フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

マックス・ギャロ、アカデミーへ MAX GALLO A L'ACADEMIE FRANCAISE

2007-06-01 06:40:06 | 海外の作家

このブログで触れたことのある方が、昨日アカデミー・フランセーズに選ばれたことを L'EXPRESS の記事で知る。しかもこのブログと縁のある方の席に。 

作家マックス・ギャロ Max Gallo (75歳) が哲学者ジャン・フランソワ・ルヴェル Jean-François Revel の後の席に28票中15票を得て、一回目の投票で選出された。5票は対立候補のクロード・アンベール Claude Imbert (調べて見ると私が購読中の雑誌 Le Point の編集長)、3票は白票、4票は二人の候補を拒否、1票は候補者になっていないベルナール・アンリ Bernard Henri へ。

ギャロは多作で、100冊に及ぶ小説、伝記、歴史研究を発表している。2000年6月にも候補になったが、その時は6票しか獲得できなかったという。

1932年、イタリア移民の家庭にニースで生まれる。彼には愛国の心があり、ドゴールやナポレオンの伝記などで大衆的な人気を得る前は歴史家として知られていた。戦闘的コミュニストであった彼は、1981年から10年ほど政治の世界に身を置いた。83-84年には社会党政権のスポークスマンを務める。その後左派から距離を置き、今回の大統領選ではサルコジを支持。


MAX GALLO (né le 7 janvier 1932 à Nice)

ギャロ関連
フランス人であるとは (2007-3-16)
フランス人であるとは(II) (2007-3-17) 

ルヴェル関連
自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (I) (2006-4-6)
自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (II) (2006-4-7)
ジャン・フランソワ・ルヴェル再び
(2006-5-20)

ベルナール・アンリ関連
映画 Le Jour et la Nuit - ベルナール・アンリ・レヴィ (2006-3-10)
もし・・・が起こっていなかったら (2006-9-30)

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アンドレ・マルロー ANDRE MALRAUX

2007-04-18 20:42:05 | 海外の作家

以前に読んだマブソン青眼さんの本 「一茶とワイン: ふらんす流俳諧の楽しみ」 で比較文学について触れているところがあり、仏版ハンモックで paul_ailleurs となっているこの方の言葉が引用されている。残念ながら、原典を確かめることができなかったが、、。
  
アンドレ・マルロー
 André Malraux (Paris, 3 novembre 1901 - Créteil, 23 novembre 1976)

  「頭のよさとは何か? それは今まで誰も結びつけたことのないものを結びつける力である」 

以前に関連付けの問題はここでも取り上げたことがある。例えば、

2005-12-30 太陽のもと新しきもの・・・ RIEN DE NOUVEAU SOUS LE SOLEIL ?
2005-03-10 Daniel Barenboim vs スペシャリスト

それこそが考えることであり、想像することである。そして新しいところに連れて行ってくれるかもしれないことである。やっと、それが私の中のテーマのひとつになりつつある。やっーとである。

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お相撲さん、ベンヤミン LE LUTTEUR DE SUMO ET WALTER BENJAMIN

2007-04-01 17:54:10 | 海外の作家

4月1日、朝の7時から伊勢神宮奉納相撲が開かれるという広告を見て、その前日神宮会館まで出向く。閉館するところだったが、係の人が中に入れてくれた。丁度その時、会館に入ってこられた北の海理事長とすれ違う。街にもお相撲さんが出ているようだ。以前にもお相撲さんの近くにいると何かありがたいものを感じると書いたことがあるが、ひょっとするとそれは何かに守られているという感覚から来ているのかもしれないという思いが過ぎっていた。


伊勢からの帰り、新聞四紙に目を通す。今回改めて感じたことだが、若い時から自分の興味は文化に集中していたな、ということである。学生時代から新聞で一番最初に目が行き、しかもじっくり読むのは文化欄であった。政治はまだしも経済になるとほとんど興味がない。それで日曜の読書欄に目をやるも、今回はびっくり箱から何も飛び出さなかった。ただ、朝日に出ていた近森高明著 「ベンヤミンの迷宮都市」 の橋爪紳也氏による書評にあった文章から、ベンヤミンなる人物に強い興味を覚える。例えば、次のようなところである。

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これまでの議論では、「遊歩者」 とは客観的な 「観察者」 であると理解するのが一般的だった。しかし著者はベンヤミンのテキストには、何らかの 「怯え」 を前提とする 「陶酔」 とでも呼ぶべき経験も織り込まれていると主張、「遊歩者」 は 「観察者」 であると同時に 「陶酔者」 であったと新しい論点を用意する。
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ここに出てくる 「遊歩者」、「観察者」、「陶酔者」 という言葉は私の中でのキーワードにもなっており、さらに読み進むと私がこれまで感じてきたことが書かれてある。

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 ベンヤミン自身は、森に迷うように都市に迷った。そのためには修練が必要だとまで考えたようだ。確かに街を文物を予兆や暗号に満ちた場所だと意識し、わざと迷い子のように怯えながら歩くと、都市は従来とは異なる相貌を浮かびあがらせる。何気ないざわめきも不穏に感じ、ふだんよく見知っている何の変哲のない街路が、突如、迷宮となって立ち現れる。
 そこで体感する 「陶酔」 とは、どんな経験なのか。本書では、たとえば魅惑的なイメージに惹かれて疲れ切るまで彷徨すること、または路上にあってふと過去を想起する感覚などが例示される。
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たとえば、歩き続けていると自分の存在が眼だけになるという経験を若い頃にし、それが陶酔に非常に近い感覚であることを感知していたが、そのことをポール・オースターが言葉にしてくれていた。それから街を歩きながら、よく見、よく観ていくと、全く新しいものがそこに眠っていることに気付くことが多くなっている。ここで書かれている 「怯え」 とは、まさにこれまでに出会ったことのない領域に足を踏み入れる時に感じる感情だろう。それはおそらく、よく観る (全くあたらしいものとして見る) という意識的な作業によって具体化されるのではないだろうか。


ヴァルター・ベンヤミン Walter Benjamin (15 juillet 1892 à Berlin - 26 septembre 1940 à Portbou)

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エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (III)

2007-03-22 03:09:39 | 海外の作家

ルナンも老境に入ると若き日に思いを馳せるようになる。1883年(60歳)、最も有名な本になった “Souvenirs d’enfance et de jeunesse” 「幼少期の思い出」 を発表。その年までに 「キリスト教の起源」 を書き終え、新らたに 全4巻となる 「イスラエルの歴史」 “Histoire d’Israël” を書き始める。最初の2巻は64歳と68歳で出版されるが、残りの2巻は亡くなった後になった。この本には誤りがないわけではないが、教義は別にして信仰心 (la piété) は必要であるという彼の思想が最も生き生きと語られている。晩年、レジオン・ドヌール勲章 (グラン・ドフィシエ Grand-Officier、大将校) を始め、幾多の名誉を手にした。最後は数日の病の後に亡くなり、モンマルトル墓地に葬られる。享年69。

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彼は、科学と無私の精神 (le désintéressement) に魅せられていた。宗教との関係は複雑で、「科学の未来」 には次にようなことを書いている。

« Quand je suis à la ville, je me moque de celui qui va à la messe ; mais quand je suis à la campagne, je me moque au contraire de celui qui n’y va pas. »

「私は都会にいる時はミサに行く人をからかうが、田舎にいると逆に行かない人をからかう」

それから科学と神の関連については、以下のように考えていた。すなわち、科学は宇宙において知りうるものすべてについて明らかにするだろう。それに対して神は完全で全的存在といえるだろう。その意味で、神とは今ないもので、生成の過程にあるもの (il est en voie de se faire ; il est in fieri.) 。しかし、そこで終っては神学は不完全なものになるだろう。神は全的存在以上のもので、絶対的なものである。数学、形而上学、論理学と同様の理法のものであり、理想の場、善きもの、美なるもの、正しきものの生きた原理である。そのように見るとき、神は永遠、不変で、進歩もなく生成が完成することもない。

彼はダーウィンの自然選択説が発表されると直ちに賛意を表した。また、人種差別的な考えも表明しているようである。ただ、彼が書いていることを当時の時代背景に置き直して検討しないと、このシリーズのきっかけになった対論でフィンキールクラウト氏が言っているように、遠く離れた現在から過去を見て自らの道徳的優位に満足するだけに終るのであろう。

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  ひょんなところから、ルナンさんと長く付き合うことになってしまった。
  場所が変わったことのよい影響かもしれない。

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エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN (II)

2007-03-21 02:34:05 | 海外の作家

ルナンは神父から教育を受けていたが、科学的な理想を受け入れていた。宇宙の見事さは彼を恍惚に導くものであった。後年、アミエル Amiel のことを評して 「日記などつける時間のある人間は、宇宙の広大さなど決して理解しなかった」 と書いている。1846年(24歳)には、彼の生徒であった将来化学者になる18歳のマルセラン・ベルテロ Marcellin Berthelot により、物理学や自然科学の確かさに目覚めさせられる。この二人の友情は最後まで続いた。このような環境で彼はセム語の文献学研究を続け、1847年には 「セム語の歴史研究」 によりヴォルネー賞 Prix Volney を授与されて、哲学の上級教員資格 (agrégation) を得てヴァンドロームの高校教師になる。

1860-61年(37-38歳)には、レバノンとシリアの考古学探索に参加する。妻のコルネリアと姉のアンリエッタとともにザキア・トゥービアの家に滞在する。その家で、彼の重要作の一つ 「イエスの生涯」 "La vie de Jésus" を書くための霊感を得る。また19861年に彼の姉が亡くなり、彼女の愛した教会のすぐ近くにあるこの家の地下埋葬室に眠っている。

ルナンは博識だっただけではない。聖パウロと弟子たちについて研究し、発展している社会生活を憂いていた。友愛の意味を考え、「科学の将来」"L'Avenir de la science" を書かせた民主主義的な意識が彼の中に息づいていた。1869年(46歳)、国会議員選挙に出る。

1年後には独仏戦争が勃発。帝政は崩壊し、ナポレオン3世は亡命する。この戦争は彼の精神生活にとって分岐点(le moment charnière)になる。彼にとってのドイツは常に思想や科学を考える上での安らぎの理想の国であった。しかし、その理想の国が彼の生まれた地を破壊してしまった今、もはやドイツを聖職者ではなく侵略者としてしか見做し得なくなる。

1871年(48歳)、"La réforme intellectuelle et morale" 「知的、道徳的改革」の中で、フランスの将来を守る手立てを模索している。しかし、それはドイツの影響を受けたままのものであった。彼が掲げた理想は戦勝国のものであった。例えば、封建社会、君主政治、少数のエリートと大多数のそれに従わされる人。これらは、パリコミューンに過ちを見た彼が得た結論であった。さらに、"Dialogues philosophiques" 「哲学的対話」 (1871年)、"Ecclésiaste" 「聖職者」 (1882年)、"Antéchrist" 「キリスト以前」 (1876年:皇帝ネロ Néron の時代を描いた 「キリスト教の起源」 "Origines du Christianisme" の第4巻)などは彼の比類なき文学的天才を示してはいるが、同時に醒めた懐疑主義的な彼の性格をも表している。フランスを説得できなかったことを知った彼は破滅への道を甘受する。しかしフランスが徐々に目覚めていくのを見ながら、「キリスト教の起源」 の第5巻、第6巻を書き上げる。そこでは民主主義との折り合いをつけ、最大の破滅が世界の発展を必ずしも中断させないこと、さらにカトリック教の教義には納得しないもののその道徳的な美と宗教的であった子ども時代の追憶との和解を見出している。

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エルネスト・ルナンの生涯 ERNEST RENAN

2007-03-20 20:37:23 | 海外の作家

先日の Gallo-Finkielkraut 対論を読んでいて、国家と聞いてフランス人が恐らく最初に思い浮かべるのがルナンという人物なのかという印象を持ったが、どういう人なのかよく知らないので調べてみた。

Josephe Ernest Renan (28 février 1823 à Tréguier, Bretagne - 2 octobre 1892 à Paris) : un écrivain, philosophe, philologue et historien français (フランスの作家、哲学者、文献学者、歴史家)

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最初から余談になるが、ルナンのファーストネームを見た時にまず思い出したのは、学生時代によく聞いていたスイスロマンド管弦楽団の育ての親、エルネスト・アンセルメであった。

De son vivant, Renan fut surtout connu comme l’auteur de la populaire Vie de Jésus. Ce livre contient une thèse controversée selon laquelle la biographie de Jésus devait être écrite comme celle de n’importe quel autre homme et la Bible devait être soumise à un examen critique comme n’importe quel autre document historique. Ceci déclencha des débats passionnés et la colère de l’Église catholique.

ルナンは存命中、例えばイエス・キリストの生涯を書いた作家として有名であった。この本では、キリストは他のどんな人物とも同じように書かれ、聖書も他のどんな本とも同じように批判的に検討されなければならないという考えが披瀝されていて、カトリック教会の怒りを買い、激しい論争を呼んだ。

Renan est resté célèbre par la définition de la nation qu’il donna dans son discours de 1882 « Qu'est-ce qu'une nation ? ». Alors que des philosophes allemands tels que Fichte avaient défini la nation selon des critères objectifs comme la « race » ou le groupe ethnique (le Peuple), partageant des caractères communs (la langue par exemple), Renan la définit simplement par la volonté de vivre ensemble. Dans le contexte de la querelle sur l’appartenance de la région d’Alsace-Lorraine, il déclara que l’existence d’une nation reposait sur « un plébiscite de tous les jours ».

彼は、1882年に « Qu'est-ce qu'une nation ? » 「国家とは何か」 という演説で明らかにした国家観でも有名であった。フィヒテのようなドイツの哲学者たちが国家を言語のような特徴を共有するグループ (le Peuple 民族) あるいは人種 (la race) という客観的な基準で定義していたのに対して、ルナンは単純に « la volonté de vivre ensemble » 「共に生きる意思」 と定義した。当時問題になっていたアルザス・ロレーヌの帰属について、国家の存在は « un plébiscite de tous les jours » 「日々の国民投票」 (その日その日に表明される国民の意思ということか) に依存していると宣言している。

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ルナンはブルターニュの漁師の家庭に生まれた。祖父が少し余裕を持っていたので家を買い、そこに落ち着いていた。父は船長で筋金入りの共和主義者であったが、母は王政主義者の商人の娘であったため、ルナンは両親の政治的信条の間で終生引き裂かれた状態にあった。彼が5歳のときに父は亡くなり、12歳年上の姉アンリエッタが家族の精神的支柱になる。彼女は生まれた町に女学校を開設しようとするがうまく行かず、パリの女学校の教師として故郷の町を去る。ルナンはその町の神学校(現在はエルネスト・ルナン中学校と呼ばれる)で、特に数学とラテン語をしっかりと勉強する。母の父方の祖先はボルドーから来ているので彼女は半分しかブルトンではなかったため、両者の葛藤が見られたとルナンは回想している。

15歳の時、神学校のすべての賞を獲得したので、姉が勤めるパリの女学校の校長に話をする。それを機に、彼はパリに出ることになる。しかし故郷の教師の厳しい信仰とは異なり、パリのカトリック教は華やかではあるが表面的で満足のいくものではなかった。

17歳になり、哲学を修めるために別の学校に移る。彼の心はスコラ哲学への情熱で満たされていた。すぐにリード Reid、マルブランシュ Malebranche に惹かれるが、ヘーゲル Hegel、カント Kant、ヘルダー Herder に移っていく。そして、彼が勉強している形而上学と彼の信仰との間に本質的な矛盾があることに気付き始める。彼は、哲学が真理を求める気持ちの半分しか満たすことはないと姉に書き送る。

彼の疑問を目覚めさせたのは哲学ではなく文献学であった。新しい神学校に入り、聖書を読み、ヘブライ語の勉強を始める。しかし、聖書の原文を読み進むと文体、日時、文法などに疑わしい (apocryphe) ところがあることに気付き、次第にカトリック教の信仰から離れていく。仕事 (vocation) に生きるのか、自ら信じるところを求めるのか (conviction) という普遍的な葛藤の中、彼は後者を選び、1845年10月6日(22歳)に学校をやめ、中学校の生徒監督、さらに職住を保証された助教員として私立の寄宿学校に入ることになる。1日の拘束時間は2時間だけであったので充分に仕事ができ、彼は心からの満足を得る (Cela le satisfaisait pleinement.)。

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ヴォーヴナルグ - ヴォルテール往復書簡 VAUVENARGUE-VALTAIRE LETTRES

2007-03-08 21:35:09 | 海外の作家

昨年の暮、ヴォーヴナルグとヴォルテールの往復書簡集が目に入り仕入れた。ヴォーグナルグはこのブログのお陰で知ることができた人物で、すでに触れている。そういうことでもなければ、この本には手は伸びなかっただろう。先日、本の山を掻き分けている時この本が出てきた。

  Vauvenargues-Voltaire : Correspondance 1743-1746

   marquis_de_Vauvenargues (6 août 1715 – 28 mai 1747)
   Voltaire (21 novembre 1694 - 30 mai 1778)

往復書簡は、ヴォーヴナルグが軍隊生活を送る27歳、ヴォルテール49歳の1743年に始まり、ヴォーヴナルグがパリに出て31歳で亡くなる前に終わっている。この二人の自由人による交流は、紹介文にもあるようにまさに至宝 "un joyau" である。ヴォーヴナルグの文章は、その明晰さ、誠実さ、文体の美しさをニーチェから絶賛されているので、期待しながら "La justesse sert à tout" (「正確さがすべてに役立つ」) と題してまとめられた最初の手紙を読んでみた。

まず17世紀をニ分した文豪ラシーヌとコルネーユについて論じられている。もちろん両者とも読んだことがないが、ヴォーヴナルグの評価とそれに対するヴォルテールの反応が興味深い。

Jean Racine (22 décembre 1639 - 21 avril 1699)
Pierre Corneille (6 juin 1606 - Paris, 1er octobre 1684)

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1743年4月4日、ヴォーヴナルグからヴォルテールへ

"Les héros de Corneille disent de grandes choses sans les inspirer ; ceux de Raine les inspirent sans les dire ; les uns parlent, et longuement, afin de se faire connaître ; les autres se font connaître parce qu'ils parlent. Surtout, Corneille parait ignorer que les hommes se caractérisent souvent davantage par les choses qu'ils ne disent pas que par celles qu'ils disent."

(コルネイユの主人公は大きなことを言うが霊感を与えない。ラシーヌの主人公はそれを語らずに霊感を与える。一方は自らを知らしめるために長々と語るが、他方は語るがために知られることになる。特に、コルネイユは語ることによってよりは語らないことによって人々の特色が描き出されるということを知らないようだ。)

"Corneille a cru donner, sans doute, à ses héros un caractère supérieur à celui de la nature ; les peintres n'ont pas eu la même présomption,,,"

(コルネイユは実物に勝る性格を主人公に与えていると信じていた。そんな傲慢さは画家でさえ持っていなかったのに、、、)

さらに、コルネイユの趣味の悪さ (よい趣味とは快活で自然に忠実な意識以外の何ものでもないのである) が作品にもモデルの選び方にも表れていると批判を続け、ラシーヌにも欠点がないわけではないが (欠点のない人がどこにいよう) と認めた上でこう言って退けている。

"En un mot, il me semble aussi supérieur à Corneille par la poésie et le génie, que par l'esprit, le goût et la délicatesse."

(一言で言えば、詩情、才能、知性、美的感覚、優雅さのいずれにおいてもコルネイユより勝っているように私には見える。)

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続フランス語を創った5人 LES CINQ QUI ONT INVENTE LE FRANCAIS

2007-01-10 23:34:34 | 海外の作家

以下、5人のフランス語の巨人についての抜粋。

Rablelais (par Marc Fumaroli)
 un véritable géant (真の巨人)
 ce formidable érudit et philologue (この恐るべき博学、文献学者)
 ce savant médicin (この教養豊かな医者)
 une figure majeure de notre littérature, d'une liberté et d'une puissance d'ironie sans précédent (われわれの文学、自由にとっての、そして前例のない諧謔の力を持つ重要人物)
 l'un des écrivains français les plus admirés à l'étranger (海外で最も賞賛されているフランス人作家の一人)
 notre Cervants (われらのセルバンテス)
 un écrivain pour écrivains (作家のための作家)
 une inspiration pour Voltaire, Victor Hugo our Flaubert (ヴォルテール、ヴィクトル・ユーゴー、フローベールに霊感を与えた人)

Du Bellay
 Charles Dantzig さんによる紹介文の中にあった "Heureux qui comme Ulysse" (ユリシーズのように幸せな) を見て、この言葉に触れた時の感動が昨日のことのように蘇ってきた。この人とはすでに出会っていたことを知る。Paule様からこの仏版に届いたコメントにこの言葉があったのだ。嬉しいことに、彼の記念館のページに行くとそれが飛び出してくる。

Ronsard (par Jean d'Ormesson)
 「17歳からベートーベンのように耳が聞こえなくなった (sourd) ことは、彼にとって決定的であった。本を読み耽った。20代でやはり耳が遠い (dur d'oreille) ジョアシャン・デュ・ベレーと出会う。詩に夢中の二人はパリに向い、ドラ Dorat の弟子になる。本、散策、ギリシャの作家、薔薇、ワインに没頭するが、その背後には歴史家、雄弁家、寛容の説教者としてのロンサールがいる。しかし彼が2世紀もの間忘れ去られていたとは信じられない。彼は、ユーゴー、ボードレール、アポリネール、アラゴンと同列に並ぶ最も偉大な作家だと思う。」

Montaigne (par Alberto Manguel)
 「私はいつもモンテーニュに戻ってくるが、彼を読むと友人の声を聞くように感じる。彼と同じように賢く感じる。しかも知性による威圧感を全く感じない。デュ・ベレーのような作家も好きだが、モンテーニュの場合は読者との間を隔てるものは何もない。引用の多用で読みにくいと言う人もいるが、私は全く気にならない。むしろ自分も一緒になって引用を付け加えて楽しんでいる。
 すべてに興味を示し、すべてが疑問の対象で、彼を惹きつけるものは無限である。彼が篭った塔は象牙の塔 (une tour d'ivoire) ではなく、世界から遠ざかるためでもそこから眼を背けるためでもなく、世界をより深く考える場所であった。沈黙の中で瞑想することなど望むべくもない今日、彼のお話は非常に有意義である。」

   *以前に、モンテーニュについて触れています。
    (2006-8-25 ニーチェはモンテーニュの仲間)

Théodore Agrippa (par Jacques-Pierre Amette)
 紹介されていたアメットさんの作品のタイトル "La maîtresse de Brecht" を見て、2003年ゴンクール賞受賞作とのことで途中まで読んでいたことを思い出した。折りしも、今日届いた Le Point には、彼の新作 "Un été chez Voltaire" が紹介されている。

 「ルネッサンス期の優美な詩の中にあって、宗教戦争における人間の様を暴露した唯一の人がアグリッパであった。彼自身もユグノー派の戦士で、幾度も負傷している。七編からなる "Les tragiques" は彼の叫びである。」

 この記事のタイトルは "Agrippa-la-colère" (憤怒のアグリッパ) となっている。

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フランス語を創った5人 LES CINQ QUI ONT INVENTE LE FRANCAIS

2007-01-09 23:44:44 | 海外の作家

今年はゆっくりとしたスタートになった。お昼の散策を始める。最近届いた Le Point をぱらぱらと。ルネサンス特集の中に今日のタイトルがある。フランス語に新風を吹き込んだ5人を現代の言葉の専門家がコメントを加えている。彼らがこの言葉をどのように捉えているのか、その感触を得ようとして目を通す。その5人と評者は以下の面々。

フランソワ・ラブレー François Rabelais (vers 1494 – 9 avril 1553) :マルク・フュマロリ Marc Fumaroli 

ジョアシャン・デュ・ベレー Joachim Du Bellay (1522 - 1er janvier 1560) :シャルル・ ダンツィック Charles Dantzig

ピエール・ド・ロンサール Pierre de Ronsard (septembre 1524 – nuit du 27 au 28 décembre 1585) :ジャン・ドルムソン Jean d'Ormesson

ミシェル・ド・モンテーニュ Michel de Montaigne (28 février 1533 - 13 septembre 1592) :アルベルト・マンゲル Alberto Manguel

テオドール・アグリッパ Théodore Agrippa d'Aubigné (8 février 1552 - 9 mai 1630) :ジャック・ピエール・アメット Jacques-Pierre Amette

この中で私が聞いたことのあるのは、ラブレー、ロンサール、モンテーニュの3人だけ (5人がどんな顔の持ち主かは名前をクリックすると見られます)。最後のアグリッパについては日本語の情報を得るのも難しそう。また彼らを論じる現代人5人の中でこのブログで取り上げたお陰で知っているのが3名。ラブレーのマルク・フュマロリ、デュ・ベレーのシャルル・ダンツィック、ロンサールのジャン・ドルムソン

まだ時差ぼけが残っているようだ。彼らが現代からどのように見られているのか、明日以降にしたい。

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エリック・エマニュエル・シュミット ERIC-EMMANUEL SCHMITT

2006-12-16 10:03:56 | 海外の作家

数日前だっただろうか。哲学の先生AHさんをネットで探している時に、この作家に出会った。

エリック・エマニュエル・シュミット Éric-Emmanuel Schmitt (28 mars 1960 à Lyon -)

AHさんがこの作家について研究しているとわかったところで通り過ぎようとした。時間があったのでその内容を読んでいるうちに、この作家のことを知りたくなっていた。さらに調べてみると、世界で最も読まれているフランスの作家ということになっている。amazon.fr でその作品について見てみると、いずれの作品も成功を収め、いくつかは映画化もされている。日本でも紹介されていて、映画も上映されていたことを知る。

簡単に彼の人生を見てみる。大学で哲学 (「ディドロと形而上学」 で学位) を修めた後、哲学を大学などで数年教える。1990年から書き始め、2作目のフロイト、神?が出てくる戯曲 "Le Visiteur" で成功を収めて以来、次々に作品を発表。始めは不可知論 agnosticisme の立場をとっていたが、最近キリスト教徒になる。そのためか宗教にまつわる作品が多い。また歴史上の人物 (フロイト、ディドロ、ヒトラー、キリスト、ポンティウス・ピラトゥスなど) についても書いていて、興味をそそられる。ブリュッセル在住。

まず次の三冊から読み始めることにした。
Monsieur Ibrahim et les fleurs du Coran (こちらは映画も)
Oscar et la dame rose
Ma Vie avec Mozart (CD付)


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2007-01-14 イブラヒムおじさんとコーランの花たち M. IBRAHIM ET LES FLEURS DU CORAN

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ポール・クローデルの人生 PAUL CLAUDEL SELON SEEGAN MABESOONE

2006-11-09 23:15:36 | 海外の作家

先日読んだマブソン青眼さんの 「青眼句日記」 の中に、芸術 (俳句) に生きるのか実学に生きるのかに悩む高校生に向けて語りかけているところがある。そこで彼が 「フランスの大詩人」 というポール・クローデルの人生を引き合いに出している。彼の語るクローデルの人生を見てみたい。

Paul Claudel (6 août 1868 - 23 février 1955)

1868年、北フランスの地方公務員の長男として生まれ幼い頃から詩を作るが、中学生になって進路について悩み始める。ポールの5歳年上の姉はかの有名なカミーユ・クローデルで、20歳代からパリの彫刻界の新星として活躍していた。姉の懇請により彼も上京し、パリの名門高校に入学する。マラルメの文学サロンに顔を出したり、姉に浮世絵を見せて貰ったりしているうちに、芸術家として立ちたいと思うようになる。

しかし、彼はパリ大学の政治学部に進む。その頃漂白の詩人ランポーの作品に出会い、彼のような退廃的な生活はしたくないと心に決めていた結果である。18歳の時にはパリのノートルダム寺院で神の啓示を受け、敬虔な 「カトリック詩人」 として一生を捧げる決意をする。22歳の時、外交官試験に主席で合格し、国家への奉仕と詩作を両立させるべくその人生を歩み始めた。アメリカ駐在の後、中国福州のフランス領事に任命される。

しかし彼は中国嫌いで、日本行きを希望していた。高校時代から 「繊細な日本文化」 のことを姉から聞いていた彼は、いつか日本で仕事をするために外交官の道を選んでいたのだ。そんな彼の中国での在任予定期間は15年という長いものだった。5年が経つと彼は精神的に参ってしまい、1年間の特別休暇をとりフランス中部の修道院で詩作と祈りの生活をする。

1900年10月21日、両親に説得され、マルセイユから香港行きのエルネスト・シモン号に乗り込む。32歳のクローデルが絶望に襲われていたその時、高貴な娘、ロザリー (薔薇の意) と運命の出会いをする。

その瞬間、彼は大詩人になる。彼が追い求めていたモチーフをその時見つけた。それは、「薔薇」、「水」、「恋」。しかし、ロザリーはフランス人実業家の妻。それは不幸な結婚ではあったが。彼女はクローデルと同じ福州に住み着き、彼の恋人になる。それからの5年間で愛を深め、その結晶まで宿すことになる。そしてフランスに帰国後離婚し、彼の娘ルイーズを内緒で育てる。

悲嘆にくれたクローデルは1906年に、フランス近代劇の傑作と言われる 「真昼に分かつ」 "Partage de midi" にその一部始終を語る。彼は13年後に別の女性と見合い結婚をし、ブラジルに向かう。リオに着くと待ちに待った手紙がロザリーから届いていた。それから二人の間で長い文通が始まる。1920年、15年ぶりに二人がパリで密会した時はクローデル52歳、ロザリーは49歳になっていた。その年に彼は念願の日本へ大使として向かうことになる。日本滞在中にロザリーへ思いを馳せながら、大作 「繻子の靴」 "Le Soulier de satin" を完成させる。「薔薇のような、毅然とした生き方を貫く女性のために、宣教師の弟が帆船で世界を駆け巡る、という壮大な悲劇」 を。

その頃の詩作に 「百扇帖」 "Cent phrases pour éventails" という短詩の連作があり、その中に次の詩があった。

    Seule la rose 
      est assez fragile
        pour exprimer l'Eternité

     薔薇の花だけは
       永遠を表すほどに
         脆いものである


この詩 (句) は、亡くなったロザリーの墓碑に刻まれているという。

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マルグリット・デュラスの日記 CAHIERS DE MARGUERITE DURAS 

2006-10-08 23:57:07 | 海外の作家

先週来た Le Point にマルグリット・デュラスが 1943-1949年 (29歳~35歳) の時期に書いていたノートが発見され、それが発売される (先週10月5日) ことを受けての記事が出ていた。デュラスとのつながりは、晩年をともに暮らしたというヤン・アンドレア Yann Andréa の "Cet amour-là" を読んだことがあるくらいだろうか。1984年のゴンクール賞 Prix Goncourt "L'Amant" はまだである。

マルグリット・デュラス Marguerite Duras (Gia Dinh, Indochine, 4 avril 1914 - St Germain des Près, 3 mars 1996)
"Cahiers de la guerre et autres textes" (448 pages, POL/IMEC, éditeurs)

1985年に "La douleur" 「苦悩」 という自伝的な本を出しているが、その中にノーフル・ル・シャトー Neauphle-le-Château の家の青い整理箪笥に誰の眼にも触れることなく残っていたノートを読んだ時の驚きが綴られている。しかし今回、それはほんの一部であったことが明らかになった。Institut Mémoires de l'édition contemporaine (IMEC) の所長、オリヴィエ・コルぺ Olivier Corpet さんとソフィー・ボガール Sophie Bogaert さんとのお仕事で、"Un barrage contre le Pacifique" 「太平洋の防波堤」 (1950年)、"Le Marin de Gibralter" 「ジブラルタルの水夫」 (1952年) から "L' Amant" に至るデュラス作品の原型 (la matrice) となっているものに光が当たることになった。

最初のノートには最も驚くべき事実が語られている。彼女の幼少時代が70ページにわたり削除されることなく (sans rature)、迸り出るかのように書かれている中に、家庭の苦悩、屈辱、暴力が顔を出す。マルグリット14歳の時、アマンとの出会いの後、長兄から文字通り殴られ (cognée)、母からもたたかれ (frappée)、"fumier" (堆肥=汚いやつ)、 "morpion" (毛じらみ)、 "salope" (淫売)、 "ordure" (ゴミ=人でなし) などの汚い言葉で罵られる。兄に殺されるかと本当に思ったと書かれてある。アマンとされる男は、実は中国人ではなく平均的安南人 Annamite よりも醜い安南人であることもわかる。母親も兄弟もサイゴンに出ては彼におごらせたりしていたようだ。彼女の原点にある屈辱を歪曲し (travestissement)、高めていく (ennoblissement) その力の何と凄いこと。

二番目のノートには未完の小説 "Théodora" が書かれている。この気取った (tarabiscoté) 文体の小説は、1969年に発表された "Détruire, dit-elle" 「破壊しに、と彼女は言う」 に取り入れられている。

最も素晴らしいのは三番目のノート。彼女の子供の死について語った生々しくも粗野な文章。彼女の愛人 ディオニス・マスコロ Dyonis Mascolo (彼との間には息子ジャンがいる)、小説家エリオ・ヴィットリーニ Elio Vittorini とのヴァカンスでの数々の素晴らしい描写。1953年に発表された "Les Petits Chevaux de Tarquinia" 「タルキニアの子馬」 の中にはこの時のメモが使われている。

「その他のテキスト」 の中には、notes, essais, fragments, bribes (断片) があるが、特に "L'enfance illimitée" 「無限の子供時代」 の章が素晴らしい。その中には母親の大地のような大きさが綴られている。プルースト同様に、彼女の作品の鍵になる存在が母親のようである。

何ら注意を払われることなく置かれていた資料は、まだ45箱にも及ぶとされている。しかし、最初のカイエにはデュラス嫌いの人も唖然とせざるを得ないだろう (on ne peut qu'être médusé) 。

11月にはカーン Caen でデュラス展が始まるようだ。

Marguerite Duras, une question d'amour
4 novembre 2006 - 31 janvier 2007
Abbaye d'Ardenne - IMEC
Saint-Germain la Blanche Herbe

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マーク・トウェインにとって古典とは "CLASSIQUE" SELON MARK TWAIN 

2006-07-30 00:17:55 | 海外の作家

先日の記事で古典についてのトゥルニエさんの考え (「教室で読まれる作品」) を紹介したが、今週の Le Point に皮肉たっぷりの定義をしている人がいるという小さな記事が出ている。

その人は、古典とは?と聞かれて 「賞賛はされるが読まれることのない本」 と答えている。

"Un classique ? Un livre dont on fait l'éloge et qu'on ne lit pas."

この発言の主はマーク・トウェイン (30 novembre 1835 - 21 avril 1910) である。Samuel Langhorne Clemens という本名を見て、以前にクレメンスが如何にマーク・トウェインを演出していたのかという視点から書かれた本を読んだことを思い出した。

Andrew Hoffman "Inventing Mark Twain: The Lives of Samuel Langhorne Clemens" (William Morrow & Co, 1997)

今回マーク・トウェインの本が2冊出たようだ。

"Ecrits secrets" (Arléa, juin 2006)
"Irrévérence et liberté : Aphorismes" (Arléa, juin 2006)

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ミシェル・トゥルニエ再び MICHEL TOURNIER (II)

2006-07-29 00:20:48 | 海外の作家

つながる時なつながるものである。昨日届いた Le Point に81歳になるミシェル・トゥルニエさんが老境についてのエッセイを書いているのが見つかった。早速、「80歳の方、お元気ですか?」 "Comment vas-tu, octogénaire ?" と題されたそのエッセイを読んでみた。何とも言えぬ味わいがあり、御老境にある方のお話がよくわかるようになってきているふしがある。

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彼が最初に歳を意識したのは大分前になるが、地下鉄でうら若き女性に席を譲られた時。本当に驚き、怒り出す寸前まで行ったという。

"Le premier choque de la vieillesse, je l'ai éprouvé il y a fort longtemps, la première fois qu'une jeune fille m'a cédé sa place dans le métro. J'étais stupéfait. J'ai failli me fâcher."

同じような経験は私には未だないが、若い人の受け答えの中に年長者を敬うような雰囲気を微かに感じることがある。そんな時、これは今まではなかったな、と自らに語りかける。

80歳を超えると、もう未来がない (Je n'ai plus d'avenir.) と感じるらしい。ラ・フォンテーヌが言っている。

"Passe encore de bâtir, mais planter à cet âge !"
「この歳で家を建てるのならまだいいが、種を蒔くなんて!」

彼の感覚では家を建てるのさえ、ということらしい。10年程前なら新しい家に移ろうと決断できたが、今ならいい家を見つけてもその気にはならないらしい。

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それから人の目がある。特に老人を蔑ろにする視線が。
"Il y a un mépris ambiant pour les personnes âgées."

それは古きよき物を簡単に捨て、新しいもの、新鮮なもの、若いものに走る傾向に繋がっている。彼は若者のための政党だったナチのことをよく覚えている。
"Son idéologie comprenait une véritable obsession de la jeunesse."

そして新鮮な肉を食べる夢を見るようになる。戦争はいつも若者を食い尽くすものなのだ。
"La guerre a toujours été une grosse mangeuse de jeunes."

また2003年の熱波により15 000人もの老人が主に老人ホームで亡くなっている。ある意味見捨てられた人々の死である。彼はこの出来事を極めてフランス的と見ている。8月に都会 (パリ) から人がいなくなるという現象 (au mois d'août, on ferme et on s'en va.) と密接に関連していると見ている。イギリスやドイツでは8月にも子供は学校に行っているというのに。この置き去りにされた死。お産が7月に増え8月に減るという統計を見れば、その訳がわかるだろう。8月のバカンスを確保するために日程を調整しているかのようだ。

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児童性愛者の問題は耳にたこができるほど聞かされている (On nous rebat les oreilles avec des histoires de pédophiles.)。しかし老人性愛 la gérontophilie はどうだろう。この問題を心配している人はいるのだろうか。彼はセクハラ紛いのことを言われたり、怪しげな電話やラブレターに取り囲まれているという。冗談じゃなく、これほどもてたことはないと言っている。

ビクトル・ユーゴーはこのことをよく見ていた。彼の有名な詩 "Booz endormi" にはこうある。

"Les femmes regardaient Booz plus qu'un jeune homme,
Car le jeune homme est beau, mais le vieillard est grand.
....
Et l'on voit de la flamme aux yeux des jeunes gens,
Mais dans l'œil du vieillard on voit de la lumière."

「女性は若者よりブーズを見ていた
 なぜなら若者は美しいが、老人は高貴だから
 ...
 そして若者の目には炎はあるが、
 老人の目には知恵の明かりがある (のだから)。」

なぜか元気の出る詩である。

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「老年の慰みは3つしかない。それは権力と富と名声である。」 と言った人がいる。

"La vieillesse ne connaît que trois consolations: le pouvoir, la richesse et la célébrité."

彼はそのいずれも持っておらず、いまだに働きつづけているという。老人は働かせるべき、という彼の考えには私も賛成である。老人はどのように働きたいのか、老人をどのように働かせるのか (活用するのか) を考えるのが、これから重要になるのだろう。

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ミシェル・トゥルニエ 「読まれるために書く」 MICHEL TOURNIER

2006-07-28 00:37:19 | 海外の作家

"J'écris pour être lu, pas par plaisir."

「私は楽しみからではなく、読まれるために書く。」

こう語ったのは、フランスの作家ミシェル・トゥルニエ Michel Tournier (19 décembre 1924 - )。御年81歳。最近の雑誌 Lire に出ていたインタビュー記事である。楽しみから、何の役に立つのかわからない、あるいは役に立たないことを密かに目指して書いているこのブログとは大きな違いである。

この方、本当は哲学者になりたかったらしいが、哲学の一級教員資格試験 agrégation に落ちたため、やむを得ず作家になった。それも上等の。この記事に気を惹かれたのは、彼がシュヴルーズ Chevreuse の手入れの行き届いた庭 (le jardin impeccablement entretenu) がある家に住み、昼食と子供に読書と哲学を教える時以外は世俗を避けてそこをほとんど出ない (Fuyant les mondanités, Tournier ne sort plus guère de son antre.) という件を読んだ時。昨年訪ねた私の友人宅がこの地にあり、あたりを散策した時に彼の家にわざわざ寄ってくれたことを思い出したからだ。こういう形で1年後に繋がってくるとは思いもよらなかった。

哲学の先生になれなかったので、ラジオの世界へ。そこでプラトン、アリストテレス、トマス・アクィナス、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カントという自分の秘密の庭を作る (Je cultivais mon jardin secret: Platon, Aristote, saint Thomas, Descartes, Spinoza, Leibniz, Kant.)。高度に哲学的な問題 (時間、空間、知識、他者との関係など) を選ぶことと誰にでも読んでもらえる物語を書くことを考えていた。それで選んだのがロビンソン・クルーソー (Robinson Crusoé)。そして出来上がった物語が43歳にして初めて出した 「フライデーあるいは太平洋の冥界」("Vendredi ou les limbes du Pacifique")。ロビンソン・クルーソ―の物語には哲学的な問題が少なくとも2つある。一つは孤独。彼は20年もの間一人で暮らしたのだ。それから他者との関係 (フライデーが島にやってきた時に生じる)。

その後出版社プロン Plon に入り、何でもやり楽しんだようである。プロンではマルグリット・ユルスナール (Marguerite Yourcenar) の「ハドリアヌス帝の回想」 (Mémoires d'Hadrien) を最初に読んだ人になる。「メグレ警視」 で有名なシムノン (Georges Simenon) にも会っている。

現代の作家で読むべき人は?との問いに、「ジュリアン・グラック」 と答え、その全ての作品を読むべきだと言っている。初めて聞く名前なので、これから触れてみたい。

Julien Gracq (27 juillet 1910 -)

トゥルニエはこれまで15冊程度しか作品を書いていない (同年代では50冊は書いていておかしくない)。彼の場合は一つのテーマに長い時間をかけるタイプで、陸上のスプリンター sprinter ではなくマラソンランナー marathonien だと見ている。若くして才能を燃やし尽くすよりは、ゆっくり進むのが好みのようだ。彼は先日触れたジャック・ロンドン (Jack London) を崇拝している。若くして (12 janvier 1876- 22 novembre 1916) 亡くなったが、全てをやってから逝った。世界を放浪し、金を求め、しかも作家であった。

古典とは?と聞かれて、教室で読まれる作品だと定義している。彼自身の作品も教室で読まれており、それが最大の誇りだという (C'est ma plus grande fierté)。

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