フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

3月の記事

2007-03-31 23:52:50 | Weblog
2007-03-31 伊勢にて À ISÉ
2007-03-30 三重にて À MIÉ
2007-03-29 「谷間のゆり」 あるいは "LE LYS DANS LA VALLÉE" OU ...
2007-03-28 三軒のリブレリーで DANS TROIS LIBRAIRIES
2007-03-27 映画三題、そしてフランス語 TROIS FILMS ET LE FRANÇAIS
2007-03-26 リュシー・オブラック LUCIE AUBRAC EST MORTE
2007-03-25 イヴ・アヤ YVES HAYAT "STATUTS DE FEMMES"
2007-03-24 思いがけない哲学講義 SUIVRE UN COURS PHILOSOPHIQUE
2007-03-23 マレー地区散策 LA PROMENADE DANS LE QUATIER DU MARAIS
2007-03-22 エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (III)
2007-03-21 エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (II)
2007-03-20 エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN
2007-03-19 国立図書館フランソワ・ミッテランにて À LA BNF FRANÇOIS MITTERRAND
2007-03-18 フランソワ・バイルとテレビ LA TÉLÉ ET FRANÇOIS BAYROU
2007-03-17 フランス人であるとは COMMENT PEUT-ON ÊTRE FRANÇAIS ? (II)
2007-03-16 フランス人であるとは COMMENT PEUT-ON ÊTRE FRANÇAIS ?
2007-03-15 パリの朝に詠める
2007-03-14 モンマルトル散策 SE PROMENER À MONTMARTRE
2007-03-13 他人の人生 LA VIE DES AUTRES
2007-03-12 春の日、ある書店にて
2007-03-11 花粉を逃れて
2007-03-10 人の世は
2007-03-09 春の宵 UNE SOIRÉE DU PRINTEMPS
2007-03-08 ヴォーヴナルグ・ヴォルテール往復書簡 VAUVENARGUE-VALTAIRE LETTRES
2007-03-07 伊東ゆかり 「小指の思い出」  "LE SOUVENIR DE PETIT DOIGT"
2007-03-06 雪舟再び SESSHÛ REVISITÉ
2007-03-05 ベルナール・ド・モンフェラン日記 JOURNAL DE MONTFERRAND
2007-03-04 林住期 LE TROISIÈME ÉTAPE DE LA VIE SELON BOUDDHISME
2007-03-03 LA DIFFÉRENCE ENTRE UN ROMAN ET UNE NOUVELLE
2007-03-02 ポール・ファイヤアーベント PAUL FEYERABEND
2007-03-01 定年へのアドバイス COMMENT VIVRE PENDANT LA RETRAITE

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伊勢にて A ISE

2007-03-31 22:08:00 | 

会議終了後、久々の解放感と余り感じたことのない平穏な気持ちを味わいながら、伊勢に向かう。早速、お伊勢参りの準備をする。まず、小坡美術館へ。猿田彦神社の宮司の娘であった伊藤小坡の作品がほんの少し展示されている。静かな館内には私一人であった。それから猿田彦神社境内を歩いた後、おはらい町・おかげ横丁を散策。江戸時代の伊勢街道の様子を再現した 「おかげ座」 では、もう終わりですから江戸から来られたのであれば是非見て帰って下さいと言われ、料金も取らずに名調子の説明をしてくれる。帰りにホテル近くの料理屋で食事をする。東京では日本料理屋でもジャズを流しているところがある中、そのお店では日本の童謡 (日本歌曲) の管弦楽演奏を流していることに気付く。例えば、

「朧月夜」
  菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて にほひ淡し

「七つの子」
  烏なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの 子があるからよ
  可愛 可愛と 烏は啼くの 可愛 可愛と 啼くんだよ
  山の古巣に 行つて見て御覧 丸い眼をした いい子だよ

「かなりや」
  唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は 後の山に 棄てましょか
  いえ いえ それはなりませぬ

「鯉のぼり」
  甍の波と雲の波 重なる波の中空を 
  橘かおる朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり

「背くらべ」
  柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ 
  粽たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
  きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ 

「この道」
  この道はいつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる
  あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ

「叱られて」
  しかられて しかられて あのこはまちまで おつかいに
  このこはぼうやを ねんねしな ゆうべさみしい むらはずれ
  こんときつねが なきゃせぬか

他5-6曲。現世の流れが急な東京では余り受け入れられそうにないが、これらの曲を聴きながらの食事もなかなか味のあるものであった。どこか原点に戻ったようにも感じていた。

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三重にて A MIE

2007-03-30 22:11:04 | 科学、宗教+

昨日の夜、会議のため三重に到着。夜、T氏、M氏、O氏と会食。それぞれのこれからや会のこれからなど話が尽きなかった。今日から2日間は会議。初日の今日、私も話をさせていただく。会に功労したとのことでその機会が与えられた。話の最後のところで最近考えていること、このブログでも触れていること、つまり科学の中でどうやればよいのかということではなく、科学を外から見た時に見えてくるものを中心に話をする。これが意外に多くの人の心を捉えたように感じると同時に、このような視点で話をする科学者がほとんどいないのではないかという思いに至る。会の後の懇親会では、同年代の方のみならず若い人も問題意識を持って話しかけてきていた。彼らとの話の中で、いずれ科学精神、大きく言えば人生をいかに生きるべきかということについて、私の経験から得られたことをまだ専門家になっていない若い世代 (小学校、中学校、高校、大学の学生) に話をしてみたいという欲求の芽生えを感じていた。こういう会でいろいろな方に会うことがなければ、そのような変化は生まれなかっただろう。


実は、その前日不思議を感じる出会いがあった。それは乗り換えの名古屋駅で新書を手にとった時、そこにはどのように講演をすればよいのかということが語られていたのである。その本は堀田凱樹 、酒井邦嘉著 「遺伝子・脳・言語」。その中にデルブリュックの教えというのが紹介されている。

1)聴衆は完全に無知であると思え。
2)聴衆は高度な知性をもつと考えよ。

この教えを、専門知識が必要ないように基本から始めながら、高度なレベルにも至るように工夫しなさいと解釈し、堀田氏はさらに次のように改変している。

1)聴衆は完全に無知であると思え。
2)聴衆の知性は千差万別であると思え。
3)聴衆がおのおの自身 (各自のレヴェル) より一段上のレヴェルまで理解できるようにせよ。

べらべらと話す癖がついている身としては、どのように話したら相手に言いたいことを伝えることができるのかということについて考えを巡らさざるを得なくなっていた。

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「谷間のゆり」 あるいは "LE LYS DANS LA VALLEE" OU ...

2007-03-29 23:03:57 | 出会い

今回フランスに来て花粉症の目の症状は2-3日で治まったが、鼻の詰まりは1週間ほどかかってやっととれた。今回の訪問の目的の一つは達成できた。他にもいくつかあったが、そちらは未だ形は見えていない。そしていつものように思いもかけない出会いから多くのものを学ぶことができた。帰る日に向けて、これまでは感じていた別れの感情は今回は生まれてこず、淡々とした心の動きしか観察されなかった。ホテルのコンシエージュと一言二言別れの言葉を交わす。日本ではなかなかできない、彼らの軽快な心から出てくる言葉とのやり取りはいつも体をも軽やかにしてくれる。

帰りの飛行機では、非常に稀なことに女子大生と隣り合わせる。こういうことは2年ほど前に一度あったきりである。つい最近までは半分などとショックを受けていたが、もはや大学に入りたての場合、年齢は私の三分の一にもなる人たちである。早速話してみると、フランス文学の専攻で、プルーストを勉強することに決めたという。今回はパリでの語学研修の帰りとのこと。彼女は私が話をすると私の目を覗き込むようにしている。丁寧に聞いてくれていることがわかると、つい話に熱が入る。

彼女は最近バルザックを読んだというので、彼の昼夜を逆転させてとにかく書きまくった仕事振りや女性遍歴などについて話していると、・・夫人とのエピソードは自伝的要素が強いと言われる 「谷間のゆり」 の話とそっくりですね、という返答が帰ってきた。その小説の中味は何も知らない私は逆に、「谷間のゆり」 とはそういう作品だったのかとお勉強をする。もし将来読む機会が訪れれば、このエピソードを思い出すだろう。

"Le Lys dans la vallée"

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三軒のリブレリーで DANS TROIS LIBRAIRIES

2007-03-28 23:18:00 | 出会い

先日取り上げた Figaro Littéraire の対論で話題になっていた Diam's。読んでいる時は飛ばしていたが、ラップの歌手で聞いてもわからないだろうとR さんに言われていた人である。その日歩いているうちにどんな感じの歌なのか気になりだしていた。近くの店に行くもなし。店員に聞くとすぐに売り切れるのだという。それからメトロでクリュニ・ソルボンヌまで出て、CD を売っていそうな店を探す。丁度 Gibert Jeune が目に入ったので中に入る。

rappeuse の Diam's があるかどうか聞いてみると、少し怪訝そうな顔をしながら、それなら地下にありますよという。行ってもなかなか見つからない。ラッパーのイメージから男を捜していたからである。再度店員に言うとそんなはずありませんよと言わんばかりに、颯爽とその場所まで案内してくれた。そこで R さんの口から出た言葉を考えずに使っていた rappeuse の意味が一気に氷解。これだから困るのである。中古でお得な2枚組みを仕入れる。その後聞いてみたが、言葉の意味はさすがにわからないものの、音楽としては新鮮で結構楽しめる。

それからソルボンヌへ。例の建物の前には広場があり、向かって右にはレストランが並び、左には本屋がある。その中に昨年暮に別のところで出会っていた J. Vrin (哲学書専門店) があったので入る。去年のよりは数段美しく品揃いしている。先日講義で聞いた Ernst Mach の "Analyse des sensations" があるかどうか聞いてみたが、1998年訳のものがもう絶版になっているという。読む人がいないのだろうか。そうして痩身の老練そうな店員が低い通る声で、「それじゃドイツ語で読むしかないですね。Pourquoi pas !」 と事も無げに付け加えていた。それから近くのカフェで、Crudités というトマト、卵、ハムのサンドとまたしてもコーラ (しかもそれがビンで出てきて、何と4.20Eで主食より高い) で昼食。

カフェの近くの La Librairie Compagnie という本屋に入ると、地下に充実した哲学セクションがあった。ニーチェの本がテーブルにまとめて並べられている。それを見ているうちに、以前このブログで取り上げた本のことを思い出した。題名は思い出さなかったがどういう本かは覚えていたので、こう若い店員さんに聞いてみる。「ニーチェをフランスのモラリストとして捉えて、今はアメリカの大学で研究しているフランス人が書いた本はありませんか」 と。その店員さんがどうしてよいのか困っていると、後ろの方で仕事をしていた老練の店員さんがそれを聞いていたらしく、音もなく棚からその本を取り出し持ってきてくれた。

いずれの店員の応対も本当に気持ちよく、その余韻を楽しみながら再び雨の街に出ていた。

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映画三題、そしてフランス語 TROIS FILMS ET LE FRANCAIS

2007-03-27 22:50:02 | 映画・イメージ


Angel

その日、カフェを出た後ホテル近くのシネマへ。丁度始る5分前のAngelに入る。客は10人前後か。フランソワ・オゾン François Ozon のイギリス映画。作家を夢見る野菜屋の少女が作家として成功し、零落れるまでを描いている。以前に Sous la sable, Swimming Pool, Huit Femmes などを見ているが、今回の作品は無理をして作られた物という印象が拭いきれず、全く楽しめなかった。

Les Témoins
先日、丁度よい時間にやっていた映画を見た。エマニュエル・ベアール (Emanuelle Beart) が出ている。私にとっては印象的な筋書きではなかったので今となってははっきり覚えていない。主人公の同性愛の若者が出てきて、警官の男と絡んでくる。そのパートナーがべアール演じる作家で不思議なカップルだ。それに若い女性、同性愛者の医者などが出てくるよく理解できない映画であった。ただ、人間という生き物は一体どこまでのことをやりうる存在なのか、フランスで見ているとそういうことを考えさせられる。自分の身を安全なところに保っておき、どこか遠くの出来事として見る場合と違い、見ているところにしか自分の生きる場所がないという精神状態で見ている時とでは受ける印象がまるで違う。

Nue Propriété
この映画も空き時間にやっていたものである。今は離婚している中年女性の母親 (イザベル・ユッペール Isabelle Huppert) と一緒に暮らす二人の息子 (20代か?) を中心に、今は若い女性と結婚して子供も生まれている元夫、母親の男友達、息子の女友達などが出てくる。長い間暮らした家を母親が売りに出そうとする。それを機に息子との関係が崩れ始める・・・それにしてもこの二人の息子、いい大人なのだがよく取っ組み合いの喧嘩をする。そして最後を迎えるのだが、、、

フランス映画を見ていつも感じるのだが、この二つも何気ない日常を何気なく撮っている。その姿勢は嫌いではないのだが、なぜこれが映画になるのか残念ながら全く理解できなかった。面白さをなかなか見つけられなかった。フランス人でなければわからないのだろうか。向こうの文化や社会を体で理解するのは至難の技だな、という絶望的な気持ちである。

絶望的と言えば、今回強烈に感じたことに映画に出てくるフランス語が全くわからないということがある。この二つの映画に限って言えば、ほとんどわからなかったといってもよいくらいだ。簡単な単語しか使っていないと思われるが、その組み合わせたるや今まで耳にしたことのないものばかり。本当に厭になってしまった。

全く厭になったと言えば、先日触れた Phillipe Murray という人の短い本を買って読んでみたが、こちらもほとんど何を言っているのかわからない。これはフランス語という問題もあるが、それ以上にその背景になっているものが頭に入っていないためだろう。つまり、ほとんどすべての文章に何かについての仄めかしがあり、その何かとはフランス文化、社会、それをなしている人、出来事などと関係してくるので全くわからないのである。その昔、アメリカでテレビニュースやお笑い番組を見ていて全くわからず数年間歯がゆい思いをしていたことを思い出していた。当然のことながらそれが理解できるようになるとその面白さに慣れ、日本に帰って数年間は逆に日本のものに全く感じなくなり辛い時期を過ごしたことも蘇ってきた。

それにこれも今回初めて気付いたことだが、私がフランス語を話し始めると相手の眉間に微かな皺が寄ることである。怪しげなアクセントで始まるその言葉に聞き耳を立てなければよく理解できないかも、と体が反応しているかのようであった。体は嘘をつかない。

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リュシー・オブラック LUCIE AUBRAC EST MORTE

2007-03-26 22:20:22 | 年齢とヴィヴァシテ

昨日の記事で13区の市役所が話題になったが、そのホームページを見ていて先日のマレー地区散策でRさんに教えていただいたリュシー・オブラックさん (29 juin 1912 - 14 mars 2007 ) へのオマージュが出ていた。彼女は13区の住人だったようだ。

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Hommage à Lucie Aubrac, figure de la Résistance

Lucie Aubrac, l'une des dernières figures de la Résistance vient de nous quitter.

レジスタンスを象徴する最後のひとり、リュシー・オブラックが亡くなった。

Avec elle disparaît une figure exceptionnelle de la Résistance, associée de façon fusionnelle à celle de son mari, Raymond. Elle était l'une des dernières personnalités de la Résistance à avoir côtoyé Jean Moulin.
Lucie Aubrac incarnait le courage au service de la liberté, la droiture, la force de conviction et l'élégance.

これで彼女の夫レイモンドと分かち難く関連していたレジスタンスの比類ない人物が
いなくなった。彼女はジャン・ムーランとよく会っていたレジスタンスの最後の人物のひとりであった。リュシー・オブラックは自由のために戦う勇気、清廉潔白、信念の力、洗練を体現していた。

Vivant dans notre arrondissement, Lucie Aubrac était restée une militante inlassable de la mémoire de cette époque. Après la guerre, elle s'est consacrée à l'enseignement de l'histoire et a employé toute sa retraite à parcourir la France pour témoigner auprès des jeunes de ce que fut la Résistance.

われわれの区で生活していたリュシー・オブラックはこの時代の記憶のために最後まで休みなく戦う闘士であった。戦後、彼女は歴史の教育に打ち込み、定年後の人生をレジスタンスが何であったのかを若者に証言するためにフランスを歩き回ることに費やした。

Puissent nos enfants s'enrichir de son message et s'inspirer d'une telle intégrité face aux menaces persistantes de xénophobie et d'intolérance.

われわれの子供たちは彼女のメッセージにより心豊かになり、外国人嫌いや不寛容の執拗な脅威の前であのような人間としての無欠さを示したことに霊感を受けることができた。

Lucie Aubrac restera dans la mémoire de chacun.

リュシー・オブラックはわれわれ一人一人の記憶に残るであろう。

L'équipe municipale du 13e salue le souvenir de cette grande dame et assure son époux de toute sa sympathie et son amitié.

13区市役所チームはこの偉大な婦人の記憶に敬意を表し、彼女の夫には心からのお悔やみと友情のしるしを贈る。

Par la Mairie du 13e arrondissement, publié le 21/03/2007

発行13区市役所 (2007年31月21日)

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Youtube にもオマージュが出ていた。

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イヴ・アヤ YVES HAYAT "STATUTS DE FEMMES"

2007-03-25 21:31:56 | 展覧会
その日も朝にホテルを出る。目的地に向かう前に、イタリア広場のカフェで un café を注文、朝の時間を味わう。カフェを出て歩き始めると13区の市役所 Mairie du 13e が見える。なぜか呼ばれているように感じて中に入る。案内所では生涯教育プログラムのパンフレットや図書館案内誌 En Vue に目が行く。En Vue には古代アレクサンドリア図書館を再現したような Bibliotheca Alexandrina が元あった場所に近く建てられているという。その写真を見ているうちに、いずれのその巨大な空間に身を置き、古代に抱かれてみたいものだと思っていた。

ホールに出ると Mairie で行われている展覧会が紹介されている。無料だったので中に入ってみることにした。その会はホールあるいは廊下のようなところの両側に作品が並べられているというこじんまりした、しかし密度の高い展覧会であった。何という幸運だろうか、その場を完全に独り占めにしていた。Yves Hayat 氏のテーマは女性を取り巻く状況と密接に関連していて、"Statuts de femmes" となっている。女性が主人公の名画に現代の世界の情勢を重ね合わせたような写真が多い。そのモンタージュのセンスといい、色彩感覚といい、充分に楽しませてくれた。

思いもかけぬところにこんな世界が広がっているとは、またしても予想を超える出会いとなった。拾い物をしたような幸せな気分でメリーを出ていた。

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思いがけない哲学講義 SUIVRE UN COURS PHILOSOPHIQUE

2007-03-24 23:52:04 | 哲学

その日は朝からパリにある大学の研究所を訪れる。木の螺旋階段が軋む音を聞きながらゆっくりと上がっていく。ホールはやや暗く、個室が並んでいるのだが人気がない。少し行くと図書のような小さな部屋が2つあり、それぞれに一人ずつ静かに本を読んでいる。余りの静けさに声をかけるもの憚られたが、いつまでもうろちょろしているわけにも行かず、そのうちの一人に受付の場所を聞いてみる。しかしその人はわからないという。外から来たのかもしれない。もう一人に聞くと、一言も発せず秘書のいるところに案内してくれた。

中に入ると秘書が二人いるが、愛想はほとんどない。特に私の相手をしてくれた方は、本当に応対するのが厭そうに見える。私が何かを話しかけてもコンピュータ画面を見たまま質問に答えるだけで、話を膨らまそうとしない。気にせずにいろいろなことを聞いてみると、面倒くさそうにではあるが一応の対応はしてくれることがわかる。「ところで一つのコースに何人くらいが登録しているのですか」 と聞いたところ、彼女は私の予想を超える行動に出た。「丁度今、隣の部屋で哲学の講義をやっているので聴講できるかどうか教授に聞いてみますね。すこし静かにして下さい。もしOKであれば様子を見るといいですよ」 というのだ。これには驚くと同時に、やることはやるじゃない、という感じで恐縮しながらも嬉しくなっていた。

中に入ると、壁一面に本が置かれている大きな応接間という印象。趣があってなかなか気持ちがよい。男女5-6人が思い思いに先生のお話を聞いている。あっという間にその雰囲気に引き込まれる。話題になっているのはどこかで聞いたことのある哲学史上有名な人ばかり。例えば、

Rudolf Carnap (18 mai 1891 - 14 septembre 1970) un philosophe allemand puis américain et le plus célèbre représentant du positivisme logique

Otto Neurath (10 décembre 1882 - 22 décembre 1945) un philosophe, sociologue et économiste autrichien

Moritz Schlick (14 avril 1882 - 22 juin 1936, assassiné par un de ses anciens étudiants) un philosophe allemand et père fondateur du positivisme logique et du Cercle de Vienne; l'un des premiers philosophes « analytiques ».

David Hume (26 avril 1711 – 25 août 1776) un philosophe, économiste et historien, et l'un des plus importants penseurs des Lumières écossaises

Auguste Comte (19 janvier 1798 - 5 septembre 1857) un philosophe français, positiviste, et considéré en France comme le fondateur de la sociologie
  
Bernard Bolzano (5 octobre 1781 – 18 décembre 1848) un mathématicien bohemien de langue allemande, qui critique l'idéalisme d'Hegel et de Kant

Franz Brentano (16 janvier 1838 - 17 mars 1917) un philosophe et psychologue catholique allemand, puis autrichien

Emil du Bois-Reymond (7 novembre 1818 - 26 décembre 1896) un célèbre physiologiste et mathématicien du XIXe siècle, il fut l'un des fondateurs de l'électrophysiologie
  
Ernst Mach (18 février 1838 - 19 février 1916) un physicien autrichien

Karl Popper (28 juillet 1902 - 17 septembre 1994) l'un des plus importants philosophes des sciences du XXe siècle


後半はマックス・エルンストの "Analyse des sensations" という本の中から思索を進めていた。その中で聞こえた言葉は、、

  positivisme (実証主義)
   monisme (一元論)
    idéaliste (観念論者)
     matérialiste (唯物論者)
      empiriste (経験論者)

  "La science décrit des régularités mais n'explique pas."
  "La science est toujours d'origin pratique."

というようなことも言われていたようだが、フォローするのはなかなか大変。子どものような目をしてたまにこちらを覗きこみ、早口で進む先生の話を聴きながら、外の喧騒の中、古い建物の一室では人知れずこのような活動が行われているということにある種の感動を覚え、またその時間を共有している自分が別世界を彷徨っているようにも感じられ、豊かな時間を味わわせていただいた。


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予想もしなかった小さな宝物が落ちてきたような一日の始まりとなった。別れ際にまた無愛想な姿に戻った彼女に挨拶をして通りに出た。面白い人々が集まっている町のようだ。


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マレー地区散策 UNE PROMENADE DANS LE QUATIER DU MARAIS

2007-03-23 06:20:52 | 出会い

今週初め、R というフランスの方から次のようなメールが届いた。私のフランス語版のみならず日本語版ブログの忠実な読者で、毎日幅広いテーマについて触れられ、フランス語をどこまでも理解したいという執拗さが見えていて感心している。今回パリに滞在されているようなので、もしよろしければお会いしたい。また興味があればマレー地区などを案内したい。ところで先日の記事にあった Finkielkraut さんはFrance Cuture で放送されているので、以下のサイトで聞くことができます、と書かれてあった。それを読みながら、私の日本語版に目を通しているフランスの方がいるということに興味を覚え早速返事を出したところ、電話で打ち合わせましょうということになる。話してみると、何と先日の Gallo-Finkielkraut 対談の日本語訳に誤りがあるので、できれば日本語版をプリントアウトしてきてほしいというのである。これにはさすがに驚いてしまった。

その日は午前中に仕事を済ませ、待ち合わせ場所のマレー地区にあるカフェに出かける。見回すと笑顔でこちらを見ている方がいるのですぐに R さんだとわかる。それから Figaro-Littéraire の記事と私の記事を読み比べながら検討が始った。そうすると、私が辞書で確認せずに勝手に決め付けていたところ (自分の中ではそのことには気付いていた) が全く逆の訳になっていた。それから対談をしている両者の言葉の使い方に皮肉が込められていたり、フランス現代社会の風潮が反映されているところが指摘されるのを聞きながら、その内容が紙面から立ち昇るようで気持ちよく、同時に深く汲み取るという作業の難しさを肌で感じていた。また、私がミコ様の俳句を訳した中に本来の意味から云うと少し外れる言葉の使い方があったが、詩的に聞こえるのでよいでしょうというようなことまで指摘される。このように単に目を通すというのではなく、掘り下げて日本語版を読んでくれているフランス人がいるというその事実に感動さえ覚えていた。

R さんは自らを autodidacte だという。この言葉を知っているかと聞かれたが、それはなぜか忘れられない不思議な印象を残す経験から私の中に残っていた。その言葉に最初に触れたのはフランス語を始めた当初、サルトルの « La Nausée » をパラパラとめくっている時で、その響きに何か訴えかけるものがあったからである。これこそ人間のあるべき姿ではないのかという想いが私のどこかにあり、それがフランス語の言葉として目の前に現れたということに共振したのかもしれない。R さんは若いときに短期間日本に滞在したことはあるが、学校で日本語を習ったことはないという。また研究のためパリに来られる日本の大学の先生のお世話をすることがあるようなお話であった。独学でここまでになれるのである。学校の意味を考えさせられる。

それから今思い出せないくらい多くの文学者、芸術家が話題に上がった。記憶に残っているのは、例えばフィリップ・ミュレー Philippe Muray (1945 à Angers - 2 mars 2006 à Paris) という人。実はこの人とはその前日ラスパイユ街のリブレリーで出会っていた。迷った末に入ったその店では、彼の著作と自らの詩の朗読CDが一つのテーブルに並べられていて、その中から手ごろな小冊子を仕入れていたからである。Gallo-Finkielkraut 対談を読んでいる時に M. Morin ですかと声をかけられたが、その名前の人が対談に出てきたり、前日に出会った人が飛び出してきたりと不思議なものである。最近 R さんは岩波新書 「翻訳家の仕事」 を興味深く読んだという。私もどこかで立ち読みした記憶があるが、もう少しじっくり読んでみようかという気になっていた。

カフェでの話が一段落したところで、マレー地区を案内してもらう。それから3時間ほど散策しながら、街の現在とそこに眠る歴史に耳を傾ける。結局4区をほぼ歩き回ることになった。まず、Shoah の記念館、ユダヤ人街のロジエ通り Rue des Rosiers へ。カシェールの店が沢山あると言われて私が首をひねっていると、ニューヨークにいたことがあるのではと言われ、コーシャー (Kocher) のことだと気付く。看板を見てみると Kasher と書かれてあった。それからヴォージュ公園 Place des Vosges では、数年前に1週間ほど滞在した折、オランダ人ジャーナリストとスイスの会社員と待ち合わせて散策した記憶が蘇る。その時坐っていたベンチと再会した時、私は過去の中にいた。

R さんは歩きながら日本語の電子辞書を示し、私にとっては初めての 「ひっこうけんでん (筆耕硯田)」 などという表現を教えてくれたりする。それが筆で硯の田を耕す (→ 文筆で生計を立てる) という意味であることを知り、なぜこの言葉を教えてくれたのかを考えていた。それから5-6軒の魅力あるリブレリーに立ち寄る。そこでも多くの人を紹介された。例えば、ナチスに捉えられた夫を救出した対独レジスタンスの女性闘士で94歳で亡くなったばかりのリュシー・オブラック Lucie Aubrac (29 juin 1912 - 14 mars 2007) さん、やはりレジスタンスの全国組織を纏め上げたが最後はゲシュタポの手で殺されたジャン・ムーラン Jean Moulin (20 juin 1899 - 8 juillet 1943) という人など。そして別れ際になりわかったことだが、訪ねた中にあった Les Cahiers de Colette というリブレリーで、私にプレゼントを用意してくれていたのである。私の atypique で幼稚なフランス語に付き合っていただいた上にこのような心配りである。何と感謝してよいのかわからない。帰って開けてみると、カフェで話題になった bien-pensance という言葉と私が質問した républicain (共和主義者) と royaliste (王政主義者) との対立の歴史などに関連したところから出てきたジョルジュ・ベルナノス Georges Bernanos (20 février 1888 - 5 juillet 1948) という人の « Les Grands Cimetières sous la lune » であった。裏表紙によるとスペインの内戦について書いてあるようだ。

これまでも経験しているように、一つの出会いから世界がぐっーと広がることがある。今回もいろいろなところにつながる扉が開かれそうな気がして、大きな刺激を受けていた。すべてブログのお陰である。

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エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (III)

2007-03-22 03:09:39 | 海外の作家

ルナンも老境に入ると若き日に思いを馳せるようになる。1883年(60歳)、最も有名な本になった “Souvenirs d’enfance et de jeunesse” 「幼少期の思い出」 を発表。その年までに 「キリスト教の起源」 を書き終え、新らたに 全4巻となる 「イスラエルの歴史」 “Histoire d’Israël” を書き始める。最初の2巻は64歳と68歳で出版されるが、残りの2巻は亡くなった後になった。この本には誤りがないわけではないが、教義は別にして信仰心 (la piété) は必要であるという彼の思想が最も生き生きと語られている。晩年、レジオン・ドヌール勲章 (グラン・ドフィシエ Grand-Officier、大将校) を始め、幾多の名誉を手にした。最後は数日の病の後に亡くなり、モンマルトル墓地に葬られる。享年69。

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彼は、科学と無私の精神 (le désintéressement) に魅せられていた。宗教との関係は複雑で、「科学の未来」 には次にようなことを書いている。

« Quand je suis à la ville, je me moque de celui qui va à la messe ; mais quand je suis à la campagne, je me moque au contraire de celui qui n’y va pas. »

「私は都会にいる時はミサに行く人をからかうが、田舎にいると逆に行かない人をからかう」

それから科学と神の関連については、以下のように考えていた。すなわち、科学は宇宙において知りうるものすべてについて明らかにするだろう。それに対して神は完全で全的存在といえるだろう。その意味で、神とは今ないもので、生成の過程にあるもの (il est en voie de se faire ; il est in fieri.) 。しかし、そこで終っては神学は不完全なものになるだろう。神は全的存在以上のもので、絶対的なものである。数学、形而上学、論理学と同様の理法のものであり、理想の場、善きもの、美なるもの、正しきものの生きた原理である。そのように見るとき、神は永遠、不変で、進歩もなく生成が完成することもない。

彼はダーウィンの自然選択説が発表されると直ちに賛意を表した。また、人種差別的な考えも表明しているようである。ただ、彼が書いていることを当時の時代背景に置き直して検討しないと、このシリーズのきっかけになった対論でフィンキールクラウト氏が言っているように、遠く離れた現在から過去を見て自らの道徳的優位に満足するだけに終るのであろう。

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  ひょんなところから、ルナンさんと長く付き合うことになってしまった。
  場所が変わったことのよい影響かもしれない。

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エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (II)

2007-03-21 02:34:05 | 海外の作家

ルナンは神父から教育を受けていたが、科学的な理想を受け入れていた。宇宙の見事さは彼を恍惚に導くものであった。後年、アミエル Amiel のことを評して 「日記などつける時間のある人間は、宇宙の広大さなど決して理解しなかった」 と書いている。1846年(24歳)には、彼の生徒であった将来化学者になる18歳のマルセラン・ベルテロ Marcellin Berthelot により、物理学や自然科学の確かさに目覚めさせられる。この二人の友情は最後まで続いた。このような環境で彼はセム語の文献学研究を続け、1847年には 「セム語の歴史研究」 によりヴォルネー賞 Prix Volney を授与されて、哲学の上級教員資格 (agrégation) を得てヴァンドロームの高校教師になる。

1860-61年(37-38歳)には、レバノンとシリアの考古学探索に参加する。妻のコルネリアと姉のアンリエッタとともにザキア・トゥービアの家に滞在する。その家で、彼の重要作の一つ 「イエスの生涯」 "La vie de Jésus" を書くための霊感を得る。また19861年に彼の姉が亡くなり、彼女の愛した教会のすぐ近くにあるこの家の地下埋葬室に眠っている。

ルナンは博識だっただけではない。聖パウロと弟子たちについて研究し、発展している社会生活を憂いていた。友愛の意味を考え、「科学の将来」"L'Avenir de la science" を書かせた民主主義的な意識が彼の中に息づいていた。1869年(46歳)、国会議員選挙に出る。

1年後には独仏戦争が勃発。帝政は崩壊し、ナポレオン3世は亡命する。この戦争は彼の精神生活にとって分岐点(le moment charnière)になる。彼にとってのドイツは常に思想や科学を考える上での安らぎの理想の国であった。しかし、その理想の国が彼の生まれた地を破壊してしまった今、もはやドイツを聖職者ではなく侵略者としてしか見做し得なくなる。

1871年(48歳)、"La réforme intellectuelle et morale" 「知的、道徳的改革」の中で、フランスの将来を守る手立てを模索している。しかし、それはドイツの影響を受けたままのものであった。彼が掲げた理想は戦勝国のものであった。例えば、封建社会、君主政治、少数のエリートと大多数のそれに従わされる人。これらは、パリコミューンに過ちを見た彼が得た結論であった。さらに、"Dialogues philosophiques" 「哲学的対話」 (1871年)、"Ecclésiaste" 「聖職者」 (1882年)、"Antéchrist" 「キリスト以前」 (1876年:皇帝ネロ Néron の時代を描いた 「キリスト教の起源」 "Origines du Christianisme" の第4巻)などは彼の比類なき文学的天才を示してはいるが、同時に醒めた懐疑主義的な彼の性格をも表している。フランスを説得できなかったことを知った彼は破滅への道を甘受する。しかしフランスが徐々に目覚めていくのを見ながら、「キリスト教の起源」 の第5巻、第6巻を書き上げる。そこでは民主主義との折り合いをつけ、最大の破滅が世界の発展を必ずしも中断させないこと、さらにカトリック教の教義には納得しないもののその道徳的な美と宗教的であった子ども時代の追憶との和解を見出している。

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エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN

2007-03-20 20:37:23 | 海外の作家

先日の Gallo-Finkielkraut 対論を読んでいて、国家と聞いてフランス人が恐らく最初に思い浮かべるのがルナンという人物なのかという印象を持ったが、どういう人なのかよく知らないので調べてみた。

Josephe Ernest Renan (28 février 1823 à Tréguier, Bretagne - 2 octobre 1892 à Paris) : un écrivain, philosophe, philologue et historien français (フランスの作家、哲学者、文献学者、歴史家)

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最初から余談になるが、ルナンのファーストネームを見た時にまず思い出したのは、学生時代によく聞いていたスイスロマンド管弦楽団の育ての親、エルネスト・アンセルメであった。

De son vivant, Renan fut surtout connu comme l’auteur de la populaire Vie de Jésus. Ce livre contient une thèse controversée selon laquelle la biographie de Jésus devait être écrite comme celle de n’importe quel autre homme et la Bible devait être soumise à un examen critique comme n’importe quel autre document historique. Ceci déclencha des débats passionnés et la colère de l’Église catholique.

ルナンは存命中、例えばイエス・キリストの生涯を書いた作家として有名であった。この本では、キリストは他のどんな人物とも同じように書かれ、聖書も他のどんな本とも同じように批判的に検討されなければならないという考えが披瀝されていて、カトリック教会の怒りを買い、激しい論争を呼んだ。

Renan est resté célèbre par la définition de la nation qu’il donna dans son discours de 1882 « Qu'est-ce qu'une nation ? ». Alors que des philosophes allemands tels que Fichte avaient défini la nation selon des critères objectifs comme la « race » ou le groupe ethnique (le Peuple), partageant des caractères communs (la langue par exemple), Renan la définit simplement par la volonté de vivre ensemble. Dans le contexte de la querelle sur l’appartenance de la région d’Alsace-Lorraine, il déclara que l’existence d’une nation reposait sur « un plébiscite de tous les jours ».

彼は、1882年に « Qu'est-ce qu'une nation ? » 「国家とは何か」 という演説で明らかにした国家観でも有名であった。フィヒテのようなドイツの哲学者たちが国家を言語のような特徴を共有するグループ (le Peuple 民族) あるいは人種 (la race) という客観的な基準で定義していたのに対して、ルナンは単純に « la volonté de vivre ensemble » 「共に生きる意思」 と定義した。当時問題になっていたアルザス・ロレーヌの帰属について、国家の存在は « un plébiscite de tous les jours » 「日々の国民投票」 (その日その日に表明される国民の意思ということか) に依存していると宣言している。

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ルナンはブルターニュの漁師の家庭に生まれた。祖父が少し余裕を持っていたので家を買い、そこに落ち着いていた。父は船長で筋金入りの共和主義者であったが、母は王政主義者の商人の娘であったため、ルナンは両親の政治的信条の間で終生引き裂かれた状態にあった。彼が5歳のときに父は亡くなり、12歳年上の姉アンリエッタが家族の精神的支柱になる。彼女は生まれた町に女学校を開設しようとするがうまく行かず、パリの女学校の教師として故郷の町を去る。ルナンはその町の神学校(現在はエルネスト・ルナン中学校と呼ばれる)で、特に数学とラテン語をしっかりと勉強する。母の父方の祖先はボルドーから来ているので彼女は半分しかブルトンではなかったため、両者の葛藤が見られたとルナンは回想している。

15歳の時、神学校のすべての賞を獲得したので、姉が勤めるパリの女学校の校長に話をする。それを機に、彼はパリに出ることになる。しかし故郷の教師の厳しい信仰とは異なり、パリのカトリック教は華やかではあるが表面的で満足のいくものではなかった。

17歳になり、哲学を修めるために別の学校に移る。彼の心はスコラ哲学への情熱で満たされていた。すぐにリード Reid、マルブランシュ Malebranche に惹かれるが、ヘーゲル Hegel、カント Kant、ヘルダー Herder に移っていく。そして、彼が勉強している形而上学と彼の信仰との間に本質的な矛盾があることに気付き始める。彼は、哲学が真理を求める気持ちの半分しか満たすことはないと姉に書き送る。

彼の疑問を目覚めさせたのは哲学ではなく文献学であった。新しい神学校に入り、聖書を読み、ヘブライ語の勉強を始める。しかし、聖書の原文を読み進むと文体、日時、文法などに疑わしい (apocryphe) ところがあることに気付き、次第にカトリック教の信仰から離れていく。仕事 (vocation) に生きるのか、自ら信じるところを求めるのか (conviction) という普遍的な葛藤の中、彼は後者を選び、1845年10月6日(22歳)に学校をやめ、中学校の生徒監督、さらに職住を保証された助教員として私立の寄宿学校に入ることになる。1日の拘束時間は2時間だけであったので充分に仕事ができ、彼は心からの満足を得る (Cela le satisfaisait pleinement.)。

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国立図書館フランソワ・ミッテランにて A LA BNF FRANCOIS MITTERRAND

2007-03-19 23:33:14 | Weblog

国立図書館 (Bibliothèque nationale de France, site François Mitterrand) で仕事をするために朝から出かける。雨がぽつぽつ落ちてくる。先週まではよい天気に恵まれたが、今週はよろしくない。メトロを Quai de la gare で降りて歩く。今までにない寒さである。BNFの板の階段を上がっていくと、上の方に幼稚園の子どもが先生に説明を聞いているところに出会う (本日の写真)。セーヌ川を挟んでベルシー (Bercy)、クール・サンテミリオン (Cour St-Émilion) の辺りが一望できる快適な場所だ。

勇んで目的の入り口に行くと締まっている。月曜は場所によって締まっているか、午後2時から開館と書いてある。出る前にチェックしておきたいものである。最近はこうなっても全く苛々しなくなっている。悠久の時間を歩んでいるかのようだ。早速近くのカフェに入り、イギリス訛りのフランス語で注文をとりに来た男に答える。そこで3時間ほど読みものと書きものをする。こちらのカフェは意外に集中でき、気持ちよく仕事ができる。サンドイッチとまたしてもコーラの昼食を取った後、2時過ぎに再びBNFへ向かう。建物には入れるが、肝心のSalleは月曜はお休みで入れなかった。仕方なくロビーの椅子に座って、さらに3時間ほど読み書き。さすがに集中が切れてきたのでホテルに戻る。冴えない月曜日となった。

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フランソワ・バイルとテレビ LA TELE ET FRANCOIS BAYROU

2007-03-18 23:32:56 | Weblog

今日はお昼から夕方まで、イタリア広場のある13区から5区、14区のあたりを歩き回る。ムフタール通りにある教会の前では人が輪になってピアフの 「パダム、パダム」 "Padam...Padam..." の大合唱。帰りにはモンパルナス墓地を1時間くらい散策し、サルトル Sartre、アンリ・ポアンカレ Henri Poincaré、ブランクーシ Constantin Brancusi の墓と対面。シオラン Émile Cioran とブラッサイ Brassaï は何度も探したが遂に見つからなかった。偶然に、スーザン・ソンタグ Susan Sontag、セルジュ・ゲンスブール Serge Gainsbourg の墓の前を通りかかったが、ゲンスブールの方は人と花が溢れ、今でも生きているようであった。

ホテルに帰るとTV Magazine が置かれていた。ここのホテルのサービスは少し変わっている。最初の日にテレビのコマンダーが全く反応しないので電池を入れ替えるように頼んでおいたが、1日経ってもさっぱり直してくれない。2日後に新しいテレコマンダーが置かれていた。また電話の声が小さいので何とかならないかと伝えるとすぐに行きますと答えたきりでさっぱり来ない。2日経って、新品でおしゃれなデザインの電話機に変えられていた。古い方ではネットにつながらなかったのが、こちらでは全く問題なく繋がる。昨年泊まったホテルでも電話からは通じなかったが、同じ原因だったかもしれない。人を判断するのに2-3日の余裕を見なければならないということを学習する。

ところで、TV Magazine に最近支持率を上げてきている UDF (フランス民主連合) 党首で大統領候補のフランソワ・バイル François Bayrou (25 mai 1951 -) のインタビューが出ていた。彼は最近、« Projet d'espoir » という本を出し、Le Point にも特集されている。

彼とテレビとの関係は・・・

「私の両親はバカロレアを持つまでテレビは買いませんでしたが、バカロレアに受かった後には私が家を出ていました。ただ子供の頃は親戚や近所の家で、アイバンホー Ivanhoé などを好んで見ていました。今のテレビは余りにも商業主義に走り過ぎて、私の趣味に合いません。ただ、歴史や建築のドキュメンタリー、アメリカやフランスのコメディーはたまに見ます。映画はハッピーエンドであることがわかっているものを見るようにしています。選挙に関するニュースは全く見ません。時間がないということもあります。本をたくさん読みますし、書きますのですべてはできません。情報はネットから得ています。昔からエレクトロニクス関係には興味があり、今使っているノートパソコンはおそらく25台目になります。ただ、政治においてはテレビの影響は凄いものがあります。カメラの前では嘘は見破られます。」

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報道と政治との関連で、以前に触れたニューヨーク市長ブルームバーグの発言を思い出していた (2005-4-14)。

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