昨日の新聞で、プライスコレクションの若冲展が京都で始まったことを知る。東京では見ることができなかったので、「京近美」 こと国立京都近代美術館へ向かうためバス停まで行ったところ、長蛇の列。それを見ると疲れを押し戻すだけの力は残っていなかった。また昨日の余韻を楽しんでおこうと考えたこともあり、今回は諦めて帰ることにした。
新幹線に乗り込むとタバコの煙がむんむんと立ち込めている。禁煙席を買ったはずだが、どうしたことだろう。一瞬戸惑ったが、またやってしまったことに気づく。切符売り場が混んでいたため自動販売機で買ったのだが、そこで禁煙と喫煙を確かめずに何気なく選んでいたのだ。これで2回目になる。徐々に何かが進行しているようだ。3時間余り、たっぷりと passive smoking をしながら白洲正子の 「
いまなぜ青山二郎なのか」 を読んで帰ってきた。
この本では、骨董、装幀、絵 (個人的には好みではなかったが)、文章をものした青山の人となりを、彼が付き合っていたいろいろな人とのやり取りを通して語っている。彼の4人の奥さん、小林秀雄 (との友情と破綻)、河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平、今日出海、
野々上慶一などなど。その中から印象に残ったところを抜き出してみたい。
--------------------------------------
銘柄にとらわれず、外観に惑わされず、本物の中の本物を発掘するのが青山二郎が志したことである。「創造」 といったのはそういう意味で、一旦悟得すれば万事に通ずる眼を持つことであったから、命を賭けることも辞さなかったに違いない。
「絵から何かを感じとることと、絵が見えるということとは違う。」 絵を見るのには修練が要る。では、眼を鍛えるにはどうすればいいか。「私の場合、それは目を頭から切り離すことだと思う。批評家に借りた眼鏡を捨てて・・・自分の裸の眼を使うこと。考えずに見ることに徹すること」 ― これは青山さんの持論でもあった。
もちろん知識はあるに越したことはないが、ものを見るときは忘れなくてはいけない。すべてを捨ててかからねばならない。ジィちゃん (青山のことを白洲はこう呼んでいる) のいう 「感じ」 なんてものはとうの昔に私は卒業していたが、「感じ」 から 「物」 が見えるところへ移るまでに、たとえば此岸から彼岸へ渡るほどの飛躍が要る。・・・人間にとって、目玉だけになることがいかに難しいか、ジィちゃんが教えてくれたのはそういうことであった。
何事につけてジィちゃんは 「意味深長」 という言葉を嫌っていた。精神は尊重したが、「精神的」 なものは認めなかった。意味も、精神も、すべて形に現れる、現れなければそんなものは空な言葉にすぎないと信じていたからだ。
文章というのはおかしなもので、自分で書く場合はむろんのこと、人のを写しても、ただ漠然と読むのよりよく理解できるものである。私の頭がにぶいのかも知れないが、昔の人たちは肉筆で書写することによって、文章の裏側にあるものまで読みとったのではあるまいか。
「ぜいたくな心を清算する (はぶく) 要はない。ぜいたくに磨きを掛けなければいけないのだ。」
ジィちゃんは畸人でも変人でもなかったが、卓越した人間であったことは確かである。生きることに命を掛けた、といってはおかしいが、その日その日が真剣勝負であり、そんな素振りを見せることさえ恥辱としたといえようか。「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」 と、小林さんはいつもいっていた。
「天才は寧ろ努力を発明する。凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るといふ事が屡々起こるのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌ふからだといふ事にならう。」
これは小林さんの 「モオツァルト」 の一節であるが、そのまま青山二郎の生きかたに通ずる。
この時、ジィちゃんはまたしても小林さんといっしょに大仁と湯河原に滞在し、「富岡鉄斎」 を書いた。今、それについて述べている暇はないが、「大雅の及ぶべからざる所は、その画を描くつもりがなかったと云ふところにある」 と語った鉄斎の言葉が耳に残っている。別言すれば、それは 「余技」 であったということで、「余技」 にこそ人間の真実があるとジィちゃんは信じていた。州之内徹さんが、「装幀もする青山二郎」 といみじくも評したように、文章も書く、絵も描く青山二郎であり、彼の人生そのものが余技であった。
--------------------------------------
この中で、赤瀬川原平の 「
千利休」 (岩波新書) が面白いと書いてある。「いずれ」 のリストに入れておきたい。
今回、
古代ギリシャの 「劇場」 に向かう人を気取り、場所を変えて観察しようという魂胆で京都に足を伸ばしたが、いろいろとよい刺激を受けたようである。