フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

アイスランドの景色を見て EN REGARDANT LE PAYSAGE D'ICELAND

2007-05-06 00:00:32 | 

数日前のニュースでアイスランドの景色を見ている時、ある記憶が蘇ってきた。アイスランドには行ったことはない。ただ大学院在学中に父親のお供 (通訳という理由付け) で世界を回ったことがある。初めての海外であったせいか、非常に興奮していたことを覚えている。訪れる国々で旅行者としてではなく、あたかもそこの住人であるかのような振舞い方をしていた。精神的に。その時にこの体に残っていた透明で冷たくはあるが肌に清々しい北欧の空気感 (物理的にも心理的にも) が、アイスランドの光景と共に浮かび上がっていた (同じ空気感はアメリカのミネソタの田舎でも感じたものではあるが)。それは、日本社会を離れ、まるで浮遊しているかのような感覚ととともに好ましいものとして私の中に保存されていた。ひょっとすると、これまでこの感覚の再現を求めて生きてきたのではないかという思いさえ過ぎる。どこかにこれらの国に暮らしてみたいという潜在的な欲求があるのかもしれない。

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旅から帰って DE RETOUR DE VOYAGE

2007-04-23 23:15:02 | 

旅に出て帰ってくると、どこか変わっていることに気付く。それを観察するのが旅の楽しみのひとつになって久しい。画家がものをじっくり見るように、旅の前後の自分を目の前に取り出して、眺め比較する。どこからその楽しみが来るのだろうか。おそらく、自らの存在が変わりうるものであることを確認する喜びなのかもしれない。変わら(れ)なくなったら、それは生きていないのと同義とでも思っているかのようだ。

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雨音に身を晒しながら AU SON DE LA PLUIE

2007-04-22 22:23:33 | 

蔵王の山の中
400年以上前に開かれた湯元がある
伊達藩の御殿湯だったという
伊達政宗なしにはありえなかった仙台の町から車で案内される
山の斜面につくられた宿 その急な階段を上り部屋に入る

デカルトの言葉に耳を澄ます
彼の声が何と素直に入ってくることか
解説書ではそれが雑音の中に掻き消されてしまう
彼らと直接言葉を交わし そして考えることによってのみ 
何かが自分の中に沈殿していくようだ

雨が本降りになってきた
屋根にあたる激しい雨を聞きながら夕食をとる
ゆったりしに来たはずが ゆったりした給仕に僅かに苛立つ
時々雷光が障子越しに見える
マンション生活では終ぞ味わったことのない その雨音の中にいると
我が身が自然の中に置かれていることを実感する

部屋に戻って窓を開け放つ
眼下に光を受けた竹林を見ながら 久しぶりに葉巻を燻らす
安井曽太郎夫妻が流れている 
それらすべてを傍らに 雨音の中に入ろうとしていた

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変わることで知る CHANGER ET SAVOIR

2007-04-21 23:02:18 | 

何気ない日常の中からは、自分に跳ね返ってくるもの、自分を突き動かすものは生まれてこない。自分を変えるものには出会えない。そのような状況では、端から自分を変えようなどとは思わないからだ。自分の存在が危うくなる時にしか、自分の中にある何かは顔を出さない。自分の中の可能性が見えてこない。非日常の中にしか、自分を目覚めさせるものはない。つまり、自分を発見するためには、非日常に身を置くしかないのだ。自分の中に何が詰まっているのかを知りたくなった時、日常を離れなければならない。汝を知ることが生きることであるとすれば、日常を離れるという作業が不可欠になるのだ。その一番よい方法は自分を取り巻く枠組みを変えること、それまでの法則が使えない場所に入ることである。これまでの経験から、これが私の行動則になっている。

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修行終了、そして FINIR L'ENTRAINEMENT D'ASCETE ET PARTIR

2007-04-20 23:58:31 | 

ドキュメンタリー (DVD) 翻訳の監修の仕事を終える。実は、すべてを訳し直す作業を終えた。いつものことだが、締め切りになるまで盛り上がらず、今回も苦労した。今は何となく解放された気分である。T氏に声をかけていただき、明日から3日間ほど旅に出ることになる。

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伊勢にて A ISE

2007-03-31 22:08:00 | 

会議終了後、久々の解放感と余り感じたことのない平穏な気持ちを味わいながら、伊勢に向かう。早速、お伊勢参りの準備をする。まず、小坡美術館へ。猿田彦神社の宮司の娘であった伊藤小坡の作品がほんの少し展示されている。静かな館内には私一人であった。それから猿田彦神社境内を歩いた後、おはらい町・おかげ横丁を散策。江戸時代の伊勢街道の様子を再現した 「おかげ座」 では、もう終わりですから江戸から来られたのであれば是非見て帰って下さいと言われ、料金も取らずに名調子の説明をしてくれる。帰りにホテル近くの料理屋で食事をする。東京では日本料理屋でもジャズを流しているところがある中、そのお店では日本の童謡 (日本歌曲) の管弦楽演奏を流していることに気付く。例えば、

「朧月夜」
  菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて にほひ淡し

「七つの子」
  烏なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの 子があるからよ
  可愛 可愛と 烏は啼くの 可愛 可愛と 啼くんだよ
  山の古巣に 行つて見て御覧 丸い眼をした いい子だよ

「かなりや」
  唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は 後の山に 棄てましょか
  いえ いえ それはなりませぬ

「鯉のぼり」
  甍の波と雲の波 重なる波の中空を 
  橘かおる朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり

「背くらべ」
  柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ 
  粽たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
  きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ 

「この道」
  この道はいつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる
  あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ

「叱られて」
  しかられて しかられて あのこはまちまで おつかいに
  このこはぼうやを ねんねしな ゆうべさみしい むらはずれ
  こんときつねが なきゃせぬか

他5-6曲。現世の流れが急な東京では余り受け入れられそうにないが、これらの曲を聴きながらの食事もなかなか味のあるものであった。どこか原点に戻ったようにも感じていた。

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「ルート66を行く」  SUR LA ROUTE 66

2007-02-20 00:02:15 | 

ルート66」 (Route 66) は、イリノイ州シカゴからカリフォルニアのサンタモニカを結ぶ全長3,755kmに及ぶ国道で、イリノイ、ミズーリ、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの8州を横断している。

La Route 66 (officiellement U.S. Route 66) était une route américaine qui joignait Chicago dans l'Illinois à Los Angeles en Californie (plus exactement, à Santa Monica). Elle est longue de 2 448 miles. La Route 66 traverse 8 états (Illinois, Missouri, Kansas, Oklahoma, Texas, Nouveau-Mexique, Arizona, Californie).

この言葉からまず思い浮かべるのは、子供の頃流れていたテレビ番組、そしてナット・キング・コールの歌である。先日の休みに衛星放送のチャンネルを回していると、この道をゆっくりと行くという番組に行き当たった。アメリカの殺風景な郊外の景色が写されている。学会などでアメリカに出かけて、空港からレンタカーに乗り郊外の道に出る時にいつも訪れる解放感が蘇る。その感覚は何と形容すればよいのだろうか。日本では決して味わうことのできない感覚で、その解放感を味わうためにアメリカまで行っていたと思わせるくらいのものである。最近はヨーロッパに惹きつけられているため忘れていたが、アメリカの漠とした景色を眺めていると、懐かしさと愛おしさとともに青春の記憶が押し寄せてくる。

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東京駅にて A LA STATION DE TOKYO

2006-12-11 00:08:45 | 

普段は新幹線の切符を地元の駅で買うのだが、その日は列が長く全く流れていなかったので、東京駅に出てから買うことにする。東京駅では列はあるものの、まさに流れる如く捌かれていた。私が行った窓口は若い化粧気のない小柄な女性が担当している。その作業を見ている時、私の中で何かが起こっていた。

行き先のキーを叩くところから乗り継ぎ駅をチェックし、チケットが出てくるのを待って私に渡してくれるところまで、体全体が小気味よいリズム感に溢れていて、普段の窓口では感じたことのない心地よさを覚えていた。彼女の注意がそのすべてに途切れることなく向けられて、彼女の全霊を傾けてのプロフェショナリズムを見たように感じたからだろう。それと同時に、余りにも機能的に体を動かしているので少し気の毒にも思えてきた。何か機械の一部のように見えたからだ。もっとゆっくりやっていただいてもいいのですよ、と心の中では言っていた。

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山口を振り返って EN ME SOUVENANT DE YAMAGUCHI

2006-11-15 23:55:39 | 
             中也  金子みすず  山頭火   宇野千代

山口の町を歩くとどこかで出会ったような、子供時代の一時期に戻ったような景色に出会う。その時、不思議な懐かさが私を襲う。私は記憶の中を歩いているような、過去と現在が同時進行しているような錯覚に陥る。

中也の世界に浸っている時に覚えた感情は、どう説明すればよいのだろうか。若き日に読みたいと思いながらもなかなか手がつけられなかったものに何十年か後に触れ、あの時自分のまわりにあったものは実はこういうものだったのか、と自分なりに理解することができたという喜びなのだろうか。その過程で味わう、自らもその過去の時間、空間に身を置いているという感覚のせいなのか。

結局のところ、過去なくして豊かな人生などありえないのではないか、という思いに至る。過去にだけ生きて何ら不自由を感じないというジェルファニヨンのことが再び思い出される。彼の場合は世界の過去であったが、自らの過去もある。このブログでの営みは、自分の過去を意識的に創り出していることになるのかもしれない。将来、再び今回のような感慨をもって、過去の一時期に触れた世界を、それは現在準備されているのだが、味わい直す時が来るのだろうか。

夜、目を閉じて出発前とその後の自分を振り返ってみる。それが何とはいえないが、大きく変わっているものがあることを感じる。ひょっとすると、それはこのメカニズムを感知できたという充足感に似たものなのかもしれない。


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以前にも中也の詩を取り上げていました。
2006-3-30 生い立ちの歌
2006-3-31 春宵感懐 EMOTION D'UN SOIR DE PRINTEMPS

彼の人生をじっくり眺めた後に改めてこれらの詩を読み直すと、以前とは全く違う印象で迫ってくる。彼の声の出所がずーっと近くに感じられるようになっている。

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テレビでトルコ語 LE TURC A LA TELE

2006-11-02 07:00:41 | 

昨日の夜中、テレビでトルコ語が流れているのを見て、思わず食いついてしまった。以前にトルコ語をほんの少しだけ齧ったことがあるので、その記憶が刺激されたようだ。しかも背景出てくるトルコの景色 (昨日はイスタンブールの町が出ていた) を自分が一緒に歩いているように楽しむことができる。昨晩はよりによって、こちらも以前から気になっているモロッコのマラケシュ Marrakech の街を散策する番組も続いていて、一気に旅心が疼いた。

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京都の秋 L'AUTOMNE A KYOTO

2006-10-04 00:05:37 | 

先日の京都訪問では紅葉はまだであった。見逃した展覧会もあった。昨日の帰り、駅ビルの本屋に入ると京都案内の雑誌に手が伸びていた。もう一度くらい意識して訪れ、紅葉でも見たいと思っているのだろうか。あるいはアームチェアの観光客を気取ろうとでも言うのだろうか。

今週の Le Point の文化欄にはブラッサイ Brassaï とマルグリット・デュラス Marguerite Duras が取り上げられている。近いうちに読んでみたい。


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8 octobre 2006 マルグリット・デュラスの日記 CAHIERS DE MARGUERITE DURAS

 
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京都へ ALLONS A KYOTO !

2006-09-22 23:53:30 | 

仕事以外で意識して来るのは、おそらく初めてである。観光趣味はもとからなかったのだから仕方がない。駅に向かう電車の中で勤め帰りの人の群れに会う。その顔をじっくりと見入る。こういう経験もほとんどなかった。どの顔も疲れ、輝きが感じられない。そこでガラスに映る自分の顔を眺めてみた。同じようにくすんでいる。人々に生気がないように見えたのは、自分の内面の反映を見ていたのか。若さと希望に満ち溢れている時には、それ以外の思いを抱いている人がいることなど想像もできなかったように。

新幹線の中で週刊誌を眺める。いつものように何かが飛び出して来ないかを期待して。その中に、「安部首相の時代と気分」 と題して2人の人に解読してもらうという記事があり、「安部晋三なるモノ」 についての中条省平氏の考察があった。そのフレーズにまず反応した。何のことはない、このブログのサブタイトルに 「フランス的なもの」 という言い回しを使っているからだ。

どういう意味で使ったのだろうか。意味を問うことなく言葉を選ぶことはしばしばである。当初はフランスに関係のあるもの、ということだったのだろう。この1年半余りの間、ただただ観察することに費やした結果、「フランス的なものから呼び覚まされること」 という中には、そもそもものを知らないという自覚 (la prise de conscience) のもとに、ものを疑ってかかることから始めましょう、あるいは疑いから出てくるもの、時には批判的な精神でものを見た時に出てくるもの、というようなニュアンスも含まれていたことを感じる。

ところで中条氏の考察によれば、「安部晋三なるもの=現状肯定」。私はまだ読んでいないが、「美しい国へ」 の中に見えるものとして、その大部分が日本の現状を肯定するものだという。さらに、今の若者には現状への否定的反抗心は薄いと見ている。そんな中、ソフトな語り口で語られるうちにことが進んでいく可能性があるのではないか。大きな転換点を何の論争もなしに通過してしまうのではないか、と危惧していた。日本の哲学者 (余り多くはないらしい) が論争を起こしたり、加わったりする時は来るのだろうか。

確かに、現状肯定から思考をスタートする人を見かけることがある。その前に批判的な精神で、ものを見たという形跡を感じることができないような。そこにはどうしてもある体制の中で何とか生きていきましょうという心が見えてしまう。そういう時にはいつも驚くのだ。

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週末をホテルで PASSER LE WEEKEND DANS UN HOTEL

2006-07-24 21:31:00 | 

どうしてもやらなければならない書き物が出てきたが気力が充実しない時や自分の日常を離れたい時など身近なところでもホテル籠りをすることがある。ルヴェルさんが 「繭の中に入る」 と形容していたこの過ごし方は私も嫌いではない。その間は土地に根付いているような錯覚を与えてくれるので、そこでは時間を気にしないでゆっくり過ごすことができる。それがわかるのは、同じ場所をその日に帰らなければならない状況で見る時とは全く違った街に見えるからである。その意外性が面白く、楽しめる。これからも機会を見てやってみたい。

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フランス縦断の旅  TRAVERSER LA FRANCE DANS UN FAUTEUIL

2006-07-18 23:45:46 | 

7月16日から8日間、フォンテンブローからマルセイユ (パリ、プロヴァン、ヴェズレー、リヨン、オランジュ、アヴィニヨン経由) までフランスを縦断するというなんとも贅沢な旅がNHKテレビで流れている。これまでの3日間は味わうことができた。

フランス縦断の旅

昨年の秋にイタリア縦断の旅を経験したが、そのシリーズのようである。フランスの地方の生活を近くで見ることができる。あと5日間の旅を楽しみにしたい。

(version française)

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人形町 雨宿り 自然体 NINGYOCHO - UN ABRI CONTRE LA PLUIE

2006-07-15 19:38:14 | 

この週末が連休であることに昨日気づき、すべてを忘れて街に出ることにした。日本橋、人形町のあたりを彷徨い、迷い込もうという魂胆である。朝、外に出るとむーんという熱気が体を包む。その中を歩く。熱いが朝の空気は新鮮で気持ちがよい。東京駅のあたりを過ぎるとブリジストン美術館が見える。この美術館には今は亡き叔父に最初に連れてきてもらった思い出がある。当時は絵画 (広く美術) には全く興味がなかったが。40年ほど前に思いを馳せ、ここで数時間過ごす。この詳細は改めて書いてみたい。

それから人形町の方へ歩き始める。古い町並みを見ながら、景色の中に身を委ねる。午後、ヴォーヴナルグでも、と思いカフェで休んでいると突然の雷と雨。傘を持ってこなかったことを少しだけ悔いる。ほんの少しだけ。近くのビルに雨を避けられるところがあったのでそこへ向かう。今日は不思議である。いつ止むとも知れぬ雨とともにいるという感覚。あなたまかせなのだ。雨宿りという言葉を思い出す。こんな精神状態になるなど、想像もできなかった。すべてを忘れると自然と一体になれるということか。この世に生きている過程で溜まってきたものを捨て去ると自由なこころがついてくるということか。今書いた文章を見て、自然体とは自然と一体になれる心のことなのか、と感じている。

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