フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

6月の記事

2005-06-30 23:58:13 | Weblog
2005-06-30 FNAC MONTPARNASSE - L'HOMME QUI MARCHE
2005-06-29 旧友からの電話 RAPPEL DE MON VIEIL AMI
2005-06-28 パリの南へ - 予期せぬ出会い RENCONTRE IMPREVUE
2005-06-27 ルクセンブルグ美術館 - MATISSE: UNE SECONDE VIE
2005-06-26 中世美術館から MUSEE CLUNY
2005-06-25 エリク・サティー ERIK SATIE
2005-06-24 週の終わりに A LA FIN DE LA SEMAINE - ANDRE DAMON
2005-06-23 仕事の発表 - 言葉のニュアンス SEMINAIRE - NUANCES DES MOTS
2005-06-22 小さな出会い - ブノワ・デュトゥールトゥル BENOIT DUTEURTRE
2005-06-22 FETE DE LA MUSIQUE
2005-06-21 ザッキン美術館 MUSEE ZADKINE
2005-06-20 ブルーデル美術館 MUSEE BOURDELLE
2005-06-20 サルトル展
2005-06-19 国境なき記者団のための写真展
2005-06-18 Jazz の30年 JAZZ 1976-2005
2005-06-17 ある古本屋にて
2005-06-16 朝のひと時 AU CAFE DU MATIN
2005-06-15 仕事に意味を DONNEZ UN SENS AU TRAVAIL
2005-06-14 パリでの日常
2005-06-13 写真・映像に見るチャップリン展
2005-06-12 17-18世紀のフランス絵画展
2005-06-11 成田出発まで
2005-06-10 ジェルファニョン再考
2005-06-09 ヨーロッパ・モード
2005-06-08 アレクサンドル・デュマ - ゴーストライター
2005-06-07 古代の記憶 - リュシアン・ジェルファニョン (II)
2005-06-06 古代の記憶 - リュシアン・ジェルファニョン (I)
2005-06-05 熊谷守一
2005-06-04 先送り - Esprit critique
2005-06-03 「サルトル」
2005-06-02 サルトル生誕100年
2005-06-01 角田光代

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FNAC MONTPARNASSE - L'HOMME QUI MARCHE

2005-06-30 20:00:19 | パリ・イギリス滞在

街を歩いていると、むずがる子供に Tu arrête ! Ça suffit ! (止めなさい) と大きな声、坂道を子供がローラーブレードで降りていくのを見て Doucement ! Doucement ! (ゆっくり、ゆっくり)、赤ん坊にお菓子を差し出しながら Tiens ! と言い、受け取ったら Merci ! とはっきりした口調で話しかけている母親などを見かける。またこのあたりの小学生が先生と一緒に歩いている姿をよく見かけるが、子供が騒いでいると Calmez-vous ! (静かにして) と先生の怒鳴る声が聞こえる。文字を読んでみると単純なのだが、街中の現場で聞くと言葉が生きていて美しく響く。フランス語が今回のように耳に入ってくるのは初めてだ。そこで生活しているような心の余裕があるせいだろう。

写真のデータをパソコンに移すための小物を探しにモンパルナスの FNAC に出かけた。パソコンのコーナーに行くとカメラのコーナーに安いのがあるというので1階に戻って仕入れた。そのお陰でこちらで撮った新鮮な写真を載せることができるようになった。

先月18日に谷口ジローの漫画について触れたが、その時は谷口ジローの「歩く人」が手に入らなかったので、こちらでフランス語訳を仕入れようと考えていた。早速、その思いを実行に移すべく3階に向かう。彼の本は一般の展示棚とは別に、通路に特別に設置した棚に置かれていた。やはり高く評価されているようだ。日本の製本よりは立派で重量感がある。幸い L'homme qui marche はそこにあった。

それから近くにあった語学コーナーで、面白そうな教科書はないかと物色する。こちらに来て早3週間。周りの人も日本の学校では学べないような言葉を教えてくれる。これまで蓄積したものを日常の中で話したり聞いたりしていると、どのように使えばよいのかという感触が少しずつ得られてきたようなので、日常会話の表現を体系的にしかも簡潔にまとめられている本で頭の中を整理してみたくなった。日本の本屋でも見たことがある Guide pratique de la communication を迷った末に買った。こちらにいる間に、生の感覚をつかんでおこうと思ったのだろう。実際に自分が経験している日常生活の状況に応じた表現がまとめられているので、すんなり入ってくる。日本に帰ってからでは読む気にならなかっただろう。

暇を見て L'homme qui marche をざーっと読み流した。何気ない日常が、言葉少なく、まさに谷口の詩情溢れる静かな世界として広がっている。これまで読んだ作品と同質の世界である。こちらで読んでも何かを呼び覚ましてくれる魅力溢れる世界だ。

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旧友からの電話 APPEL DE MON VIEIL AMI

2005-06-29 20:09:42 | 出会い

昨日の夜パリの南から帰って仕事場に行くと、机の上に小さなメモが置かれてあった。日本を出る前にこちらに来ることを知らせておいたYCから電話が入ったとのこと。これまで連絡がなかったので、どうしたのかと不思議に思っていた。昔のことは思い出したくないので会いたくないというのだろうか、おそらく今回は会えないだろう、などと考えていた。正直そのメモを見た時、やっと答えてくれたかという感じで嬉しかった。YCとは私がニューヨークにいた時に1-2年一緒に仕事をしていたが、その後一度会っただけである。その時から数えてもすでに20年近く経っているだろう。電話番号が書かれてあったので早速かけてみた。

私の声を聞いた途端に彼は気分のよさそうな笑いを連発。すぐに昔に戻って話が弾み、最後まで途切れることがなかった。どうして笑っているのかと聞くと、お前のユーモアのセンスが昔のままだから。持ち続けなさい (Keep it !)、と言う口調も昔のままである。今日はまだ仕事しているのかと聞くと、まだまだリタイアは早いので、とのことで、まず一対一で仕事の話をしたい、それから別の日に妻も入れて食事をしないかという。このあたりのセットの仕方も彼らしい。変わっていないな、と思わずにんまりする。明日、私の仕事場まで彼が来ることになった。

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パリの南へ - 予期せぬ出会い RENCONTRE IMPREVUE

2005-06-28 21:02:33 | 出会い

canicule のこの時期、お年寄りが脱水症状になるのが心配になるとテレビで話している。「脱水状態になる」を se deshydrater (ス・デジィドゥラテ) という。この言葉がすんなり入ってくるようになったのは、こちらに来た初日の経験による。お土産に持ってきたお菓子の箱に入っている小さな袋の中身を食べられるのかと聞かれ、何と云うのかわからない。何とか意味を伝えることができた時に出てきた言葉が、「デジドゥラタン」。綴りを教えてもらうと、deshydratant、小さな袋に入ったものを sachet deshydratant というらしい。脱水 deshydratation、脱水状態 deshydraté などもよく聞こえてくる。

国立図書館 (BNF) で30,000 もの資料紛失事件があり、その中心人物 (protagoniste) のインタビューが Le Figaro に出ていた。BNF は全部で 3500 万の資料を収め、以前の場所 (Richelieu) から現在の Tobiac (François Mitterand) に移る時になくなったらしい。これまでにも1946年、80年代、97年に同様のことがあり、自殺者も出しているようだ。今回疑われている Michel Garel という人は、私は理想的な生贄だ (Je suis le bouc émissaire idéal)と訴えている。執拗なメディアの犠牲にもなっており、次のようなことを言っている(真偽のほどはわからないが)。

Au Japon, mon nom a même servi aux téléspectateurs apprenant le français pour comprendre l'expression « mis en examen » !
(日本では、テレビでフランス語を勉強する人が「尋問・取調べ」という表現を理解するために私の名前が使われさえしている)

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今日はパリの南まで意見交換をしに行ってきた。2回ほど電車を乗り継いでからバスに乗り、1時間足らずの移動であった。午前中1時間ほど話した後、5-6 人と昼食に出る。こちらは climiatisation の率が低く、私が話している間も2-3 台の扇風機 ventilateur が大活躍していた。今日は室内で30度は優に越えていただろう。汗が噴き出してきた。レストランで、フランスらしいものはないかと尋ねたところ、ジェジエのサラダ (salade de gésier) を勧められた。gésier は辞書によると、dernière poche de l'estomac des oiseaux (鳥の砂袋)とある。軟らかくて口当たりがよかった。勧められたビールとともに日仏文化比較に少しだけ花を咲かせた。後から入ってきた2人組が、今日は別の用事で手が離せず聞きにいけなくて残念でした、と言ってくれる。パリでは味わえないコミュニティがあるという印象。

午後からは数人と1対1で話をした。私のフランス語を聞いて英語で行きましょうというのが普通なのだが、中には最初からフランス語でどんどん話してくる人もいてなかなか大変であった。しかし終わってみると心地よい疲れだけが残っていた。夕方5時頃にパリに戻ってくると、またしても雷が鳴る軽い嵐の様相。ただ、こちらの嵐は大体2時間くらいで過ぎ去るようだ(2週間の経験だけだが)。

今日のブログは以上で終わるはずだったが、その後小さな発見があったので以下に書いてみたい。

フランス語で通していた彼女(名前は聞いたのだが外国人の名前を1回聞いただけで覚えるのは並大抵ではない)の歩く後姿(われ関せず、わが道を行くという雰囲気を漂わせている)を見た時、なぜか初めてではないな、と薄々感じていたがそのままにしていた。帰ってきてから、行く前に印刷しておいたホームページを捨てようとして何気なく見直していると、JBという名前が載っている。どこかで聞いた名前だなと思いながら今日を振り返っていると徐々に昔の記憶が蘇ってきた。やっぱりそうだったのか、と驚くと同時に納得した。JBは私がそれこそ30年近く前ボストンで仕事をしている時に同じフロアで働いていたのだ。当時、日本では見かけなかったその歩き方が彼女の生き方(やや悲劇的な要素もありそうな)を象徴しているのではないかと勝手に想像していて、そのエッセンスが記憶のどこかに残っていたのだろう。それが今日、彼女の後姿を見ることにより徐々に蘇ってきたようだ。もしあっさりHPを印刷したものを捨てていたら、彼女のことは永遠に忘れ去られていたかもしれない。何かが巡り巡っている、そんな感じのした不思議で懐かしい出会いであった。

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ルクセンブルグ美術館 - MATISSE: UNE SECONDE VIE

2005-06-27 22:40:54 | 展覧会

昨日の午後、嵐が去った後ゆっくりとマティス展 « Matisse: une seconde vie » を見に Musée du Luxembourg へ出かけた。昨年東京の展覧会で見ているので2度目になる。5時前に着き、約1時間。今回は、コンパクトにまとまった、焦点の絞られた展覧会であった。

Henri Matisse (1869-1954)

会場に入ると、まず André Rouveyre (1879-1962; le desinateur satirique et écrivain) なる人物が紹介される。第一次世界大戦後、作家を始めたが、世間的な成功は全く得られず、次第に引きこもるようになる (R. amorse une carrière de romancier, qui n'est manquée d'aucun succès populaire. Il se retire progressivement de toute vie sociale.)。いくつか小説は残しているらしい。彼の存命中にマティスから貰った手紙をコペンハーゲンの王立図書館に保存のために寄贈している(R. offre, de son vivant, les lettres reçus de Matisse à la Bibliothèque royale de Copenhague pour en assurer la conservation.)。その内容は、Flammarion から出版されている。

ニースに住んでいたマティスは、第二次大戦中、文化的孤立を深め苦しんでいた (M. a certainement soufert, pendant la guerre, de son isolement culturel.)。その中で、彼は自分の進行中の仕事、研究成果、喜び、絶望、消えない疑いなどを R. に打ち分けて(se confier)いた。実際、ほとんど毎日のように、時には一日に数回も(quasiment quotidiennement, voire parfois plusiers fois par jour) R. に手紙を書いており、その数 1,200通くらいになる。それが彼の精神的安定にきわめて重要であったという背景があるようだ。1941年から彼が亡くなる54年までの作品に絞って展示されていた。

この時期、同じテーマをしつこく描いている。木、植物、TABAC ROYALE の文字が入った花瓶、女性、人物像(R. をはじめとして)など。個人的には、ペンで描かれた人物像の伸びやかさが気に入った。R. の肖像は炭で描かれていることが多く、一筋縄ではいかない複雑な人間 R. とその人生を現わすにはペンでは物足りなかったのだろうなどと考えていた。それから絵の具を塗った絵を切り、それを貼ったような絵 (gouache découpée) が多数。JAZZ シリーズ (6月18日のブログに使った絵の本物があった)。La Chapelle de Vence のために黒絵の具(墨のような印象)だけで描かれた習作、Saint Dominique も相当な大作。1950年の2 x 3 m くらいある Zulma や 3 x 8 m は優にあると思われる La Perruche et la Sirène (1952-3年作とされる) も強い印象を残した。

出口の前の壁には、R. に宛てた最後の手紙 (1954年9月19日) が紹介されていた。

「私には不平不満はない。何かうまくいかないことがあれば、満足のいく面を探すようにしている。人はいろいろ考えるだろうが、自分は幸運な人生を送ってきた (J'étais chanceux toute ma vie.)。心配事がなければ退屈してしまう。安定した家族があり、よき友があり、それ以上に何を望むと言うのか (Que peut-on souhaiter de plus.)。もう少し働くが、これまでの訓練のお陰で仕事の質が下がることはないだろう。しかし、謙虚でなければ (Mais il faut être modeste.)。忘れていたが、最近 4 x 3 m の La Gerbe を完成し、Salon de Mai で見ることができるだろう。...」

1953年作を示す HM53 のサインのある La Gerbe は忘れられない作品になりそうだ。

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会場を出た後、ルクセンブルグ公園を散策。先日見た「国境なき記者団のための写真展」が公園の柵の内側にも展示していたので目を通す。遠くから野外演奏会のオーケストラの響きが聞こえるので近寄ってみると、La Sirène de Paris というアマチュアの楽団であった。演奏を終えた trompettiste と言葉を交わす。3時くらいから1時間ずつ4団体が演奏していたらしい。元気のよいその若者は、次は9月に演奏会をやるので是非聞きに来てほしいと言っていた。

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中世美術館から MUSEE CLUNY

2005-06-26 14:29:11 | 展覧会

今日は朝から曇り空、午後からは雨と雷が始まっている。少し涼しくなりそうだ。

昨日は午後から先週とは別の路線のバスに乗り Saint-Germain-des-Prés へ。そこからゆっくり裏路地を歩きながら街並みを楽しむ。Fond d'artichaut (アーティチョークの芯) のサラダを食べ、Musée National du Moyen Âge (Thermes & Hôtel de Cluny) には2時くらいに着く。受付に行くと、今日の4時から中世音楽のコンサートがありますよ、という。そう言えば。来る途中にポスターが出ていた。

入るとすぐに中世音楽が流れている librairie がある。これまでであれば全く興味を示さなかった本で溢れている。一通り目を通す。特に目に付いたのは、ジャンヌダルク関連の本(彼女の人生や裁判記録など)、中世を題材にした小説の類、建築・彫刻・庭園・文字など視覚を楽しませてくれる本、Georges Duby という人が書いた分厚い研究書など。少し驚いたのが、アメリカにいる時によく読んでいてその後フォローしていなかった Ken Follett (Eye of the Needle、The Key to Rebecca、The Man from St. Petersburg、Lie Down with Lions など) が中世イギリスを舞台に小説(The Pillars of the Earth; Les Piliers de la Terra)を書いていたことである。彼のホームページによると、次の小説はこの続編とのこと。時間があれば浸ってみたいものばかり。本を読むために、執筆をするために職を変える人の気持ちがよくわかる気がした。

織物が豊富に飾られていたがよく見ることができなかった。当時の生活が蘇るのだろうが。どこかが欠けたり、全体に角がとれているような彫刻が多く、それゆえにいとしさが湧いてくる。コンサートがあった salle 8 の脇にはそのような彫刻ばかりが多数並べられ、その舞台上には、胸から上が欠けた像ばかり 10 (?何と数えるのだろうか) ほどが置かれていた。

コンサートは、バカンス前最後になるものだった。
harpe ハープ (この奏者は 後ろから空気を送り込む orgue オルガンも弾いていた)、vièles (チェロを思わせる楽器。彼女はマンドリンのようなギターのような音を出す楽器も弾いていた)、ソプラノ、テナー、カウンター・テナー(歌っていない時は打楽器奏者として参加していた)、それに木管奏者(指揮者)の6名。彼は、多種の縦笛、横笛、オーボエ風の楽器動物の角から作った楽器、縦笛につながれた袋に息を吹き込み、袋を左の脇にはさんで空気を腕で押しながら送る、崩れたつぶれたような音を出すバグパイプの原型のような楽器(このような形です)、「コンドルは飛んでいく」で使われている南米の楽器に似た Frestel、ハーディ・ガーディ vielle à roue など実に多様な楽器を演奏し、最後は自分の足も打楽器にして床を大きく叩いていた。

中世の音楽を今回のコンサートから推測すると、全員が全身で音楽に参加しているという一言。歌手は歌っていない時は打楽器をやったり、楽器を弾いている人も一緒に歌ったり、弦楽奏者が打楽器をやったり。現代の音楽が専門化しすぎて、一人の人間ができる範囲が非常に狭くなっていることに改めて気付かされた。悲しい歌あり、喜びに満ちた歌ありで、これまで単調に感じていたこの時代の音楽も少しだけ息をしだしたようだ。

彼らの表情をみていると、指揮者は中世の僧侶のような顔立ちだし、他の人もなぜか現世と距離を置いているようにも感じた。終わってから一人と話をする。楽器はもちろん複製、打楽器などはmaghrébin やトルコの影響のあるものなど、当時の文化の交流を勉強できるので面白いとのこと。現代に中世音楽を演奏する意味は?と聞いてみたが、なかなか難しい問題だが、まず演奏することが第一、それを蘇らせることが第一。それから聞いている人の中に何かが生まれてくるのだろう。そこに意味を見出している、というようなことを熱っぽく語ってくれた。

帰り、Moufftard 地区の散策。Paul Verlaine (1844-1896) の終焉の家が目に入った。1階はレストランになっていたが、その親爺もメランコリックな目をしていた。コスモポリタンな感じがする界隈である。マルシェでは、果物が売られている。1 Kg/ 3ユーロのさくらんぼ。感激。そのカルティエを出てれから道に迷っているうちに古本屋を見つける。中に入ると空調もなく汗が噴き出してくる。この店では落ち着いて本を探すことができた。気になった本が3冊ほどあった。一つは紙も黄色く軽くなっている 40 年代に出たロルカの詩集。30年代の挿絵入りの本で、ページがまだ半分くらい閉じられたままになっているが、開いているところは読みやすそう。それにリルケの手紙で、70年代に出たもの。リルケの本は前回来たときにも買っている。なぜか縁があるようだ。

帰りは、何かの manifestation があり、交通がブロックされていたので歩いて帰らざるを得なかった。そう云えば中世の音楽を聴いている時に大音響のロックが聞こえきて、現代が聞こえてくるなと思っていたが、それは彼らのコンサートだったようだ。

途中、モンパルナス駅の Paul という店で Henri IV というサンドイッチを食べ、横の本屋で沿岸地帯の保護プロジェクトについてのDVD (Le littoral en liberté) が付いた Le Point を買って帰る。日本には付録は送られていないだろう。今朝見てみたが非常にきれいな映像だった。


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エリク・サティー ERIK SATIE

2005-06-25 21:29:18 | MUSIQUE、JAZZ

24日(金)の夜、作曲家エリク・サティー Erik Satie (1866-1925) の手紙を基にした芝居を見に出かけた。

Choses vues (à droite et à gauche et sans lunettes)
(「目に入るもの - 右から左から眼鏡なしで」 というような意味か。彼の曲名から取っているようだ)

案内によると、彼は 1,450通、1,200ページに及ぶ手紙を残している。その手紙からサティーという人間を如何に浮かび上がらせるのかに相当苦労したらしい。彼の手紙は基本的には、しばしば不機嫌 (mauvaise humeur) になる彼の気分を伝えており、考えをまとめてから反応するのではなく (sans esprit de synthèse)、反射的に返事を出すというのが特徴のようだ。

今回の芝居はその手紙を元に、以下の3人が掛け合いをするというもの。
 手紙を読むサティ: Jean-Paul Farré (ダイナミックと言えばよいのだろうか、声量の幅が相当に広かった。)
 手紙の背景の説明をする役者: Bernard Dhéran (la Comédie-Française に30年以上いた後、1989年に退団。この舞台では、サティを少し遠くから愛情を込めて見ているという雰囲気。声は深く渋かった。)
 掛け合いの間に彼の曲の断片を演奏するピアニスト: Michel Runtz (フランスで教育を受けた後スイスに在住。おっとりした感じに見えた)

ピアニストが少し若いくらいで、Farré は50代後半、Dhéran は優に60歳を越えているだろう。語彙が豊富なので、芝居にはなかなかついていけない。まわりではくすくす含み笑いをしたりしているのだが。一番耳に残っているのが、ア(à:手紙のあて先を言うため)、ウー・エス(ES:手紙の最後の署名なので頻繁に出てくる)。その他、ironique、méchant、miséricorde、misanthrope、それから同時代の芸術家の名前が次から次に、Debussy (1862-1918)、Francis Poulenc (1899-1963)、Darius Milhaud (1892-1974)、Vincent d'Indy (1851-1931)、さらにサティーのバレー音楽 「Parade」 の話になり、Picasso、Sergei Diaghilev (1872-1929)と Ballet russe、Jean Cocteau (1889-1963)の名前が出てくるが、その時かその後なのか、コクトーとは余りうまくいかなかったようで、Cocteau et autres salauds (コクトーと他の馬鹿ども)、anti-Cocteau などの言葉が飛び交っていた。最後は亡くなった後に見つかった、若き日に思いを寄せていた女性に宛てた手紙が読まれた(恐らく)後、ピアノ作品、33ème Gymnopédie, pour piano à 4 mains (4手のピアノのためのジムノペディー第33番)が、余暇にはピアノを弾くという Farré 氏も加わってユーモラスに演奏されて終わった。小さな劇場なので役者との距離も近く、フランス語の音を充分に楽しむことができた。

彼自身は、自分のことをこのように捉えていたようだ。
 Né si jeune dans un monde si vieux
 [ 余りにも古い世界に余りにも早く生まれ(てしまっ)た。]

誤解もされていただろう、愛すべき男だったのではないだろうか。

演劇評の中に次の記述がある。
Erik Satie fut le plus sociable des misanthropes, le plus cocasse des dépressifs et le plus épistolaire des musiciens.
[ エリク・サティーは人間嫌いの中で最も社交的で、鬱の中では最も滑稽で、音楽家の中では最も文学的(手紙による)だった。]

Erik Satie qui mord à belles dents dans son époque
[彼の時代に手厳しい批評の手を加えたサティー]

C'est drôle et pathétique, brillant et sombre, cocasse et délirant. Un moment exceptionnel !
[ この劇は面白いと同時に悲愴で、才気煥発かと思えば陰鬱で、滑稽でしかも妄想的。素晴らしいひと時だった。]

そう思えるのはいつの日だろうか。

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週の終わりに A LA FIN DE LA SEMAINE - ANDRE DAMON

2005-06-24 23:43:03 | MUSIQUE、JAZZ

こちらに来て、2週間が経過しようとしている。今週は予定の一仕事を終えたので、ほっとしている。生活のテンポに少し慣れてきているように感じるが、おそらく感じているだけだろう。来週火曜にはパリの南に出かけて、また再来週の月曜はこの近くで仕事のお話をすることになっていて、昨日その案内が送られてきた。その準備もしなければならない。

今日お茶の時間に週末をどうするのかというような話になり、周りの人が日本レストランならこの近くにもあるが、オペラ通り Avenue de l'Opéra にレストランがかたまってあるので行ってみては、と薦めてくれた。また、今日は le premier jour de solde (セール初日)なの、と秘書のSが教えてくれた。お土産を買うのには丁度よい時期のようである。

今夜は、先日見逃したエリク・サティー (ES) を取り上げた芝居を見に出かけたが、とにかく言葉が難しく充分には楽しめなかった。その印象は明日に以降に書いてみたい。ESの方が少し物足りなかったので、近くにあったジャズ・カフェ Le Petit Journal に寄ってみた。今日の出し物はリズム・アンド・ブルースとのこと。飲み物1杯付きで23ユーロ。日本に比べても安いくらいである。中に入ると観光客と思しき団体が目に付いた。余り好みの雰囲気ではない。carpaccio de bœuf au basilic というのを注文したが、今ひとつ。バンドの構成はリードギター、ベースギター、ドラムス、キーボード、ブラス(トランペット、トロンボーン、テナーサックス)、これに歌手が2人。すべて若いがサックスプレーヤーだけが結構年を取っていて、演奏になかなか味を出していた。音楽は時ともにどんどん盛り上がっていって、最後の方には楽しんでいた。

帰ろうとして出口に行くと、何と雨と雷が再び襲っていた。この状態では帰れないので、どうしようか思案しながら近くの椅子に座りなおしていると、サックスの人が出てきたので演奏がよかったので是非写真を撮らせてほしいとお願いしたところ、自分よりもっと重要なやつがいるからと、外の椅子に座っていた小柄だがお腹が出た、穏やかな中に厳しさを秘めているような(人を見極めるような)目をした親爺を連れ出してきて一緒に撮るようにと言う。

店の人に聞くと、その親爺はアンドレ・ダモン (André Damon)。Le Petit Journal のボスであった。彼が書いた本のポスターが貼られてあり、ここに本もあるというので早速本にサインをしてもらうことにした。数日前の本屋での出会いと全く違い、(アルコールの影響だろうか)スーツケースの重量オーバーのことは頭をかすめなかった。本のタイトルは 「プチ・ジュルナルの思い出」(Mémoire du Petit Journal) で、サインにはこう書かれてあった。

J'ai deux amours
Le Jazz et l'Aveyron « mon pays »
Merci de votre amitié
André

私には二つの愛するものがある 
ジャズと私の故郷アヴェイロン 
あなたの友情に感謝        
アンドレ

話を聞いてみると、若い時にアヴェイロンから出てきて苦労して今の成功を収めたようで(本の裏カバーによると、17歳でパリに出てカフェの経営が軌道に乗り出した時悪夢が襲うが、そのときに彼を救ったのが音楽、ジャズとの出会いであったとある)、ジャズそして故郷に対する愛情は本当に強そうに感じた。アヴェイロンから来てカフェをやっている人はパリに多い。また最近では中国人もカフェやタバの10-20%くらいを経営しているのではないかとの話。どこから来たのかと聞くので日本と答えると、南の方の田舎で三ツ星レストランを経営している Michel Bras という人が日本にもを出しているので、行ってみてはどうかと勧められた。彼は料理の正規の教育は受けていない、その意味では autodidacte。ただ母親の料理を見習っただけなのだ、と言っていた。機会があれば味わってみたいものである。話の中ほど、中年の男が寄ってきて、医学生の頃ジャズバンドをやっていて、ここにはよくお世話になりました、ありがとうございます、と懐かしむようにアンドレに話しかけて帰っていった。

話が終わる頃には、雨は小降りになっていた。
今夜は雨がもたらしてくれた出会いであった。

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仕事の発表 - 言葉のニュアンス SEMINAIRE - NUANCES DES MOTS

2005-06-23 20:29:33 | フランス語学習

こちらに来て、訪ねてきた人の話を聞いたり、セクションの週2回のミーティングに出たり、皆さんの仕事振りを見ていて感じていることがある。それは、自分の日本での仕事振りが少し集中力を欠いているのではないか、熱が足りないのではないか、詰めが甘いのではないか、という反省に近いものである。自分の居場所を離れると、日頃の自分がよく見えてくるし、今回のように別の国の、別の人の仕事振りを間近に見るという経験はかけがえのないものになっている。丁度若い頃にアメリカで生活していた時と同じ状況に当たり、すべてをリフレッシュしてくれる(自分の中の空気を入れ替える)。このような経験をすることは、特にある程度の年齢になった人には不可欠なことなのかもしれない。そんな中、今日は自らの仕事を職場で発表(英語で)する日であった。1時間ほど話した後、興味のある人や聞きに来れなかった人と個別に1時間半ほど討論する。

その後、Kが家の庭で取れたさくらんぼを持ってきたので食べないかと勧めてくれたので、それは précieux なものをありがとう、と言ったが通じない。この場合は cher でOK、そうでないと意味がわからないという。秘書のSは言葉の本来持っている意味と違うものを、子供のような好奇心を秘めた目で教えてくれる。précieux は貴重なもの、宝石や絵画などについていうもので、この場合当てはまらない。また、précieux には maniéré 少しお高く留まった (snob) というニュアンスでも使うことがあるという。言葉は難しい。

今日仕事のことで話をした関連で、une interview (= rencontre, contact, rendez-vous) avec qqn intéressante の最後を別の言葉でどう表すかを聞いてみると、fructueuse, instructive, stimulante, satisfaisante など状況にあわせて使えるのではないかとの答え。そこから、Sの真骨頂発揮。ところで intéressé の意味を知っているかと聞くので知らないと答えると、興味をそそられるという意味のほかに、自分のことにしか興味を持たない、お金に渋い (calculé, insatiable, avide, cupide = avide d'argent )というネガティブな意味があるのよ、一つの言葉にしばしば逆の意味(悪意?)が込められている、これがフランス語の面白いところなの、という調子。勉強になった。

その時突如、大雨、雷の嵐 orage である。雷が鳴ると magnifique ! と云う声も聞こえる。Typiquement parisien ? と聞いてみると、長く住んでいる人も C'est rare. とのこと。Tour Montparnasse が完全に見えなくなった。canicule のこの時期、待っていたものが来たというところだろうか。

コメント (4)
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小さな出会い - ブノワ・デュトゥールトゥル BENOIT DUTEURTRE

2005-06-22 22:31:59 | 海外の作家

仕事が終わってこの暑さの中、冷房のない部屋に帰っても大変である。今日はこの界隈の散策に出た。8時少し前、モンパルナス駅の近くの小さい librairie-papetrie を見つけて、中に入ってみる。先日、Le Point で読んだプルーストの幼馴染が書いた本(« Une saison avec Marcel Proust » par René Peter)があるかどうか、店の人に聞いてみた。女主人はウインドウに展示してあった本を取ってくれた。その時、店の中央に置かれた、本が載ったテーブルの前に座っていた男が、プルーストの専門家ですか、と聞いてきた。全くの趣味でいろいろ読んでいるんですと答え、それから話が始まった。彼は、ブノワ・デュトゥールトゥル (Benoît Duteurtre; 1960-) という作家で、自著にサインをして売っているところだったのだ。本のタイトルは、La petite fille et la cigarette という小説である。すぐに買おうとしたが、荷物の重量オーバーのことを思い出し、私の問題は荷物が重いことで恐らく買えないだろうと言うと、100キロもあるんですか、と返してきた。彼は結構本を出していて、その店で目に付いただけでも次のものがある。

Tout doit disparaître
Le voyage en France (この作品で 2001年の Médicis 賞を受賞している)
Gaieté parisienne
Service clientèle
La Rebelle

彼の作品を読んだことがないので何とも言えないが、タイトルを見るだけだと結構面白そうである。日本に帰ってからネット注文で読んでみたい。彼は、非常に気さくで芸術家を気取るところもなく、笑顔を絶やさず親しみやすい。どこから来たのかと聞くので日本と答えると、自分の作品はすでに10カ国ぐらいで訳されているのだが、まだ日本との取引はないと言っていた。一瞬、自分にそれだけの力があれば訳してみるのも面白いかも、との不遜な思いも過ぎった。もし翻訳関係の方がこのブログを読まれていたら、今がチャンスかもしれない。(上の写真はその時に撮ったもの)

帰りにあたりを歩いていて、モンパルナスに劇場がいくつかあるのを見つける。その中のひとつ、Théâtre de la gaîté Monparnasse (何と訳すのだろうか)で私にとっては見覚えのある作曲家エリク・サティー Erik Satie (1866-1925)の眼鏡が描かれているポスターを見つける。受付の人に聞くと、サティーの手記などをもとに語りやピアノ演奏などがある面白い出し物だ、と言って親指を上に上げた。つられて入ろうとしたが、私のカードがここではうまく機能せず、明日以降の楽しみに取って置くことになった。

ちょっと歩くと、何かに当たるというパリの夜であった。

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この2日後、サティーの芝居を観る機会が巡ってきた。
エリク・サティー ERIK SATIE (2005-6-25)

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FETE DE LA MUSIQUE

2005-06-22 07:25:11 | MUSIQUE、JAZZ

連日暑い日が続いている。もう canicule という言葉も囁かれている。パリっ子の同僚も、ここ数年の暑さはこれまでに経験したことのないものだ、と言っている。21日(火曜)は夏至の音楽際 Fête de la musique で、MDによると街中が音楽で埋め尽くされ、狂ったようになるという。昼休みには職場でも1時間のコンサートがあり、ギターアンサンブル、合唱、器楽合奏、ブラジル出身者の踊りや芝居まで楽しませてもらった。皆さん恥ずかしがらずにやっていて、聞いている人も惜しみない拍手をする、出し物によってはブラボーも飛び出す、いい雰囲気のコンサートであった。

夜は近くの教会でコンサートがあることを日曜日に知っていたので出かけた。コンサートの開始時間を1時間間違えたため、すぐ横のバーで食べるものを置いているかと聞くと、ないという。カウンターで飲んでいた人が、食べるところなら近くにあると笑顔で答えてくれる。すぐ横の路地では大音響。準備している若者に今日の夜は何時までやるのかと聞くと、Jusqu'à one or two o'clock との答え。こちらもニコニコである。どうもお祭り気分が溢れているようだ。少し歩くと、以前から気になっていたクレープ屋さんがあったので入る。店はブルトン語で家 la maison という意味があるという Ty Breiz。Élue meilleure crêperie de Paris とのこと。初めてクレープなるものを食べる。シードルと cêpe champignions emmental (茸とチーズ emmental が載っている sarrasin [= blé noir] 蕎麦むぎの crêpe) を注文。その上にさらにバターが載っていた。半分くらいまでは美味しかったが、少し単調な味なのだろうか。最後の方になるとお腹に応えてきた。少し油っぽいという印象。終わってから、café breton というコーヒーにウイスキーを添えたものを試してみた。こちらはなかなか面白い組み合わせだった。

コンサートは、20h30 に始まり 22h45 に終わった。パイプオルガンの伴奏、バイオリン、ソプラノは本職、アルトはシスター(morzartienne モーツアルト研究家?と紹介されていた)、それにコーラスという構成。ソプラノはかなり年配なのだが、深みと輝きのある声を出していた。一曲ずつゆっくりとした口調の紹介があり、3-5分くらいの曲が14-5曲流れた。教会の高いドームの中で聞くとすべて美しく響いていた。Gabriel Fauré (1845-1924) に始まり、Cèsar Franck (1822-1890)、Charles Gounod (1818-1893)、Johann Sebastian Bach (1685-1750)、Gaston Litaize (1909-1991)、Georges Bizet (1838-1875)(L'arlésienne 「アルルの女」の第2組曲 間奏曲 Agnus Dei「アニュスデイ」。この曲だけが唯一聞いたことのある曲だった)、George Frederic Haëndel (1685-1759)、Walfgang Amadeus Mozart (1756-1791)、最後はオルガニストの Cauchefer-Choplin が選んだというスイスの現代作曲家でオルガニストと紹介されていた Guy Bovet のダイナミックな曲で締めくくられた。時間が経つにつれて拍手に熱がこもってきて、声がかかるような瞬間もあった。最後の曲が終わっても拍手が鳴り止まず、アンコールが一曲演奏され散会した。

祭壇の壁にはルオーの目のくっきりしたキリストがあり、その下には次の言葉が。
La nuit même où il fut livré, il prit le pain ....

ルオーのこの絵は先日の展覧会で見た記憶がない。彼の絵を教会で見るとその場に溶け込んでいて違和感が全くない。こういう形でも彼の絵は残っていくのだろう。

演奏会が始まる前に若者二人が老婦人と一緒に来て、私になにやら話しかけている。よくわからないと思ったのか、英語がわかりますか、と言って話し始めた。要するに、そのご婦人に演奏中に喉が渇いたら水を飲ませてやってほしいとのことで、コップ2つを渡された。年齢からいうと丁度私の母親くらいで、顔を見ると何となく似ているようにも感じた。演奏会が終わってから、私は手が震えるのでなかなか大変なの、と言いながら頭を下げていった。

帰り道、飲み物を出す店からは大音量の音楽が流れ、公園からも音楽が聞こえ、街路からは夜遅くまで話し声が絶えなかった。この日ばかりは皆さん騒音にも諦めているのだろう。

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ザッキン美術館 MUSEE ZADKINE

2005-06-21 07:34:20 | 展覧会

日曜の午後、Musée Bourdelle の受付の人に紹介された Musée Zadkine に足を伸ばした。

オシップ・ザッキン (Ossip Zadkine; 1890-1967)

ロシア生まれで、19歳の時パリに来て1941-45年の間アメリカに移るが再びパリに戻って77歳で亡くなった。ブルーデルより若い世代の彫刻家。こじんまりした家が美術館になっていて、庭には木や緑が豊かで、その中に彼の作品が置かれている。全体が美術作品になっている。ブルーデル美術館で感じたよりもより現代的で、誰かの家にいるような錯覚に陥る。こういう家に住んでみたいと思わせるものがある。中に入ると作品はブルーデルの館よりも圧倒的に少ないが、木から形を彫り出すというよりは、木の形を生かしてその形に添うように創作しているような印象を持たせる作品が多かった。

ブルーデルでは写真撮影は禁止であったが、こちらは問題がなかったので、素晴らしい雰囲気を写真に収めてきた。日本に帰ってもその雰囲気を蘇らすことができるように。館内に係員 (写真の方です) が座っていたが、フラッシュがたかれると no frash でお願いしますとの注文を出してきたので、少し話をした。よく聞いてみると、彼はトルコ出身の芸術家でパリにアトリエを持ち、もうすぐバカンスでイスタンブールに帰るという。もし時間があったらその前にアトリエに立ち寄らないかといって彼の顔写真入りの名刺を渡してくれた。今 Centre Pompidou になかなかいい彫刻が展示されているいので行ってみたらどうか、と薦めてくれた。私が、数年前数ヶ月だけトルコ語を勉強したことがあると言うと、急にトルコ語で話し始めたが、いまや全く覚えていない。彼によるとトルコ語はやさしいらしい。いずれ時が来ればまたトルコ語を始めてみたいし、トルコにも行ってみたいなどと考えていた。

すぐ横の建物では Natacha Nisic という人の "Effroi" (= grande peur)というビデオ・インスタレーションをやっていた。田舎の静かな光景を写している。貯水池からカメラが次第に空の方に上がっていく。水と空がテーマなのだろうか。などと考えながら彼女の説明を読んでみると、そこはビルケナウ (Birkenau) の収容所跡地。ほとんど音はしない中、微かな音が耳に付く、さらに近づくとその音が増えてくる。蛙が一匹二匹と目に入ったという。しかし、時間が経ってみると、そこには囚われていた人の骨片もあるのではないかと自問する、そういうビデオだったようだ。

帰り道、仕事場の近くを通ると教会があり、21日(火曜)の Fête de la Musique に開かれる音楽会のポスターを見つける。丁度何かの集まりなのか外で大勢の人が食事をしていたので、牧師さんらしい人にどうしたら聞けるのか尋ねてみた。ただ来るだけでOKとのこと。是非聞きに来てみたいと伝える。彼は私が日本から来たことを知ると、日本文化は本当に素晴らしい(敬意を表しているように感じた)、いつか日本に行ってみたいがなかなか遠くて、と昔の日本人がパリを思うような眼差しで話してくれた。

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ブルーデル美術館 MUSEE BOURDELLE

2005-06-20 22:29:49 | 展覧会

パリに来て1週間が経ち、やや興奮状態で日本にいるときには考えられないくらい歩いているのと、フランス語での生活で疲れが見えてきている。しかし、部屋に閉じこもっていても疲れると思い、日曜も午後から街に出る。

出る前の予定では、先日外から見たMusée Bourdelle (「ブルデル」と聞こえる) で1時間くらい過ごした後、MD から教えられたルクセンブルグ公園美術館でやっているマチス展をじっくり見ようという思惑であった。今日も雲ひとつなく、日差しが強い。歩いて20分くらいで最初の予定地に着いた。受付でどこから来たのですかと聞かれたので Japon と答えると、C'est gratuit ! と嬉しい答え。

Émile Antoine Bourdelle (1861-1929)

中に入ると、人はほとんどいない。美術館を独り占めにしているという感じになる。見始めると骨太で、力強い、どっしりとして、しかも伸びやかな作品が揃っている。しかも外から見て想像していた作品の数をはるかに上回っていて、見ごたえ充分。これで終わりかと思ったら、次の部屋があり、それで終わりかと思いきやさらに下のホールがある。それから2階のテラスの壁にも多数の作品があり、そこから中庭の大きな彫刻が見え、目を上げるとモンパルナスタワーがすぐそこに見える。外から見えた庭のほかに中庭があり、壁一面にレリーフが飾られていて、庭に大きな彫刻が置かれている。中庭から窓越しに廊下に飾られていた作品をまた見ることができる。庭の彫刻もそこに置かれたひとつひとつが作品なのだが、庭全体の景色としても楽しめる。それが自分のいる場所によって全く違った作品となる。庭に面した時代を感じさせる薄暗い部屋は彼のアトリエだったところで、作品が無造作に置かれていた。本当にこれでもか、という具合に目の前に現れるので、音楽の中にいるような錯覚に陥った。美術館を存分に満喫したと表現した方がよいのだろう。どうしてこんなに人が来ないのか不思議で仕方がなかったが、それゆえ得られた悦びでもあった。

ベートーベンのいろいろな像がひとつの部屋に収められていた。
Beethoven aux grands cheveux
B. drapé
B. dit la Pathéthique
B. dit baudelairien
B. accoudé
B. dit métropolitain
 この像には Beethoven の言葉として、次の彫り込みがあった。
 « Moi je suis Bacchus qui pressure pour les hommes le nectar delicieux. »
 (私は人類のために美味しい果汁を搾りだすバッカスである)
B. dans le vent
B. pensif
B. yeux overts
B. Bacchus
Grand masque tragique
 口をへの字に結び、目が溶けて流れ落ちるように描かれている。
この部屋に一人でいるとベートーベンがそこに生きているようで、遠くから交響曲 Eroica の最終章が聞こえたような気がした。
 
彼自身が集めた作品を展示した部屋では、2年前ロダン美術館で見た L'homme qui marche(少し小型)に再会。彼の同時代の画家数人の絵が目に付いた。他には紀元前の石の彫刻は何のこだわりもない微笑みを湛え、14-15世紀の朽ち果てかけている木彫には日本の仏像にも通じる静かな面持ちがあり、なかなかよかった。

下のホールには、詩人 Adam Mickiewiczのためのモニュメント、さらに1870-71年戦争の鎮魂のためのモニュメントがあり、かなり力のこもった作品が多数陳列されていた。例えば、
Guerrier mourant dit Le Romain
Guerrier avec un seul bras
Souffrance (ベートーベンの悲劇的な顔と同じく、目が下に流れ落ちるように表現されている)
Masque de guerrier hurlant
La Guerre ou Têtes hurlants (これはものすごい迫力で、このコーナーに入っていた途端に異様な雰囲気を出していた)

彼の作品はこれまでに日本でも紹介されていて、その時のポスターが展示されていた。西武美術館、群馬県立近代美術館(1976年)、道立旭川美術館開館記念、鎌倉近代美術館、東京都庭園美術館(1987年)、国立西洋美術館(1968年)など。いずれも20-30年前のためか、忘れられているということだろうか。

予定を大幅にオーバーして、たっぷりと3時間楽しむことができた。気分が昂揚していたのか、帰り際に受付の人と話をする。予想を上回る素晴らしい美術館でしたというと、残念ながら余り知られていないようで désert の状態、との返事。彫刻を好きそうだが、この彫刻家を知っているかと言って指差した先にあったのが Zadkine という文字。知らないと答えると、美術館が近くにあるので行ってみたらどうかと言って、100 rue d'Assas を教えてくれた。こちらの印象は明日書いてみたい。

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dimanche 24 juillet 2005 23:29
今日の夜、何気なく本棚を見ていて驚いた。Bourdelle の展覧会が日本でも開かれていたことを上に書いたが、北海道立旭川美術館開館記念「近代彫刻の父 巨匠・ブルーデル展」(1982年7月24日-8月29日)のカタログが出てきた。この時期はまだアメリカにいたので、おそらく帰国後に美術館を訪れた時に買ったものだろう。全く記憶にない。こういう繋がりが見つかってくるのは、自分の過去の動きが蘇ってきて非常に楽しいことである。

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サルトル展

2005-06-20 07:45:24 | 展覧会

18日(土曜日)、午後から国立図書館フランソワ・ミッテランにサルトル展を見に出かけた。MD がバスで移動すれば観光バスに乗らないで済むとのアドバイスでバスに乗る。確かにちょっとした観光をしている気分になる。図書館に着くと荷物検査の後、本屋でざっと目を通す。サルトル関連のものは、雑誌や新聞の特集なども含め揃っている。会場に入ると人が少ない(そういえば仕事場でこの展覧会に行くといっても知っている人はいなかった)。お陰でたっぷりと余裕を持って見ることができる。サルトルに詳しい人であれば、願ってもない環境だろう。今回は大きく6-7つの時代に分けて展示されている。その説明文はほぼ全部読んだので、全体の活動の流れがぼんやりと掴めるようになってきた。

人生の早い時期から、スピノザとスタンダールになりたい (Il voulait être à la fois Spinoza et Stendhal.) という野心を持っていたようだ。シモーヌ・ド・ボーボワールも「彼は哲学と文学を分けたくなかったのだ(Il aimait autant Stendhal que Spinoza et se refusait à séparer la philosophie de la littérature.)」と書いている。彼女との出会いは、一目惚れであっただけでなく、自分と同じものを彼女の中に見たものだったようだ。また、暇な時間に執筆できるので、教師の道を選んだというような記述があった。

展示されていた原稿にも少しだけ目を通す。本への書き込みなどを見ると、細かい字で丁寧に書いてある。今回初めて彼の声を聞いた。10カ所以上に映像とともにインタビューを聞ける場所があり、すべて1回だけ聞いてみた。ノーベル賞を拒否した理由を聞かれて、スキャンダルになったのは残念だ、この賞は他と少しだけ違う(petitという言葉が聞こえた)ということを示すもので、私の場合はそこまで行っていない、というようなことを言っていたのではないかと思う。またスタンダールではなくフローベールのことを話していたが(詳しい内容までは掴めなかった)、後で読んでみると彼はこの作家について3,000ページにも及ぶ本 « L'Idiot de la famille» を書いていることを知る。二人の関係をもう少し知りたくなり、Paul Desalmand « Sartre, Stendhal et la morale» を買う。それともう一冊、簡単にサルトルの生涯と仕事を紹介している André Guigot « Sartre et l'existentialisme» も。

若い時からアメリカ文化に憧れ、漫画や映画(チャップリンなど)、ヘミングウェー、フォークナー(こちらで高く評価されているのだろう、よく出てくる作家である)、ドス・パソス(Dos Pasos "le plus grand érivain de notre temps"と言っている)などの作家、さらにジャズ(小説「La nausée」のひとつのテーマになっている;Some of these days...)などに親しんだ。しかし、その国への入国をベトナム戦争のころか、拒否する。世界の情勢にまさに s'engager し、戦った作家であったようだ。

会場には彼に関係のある芸術家の作品(ジャコメッティなど多数)も展示されていて、広がりのある展覧会であった。最後の方に彼の葬儀の様子が流れていた。訴える力のある人だった証だろうか、モンパルナス墓地までの街中に溢れる人人人。会場の出口に近く、サルトルに関係のある人のインタビューが流れていた(ここでも聞けます)。その中の Libération の編集長 Serge July がサルトル作品で重要なものは(l'œuvre à retenir)?と聞かれて、人それぞれだろうが、私は La nausée と L'être et le néantを挙げたいと言っていた。La nausée は他の二人も上げていた。いずれじっくり読んでみたいものである。

気が付いてみると3時間が経っていた。

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国境なき記者団のための写真展

2005-06-19 09:09:12 | 展覧会

金曜の夜、受け入れてくれたMD夫妻がレストランに招待してくれた。MD の仕事の関係で奥さんの待っているレストランに1時間の遅刻。心配したが何事もなく8時半からアキテーヌ地方のワインを飲みながら、メニューの説明を聞き、アントレ、メイン、デザートのフルコースを選ぶ(今の私にはアントレで充分だといっても聞き入れてもらえなかった)。

彼は以前に日本人と働いたことがあって余り良い印象を持っていなかったようが、日本文化の繊細さ delicatesse、日本料理の素晴らしさ、街の多様性 (例えば、大変な雑踏のところでも小道を少し入ると静かで緑に溢れているところがある) などに触れ、今では当初の印象が変わってきているという。この春にご夫妻が日本を訪ねた時にホテルにあったという屏風が余りに素晴らしいので、なぜここにあるのかと不思議に思いながらも写真に収めてきたという。すぐさま彼のパソコンを取り出し、スライドショーで見せてくれた。最初に出てくるのが画面いっぱいの無数の鳥、それから戦闘場面が物語風に描かれている。確かに素晴らしい。ついでに渋谷の人だかりの音声入りビデオも出てきた。人ごみがパリとは全く違って興味を引いたようだ。

それから話題はフランス語やフランス文学、フランスの歴史、日本文学、バカンス(これは微妙な話題であった。バカンスがあるのか si、いつなのか quand、どこなのか où、どれだけなのか combien de temps がいつも問題なのだ、と不満そうであった。)などの話になり、コースの終わる10時半くらいには外がまさに crépuscule になっていた。窓の外に目をやるとルクセンブルグ公園の周りの柵に写真がライトアップされている。MD に何なのか尋ねると、そこを散策する人のために写真展をやっているという。Mme MD によると以前に見たので印象的だったのは写真集 La Terre vue du ciel が出る前にやった展覧会とのこと。レストランを出て展覧会を見に行く。「Reporters sans frontières (RSF) 創設20年を記念した20人の写真家による展覧会」 (20 photographes pour les 20 ans de Reporters sans frontières)。世界の辺境の姿や状況が悪い中での生の人間の姿が撮られている。ゆっくり歩きながら気になった写真の前で足を止める人がそれぞれの写真の前に数人いる。世界は知らないところだらけだという感慨に浸る。思いもかけない夜となった。

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