジュ・ゲンズブール Serge Gainsbourg (*)
アンリ・サルバドール Henri Salvador (*)
ボリス・ヴィアン Boris Vian (*)
レイモン・ドゥヴォス Raymond Devos
フェルナン・レイノー Fernand Raynaud
アン・シルヴェストル Anne Sylvestre
ピエール・ダック Pierre Dac
フランシス・ブランシュ Francis Blanche
ジュリエット・グレコ Juliette Gréco (*)
キャトリン・ソヴァージ Catherine Sauvage
クロード・ヌーガロ Claude Nougaro
など。

1962年、最初の独立レーベルのレコード会社「ジャック・カネッティ・プロダクション」 « Les Productions Jacques Canetti » を設立する。そこでは次にような人のデビューアルバムを製作。

ジャンヌ・モロー Jeanne Moreau (*)
セルジュ・レジアーニ Serge Reggiani
ブリジット・フォンテーヌ Brigitte Fontaine
ジャック・イグラン Jacques Higelin

また、コラ・ヴォケール Cora Vaucaire (*)、シモーヌ・シニョーレ Simone Signoret (*)、ミシェル・シモン Michel Simon などのライブ録音を行った。

(* 聞き覚えのある名前)

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ジョルジュ・カネッティ Georges Canetti (1911-1971): パスツール研究所の研究者

パスツール研究所でボランティアから始め、彼自身も罹った結核を専門に研究を発展させ、教授のランクまで上る。結核治療の原理を確立し、研究センターを設立。1954年にはレジオン・ドヌール・シュバリエ賞を受賞している。彼は医学研究の世界に留まらず、シルヴァン・コントゥー Sylvain Contou やロラン・バルト Roland Barthes などの文学や哲学の分野の人とも固い友情を結んだ。1971年ヴェニスに死す。

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三兄弟の話を読み終わって、境界などには全く囚われない好奇心に溢れた強靭な精神が立ち上るようで刺激を受ける。エリアスの本2冊、« 眩暈 » と « マラケシュの声 ― ある旅のあとの断想 » を注文していた。

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再びPB氏と DEJEUNER AVEC M. PB

2005-12-24 11:27:05 | 日仏のために

今週、ハノイのIPにお勤めのPB氏とお会いする機会をIP協会のW氏、O氏の紹介で与えられた。今年二度目のことである(前回は9月)。今回はN大学のI氏とともに。彼とお話しているといつも刺激を受ける。公衆衛生的視点で世界を見ていてなかなか面白い。その現場にいるので話に臨場感がある。

東南アジアや中国はいわば何でもありの世界のようで、新興感染症が出てくる素地があり、要注意とのこと。特に、動物との接触、動物の摂取が重要な役割を担っているようだが、まだ多くの謎があり想像を刺激する。最近のトピックスは、こうもり chauve-souris (= 禿のマウス) がいくつかのウイルスの溜まり場になっているというお話。こうもりなど、病気との関連ではまだまともに研究がされていないと思われるので、これからいろいろなことが飛び出してきそうだ。地球は本当に広い。いろいろと見てみたいものである。

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日仏のために(III) RENCONTRE AVEC UN CHERCHEUR D'HANOI

2005-09-20 20:07:53 | 日仏のために

先週、P協会のMW氏とMO氏からのお話があり、パリのIP所属で現在はハノイ在住のPB氏と会うために、指定のホテルに出向いた。彼はアメリカ人であるが、今はフランスの国籍も持つ科学者で、大学まではアメリカ、卒後はパリで教育を受け学位を取っている。アジア担当になった当初は本来の所属先があるパリと往復していたらしいが、今はベトナムに落ち着いているようだ。その経歴からわかるようにフランス語も流暢に話し、日本にも研究のため2年ほど滞在したことがあるとのことで、アクセントのない日本語も少しだけ聞くことができた。

食事をしながらのミーティングは1時間半くらいだっただろうか。話題の幅が広く、充分に楽しむことができた。まず、私が francophile になった4年前の出来事を話すと、本当かと聞き返してきた。嘘ではないことがわかると、病気にはそれなりに存在理由があるという、以前に触れた私の結論と同じことを言っていた。花粉症にお礼を言わなければ、というわけである。また彼のパリの友人を私が知っている事にも驚いていた。"Le monde est petit !" ということなる。

これも以前に触れたことだが (31 août 2005)、アメリカとフランスの科学の進め方の違いについても話が及んだ。彼もアメリカの科学がやや機械的なきらいがあり、背後にあるものについて考えるという姿勢が少ないように感じていた。そういうこともあってのことだとは思うが、アメリカではもう仕事をすることはないだろうとのことであった。日本も戦後、アメリカのシステムを入れ、それをよしとしてやって来て現在がある。少し味(=余裕から醸し出される何か、あるいは愉しむ・味わうという気持ち)が足りないのかな、というのが私の印象である。

彼の指摘では、日本には naturaliste (博物学というニュアンスか) の伝統はあるが、cartésien (デカルト的な論理的・合理的な考え方=西欧的な考え?) の伝統は未だ根付いていないのではないか、というような話をされていたようだ。西欧的な考えからすれば、博物学的な考えは余り高く評価されていないということになるのか。また、彼が研究していた日本の大学で、第二次大戦のためにどのような研究がされていたのか、ということまで教えていただいた。そういう状況になれば、自らの研究の方向性も変えざるを得なくなるということを教えてくれる。

この日の会合では、科学以外の領域、例えば美術、文学、哲学についても話題にできる、愉しめる空間がそこにはあり、あっという間に時間が過ぎていた。

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(version française)

日仏のために(I)
日仏のために(II)
日仏比較

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日仏のために (II) POUR LA RELATION FRANCO-JAPONAISE

2005-08-25 22:38:05 | 日仏のために

一月ほど前に、私がフランスに滞在した施設の支援組織が日本にあり、そのお手伝いができるようになるかもしれない、というようなことを書いた (25 juillet 2005)。今週初め、そのP協会の責任者で会長のMW氏から再び連絡が入り、今日その事務局長MO氏と一緒にお会いしてきた。MW氏はフランス関連のお仕事を30年以上(滞仏15年、フランス関連企業の日本のトップとして15年)され、今フランスへの恩返しを考えておられる奉仕の精神に溢れた方である。

お話によると、P協会はこの4月に特定非営利活動法人になり、その目的を日仏の交流に置き、これから本格的な活動を始めようという状況にある。具体的には、日本の若手の研究者をパリに送り込むこと、パリの研究者を招聘し講演会やシンポジウムなどを開催しその内容を出版すること、さらにホームページおよび機関紙発行による普及事業などを行い、その目的を果たそうとするものである。基本になるのは財政的な支えとのことで、大変なご苦労をされている様子であった。

4年前に francophile (フランス好み) になり、先月パリで予想だにしなかった歓迎を受けたこともあり、何らかの形で是非お手伝いしたい旨を伝えた。財政的な面でのサポートは難しいと思われるが、出版物作成の過程や講演会の開催などにはお力になれるように感じた。最初からフランスに魅せられ打ち込んでこられた方とは異なり、私のようにアメリカという別の文化を潜り抜けている人の視点は日仏を考える上で重要であるというMW氏のご指摘も私を後押ししてくれているようである。

日仏交流のために微力を尽くしたいという気持ちが改めて生まれてくるのを感じながら、台風が近づいている新宿の空の上でお別れした。

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日仏のために? POUR LA RELATION FRANCO-JAPONAISE

2005-07-25 23:23:24 | 日仏のために

先月から今月にかけて滞在したパリの職場で、その支援組織が日本にできたことをホストのMDから聞いた。すぐにパリの事務局の責任者に活動内容などを問い合わせるメールを出した。非常によくしてもらったので、何かできることはないかという気持ちからである。その後、フランスの責任者がお休みとのことで、日本の責任者MW氏から丁重なメールをいただいた。私が日本に帰ってから直接連絡しますというもの。そのことを忘れかけていたが、今日MW氏から連絡が入った。

お話によると、支援組織の活動は、日本の若手をパリに送り、向こうから研究者を招き講演会などを開くことにより、日仏交流に貢献しようとするもののようである。ただ、活動を支える人に限りがあり、財政的な支援を得るのが難しい状況が続いているのが悩みの種とのことであった。できることがあればお手伝いしたいと伝えたところ、日を改めてお話でもしましょうというMW氏のお言葉をいただき、会話を終えた。もしその活動にどのような形でも参加できることになれば、今回のパリ滞在の思わぬ副産物 (spin-off) と言うことになる。不思議な展開である。

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