フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

ハイデッガーの二つの顔 (III) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER

2006-07-11 22:15:14 | Heidegger

これまで述べてきたハイデッガーの明るい面と暗い面の関係はどう考えたらよいのだろうか。彼は暴力と死の教義を唱えたナチそのものだとするエマニュエル・フェイ Emmanuel Faye のインタビューと、彼は不等に非難されているとするハイデッガーの擁護者フランソワ・フェディエ François Fédier の著作からの引用が Le Point には掲載されている。

両者の主張を聞いてみると、同様の状況は日本でも見られる。フェイによると、ハイデッガーはガス室についてはほとんど語っていない。強制収容所についてにおわすような発言をする時もユダヤ人という言葉は一切使わない。歴史的真実を否定する彼の態度は、修正主義 révisionnisme の父といってもよい。その流れから全否定主義者 négationniste も出てきている。これからは、彼の思想 heideggérianisme を否定するのではなく、彼の作品を批判的に読むこと、その中にある哲学と哲学ではないところをはっきり区別することが重要になると結んでいる。

フェディエの話は、ポイントとなる 1942-44年におけるハイデッガーの直接の証人 になる Walter Biemel の証言を元に構成されている。例えば、ハイデッガーは、フライブルグ大学でナチ式の挨拶をせずに講義をした唯一の教授であった。「ナチズムの信奉」 "Adhésion de Heidegger au nazisme" という場合、ユダヤ人虐殺、下等人種の奴隷化、将来のための優秀人種の選択を意味しているはずだが、彼がこの犯罪的なイデオロギーに同意しただろうか。彼が学長の時には、ユダヤ人を中傷するビラを禁止したり、ユダヤ人やマルクス主義者の著作の焚書 autodafé を禁止している。これらの事実は、彼が学長として求められている責任をしっかりと理解していたと考えた方がよいのではないか。彼は1934年2月に辞意を表明し、4月27日に承認されている。

ハイデッガーの中でどういうことが起こっていたのか。それを知ることは彼の100巻を超えるとも言われる全集は勿論だが、それよりもむしろまだ手が加えられていない未発表の生の声や彼との接触のあった証人の声に耳を傾ける方がより示唆に富む情報が得られるのかもしれない。ただ、ハイデッガー・アーカイブスはどんな研究者にも開かれていないようだ。

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体制に阿る学者はどこの世界にもおり、自らの中にその要素を否定することは難しい。進んでお抱え学者の道を選ぶ者もいるのがこの世である。しかし彼らの軽さは目を覆うばかりだ。問題は身を委ねるところが、心の底からの信念と一致したものであるのか、自らそこに寄り添おうとしたのか、あるいはそこに巻き込まれたものなのかということだろう。

彼の生きた時代にどれだけの人が体制に異を唱えていたのだろうか、私は知らない。最近の東アジアの情勢を見ていると、一瞬にして空気が変わりうる瞬間がある。緊急事態にあるとして、それまでの積み重ねなどあっという間に吹き飛んでしまってもおかしくないと思わせる瞬間がある。本当に微妙なことで大きく変わるのではないか、と思わせることがある。呑気な状態での正義を気取る発言をしている言論人の真価が問われるのは、話すことが憚られる状況でそれができるかどうかだろう。言論人を見る時、そこまでの気骨が本当にあるのかどうかを一つの基準にして見極めることにしている。頼りになりそうな人はそれほど多くないというのが今の印象である。

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ハイデッガーの二つの顔 (II) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER (II)

2006-07-10 20:59:20 | Heidegger
           (1933年11月11日、上の写真でX印がハイデッガー)

正式な見解では、同僚に推 (押) されて1933年4月21日にフライブルグ大学学長を引き受け、翌34年4月23日に辞めたが、その後10年以上もの間このことを恥じていたことになっている。しかしいろいろな文書を見ていくと、全く違った真実が浮かび上がってくる。暗い側面 (face sombre) が見えてくる。

1910年 (21歳)、アルゲマイネ・ルントシャウ Allgemeine Rundschau に発表した最初の論文にはすでに反自由主義 antilibéralisme、反ユダヤ主義 antisémitisme の傾向が見られる。この論文で、アブラハム・ア・サンクタ・クララ Abraham a Sancta Clara (2 juillet 1644 - 1 décembre 1709) という強烈なナショナリズムとユダヤ人虐殺を唱えたことで知られている説教師を褒め称えている。これが若さゆえのことでなかったことは、1964年 (75歳) になってからもユダヤ人とトルコ人を激しく非難したこの説教師を 「われわれの人生における師」 と見なしていた。

1916年10月18日 (27歳)、彼の妻エルフリード Elfride に 「われわれの文化、大学がユダヤ化されることは実に恐ろしいことで、ドイツ人種が頂点を極めるためには内的な力をしっかりと見つけ出さなければならないと思う」 と書き送っている。

"L'enjuivement [Verjudung] de notre culture et des universités est en effet effrayant et je pense que la race allemande [die deutsche Rasse] devrait trouver sufffisamment de forces intérieurs pour parvenir au sommet."

1918年10月17日 (29歳)、「これまで以上に緊急に総統が必要であると認識している」 と妻に打ち明けている。

"Je reconnais, de manière toujours plus pressante, la nécessité de Führers."

1920年8月12日 (30歳)、「すべてがユダヤ人と彼らに便乗する人達によって占領されている」 と結論している。

"Tout est submergé par les juifs et les profiteurs."

1932年 (43歳) には、息子のヘルマン Hermann が最近認めたところによると、ナチ党に投票している。フライブルグ大学学長の職を退いたのは、ナチに対する抵抗から辞めさせられたのではなく、ナチ内部の意見対立の結果だった。彼の 「学長演説」 "Discours du rectorat" はナチズムの古典となり、反ユダヤ主義の学生団体によってしばしば引用され、1943年だけで100万部以上出回っている。また同年、紙不足の真っ只中にもかかわらず、彼の作品が政府承認のもとに印刷されている。この哲学者がナチによって迫いやられたと誰が信用するだろうか?

"A qui ferait-on croire que ce philosophe fut persécuté par les nazis ?"

大戦後は連合国により教職から追放されるが、1951年には復権した。しかし彼は一度たりともナチズムを弾劾したことはなく、ユダヤ人虐殺についてもはっきりとした態度を表明していない。

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ハイデッガーの二つの顔 (I) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER (I)

2006-07-09 13:26:14 | Heidegger
       Martin Heidegger (26 septembre 1889 - 26 mai 1976)

先週届いた Le Point の文化欄に、ハイデッガーとナチとの関係について特集が組まれている。ハイデッガーの死後30年ということと上級教員資格試験 (agrégation) に彼の哲学が初めて取り上げられたことが関係しているらしい。ハイデッガーを知らずして高校の哲学教師にはなれないということになる。

私も先日ハイデッガーを味わうために生まれてきたとのご宣託をいただき、最近彼の 「ヒューマニズムについて」 を暇を見て齧っているので、初めての言葉に溢れている6ページの記事を読んでみることにした。

ハイデッガーのナチ問題については、1987年にヴィクトル・ファリアス Victor Farias が出した "Heidegger et le nazisme" (Verdier) により再燃し、例えば、ジャック・デリダ Jacques Derrida などの発言や ユーゴ・オット Hugo Ott "Martin Heidegger. Éléments pour une biographie" (Payot, 1990)、エマニュエル・フェイ Emmanuel Faye "Heidegger, l'introduction du nazisme dans la philosophie" (Albin Michel, 2005) などに対し、フランソワ・フェディエ François Fédier を中心とした激しい敵意に満ちたカウンターアタック "une virulente contre-attaque" (今年の4月には "Heidegger à plus forte raison" が出ている) が続いているという。

南ドイツのカトリックの村に樽職人 (tonnelier) の息子として生まれる。その生まれからか、彼は終生土地にしっかりと根ざした人間としてあることを望み、根無し草として世界に生きること ("cosmopolite"、"déraciné") を拒否した。彼にとって資本主義の論理は異質なものとしてあり、自然を技術で加工していくことの先に見えるものを予見し、犯罪的な破壊であると見ていた。

初めは神学を勉強していたが、20歳の時に哲学に転向する。しばらくは目立ったこともなかったが、37歳の時に発表した "Sein und Zeit" ("Etre et Temps" 「存在と時間」) で一躍有名になる (Le retentissement est immédiat.)。それは古代ギリシャのプラトン、アリストテレスの時代からある問題だが長い間忘れられていた 「存在の意味 le sens de l'être」 に光を当てたからである。彼はすでに存在するいろいろなものの属性について問うのではなく、「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」 という問題について考察を加えた。そこに彼の真価があった。また理性の支配する領域に詩的な語り口を求める。そのためフライブルグ大学でも人気が出て、ハンナ・アーレント Hannah Arendt、エマニュエル・レヴィナス Emmanuel Levinas などの優秀な学生が集まった。

1960年代から80年代までは、彼とナチとの関係についてはほとんど話題にならなかった。ここまでは彼の明るい顔 (face claire) になる。

コメント (4)
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