フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

大岡昇平 「スコットランドの鷗」 MOUETTE DE L'ECOSSE

2007-07-06 23:53:44 | 日本の作家

このところ古本200円シリーズに縁がある。今日は、大岡昇平著 「スコットランドの鷗」 に行き当たった。神田の三月書房から昭和52年 (1975年) 12月に出ている。千円也。神田の、と断ったのは、同名の会社が京都や福岡にもあるらしいので。三月書房のHPによると絶版。

この本は小型で手に取った感じがよく、かわいらしい。最近では見かけないサイズだ。これもまた箱入り。丁度 「レイテ戦記」 を書いていた時期に一致しているようで、その話がよく出てくる。例えば、1967年2月の 「冬にいて夏を思う」 はこのように始っている。

 「何年か暖かい冬が続いた。どうやら地球全体が暖かくなっているのではないか、北極の氷も薄くなって来ているそうだ。なんていっているうちに、今年は厳しい寒さが来た。」

もう40年も前から温暖化のうわさ話は出ていたらしい。私の記憶にはないが、、。その冬にあって、レイテの夏を思って書いていたようだ。また、「六十三、四の正月」 (1972年1月) には、次のような話が綴られている。

この前年10月に 「レイテ戦記」 が出版され、毎日芸術賞を授かった。さらに11月には芸術院会員に推薦されたが、辞退した。その理由として、先の戦争で捕虜になったことが一つ。さらに、死んだ戦友に申し訳ないと思って生きた来た。ここまで生きてきたことだけでも充分なのに、国から名誉と年金などもらうことはできないということらしい。これは国との縁を切ることであると認識している。老後の不安定な生活を周りの人が気遣っての配慮ではないかと推測しつつも、一兵卒として戦地で死と向かい合ってきた経験が根にあるようだ。安らかな死など求めず、死ぬまで働き、苦しみ続けて死にたいと締めくくっている。

若き日の特別な経験が、後に決定的な影響を及ぼすこともあるのだろう。今回の私の道も、ひょっとすると20代のアメリカでの経験が何らかの作用をしていなかったとは言えないような気もしていた。また、日付入りのエッセイを読みながら、これは今で言えば推敲されたブログに当たるのではないか、などと考えていた。

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漱石の手紙 LETTRES DE NATSUME SOSEKI

2007-02-23 00:13:07 | 日本の作家

今日は、昨日取り上げた内容の訂正になる。芥川龍之介から久米正雄に送られた手紙として紹介したものは、夏目漱石からこの2人に出されたものであった。kounit 様のコメントがなければ、気付かずに過ぎてしまっていた。改めてkounit 様に感謝したい。

もう20年程前になるのでその番組のことは覚えていないのだが、昨日要約された手紙を取り巻く状況は以下のようになる。芥川は大正5年 (1916年) 2月に短編 「鼻」 を発表する。その夏2人は千葉の一の宮に滞在するが、そこに漱石から問題の手紙が送られてくる。少し長くなるが、引用してみたい。

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 あなたがたから端書がきたから奮発して此手紙を上げます。僕は不相変 (あいかわらず) 「明暗」 を午前中書いてゐます。心持は苦痛、快楽、器械的、此三つを兼ねてゐます。存外涼しいのが仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日まえから午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。・・・・勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなつてください。然し無暗にあせつては不可 (いけ) ません。たゞ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。文壇にもつと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思ひます。是は両君とも御同感だらうと思ひます。/今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでせう。/私はこんな長い手紙をたゞ書くのです。永い日が何時迄もつゞいて何うしても日が暮れないといふ証拠に書くのです。さういふ心持の中に入ってゐる自分を君等に紹介する為に書くのです。夫からさういふ心持でゐる事を自分で味わつて見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の声で埋まつてゐます。以上

  八月二十一日
 久米正雄様
 芥川龍之介様


 返事をもらった漱石は、この三日後にまた手紙を書く。その中に、「牛になることはどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです」 とあり、次のように続いている。

 あせつては不可せん。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知つてゐますが、花火の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後から出て来ます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。/是から湯に入ります。

  八月二十四日
 芥川龍之介様
 久米正雄様
 君方が避暑中もう手紙を上げないかも知れません。君方も返事の事は気にしないでも構ひません。

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 読んでいると漱石の細やかな心配りが見える。この話に私が反応したのは、おそらく自分への戒めとして捉えようとしたのではないかと想像している。

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芥川の手紙 UNE LETTRE DE RYUNOSUKE AKUTAGAWA

2007-02-22 00:47:41 | 日本の作家

先の休みに20年ほど前のノートをめくっていて、NHKテレビで夏目漱石の評伝を見た後に残していたメモを発見。予想もしないものが出てくると、当時確かに生きていた、何らかの精神活動をしていたことを確認でき、頭の中に力が漲ってくる。それは、芥川龍之介 (1892年3月1日 - 1927年7月24日) が久米正雄 (1891年11月23日 - 1952年3月1日) に宛てて書いた次のような言葉であった。

「世の中は、根気よくやる人には頭を下げるが、華やかなことは一瞬のうちに頭から去っていく。人はみな馬になろうとするが、牛になれ。そうして、死ぬまで押し続けるのだ。何を押し続けるかと言えば、それは他にはない、他人ではない。それは自分の中にある何か本質的なものなのだ。」

芥川はやはり自身を馬であると感じていたのかという思いが湧いたのか、自ら馬になろうとしている心を戒めようとでも思って控えた言葉であったのか。メモを見た時は驚いたが、その時のことが微かに浮かび上がってきている。


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(22 février 2007)
この記事について、kounit 様からここで取り上げた言葉は漱石のものではないかというコメントがありました (コメント欄をご覧下さい)。さっそく調べてみたところ、ご指摘通り、漱石から芥川と久米に送られた手紙であることが判明しました。記事にある手紙の要約を読み直してみると、相当思い入れの強そうな書き方をしていますので、その言葉に集中し過ぎて周りを見落としていたのかもしれません。このような誤りが随所に転がっている可能性がありますので、お気付きの点がありましたらコメントの方をよろしくお願いいたします。

kounit 様、ご指摘ありがとうございました。訂正版を明日出すことにします。これに懲りずに今後ともよろしくお願いいたします。

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「あの人に会いたい」 JE VOUDRAIS REVOIR CETTE PERSONNE

2006-12-10 00:19:27 | 日本の作家

土曜の朝、NHKテレビをつける。「あの人に会いたい」 という番組が流れていた。調べてみると、2年ほど前に始まっているので、今までにも見ている可能性がある。それにしても、このタイトルをじっくり反芻すると心が締め付けられるようだ。

その日の会いたい人は野上弥生子 (1885年5月6日 - 1985年3月30日)。99歳まで活動をつづけた彼女は、最後まで自らを作家ということに躊躇していた。彼女の人生は、作家とは何かを問い続けたものと言えるだろう。そして、誰にも頼ることなく書くのが作家であるという結論に至ったようだ。この結論を人間が生きることに置き換えてみると、私にはそれが一つの理想にも思えてくる。

この番組が終わってネットをサーフしている時、彼女の最高傑作について松岡正剛氏が書いているエッセイ 「秀吉と利休」 に突き当たった。

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小川洋子 「ブラフマンの埋葬」 "L'ENTERREMENT DE BRAFFMAN"

2006-11-06 00:01:35 | 日本の作家

何を思ったのか、小説でも読んでみようという気になった。手に取ったのは小川洋子著 「ブラフマンの埋葬」。書き込みには次のようにある。

samedi 19 juin 2004, après avoir lu un atricle sur Ogawa dans le mensuel "LIRE" à l'IFJ

もう2年以上前にフランスの読書雑誌 LIRE で紹介記事を見て買ったもののようだ。読むまでは日本に来た (あるいは住んでいる) 外国人が出てくる話だと思っていた。

舞台はどこかの田舎にある「創作者の家」 という芸術家を自称する人がひと夏を過ごすところで、その家の管理人をしている主人公の 「僕」 がある日、後にブラフマンと名づけられる犬と出会い、それからの彼 (ブラフマンのことを 「僕」 はそう呼んでいる) との生活がその町の人や 「家」 に集まってくる人たちと同じ視線で淡々と描かれている。特に、「僕」 とブラフマンとのやりとりがたまらなくよいのである。例えば、

「僕はブラフマンの目を見て話した。トイレの訓練に限らず、いつでもそうだ。僕が話しだすと、必ず彼は僕の目を見た。疑いも持たず、うんざりもせず、あまりにも澄んでいるので本当にそこにあるのか心配になってくるほどの瞳を、こちらに向けてきた。かつて誰かにこんなふうにただひたすら、見つめられたことがあっただろうかと、思い出そうとしてみたが、思い出せなかった。」 

先日読んだマブソン青眼さんの日記にあった句を思い出す。

  「犬ときに 人のまなざし 夜の秋」   青眼
 
    Parfois mon chien
      un regard humain
        l'automne de la nuit 

     (traduit en français par paul-ailleurs)

「僕」 が骨董屋で見つけた家族写真についてのシーンも印象に残った。

「家族の写真だった。両親と子供が三人。上二人の男の子が十四歳と十歳くらい、妹はまだ幼くて三、四歳だろうか。夫婦の結婚記念日か、誰かの誕生日か、とにかく特別な日に、写真館で撮影されたものらしい。皆おめかししている。
(・・・)
 五人は皆、死んでしまったのだと僕は思う。最後に飾られていたのは誰の部屋だったのだろうか。たぶん、三人の子供の誰かだろう。きっとその家の一番大事な場所に、飾られていたに違いない。
 彼らが皆いなくなってしまった、という想像は、思いの外僕を悲しくさせなかった。むしろ安らかな気持ちにさせた。家族が一人ずつ旅立ってゆく。残された者は、死者となったものの姿を、写真の中で慈しむ。そこでは死者と生者の区別もない。やがて少しずつ残される者の数が減ってゆき、とうとう最後には誰一人いなくなる。まるでそういう家族など、最初からどこにもいなかったのだというように、あとにはただ無言の写真だけが残される。・・・・その静けさが、僕に安らかさを与えてくれる。」

そして彼はある秋の日にあっけなく死んでしまう。ひと夏のものがたりである。犬の生態が事細かに描かれていて観察に相当の時間を費やしたのではないかと想像させる。この物語を読みながら、中学の頃家で飼っていたチャーリーと名づけた犬のことが再び蘇っていた。


フランス人のファンが多いと聞くが、それがわかるような気がしてきた。

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奇妙なつながり 寺山修司 - 養老孟司  LIEN ENTRE TERAYAMA ET YORO

2006-10-27 22:22:33 | 日本の作家

先日、寺山修司の 「死について」 の言葉 (「寺山修司名言集」) を読んでいて、これはどこかで聞いたことがあるなと思ったものがある。例えば、寺山はこう言っている。

   ------------------------------------------

 「生が終わって死がはじまるのではなく、生が終われば死も終わる。死は生につつまれていて、生と同時にしか実存しない」
                  ―馬敗れて草原あり―

 他者の死は、かならず思い出に変わる。思い出に変わらないのは、自分の死だけである。
                  ―旅路の果て―

 自己の死は数えることができない。それを見ることも、手でふれることもできない。
 だが他者の死は読める。数えられる。手でさわることもできる。それは再現可能の世界なのだ。
                  ―地平線のパロール―

 この世に生と死があるのではなく、死ともう一つの死があるのだということを考えない訳にはいかなかった。死は、もしかしたら、一切の言語化の中に潜んでいるのかも知れないのだと私は思った。
 なぜなら、口に出して語られない限り、「そのものは、死んでいない」 ことになるのだから。
                  ―鉛筆のドラキュラ―

   ------------------------------------------

これを読みながら、先日養老孟司氏が同じようなことをテレビで言っていたのを思い出した。養老氏の読者ではない私の直感で申し訳ないが、寺山のアフォリズムにおける視点の捻りや思い切りのよさと養老氏のものの見方に奇妙に通底するものがあるように感じてくる。養老氏がこれらの寺山の思想を話したとしても全く違和感を感じないのだ。外観が違うので見逃しそうになるが、寺山の文章を読んでいると養老氏は形を変えた寺山ではないかと思われてくる。そんな繋がりを見ている人はいないのだろうか。養老氏の読者に聞いてみたい。

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「いまなぜ青山二郎なのか」 POURQUOI JIRO AOYAMA MAINTENANT ?

2006-09-24 21:14:05 | 日本の作家

昨日の新聞で、プライスコレクションの若冲展が京都で始まったことを知る。東京では見ることができなかったので、「京近美」 こと国立京都近代美術館へ向かうためバス停まで行ったところ、長蛇の列。それを見ると疲れを押し戻すだけの力は残っていなかった。また昨日の余韻を楽しんでおこうと考えたこともあり、今回は諦めて帰ることにした。

新幹線に乗り込むとタバコの煙がむんむんと立ち込めている。禁煙席を買ったはずだが、どうしたことだろう。一瞬戸惑ったが、またやってしまったことに気づく。切符売り場が混んでいたため自動販売機で買ったのだが、そこで禁煙と喫煙を確かめずに何気なく選んでいたのだ。これで2回目になる。徐々に何かが進行しているようだ。3時間余り、たっぷりと passive smoking をしながら白洲正子の 「いまなぜ青山二郎なのか」 を読んで帰ってきた。

この本では、骨董、装幀、絵 (個人的には好みではなかったが)、文章をものした青山の人となりを、彼が付き合っていたいろいろな人とのやり取りを通して語っている。彼の4人の奥さん、小林秀雄 (との友情と破綻)、河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平、今日出海、野々上慶一などなど。その中から印象に残ったところを抜き出してみたい。

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 銘柄にとらわれず、外観に惑わされず、本物の中の本物を発掘するのが青山二郎が志したことである。「創造」 といったのはそういう意味で、一旦悟得すれば万事に通ずる眼を持つことであったから、命を賭けることも辞さなかったに違いない。

 「絵から何かを感じとることと、絵が見えるということとは違う。」 絵を見るのには修練が要る。では、眼を鍛えるにはどうすればいいか。「私の場合、それは目を頭から切り離すことだと思う。批評家に借りた眼鏡を捨てて・・・自分の裸の眼を使うこと。考えずに見ることに徹すること」 ― これは青山さんの持論でもあった。

 もちろん知識はあるに越したことはないが、ものを見るときは忘れなくてはいけない。すべてを捨ててかからねばならない。ジィちゃん (青山のことを白洲はこう呼んでいる) のいう 「感じ」 なんてものはとうの昔に私は卒業していたが、「感じ」 から 「物」 が見えるところへ移るまでに、たとえば此岸から彼岸へ渡るほどの飛躍が要る。・・・人間にとって、目玉だけになることがいかに難しいか、ジィちゃんが教えてくれたのはそういうことであった。

 何事につけてジィちゃんは 「意味深長」 という言葉を嫌っていた。精神は尊重したが、「精神的」 なものは認めなかった。意味も、精神も、すべて形に現れる、現れなければそんなものは空な言葉にすぎないと信じていたからだ。

 文章というのはおかしなもので、自分で書く場合はむろんのこと、人のを写しても、ただ漠然と読むのよりよく理解できるものである。私の頭がにぶいのかも知れないが、昔の人たちは肉筆で書写することによって、文章の裏側にあるものまで読みとったのではあるまいか。

「ぜいたくな心を清算する (はぶく) 要はない。ぜいたくに磨きを掛けなければいけないのだ。」

 ジィちゃんは畸人でも変人でもなかったが、卓越した人間であったことは確かである。生きることに命を掛けた、といってはおかしいが、その日その日が真剣勝負であり、そんな素振りを見せることさえ恥辱としたといえようか。「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」 と、小林さんはいつもいっていた。
  「天才は寧ろ努力を発明する。凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るといふ事が屡々起こるのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌ふからだといふ事にならう。」
 これは小林さんの 「モオツァルト」 の一節であるが、そのまま青山二郎の生きかたに通ずる。

 この時、ジィちゃんはまたしても小林さんといっしょに大仁と湯河原に滞在し、「富岡鉄斎」 を書いた。今、それについて述べている暇はないが、「大雅の及ぶべからざる所は、その画を描くつもりがなかったと云ふところにある」 と語った鉄斎の言葉が耳に残っている。別言すれば、それは 「余技」 であったということで、「余技」 にこそ人間の真実があるとジィちゃんは信じていた。州之内徹さんが、「装幀もする青山二郎」 といみじくも評したように、文章も書く、絵も描く青山二郎であり、彼の人生そのものが余技であった。

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この中で、赤瀬川原平の 「千利休」 (岩波新書) が面白いと書いてある。「いずれ」 のリストに入れておきたい。

今回、古代ギリシャの 「劇場」 に向かう人を気取り、場所を変えて観察しようという魂胆で京都に足を伸ばしたが、いろいろとよい刺激を受けたようである。

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「悪魔のささやき」 を聞く ECOUTER LE MURMURE DU DIABLE

2006-08-29 00:19:08 | 日本の作家

昨日は歯医者に行く前に時間があったので本屋に入り、加賀乙彦氏の 「悪魔のささやき」 を読む。口述によるもののせいか、読みやすい。加賀氏の憂国と警告の書で、遺言としても読めた。

日本の病理のもとにあるものについて考察している。斜め読みで恐縮だが、結局のところは、「個」 が確立していない、自分の頭で考えようとしない、したがって流されてしまう、そのことが日本人の過ちの一番の要因ではないかと分析し、それを改めるのが如何に難しいかについても指摘している。その点はまったく同感。そうなってしまった歴史的背景についても触れている。

まず第一に、1400年来の 「和を以って貴しとなす。忤(さから)うことなきを宗とす」 精神がある。それから温暖なモンスーン型気候で食物に恵まれているため、生存のための争をする必要がなかったので温厚な性格が育まれてきた。また灌漑水田稲作をするためには個人や家単位では無理で、周辺の人たちの協力が不可欠であった。それに追い討ちをかけたのが徳川三百年にわたる固定化した身分制度の中での平和な生活で、これによって日本人は完全に骨抜きにされてしまったと見ている。  

そういう人たちの集合なので、いつでも一色に染まりやすい。第二次大戦直後の人々のあっけらかんとした変わり身の早さは、われわれが如何に自分の考えとして深めることがなく、どんな色にでも染まり得る存在であるのかを物語っている。同様の感触を大学紛争の時、オウム真理教事件の若者たちを見る時などにも味わっているという。

それと本当の危機の時にほとんどの知識人といわれる人、マスコミが役に立たなかったことを指摘しているが、その実例は滑稽でさえある。これまでも書いてきたが、今威勢良く語っている人たちがある日突然まったく逆のことを言い出さないとも限らないという不信感を常に抱かせる。今のマスコミのどこかに権力に媚を売るようなところがあるように感じるのは私だけだろうか。マスコミこそ最も厳しく 「個」 を確立しなければならないはずなのだが、、。しかしそれを見ているわれわれの方にもその原因がありそうだ。結局すべては自分のところに返ってくる。

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萩原朔太郎-画・金井田英津子 「猫町」 LA VILLE DES CHATS

2006-08-22 21:44:23 | 日本の作家

青森で空港に向かう前に本屋に入り、この本に出会う。すぐ横の喫茶に入り読み始め、青森を出る頃には読み終える。

猫町 HAGIWARA Sakutarō, "La ville des chats" roman en forme de poème en prose

「散文詩的なロマン」 との副題がある。冒頭にショーペンハウエルの引用が出ている。

蠅を叩きつぶしたところで、
 蠅の 「物そのもの」 は死にはしない。
  単に蠅の現象をつぶしたばかりだ。

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私は旅に対して昔感じたようなわくわくするような気持ち (ロマン) を感じなくなっていた。それはこれまでの経験から、旅とは 「同一空間における同一事物の移動」 に過ぎないことを悟ってしまったからだ。別のところに行っても、そこにあるのは同じ人間が同じような景色の中で同じような人生を歩んでいることを見てしまったから。それで私は drogue に頼るようになるが、健康を害してやめる。医者の言葉に従って散歩を始める。

私はいつも同じ道を歩いていたが、その日は違う道に入り、道を間違えてしまう。そして自分がどこにいるのかわからなくなる不思議な感覚を味わう。私が北陸に逗留した時に散策に出て、完全に道に迷ってしまった。その時に、同じような、しかしもっと驚くべき経験をする。あるところに迷い込んだ時に猫で溢れた町を見ることになる。まるで異次元の世界に迷い込むように・・・そこから覚めてみるとあたりは以前のままの静かな町なのである。どちらが本当の姿か、猫町など存在するのか。

 「しかし宇宙の間には、人間の知らない数々の秘密がある。ホレーシオが言うように、理智は何事をも知りはしない。理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だからすべての哲学者は、彼等の窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜を脱いでいる。詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実存なのだ。」
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そんなお話である。理と不知・信との対立、「狐に化かされる」 と言われるような経験がテーマになっているかのようだ。私もよく散歩に出て、同じような経験をする。家からほんの10分くらいのところでさえ。視点が変わると現実と思っていたものが全く違った様相を呈してくる。不思議の世界である。

そう言えば先日の深夜、ある哲学者が、戦後のある時期から 「狐に化かされる」 という話を聞かなくなってきたが、その原因についてラジオで話をしていた。夢の中だったので結論はほとんど覚えていないが、おもしろいことを考えている人がいるなと思ったことは覚えている。

青森で 「猫町」 を読むと何の違和感もなく私の中に入ってきた。今東京に戻ってみると、理の世界が私の周りをがっちりと包んでいることを感じる。もはや、このお話が入り込む隙間もないかのようである。

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エグザイルとして生きる VIVRE COMME EXILE

2006-08-10 23:54:04 | 日本の作家

新聞広告にあった 「異言語に身を晒す」 というタイトルに惹かれ、雑誌 「世界」 をほとんど学生時代以来だろう、久しぶりに手に取る。このタイトルの記事は、リービ英雄と大江健三郎の対談である。 

フランス語を始めた時にその中に浸り切ろうと考えていた。言葉を変えればフランス語に身を晒すと言ってもよいだろう。リービ英雄はこの 「晒す」 という言葉が好きだという。外国語を知ろうとしたら、おそらくこれしかないのだろう。しかもまず晒し、晒した後に考えるようだ。この点には私も同調する。リービは、ある外国語の世界に入ると他の言葉は受け付けなくなると言い、大江はそういう経験はなく、常に日本語が底を支えていると言う。私はどちらかと言うとリービに近い。異空間に身を委ねてしまうのだ。それがなんとも心地よく感じるようになって久しい。日本人ではこのタイプは少ないというのがリービの観察だ。

その稀な例が、ドイツ在住の多和田葉子さんだという。名前は知っているが読んだことはない。彼女は言語的に故郷を失った人間として、エグザイルとして文学をやっていると大江は見ている。一旦国の外に出て、その外側の世界の中心ではなく周縁にいて観察し書く。そこに新しい批評性と創造性が生まれる芽がある。

大江が 「戦後最大の作家」 と評する安部公房は、侵略者の子供として中国で育ち、そこで見たものを自分の風景と勘違いする。そして自分の国に帰って見て大きなズレを自覚することになる。それは彼が決して日本に帰っていなかったことを意味しているし、そのつもりもなかったと見ている。そのギャップが芸術を生み出すインスピレーションの源泉になっている。北海道でエグザイル化した人間として榎本武揚を、また世界全体からエグザイルした 「箱男」 を描いている。彼のデビュー作 「終わりし道の標べに」 では自分の言葉が通用しない恐ろしさを書いているという。いずれ読んでみたい。

人の中にあるシステム、例えばわれわれの免疫を司る細胞はその幼弱な時期に育った環境を自分の環境とみなしてしまうということを読んだことがある。若い時に出会ったものを自分の属するところのものと錯覚するのはごく自然なことかもしれない。

翻って自らを眺めてみると、ひょっとするとこれまでエグザイルとして生きてきたのではないのか、そんな思いが過ぎる。そして今、学生時代に読んだ死亡記事が蘇ってきている。その人の名前は思い出さない。漱石の弟子であったかもしれないが確かではない。その人は日本にいる時は活躍していたが、外国に永く生活した後日本に帰ってからはほとんど表に出ることなくひっそりと暮らしたというような内容だったと思う。昔からそういう生活に共振するものがあったかのようである。

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リービ英雄については、以前にも触れている。
「千々にくだけて」 が呼び覚ましてくれたもの (16 mai 2005)
何語で生きるのか? (24 juillet 2005)

 
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早川良一郎 「さみしいネコ」 ESSAI "LE CHAT SOLITAIRE"

2006-07-17 17:30:23 | 日本の作家

昨日は、根津、千駄木のあたりをのんびりと歩きながら、土地に根を張りながら生活をしている人たちの日常を観察する。それから根津神社へ。歩いて御茶ノ水あたりまで出る。近くの本屋に入り今日のお題の 「さみしいネコ」 に手が伸びる。作者の早川良一郎という人は初めてなので普通は手にすることはないのだが、おそらく定年前後の日常から広がる話題がテーマになっていることと、池内紀氏の解説に惹かれたことが大きかったのではないか。50代から書き始め、最初は自家出版で199部。それがその筋の人の目に留まり、日本エッセイスト・クラブ賞をもらう。さらに60代にもう一冊書いているという。その経歴にも興味が湧いたことともあっただろう。

早速、近くのカフェでページを捲ると余りにもすんなり入ってくるので驚きながら読み進む。それから日比谷公園のカフェで、八丁堀の居酒屋で、、、ページを捲る。

この方、平凡なサラリーマン生活での観察から、周りの人々の中にある微妙な心の襞を淡々と共感を持ちながら語っている。これは落語に出てくる長屋生活の感覚ではないかと思わせるものもある。子供の頃、親爺の本棚にあった大人向けの随筆 (今題名は思い出さないが) の感触を思い出すところもある。当時の仕事盛りの日本人の生活感覚が滲み出ているようにも感じる。肩が凝らない、もっと言うと肩の力が抜けるエッセイである。

奥さんや娘さんとのやり取りも面白い。パイプをやられたようで、葉巻の話も出てくる。私もたまにやるのでついつい引き込まれる。犬のチョビとの生活も心が和む。チョビの話を読みながら、中学の頃家で犬を飼っていたことを思い出していた。おそらくテリアの系統で、チャーリーを名づけていた。その頃どんな関係だったのか今となってははっきりしないが、チャーリーが死んで庭に穴を掘って埋めた時には、何とも悲しい気持ちになったことが思い出される。そう言えば、学校に入る前には家でニワトリを飼っていて、朝その卵を食べていたことも記憶の中から甦ってきた。それにしても親はどういう考えでニワトリなど飼っていたのだろうか。近いうちに聞いて見たいものである(注)。

(注):このニワトリについて母親に確かめる機会があったが、知り合いの方から贈られたものとのこと。最後は卵を産まなくなって・・・と話していた(25 septembre 2008)。


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「さみしいネコ」 紹介文より

 早川良一郎は麻布生まれの麻布育ち。旧制麻布中学三年のとき父親を説得してロンドンに留学。日本大学仏文科卒後、経団連事務局に定年まで勤める。がむしゃらに働き出世街道をかけのぼるのではなく、坦々とサラリーマン人生を全うした人物である。
 群れることを好まず、党派や派閥などといっさい縁がなく、ひっそりと人と世の中をながめていた。他人へのいたわり、私的なことの領域に対するつつしみ、こまやかな神経が通っていて、しかも少しも窮屈ではない。こういう人こそ本当の教養人といえるだろう。

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一日休みが増えるだけで、これほど有効に休むことができるということを今まで知らなかった。精神衛生にもよい影響を及ぼすような予感がする。新たな発見になった。

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「全ての人は過ぎて行く」から QUELQUES MOTS DE S. NAKAMURA

2006-05-12 00:17:10 | 日本の作家

先日触れた中村真一郎 「全ての人は過ぎて行く」 の前半からいくつか。

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考えてみると、私は書物においても、ある一冊の本に傾倒するというより、できるだけ広く読み漁るという態度を一生つづけて来て、私を知ること深い加藤周一は、そうした私を花から花へ蜜を求めて飛ぶ蝶にたとえて揶揄してやまないが、人生上の師においても、次つぎと広い範囲の年長者から、それぞれの富を譲り受けて、一歩ずつ成長して来たのだった。

もし私に永井荷風や正宗白鳥のような恒産があったなら、自分の書いたものを広く売って、無理解な世間の眼にさらすような勇気はなく、「屋根裏の詩人」として、生涯に本当に気に入った少数の作品を念入りに作って小部数刷り、親しい友人にだけ配って読んでもらうというのが、本来の気質に忠実な生き方だった筈である。

・・・中学の先生方の中で、ただひとりはじめから人生を降りた隠者がいて、その先生の教訓は志の衰えた時に、何度も私の記憶に甦った。
 それは英語の石田先生で、病弱だった先生は、ある時、自分で焼いた皿を教壇で出して見せた。その面にはウィリアム・ブレイクの「蝿」という短詩が記されていた。
 訳すと、「それなら私は/一匹のしあわせな蝿だ/生きていようと/死んでいようと」という人生への諦念に満ちた句で、先生は、その注釈として、「人生は出世したり、闘争したりするためのものではなく、一生を魂の平和を求めて生きるためにあるのだ」と言った。

しかし、私の子供らしい、裏表のない、出世欲というようなものも皆無で、人に取り入ろうというような処世術も知らない世間知らずの性格は、先生(渡辺一夫)を安心させているようで、驚くほど内密なスキャンダルに類する人間関係についての情報を、いきなり私の耳に入れて鬱憤晴らしをすることが再三だった。

(作家になるための条件について、芹沢光治良は)
「毎日、きちんと三枚、原稿が書けるなら、作家になりたまえ。それができなければやめたまえ」という、非常に実用的な忠言を与えてくれた。

(横光利一は)
・・・むしろ文壇の先頭に立ってこそ、才能を開花させることができる、ただし、文壇のなかに埋没してしまっては保守的な作家となり、前衛性を維持できないので、「片足を文壇に、片足を外に踏んばっていたまえ。現にぼくはそうやっている」と、魅力のある微笑と共に説得してくれた。

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「全ての人は過ぎて行く」 "TOUS LES GENS SE PASSENT"

2006-05-09 22:59:15 | 日本の作家

本日の散策時に、中村真一郎の 「全ての人は過ぎて行く」 (水声社) に近づく。はじめて読む人であるが、人生の越し方を語っているこの本を少しだけ読み始めるとよく入ってくる。初めてとは思えない。夜、仕事に使っているコンピュータのデータ処理がうまくできなくなり、業者の人に調べてもらっている間の3時間ほど読み進む。

最初にある 「私の履歴書」 の敗戦のあたりまで読み終える。母親を知らず、子供の頃から父親とも離れて暮らしていた。あずけられ育ったのでいろいろな人と気軽に付き合うことができるようになったようで、多くの先生、先輩、後輩と積極的に出会い、多くのことを学んでいる。田舎から東京に出てきて、都会の教養に追いつくのに苦労したと書かれているが、私の目から見れば相当に早熟な幼年・青年期を過ごしている。

昭和初期の作家の逸話や著者が仏文出身なのでフランス関連の話もたくさん出てきて興味が尽きない。

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中沢新一 「芸術人類学」  "ANTHROPOLOGIE ARTISTIQUE"

2006-04-11 23:12:27 | 日本の作家

先週のこと。快晴の春の日の午後、近くまで歩く。いつもと違う道を通り帰ろうとしたところ、馴染みの本屋が現れたので中に入る。その日は中沢新一氏の不思議なタイトルの本 「芸術人類学」 を手に取り、最後の章 「友愛の歴史学のために」 を摘み読み。実家の玄関正面に 「友愛」 と書かれた織物がある (以前は居間に置かれていたもの)。そのことが頭を掠めたのだろうか。

「共同体」、「農業」 という社会の中心 (権力) から離れた (あるいはそこから排除された) 場所に囚われない、権力の外にある 「組合」、「職人」、「非農業」 の世界を対比させてこの世界を語っている。よく問題になる農村と都市との関係にも通じる。

さらに読んでみると、このブログでも取り上げたこととの繋がりも見つかる。例えば、網野善彦氏が「非農業」 という新しい概念を発見したことについて、

「たんなる実証的な研究を越えた、ある種の抽象力がなければなりません。『非農業』 という概念は、たんに職人についての実証研究を積み重ねていけば、自然にあらわれてくるようなものではないのだ」 と強調している。

創造的な発見は、ある研究を地道に積み上げていっても出てこない。そのためにはビジョン、幻を見る能力が必要になるという指摘は、アインシュタインの言葉とも繋がる。

「概念と観察の間には橋渡しできないほどの溝があります。観察結果をつなぎ合わせることだけで、概念を作り出すことができると考えるのは全くの間違いです。
 あらゆる概念的なものは構成されたものであり、論理的方法によって直接的な経験から導き出すことはできません。つまり、私たちは原則として、世界を記述する時に基礎とする基本概念をも、全く自由に選べるのです。」

まず、そのことに気づくのが大変なこと、その上でそれを実現させるとなるとやはり何かが要求される。

また、はっきりとは掴むことはできないが確かにそこにあるようなもの、論理を超えた著者の言うところの 「女性的な」 ものの中にこそ新しい学問の芽が宿っているのではないか、と言う。おそらくそうだろう。しかし普通の人は科学的に扱えないものとして無視するか切り捨てて生きている。以前、似たようなことを森鴎外の小説 「かのように」 でも取り上げられていることに触れたことがある。本質的なこと、根源的なことをさておいて、われわれは生きているということに気付かずにはいられない。

最初の章 「芸術人類学とは何か」 では、共同体を成り立たせる論理的な思考とそれとは別に明らかにわれわれの心の中にある 「野生の沃野」、「流動する心」 とでも言うべき芸術や宗教を生み出す動きを統合しなければならない、という思いを語っている。時代が進んでいくと前者が優位になり、野生の部分を抑えつけていかなければならなくなる。今それにより戻しをかけなければならないのではないか、という提言にも聞こえる。「バイロジック」 で存在している人間の本来の姿を意識する必要があるということだろうか。私の場合、どこかに論理を超えた野生の匂いを感じる人には魅力を感じる性向があるようだ。

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お昼の散策で柴田宵曲 SHOKYOKU SHIBATA

2006-01-23 19:54:10 | 日本の作家

今日は非常に寒かった。お昼の散策で柴田宵曲の文庫本を手に入れた。宵曲については以前に触れたように、面白い人生を送った人だと思っていたが、彼の文庫本を置いている本屋さんがなかなか見つからなかった。真面目に探していたわけでもないが、今日それにありついた。

随筆集 団扇の画
新編 俳諧博物誌
評伝 正岡子規

今は読める状況にないので、そのうちにということになりそうだ。

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