フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

10月の記事

2006-10-31 23:58:41 | Weblog
2006-10-31 生誕400年記念レンブラント展 EXPOSITIONS DE REMBRANDT À PARIS
2006-10-30 生きた後、哲学を PRIMUM VIVERE, DEINDE PHILOSOPHARI
2006-10-29 講演会 「死刑廃止」 ROBERT BADINTER-ABOLIR LA PEINE DE MORT
2006-10-28 「今なぜ科学精神なのか」 SUR L'ESPRIT SCIENTIFIQUE
2006-10-27 奇妙なつながり 寺山修司 - 養老孟司  LIEN ENTRE TERAYAMA ET YORO
2006-10-26 コンシュ「生きるとは哲学すること」 VIVRE, C'EST DE PHILOSOPHER
2006-10-25 マルセル・コンシュ 「哲学の意味」 M. CONCHE - LE SENS DE LA PHILO
2006-10-24 シガーあるいは寺山修司 DES BOITES À CIGARES OU SHUJI TERAYAMA
2006-10-23 その翌日は APRES L'EXAMEN
2006-10-22 フランス語試験DALF-C2あるいは寺山修司 DALF-C2 OU SHUJI TERAYAMA
2006-10-21 良寛三句 TROIS HAIKU DE RYÔKAN
2006-10-20 「京都料亭の味わい方」 COMMENT SAVOURER DAVANTAGE RYÔTEI ?
2006-10-19 「パリの思い出」 "SOUVENIRS DE PARIS"
2006-10-18 清岡卓行 「一瞬」 "UN MOMENT" PAR TAKAYUKI KIYO-OKA
2006-10-17 走ってから考える PENSER APRÈS AVOIR FINI
2006-10-16 ハンモック姉妹版 COMMENCER UN NOUVEAU BLOG
2006-10-15 ネット上の友人 DES AMIS SUR INTERNET
2006-10-14 時空を超えたやり取り ÉCHANGE AVEC MOI DU PASSÉ OU FUTUR MOI
2006-10-13 ジャック・ル・ゴフ再び JACQUES LE GOFF (VI)
2006-10-12 ジャック・ル・ゴフ再び JACQUES LE GOFF (V)
2006-10-11 「退屈の小さな哲学」 続 PETITE PHILOSOPHIE DE L'ENNUI (II)
2006-10-10 「退屈の小さな哲学」 PETITE PHILOSOPHIE DE L'ENNUI (I)
2006-10-09 武満徹の声を聞く ÉCOUTER LA VOIX DE TÔRU TAKEMITSU
2006-10-08 マルグリット・デュラスの日記 CAHIERS DE MARGUERITE DURAS 
2006-10-07 フランス語漬けの一日 SUBMERGÉ DE LA LANGUE FRANÇAISE
2006-10-06 北浪良佳再び YOSHIKA KITANAMI ENCORE
2006-10-05 ブリュノ・クレマン 「誤解礼賛」  "À MALENTENDEUR, SALUT !"
2006-10-04 京都の秋 L'AUTOMNE À KYÔTO
2006-10-03 問と答の溝を埋める TROUVER LE FIL LOGIQUE
2006-10-02 「哀しみのダンス」 "DANSE DE TRISTESSE"
2006-10-01 人生を詩的に POÉTISER LA VIE

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生誕400年記念レンブラント展 EXPOSITIONS DE REMBRANDT A PARIS

2006-10-31 22:54:58 | 展覧会

今日届いた Le Point によると、今年生誕400年を迎えたレンブラントの展覧会がパリで開かれている。

レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン
Rembrandt Harmenszoon van Rijn (15 juillet 1606 - 4 octobre 1669)

絵画展はアムステルダムとベルリンに任せて、デッサンや版画を中心にした展覧会が4ヶ所、そのうち来年初めまで見られるものが3ヶ所もある。

ルーブル美術館 Musée de Louvre
「素描画家レンブラント」 "Rembrandt dessinateur" (- 8 janvier 2007)

プティ・パレ Petit Palais
「レンブラント:エッチング」 "Rembrandt, eaux-fortes" (- 14 janvier 2007)

国立図書館リシュリュー Bibliothèque nationale, site Richelieu
「レンブラント.陰影の光り」 "Rembrandt. La lumière de l'ombre" (- 7 janvier 2007)


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生きた後に哲学を PRIMUM VIVERE, DEINDE PHILOSOPHARI

2006-10-30 00:16:31 | 哲学

最近、哲学関連のブログを相次いで始めた。なぜかわからない。そういう気になってきたのである。先日は、私は走った後に考えるタイプだと書いた。そんな折、オリヴィアさんから今日のタイトルとなったラテン語をいただいた。

"Primum vivere, deinde philosophari"
(Vivre d'abord, philosopher ensuite)
「人生経験を経た後に哲学を」

走りながら哲学すること、哲学を生活の糧にすることは若き日に諦めていた。その意味では今まさに哲学する時期に来ているのかもしれない。不思議な巡り合わせである。

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講演会 「死刑廃止」 ROBERT BADINTER-ABOLIR LA PEINE DE MORT

2006-10-29 12:23:05 | 講演会

再び、フランス語による講演会に出かける。テレカンファランスであった。演者は、ロベール・バダンテール Robert Badinter (30 mars 1928 -) さん。1981年9月17日のフランス国会において、当時の法務大臣として 「殺す正義」 "justice qui tue" を痛烈に非難した歴史に残る演説をされた方であることを初めて知る。

その原文: Discours de Robert Badinter à l'Assemblée nationale日本語訳

当時は60%以上が「死刑廃止」に反対していたが、今では大多数が賛成しているという。彼の論拠をしっかりと理解できなかったのは残念だが、キーフレーズとして耳に残ったのは死刑は無益で効果がなく、危険でもある "La peine de mort est inutile (inefficace) et dangereux"。危険というのは特にテロが多発する国でのことが念頭にあるようだ。被害者家族との関係についても最後に語っていたのだが、靄がかかっていた。アムネスティの方のお話では、日本でも死刑賛成が今では多数を占めているという。このような状態でどうしたらよいのかとロベールさんに聞いていたが、世論調査の結果は気にせず、世論の変化を待つことなく、勇気 (le courage を強調していた) を持って進むことが重要だと答えていたようだ。

ロベールさんの話を聞いていて、彼の中でこの問題に対する問いかけがなされ、思索を重ねてきた跡が滲み出ているように感じた。会場ではアムネスティの方が質問をされていたが、自らの中でどのような思索がなされてきたのかをつかむことは私には難しかった。「死刑廃止」 がアプリオリに目の前にある命題で、それを実現するためにはどうしたらよいのかという捉え方をされているように感じた。どのような哲学で 「死刑廃止」 に導かれたのかという点をもう少し深く知りたかった。その点が理解され、納得されなければその実現は難しいように感じた。

最も知りたいと思うことが分かる程度にフランス語を聞けるようになりたいものだ、という思いで帰途についた。

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「今なぜ科学精神なのか」  SUR L'ESPRIT SCIENTIFIQUE

2006-10-28 00:23:41 | 科学、宗教+

これまで感じてはいたのだが、それをどう言ってよいものかよくわからなかった。それはこの国に欠けているように見えるもののなかで、本質に近いと思われるものである。それが私の中でぼんやりと浮かび上がってきた。そのことについて考える場所を新たに設けることにした。

今なぜ科学精神なのか

ここにその軌跡を折に触れて記していきたいと思っている。どこまで行けるのかは全くわからない。

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奇妙なつながり 寺山修司 - 養老孟司  LIEN ENTRE TERAYAMA ET YORO

2006-10-27 22:22:33 | 日本の作家

先日、寺山修司の 「死について」 の言葉 (「寺山修司名言集」) を読んでいて、これはどこかで聞いたことがあるなと思ったものがある。例えば、寺山はこう言っている。

   ------------------------------------------

 「生が終わって死がはじまるのではなく、生が終われば死も終わる。死は生につつまれていて、生と同時にしか実存しない」
                  ―馬敗れて草原あり―

 他者の死は、かならず思い出に変わる。思い出に変わらないのは、自分の死だけである。
                  ―旅路の果て―

 自己の死は数えることができない。それを見ることも、手でふれることもできない。
 だが他者の死は読める。数えられる。手でさわることもできる。それは再現可能の世界なのだ。
                  ―地平線のパロール―

 この世に生と死があるのではなく、死ともう一つの死があるのだということを考えない訳にはいかなかった。死は、もしかしたら、一切の言語化の中に潜んでいるのかも知れないのだと私は思った。
 なぜなら、口に出して語られない限り、「そのものは、死んでいない」 ことになるのだから。
                  ―鉛筆のドラキュラ―

   ------------------------------------------

これを読みながら、先日養老孟司氏が同じようなことをテレビで言っていたのを思い出した。養老氏の読者ではない私の直感で申し訳ないが、寺山のアフォリズムにおける視点の捻りや思い切りのよさと養老氏のものの見方に奇妙に通底するものがあるように感じてくる。養老氏がこれらの寺山の思想を話したとしても全く違和感を感じないのだ。外観が違うので見逃しそうになるが、寺山の文章を読んでいると養老氏は形を変えた寺山ではないかと思われてくる。そんな繋がりを見ている人はいないのだろうか。養老氏の読者に聞いてみたい。

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コンシュ「生きるとは哲学すること」 VIVRE, C'EST DE PHILOSOPHER

2006-10-26 21:29:15 | Marcel Conche

昨日のマルセル・コンシュさんのお話は、ピラール・サンチェス・オロスコ氏から出された13の質問の最初の問に対する答であった。

生きるとは哲学すること
人ははじめは規範とともに集団にいる
哲学者になるためにはまずその集団を離れ、固有の存在にならなければならない
そのためには自らの中にある理性を解き放たなければならない
その力を羽ばたかせなければならない

その上で真理を所有するのではなく、モンテーニュがやったように試み (エッセイ) を続けることこそ哲学なのだ
普遍の (全的な) 真理を求めつづけることこそ哲学することである
ところで、その全とは何を指しているのか
神、自然、宇宙、世界?
これまで多くの哲学者がそれぞれの定義をしてきた

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マルセル・コンシュ 「哲学の意味」 M. CONCHE - LE SENS DE LA PHILO

2006-10-25 23:08:56 | Marcel Conche

先日、マルセル・コンシュさんとのお付き合いを始めることにした。
今日は、彼の "Quelle philosophie pour demain ?" 「明日のための哲学」 の一節を読む。

ピラール・サンチェス・オロスコ氏との問答 (I) 「今日における哲学の意味」

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シガーあるいは寺山修司 DES BOITES A CIGARES OU SHUJI TERAYAMA

2006-10-24 21:13:54 | 俳句、詩

私は時にシガーをやる。特に週末や気分の解放を求めている時などに、その紫煙を眺めながら時間の流れを楽しむ。何気なく室内を見回す。そこにはこれまでに試したシガーボックスが積まれている。今までは背景に収まっていたその箱を見直し、そこにはシガーが詰まっていたことを実感した時、驚いた。その箱は優に天井に達するほどである。

日曜日の 「寺山修司名言集」 の後半に目を通す。

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書物は、価値そのものではなく価値の代替物であるという点で、貨幣に似ている。
       ― 青蛾館 ―

書物のなかに海がある
心はいつも航海をゆるされる
       ― 愛さないの、愛せないの ―

 たとえば書物とは 「印刷物」 ばかりを意味するものではなかった。街自体が、開かれた大書物であり、そこには書きこむべき余白が無限に存在していたのだ。
 かつて、私は 「書を捨てよ、町へ出よう」 と書いたが、それは 「印刷物を捨てよ、そして町という名のべつの書物を読みに出よう」 と書き改められなければならないだろう。
       ― 世界の果てまで連れてって ―

「それは飛ぶためにあるんじゃないよ。
 空は読むためにあるのだ。
 空は知るためにあるのだ。
 空は一冊の本だ」
       ― 「飛びたい」 ―

 僕は、思想的立場からすれば 「デブ」 が好きです。
 今日のように、痩せ細った肉体の持主たちの支配する知的文明というものが、人間をしだいに主知的にし、理性的にして、肉体の素晴らしさから遠ざけてゆくものだと思っているのです。
       ― 負け犬の栄光 ―

大学は死ぬべきだ、と思う。
そして真に 「大学的なるもの」 こそ息をふきかえすべきである。
       ― ぼくが戦場に行くとき ―

 土着と近代化とは、必ずしも対立する概念ではない。
 土着とは、一口に言えば血族の確認であり、親戚をふやしてゆくという思想であり、近代化は混血を進めてゆくことによって、親戚を否定してゆくという思想にほかならない。
    ― 地球をしばらく止めてくれ、ぼくはゆっくり映画を観たい ―

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その翌日は APRES L'EXAMEN

2006-10-23 22:36:39 | フランス語学習

昨日の試験で持てるものを出し切ったせいか虚脱感が漂う
その中に微かにみえる充実感をゆっくりと味わう
外は雨
秋が静かに深まっていく

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フランス語試験DALF-C2あるいは寺山修司 DALF-C2 OU SHUJI TERAYAMA

2006-10-22 20:42:40 | フランス語学習

先日受けることに決めた DALF-C2 が今日あった。今回は他のことに追われていたこともあり、全くの準備無し。これまでに貯まっているものが使えるのかどうかを見るというつもりで出かけた。

会場の教室には、男性8名、女性3名。科学を選んだ人は男性3名。受験者はおそらくこの11名だけではないかと思われる。筆記試験と口答試験があり、9時から3時間半は筆記で、午後1時半から40分間で対談を2回聞き、1時間かけてまとめてから30分間試験官との面接という手順。

筆記の方は、3つの科学雑誌の記事を読んでその共通テーマを探し、その問題に対する3名のアプローチの違いを論じ、最終的に結論を導き出す。200字くらいにそれをまとめる。さらにその問題について科学雑誌に投稿する形で自らの考えを500字にまとめる。今回のテーマは、一言で言うと 「科学とその価値」 になるのだろうか。科学の本質 (ce qui animent la science)、その伝達 (l'enseignement)、科学に内包する単純化 (la simplification, la simplicité) とその問題、科学者の誠実さ (la honnêteté et la morale) などが論じられていた。科学が単に理性の産物というだけではなく、その過程での驚き・感動 (émerveillement) や美を発見する喜びなども語られていて、自らの考えを深める意味でも参考になる視点が提示されていた。

前半の問題はぶっつけ本番で、読み返すところまでは行かなかった。また後半は半分までしか書き上げることができなかったが、その中で何とかまとまりをつけようとしていた。今回は仏仏辞書に限り持込可であったが、精神的に安定するだけで、ない場合とほとんど変わりはなかった。

去年 DALF-C1 を受験した時には、筆記試験だけで完全に参ってしまったが、今回はそれほどではなかった。DELFとDALFとの間には大きな溝があるが、DALF-C1とC2との間の差はそれほどではないということかもしれない。

1時間の昼休みの後、口頭試験に臨んだが、こちらは農業を取り巻く問題について哲学者ともうひとりが語りあっていたようだ。相変わらず、微妙なニュアンスについては掴むことが難しく、最後まで靄がかかったような状態であった。面接は5分ほどで対談の内容をまとめ、それから10分ほどで 「科学の進歩や研究にとってどのようなものが足かせになるのか」 についての私見を述べるというもの。その後、試験官 (今回はフランス人と一対一) とのディスカッションが15分ほど続いたが、その中でも対談の内容を理解していなかったことが明らかになった。 

口答試験終了直後は昨年のような脱力感はなかったが、それからじわじわと疲れが体を包みだした。帰りの本屋では 「寺山修司名言集」 に手が伸びていた。去年のモーツアルトの代わりという感じだろうか。

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 私は何でも 「捨てる」 のが好きである。少年時代には親を捨て、一人で出奔の汽車にのったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。
 旅するのは、いわば風景を 「捨てる」 ことだと思うことがある。 
                     - 競馬無宿 -

 逃げつづける者の故郷は、この世の果てのどこまで行っても、存在しないものなのだ。 
                     - 勇者の故郷 -

 人には 「歴史型」 と 「地理型」 がある。歴史型は一ヶ所に定住して、反復と積みかさねの中で生を検証し、地理型は拠点をかえながら出会いの度数をふやしてゆくことによって生を検証してゆくのであった。
 従来の日本人の魂の鎖国令の中で、春夏秋冬をくりかえす反復性を重んじたが、私はそうした歴史主義を打破して、地理的、対話的に旅をしながら問い、去りながら生成したい、と思ったのである。 
                     - 旅の詩集 -

 人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ 
                     - ロング・グッドバイ -

 男の一生は、いわばその父を複製化することにほかならない。 
                     - 黄金時代 -

 出会いに期待する心とは、いわば幸福をさがす心のことだ。 
                     - 幸福論 -

 見てきた風景を捨てて、新しい風景をつくるために、
 二人は旅にでかける。
 二人の 「故郷」 を見出すために、いくつかの野を越えて、
 風をわたってゆく。    
                     - さよならの城 -

 成ろう成ろうとしながら、まだ言語になっていないものだけが、ぼくを変える。
                     - 地獄篇 -

 「見るという行為は、人間を部分的存在にしてしまう。
  もし、世界の全体を見ようとしたら目をとじなければ駄目だ」
                     - 青蛾館 -

 貧しい想像力の持ち主は貧しい世界の終わりを持ち、豊かな想像力の持ち主は豊かな世界の終わりを持つだろう。
 世界はまず、人たちの想像力の中で亡びる。そしてそれを防ぐためには、政治的手段など何の役にも立たないのである。
                     - 地平線のパロール -
-----------------------------------

小さな出来事があると、前 avant と後 après がはっきりと現れる。その間に何かが変わっているのが見える。そう気付く時、時の流れに触れることができているような錯覚に陥る。

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良寛三句 TROIS HAIKU DE RYOKAN

2006-10-21 22:21:56 | 俳句、詩

今日は、良寛 (1758-1831) の俳句を三句。


 「ぬす人に
   取り殘されし
      窓の月」

  Le voleur parti
   n'a oublié qu'une chose --
     la lune à la fenêtre


   「柿もぎの
     きん玉寒し
       秋の風」

    Cueuillant des kakis
     mes boules dorées saisies
       par le vent d'automne


       「ゆくあきの
         あはれを誰に
           かたらまし」

        L'automne prend fin --
         à qui pourrais-je confier
           ma mélancolie ?

       ("Haïku de Ryôkan", traduit par Joan Titus-Carmel)


明日はDALFの試験。朝の9時から4時頃まで予定されている。今回は、準備もしていなければ、気分的な盛り上がりもない。

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「京都料亭の味わい方」 COMMENT SAVOURER DAVANTAGE RYOO-TEI ?

2006-10-20 22:32:56 | 

遠出の電車の中で村田吉弘氏の 「京都料亭の味わい方」 を読む。京言葉によるお話を聞くという感じが心地よく、3時間ほどで読み切ってしまう。

著者は、京都で割烹 「露庵」 と料亭 「菊乃井」、赤坂で料亭 「菊乃井」 を経営している料理人。読んでいて、日本の伝統的な家族、商売のあり方の原型を見るような思いがして、落ち着いた気分にさせられた。それからいくつかお勉強することもできた。

まず、「割烹」 と 「料亭」 の違い。一言で言うと、「動」 の 「割烹」、「静」 の 「料亭」 ということになる。
「割烹」 では、カウンター越しに、料理人が刺身をひいたり、魚を焼いたりするさまを逐次、目で追いながら、時には料理人たちと会話をしながら、活気のある雰囲気の中で食事ができる。
一方、「料亭」 では、建物の構えや庭の佇まい、床の間の掛け軸や置物など調度品の贅沢さ、生けてある花の風情、女将の挨拶や立ち居振舞いなど、すべての要素を複合的に楽しめる。著者は 「大人のアミューズメントパーク」 と言っている。その料亭では、「格」 を大切になり、それを理解するのが客のマナーとも。マナーを守れない人が増えているということか。

「懐石」 とは、文字通り 「懐の石」 という意味で、その昔、修行中のお坊さんが空腹を忍ぶために温めた石を懐に入れていたことが語源だという。そこから、空腹を凌ぐための軽食に意味が転じた。現代の懐石料理の形式は千利休が確立したもので、本来は茶席で亭主が客に出す食事のこと。濃茶は時に空腹では強すぎることがあるので、それを和らげるために小腹を満たすのがその役割。著者によると、懐石は海外にも浸透していて、フランス語の "kaiseki cuisine" の説明など言い回しが詩的で気恥ずかしくなるほどだというので、ウィキを覗いてみた。気恥ずかしいところまでは行っていないように見えるが、。

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La cuisine kaiseki est normalement strictement végétarienne, mais de nos jours, le poisson et d'autres mets peuvent être occasionnellement servis.

懐石料理は、普通は厳密にはベジタリアンであるが、現在では魚や他の料理も時には出される。

Dans le kaiseki, ne sont utilisés que des ingrédients frais de la saison, préparés de manière à mettre en valeur leurs goûts et leurs odeurs. Une précaution exquise est prise dans la sélection des ingrédients et des types de nourriture. Les plats sont magnifiquement arrangés et garnis, souvent avec de vraies feuilles et de vraies fleurs, si bien que certains plats ressemblent à des plantes naturelles ou à des animaux. L'aspect esthétique est tout aussi important que la nourriture lors du kaiseki.

懐石では、味や匂いを生かした方法で調理された季節の新鮮な材料しか使われない。素材と食事の様式の選択に細心の注意が払われる。料理はしばしば本物の葉や花が用いられ、見事に準備され、皿に盛り付けられるため、自然の植物や動物と見紛うほどである。懐石料理においては、美的要素が栄養と同じくらい重要なのである。

Les mets sont servis en petites quantités dans des plats individuels et le repas est mangé en étant assis en position de seiza. Chaque repas possède son petit plateau. Les personnes très importantes ont leur propre table basse ou plusieurs petites tables.

料理は別々の皿で少しずつ出され、正座をしていただく。それぞれの食事は小さなお盆に出される。その場の重要人物には相応の食台か、いくつかの小さな食台が用意される。
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著者は、実際に慶尚 (キヨサン) 南道にある尼寺で食事をし、余りに京料理に似ているので驚いている。京料理のルーツを韓国に見ている所以だ。その昔、京文化 (友禅、西陣織、陶芸など) をつくったのは帰化人なので、彼らが料理人を一緒に連れてきても何ら不思議ではなく、むしろ自然だったのではないかと考えている。

それから大阪と京都の出汁の取り方が違う。
京都では14世紀ごろ、北国船で利尻昆布が、また大阪へはその後の北前船で羅臼昆布が入っていた。羅臼昆布は濃厚で香りが高く、出汁の色が濃い。旨味もあるが、臭みやぬめりが出るので一晩水につける。それから水に入れ、ぐらっときたらすぐに火を止め、ちょっと分厚く削った、血合いを削り落としていない本節を入れる。一方、京都の利尻昆布は沸点までもっていってから火を止め、血合い抜きで薄く削った鰹節を入れるという違いがある。ところで、東京のものは日高昆布を使い、ぐらぐらと炊いた後、大阪よりもさらに分厚く削った血合い入りを入れるという。

村田氏が東京に店を出そうとして売りに出されている料亭を見て回り、政治家を、しかも政治家だけを相手にしていたと思われる料亭に入った時の驚きが語られている。料亭の本来の仕事を忘れてしまったその姿は 「席貸家」 に堕してしまったお寒いものである。初心を忘れるとこういうことになるのか、と思い知らされる。

若い時には 「食は食のみに完結すべし」 と気負っていたのが、時が経つと 「食は食のみに完結せず」 と悟るに至った村田氏。客に喜びを与えることこそ、その仕事であり、時には自分にご褒美をあげようと思う人たちが来れるような値段でなければならないと考えている。いずれそう思う時がくれば、訪れてみたいものだと思わせてくれる語り口であった。

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「パリの思い出」 "SOUVENIRS DE PARIS"

2006-10-19 23:49:03 | 講演会

IFJで2人の写真家を囲む会があった。

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「ヴァレリー・ヴェイル Valérie Weil &フィリップ・シャンセル Philippe Chancel を囲んで」

パリを始め、ロンドン、ニューヨークの、肩の凝らない旅行話のように、ショーウィンドウや普通のお店を通して、詩的散策へと誘う。リポーターが様々な事実を集めるように、彼女もそうすることでドキュメンタリー写真とコンセプチュアルアート、それぞれの伝統を取り入れた都市空間の写真を撮り続けている。抽象的な風景と型破りなルポルタージュの狭間で、それぞれの都市と分かる美術館や観光名所に、大都市の魂が通う訳ではないことを Souvenir シリーズは思い起こさせる。エド・ルシャとジョルジュ・ペレック同様、ヴァレリー・ヴェイルはどんなテーマであれ、どんな物であれ、芸術に値しないものはないと主張する。見ることや驚くことのできる力を持つことが大事なのだ。
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この案内にある最後の二つの文章は原文では以下のようになっている。

"Sur la piste de Ed Ruscha et de Georges Perec, Valérie Weil affirme qu'aucun sujet, aucun objet n'est indigne de l'art. Il faut garder cette capacité à regarder et à se laisser étonner."

ここのところは、最近私の中で起こっていることと繋がるのですぐに反応した。何気ないもの (このブログにも出しているように、ショーウィンドウに飾られているものも含まれている) の中にも美を見出すことができるようになっている。極言すると存在そのものが美しいということに気付き始めたと言えるかもしれない。そこまでの徹底した視線があるのか、どのような切っ掛けで今のような仕事をするようになったのかなどついて、ヴァレリーさんの考えを聞いてみたくなり出かけた。

実際には、世界の大都市のショーウィンドウの中にあるもの(la nature morte 静物と言っていた) に美を見出し、撮りつづけている。それぞれのものの位置関係、錯覚を呼び起こすようなイメージ、語りかけるようなイメージ、反復するもの・イメージなどに興味を持っているようである。彼女の写真が会場に展示されているが、私の目から見ると対象そのものがすでに美しく見えるものであった。彼女が引用していたペレックの言葉 (私の耳に聞こえたところによると) 「慣れ親しんでいるものを調べ (見) 直し、それを再構成して美・真実を見つけることが重要である」 には全く同感であった。

今年、彼女の写真集 「東京の思い出」 "Vitrine (Souvenirs?) de Tokyo" が出るという。また同席していたフィリップさんの北朝鮮の写真集 "DPRK" はフランスでは今日発売されたとのお話であった。

(version française)

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清岡卓行 「一瞬」 "UN MOMENT" PAR TAKAYUKI KIYO-OKA

2006-10-18 00:56:20 | 俳句、詩

最近、ある人のちょっとした言葉や詩の一節に反応する自分を認めることがある。その時、そこに自分のどこかと繋がっている何かを見、真実に繋がる糸口があるという予感を感じている自分を確認する。ただそれはほんの一瞬の出来事で、意識しないとあっという間に跡形もなく消え去ってしまう。その瞬間を捉えることの大切さに気付き始めている。そんなことを考えている時、今年のはじめ仙台に寄った時に目に入った詩集のことを思い出した。

清岡卓行 「一瞬

  それが美
  であると意識するまえの
  かすかな驚(おのの)きが好きだ。

帯に見たこの言葉の中の 「おののき」 に気が付いたということだろうか。それを捉えること、逃がさないことが何かを生み出すかもしれない、そう信じてでもいるかのようである。


この詩集の中に 「失われた一行」 がある。

  夢のなかに浮かんだ すてきな
  花ではなく
  笛でもなく
  詩の一行。

  もどかしくも午前八時
  やがて十時。

と、時間が経つもその一行は現れず。そして秋の庭を眺める。秋の空に浮かぶ雲を眺める。そして偶然プラスチックの洗濯ばさみを見つける。その洗濯ばさみが消えた一行に導いてくれそうになるが、ならず。さらにガラス戸をあけるとミモザの木が眼に入る。半年前の春の雪で折れたその木の記憶をたどる。そうしているうちに再びあの一行に辿り着きそうになるが、その奇跡は起こらなかった。

著者70歳代の作である。

「胡桃の実」 という詩では、嗜好の変化を歌っている。

  胡桃割りで割った胡桃の固い殻のなかの
  やや柔らかで豊かな中味が
  七十代に入っての嗜好品になろうとは!

  [・・・]
  胡桃の中味を総入歯で噛みくだき噛みしめるとき
  過ぎ去った七十年の
  いろいろな嗜好の記憶がよみがえり
  それらの甘辛いカクテルの気配に眼を閉じる


十代半ばでは音楽を聴きながらの紅茶
二十代始めには白乾児 (パイカル)
三十代末はタバコ
四十代には胃酸過多に対する脱脂粉乳 (スキムミルク)
五十代は緑茶
六十代半ばから赤葡萄酒 (ヴァン・ルージュ)
がお供だったという。

そんなことを思い返すときなど来るのだろうか。

コメント (2)
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