フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

9月の記事

2005-09-30 23:55:10 | Weblog
2005-09-30 ジャン・コクトー展を想って COCTEAU - EXHIBITIONNISTE EXTREME
2005-09-29 ルノワール父子 AUGUSTE ET JEAN RENOIR
2005-09-27 日本語とアルファべット - LE JAPONAIS ET L'ALPHABET
2005-09-26 玉之島関おめでとう TAMANOSHIMA A FINI 11-4
2005-09-25 藤原紀香と日本語 UN AUTRE ASPECT DE NORIKA FUJIWARA
2005-09-24 アサイヤス自伝 (II) ASSAYAS - LONDRES - INDE - ORWELL
2005-09-23 オリヴィエ・アサイヤス自伝から UNE ADOLESCENCE DANS L'APRES-MAI
2005-09-22 第四コーナーを味わう COMMENT VIVRE DANS LA DERNIERE PHASE
2005-09-21 木下 晋 SUSUMU KINOSHITA - PORTRAITISTE AU CRAYON
2005-09-20 日仏のために(III) RENCONTRE AVEC UN CHERCHEUR D'HANOI
2005-09-19 ユトリロ MAURICE UTRILLO - PEINTRE HONNETE ET SINCERE
2005-09-18 イスタンブール ISTANBUL C'EST MON REVE D'Y ALLER
2005-09-17 プラート美術の至宝展 LES TRESORS DE PRATO EN TOSCANE
2005-09-16 宮田美乃理 MINORI MIYATA - UNE POETE PURE ET ENTIERE
2005-09-15 お昼の読書 LA LECTURE A MIDI
2005-09-14 久しぶりにTV5 LA SAISON DE LECTURE
2005-09-13 ブラッサイ展にて BRASSAI - UN OEIL VIVANT
2005-09-12 12人の写真家と戦争 12 PHOTOGRAPHES JAPONAIS ET LA GUERRE
2005-09-11 松田理奈さんのコンサート RINA MATSUDA CONCERT
2005-09-10 新しい人と UNE SOIREE POUR NOUVEAX MEMBRES
2005-09-08 ダウンロードして美術鑑賞 AUDIOGUIDE POUR AMATEUR D'ART
2005-09-07 玉之島関との出会い LE LUTTEUR DE SUMO A QQCH D'APAISANT
2005-09-06 ギリシャ哲学者と劇場 LES PHILOSOPHES GRECS ET LE THEATRE
2005-09-05 「その時」とは POUR EVITER LE MONDE ORWELLIEN
2005-09-04 誰がその人か COMMENT DISTINGUER ENTRE ...?
2005-09-03 清流(II) SIZZLE S'IDENTIFIE AVEC L'UNIVERS
2005-09-02 ブログの効用 (III) BLOG POUR CULTIVER AUTRE CARACTERE
2005-09-01 秋の気配が、、 L'AIR AUTOMNAL EST DEJA ...

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ジャン・コクトー展を想って COCTEAU - EXHIBITIONNISTE EXTREME

2005-09-30 21:53:15 | 展覧会

今年の花粉症が終わったあたりからだろうか、金曜の夜は一週間の仕事を終えたという満足感、と言うよりはむしろ安堵感といった方がよいのか、何ともゆったりした気分になる。その時間を味わおうという気持ちになるのだ。不思議な気分である。今日は、パリで仕入れた Libération の別冊に付いていた Jazz のCDを聞いている。

そうしていると、一年前の夏にモントリオールを訪れた (lundi 26 juillet 2004)、その時に、Musée des Beaux-Arts de Montréal でやっていたコクトー展 "Jean Cocteau, sur le fil du siècle" を見たことを思い出した。充実したレトロスペクティヴであった。まだ意識して見るという状態ではなかったが、そのはしりだったのかもしれない。充分に満足して会場を出たことを思い出す。

Jean Cocteau (1889-1963)

今思い出すのは、彼の同性愛的傾向、薬物依存の景色、性の生々しい表現で溢れていた赤い照明のやや隠微な感じのする部屋である。人間の持っているある部分を目を閉じずに正直に描き留めていた。そのほか、意表をつく形となって現れるペンや鉛筆によるデッサンも強い印象を残した。全体として見えてきたのは、自分自身を芸術の題材として惜しげもなく、これでもかと晒している姿であった。やや痛々しくも感じた。あらゆことをやっていて、それを生きている証として詳細に記録することに一生を費やした人であったようだ。

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ルノワール父子 AUGUSTE ET JEAN RENOIR

2005-09-29 23:37:34 | 展覧会

印象派の旗頭ルノワールと映画作家の息子ジャンの展覧会が新装成った Cinémathèque française で昨日 (28日) から始まったというニュースを Le Point で知る。

Cinémathèque française は以前シャイヨー宮 Le Palais de Chaillot にあったらしいが、今回 51, rue de Bercy の1996年以来使われていなかったアメリカンセンターを Frank Gehry という人が改装してできた。ベルシーと言えば、3年前にパリを訪れた時、新しく開発されたという気の利いた店が集まった場所をのんびり散策し、店員との会話を楽しみながらアフリカ音楽のCDを買ったり、大型映画館で映画を見た記憶が蘇ってきた(何を見たのかは思い出せないが)。

新しいシネマテークには映画を写すところが3ヵ所、教育のためのスペース(ビブリオテークとメディアテーク)、さらに特徴的な点は、600平方メートルに及ぶ常設展会場と特別展会場があり、これが映画と他の芸術分野との相互作用を反映させるところとなる。志の高い野心的な試みで、読んでいるだけでわくわくしてくる。早く行ってみたいと思わせてくれる空間である。

そのオープニングにルノワール父子が選ばれたのは、この場所のミッションに合致するのだろう。

Pierre-Auguste Renoir (1841-1919)
Jean Renoir (1894-1979)


偉大な画家である父親の影を感じながら映画を作っていた息子は、「私の人生と映画 (Ma vie et mes films, 1974)」 の中で次にように語っている。

"J'ai passé ma vie à tenter de déterminer l'influence de mon père sur moi."  (父の私に与えた影響を明らかにするために一生を送った)

そうしなければならなかったほど、親子の関係は緊密であった。子供の頃は父親のモデルとして。オーギュストが彼の金髪が好きだったようで、100回は下らないほども。彼は女の子に見られたようで、禿であればと願うくらいに暗い経験だったと言っている。

"Mon père aimait peindre ma chevelure de l'or. Son affection pour mes boucles dorées me plongeait dans le désespoir. On me prenait pour une fille. J'aurais voulu être chauvre."

21歳の時に転機が訪れる。父の話し相手になり、それが後に「私の父ピエール・オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir, mon père, 1960)」 に結実する。父への最高の賛歌として (comme un ultime hommage)。父の死後、陶器をやる希望があったようだが、彼の妻 (父の最後のモデルだったカトリーヌ・エスラン Catherine Hessling) をスターにするために映画に足を踏み入れる。一銭にもならなかった映画ために父の絵を売る (Jean vend des tableaux de Pierre-Auguste pour financer ses films qui ne rapportent pas un sou)。

彼の映画には父からの影響と思われる印象派のアプローチが見てとれるが、もっと深いところには生きとし生けるものに対する愛情 (un amour commun pour tout ce qui est vivant) が流れていたのではないだろうか。また彼の父がそうであったように、想像を信用せず (Il se méfiait de l'imagination.)、観察することを第一に考えていた (J'ai besoin de l'observation comme point de départ.)。父の遺産は確かに受け継がれていたのである。

そういうことが感じ取れる展覧会のようである。

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28 août 2005

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日本語とアルファべット - LE JAPONAIS ET L'ALPHABET

2005-09-27 22:32:48 | 出会い

数日前のドラマの影響なのか。昨日から読み始めている丸谷才一のエッセイ 「いろんな色のインクで」 に触発されていたのか。今朝の通勤時には日本語と外国語について考えをめぐらせていた。

日本語は本来的に論理的にはなりえないのではないか、ということについて。象形文字に詰め込まれている想像を絶する歴史を考えただけでも、一筋縄ではいかない。文字には影があり、含みがある。奥行きが深く、雰囲気がある。それに比べて、アルファベット26文字、フランス語には少しの飾りがあるものの知れている。その文字を組み合わせて言葉をつくるのである。無味乾燥とは言わないまでも、味は相当に薄くなるだろう。同時に、数学的というか、論理的にならざるを得ないのではないだろうか。その中で生活していて感じた苦しみの主なものは、ひょっとしたらその陰翳のなさ、寄る辺ない無機質な文字の成り立ちに由来していたのかもしれない、などと考えていた。

丸谷先生の小説は読んだことがないのだが、エッセイのいくつかには触れていて、「考えるヒント」 には目を開かされたところもあった (10 mars 2005)。若い時には全く興味が湧かなかった作家。威勢はよくないし、現実とはそれほど関係のないところで遊んでいるのだから。少しの楽しみを感じるようになったのは最近のこと。

Le chroniqueur rend compte de l'actualité, l'essayiste porte les problèmes sur un plan plus général.

ということなのだが、この général が問題で、エッセイストの価値はその général さ加減に懸かっているのだろう。丸谷先生の場合はこれが相当なものなので、自分なりに楽しめるようになるためには、それなりの時間が必要だったということになる。ゆっくりと時間をかけて、いろいろなものを味わい蓄えていかなければ、その醍醐味はわからないのかもしれない。

今読んでいる 「いろんな色..」 にも面白いところがあるので、いずれ書いてみたい。

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玉之島関おめでとう TAMANOSHIMA A FINI 11-4

2005-09-26 21:19:50 | 出会い

場所前に一緒に食事をする機会があった玉之島関 (7 septembre 2005)。気になってフォローしていたが、いたって好調。11勝4敗で今場所を終える。なぜか嬉しいものである。来場所もこの調子を維持してほしい。場所終了後にでも機会があれば、そのヒーリング・パワーをまた頂きたいものである。もしこのブログを読まれていたら、ご一考願いたい。

(version française)
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藤原紀香と日本語 UN AUTRE ASPECT DE NORIKA FUJIWARA

2005-09-25 12:49:24 | 展覧会

昨夜、帰宅後にテレビでドラマを見る。丁度、藤原紀香演じる父を知らない、結婚式をその日の午後にひかえた女性と彼女の父親 (渡哲也) が話をする場面が流れていた。父親は彼女が娘であることを知っているようだ。お互いに抑えた表現での会話。状況がそうさせるのだろうが、藤原紀香の京言葉と相俟ってなかなかよかった。格闘技の番組での彼女とのギャップがこの印象を増強したのかもしれないとも思ったが、おそらくそうではないだろう。日本人の心のあり方や心配りの素晴らしい面 (原型のひとつとも言いたいもの) がそこに集約されているように感じたためだろう。

生物としては必然なのだろうが、今の日本人の姿は、その原型が環境によって変化を余儀なくされた結果である。その原型が引き出されたこのドラマの一シーンを見ていて、そのことに改めて気付かされたようだ。今までこんな風に感じたことはなかったし、むしろその原型にネガティブな面を見ていたようにも感じる。日本人の持つユニークなところから、素晴らしい面を拾い上げる余裕がでてきているのだろうか。

とにかく微妙な変化の兆しを見た思いだ。そして、自分の中に流れているものを知るためには、日本人が使っていた言葉をじっくり学ぶのが近道かもしれない、などという壮大な想いも頭をかすめていた。

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番組は倉本聰の「祇園囃子」というドラマでした。

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アサイヤス自伝 (II) ASSAYAS - LONDRES - INDE - ORWELL

2005-09-24 00:28:11 | 映画・イメージ

68年夏に2週間ロンドンに行く機会が訪れる。初めての経験である。眼を見開いて、パリと余りにも異なる世界を見ていた。カーナビー・ストリートのサイケデリックなブティック、ヒッピー、世界に行き渡っているものに替わる価値を唱える contre-culture などなど。ロンドンではそれらが実際に生きていると感じ、その場にいたいと考える。音楽、詩、東洋やアメリカ西海岸の影響を受けた宇宙の視点からの位置づけ、それに神秘主義。薬によって手に入れる目に見えないもの。彼自身は薬は全く好きになれなかったし、触れることのできるものよりはできないものを、物質的価値よりは精神的価値を優先するために、意識の状態を変える必要を感じなかったようだ。

70年、父親と叔母とともにインドに旅行する。彼がアジアの思想、歴史、世界観に惹かれるのは叔母に負うところが多いと感じている。とにかくポンピドーのフランス (今のシラクよりひどくないのだが) から早く逃げたかったようで、ベナレス(ヴァラナシ、バナラス) Bénarès、カトマンズー Katmandou、カシミールのスリナガール Srinagar, Cachemire、ゴア Goa など。この旅行で仏教への興味が湧いてきたという。

ベナレスの名前を見て、ペンギンから出ていたこの聖地の紹介本を持って5-6年前に私のところに来てくれたPRのことを思い出していた。それ以来この町を非常に近くに感じている。

ロンドンとのつながりはまだ続く。最初は語学研修、その後ミラノの従妹エティが出版社に勤めるご主人の仕事でロンドンにいたため。彼女が主流から離れた周辺の状況について、コンサートやハプニング、ヒッピーのバザール、平和主義者のデモ、正規のものに代わる図書館などに連れて行くことにより紹介してくれた。

彼はロンドンからジョージ・オーウェル George Orwell (1903-1950) の本を持ち帰る。その本を読むことにより、彼の政治的信念の基が築かれることになる。当時の急進主義者の混乱した話より筋の通った形がそこにはあったようだ。まず、スペイン内戦を内側から記録した "Hommage à la Catalogne : 1936-1937" 「カタロニア賛歌」、それから4巻 2400ページに及ぶ "Essais, articles, lettres" である (彼はペンギン版で読んでいるようだ)。

これらの作品にあるオーウェルの政治的発言、解析、関与・参加 (アンガジェマン) に彼は全的に連帯していく。ファシストと戦うことは言うまでもないが、過去の抑圧を新しい衣に隠して再生産しようとするような共産主義の官僚主義、自己中心的戦略にも。

オーウェルがともに戦った Parti Ouvrier d'Unification Marxiste (POUM) が彼の政治モデルになる。そして当時の彼にとって、オーウェルの思想以外は全く意味のないものになった。それは感受性豊かな年代に触れたせいだけではない。今でもオーウェルは彼の中で最高の位置 (tout en haut de mon panthéon personnel) を占めているようだ。彼がオーウェルに拘るのは、当時のフランスでは作品が訳されもせず、また手のいいSF小説と考えられていた 「1984年」 以外は図書館でも手に入らなかったからであり、それはフランス社会における共産主義が微妙な立場にあったこととも関係があるようだ。

真実から意識的に目をそむけること (l'aveuglement volontaire au réel)、事実を受け入れないこと (le refus des faits)、世界を観念的に見たり歪曲すること (l'idéologisation et la déformation du monde)、これほど彼が嫌悪することはない。逆に、真の自立と思想の自由が真実を暴くために最も貴重な手段となる。まさに「1984年」の回避である。


アサイヤス自伝(I)

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オリヴィエ・アサイヤス自伝から UNE ADOLESCENCE DANS L'APRES-MAI

2005-09-23 19:04:40 | 映画・イメージ

今年の夏、映画監督のオリヴィエ・アサイヤスが自伝を出したことを雑誌で知った (11 août 2005)。少し前から読み始めているが、これまでにいくつか興味を引くお話が出ていた。

« Une adolescence dans l'après-Mai » (Ed. Cahiers du cinéma)

彼の話を聞いた時には30-40代かと思ったが、1955年生まれというから今年50歳になる。父親は1911年にユダヤ人家庭に生まれ、ミラノで育つ。ムッソリーニのイタリアでファシズムと戦い、終生その姿勢を貫いた。30年代にパリに出て、映画界の共産主義サークルに近づく。40年に、アルゼンチン人であった最初の妻の助けでビザを得て、翌年春にマルセーユからマルティニークに船出する。その船には、レヴィ・ストラウスやアンドレ・ブルトンなどナチに抗する芸術家が乗っていたらしい。5年後ニューヨークを経てパリに戻る。56年のハンガリー革命の抑圧を見て、共産主義との関係を絶つ。

彼の母親はハンガリー人で貴族と結婚して子供が一人いたが、46年にハンガリーが共産主義化されたのを機に亡命。彼の父親と結婚してフランス国籍を得る。彼女の素朴さ (la simplicité rustique)、揺るぎない良識 (l'indestructible bon sens)、発言の露骨さ (la crudité du propos) などは彼の性格に大きな影響を及ぼしたと感じているようだ。

68年5月に彼は13歳になっていた。子供でもないし思春期にも達していない不思議な年齢。彼は社会で起こっていることを文字通り遠くから見ていた。7月に私が訪ねたパリの南のシュヴルーズ (La Vallée de Chevreuse) に住んでいたのだ。以来そんなに訪れているわけではないのだが、今でも自分の家に戻ったような落ち着いた気分になる唯一の場所がこの町だと言う。何という偶然だろうか。

(à suivre)

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第四コーナーを味わう COMMENT VIVRE DANS LA DERNIERE PHASE

2005-09-22 20:49:21 | 年齢とヴィヴァシテ

今週は二日間に亘って大学で講義をした。一日に三コマ (一コマ90分)。普段大きな声でこれだけの間お話をすることがないので、最後の方にはふらふらしてきた。修行が足りないですね、と言われる訳である。しかし、白いキャンバスのような若い人たちと話をしていると、こちらの頭の中が意外と先入観に凝り固まっていることに気付いたり、本当の理由はよくわかっていないことが多いことを再認識させられたりと、頭の中にそよ風が吹いたような清々しさを覚えた。

その帰りに、本屋に寄ると入り口に並べられていた足立則夫著 「遅咲きのひと」 に目が行き、読んでみることにした。年とともに透明に、鋭く、しかも円やかになっていくことは、嬉しいこと。「高齢と Activité」 というのは私のテーマの一つにもなっている。いろいろな人にあやかりたいという思いでもあったのか。一つ一つのエピソードが短いので、何かのついでに目を通すことができる。参考になるお話が出てくるだろうか。期待したい。

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木下 晋 SUSUMU KINOSHITA - PORTRAITISTE AU CRAYON

2005-09-21 20:07:03 | 展覧会

この日曜日(17日)に、NHK-ETV で 「木下晋-老いを描く」 という番組を見る。

やや写真家荒木経惟に似た風貌を持つ木下氏は、30代中頃に自分の絵をニューヨークに持って行くが、全く評価されずに失意の帰国をする。その数日後に三味線を携え農村・山村を巡る盲目の女性遊行芸人である瞽女(ごぜ)、小林ハルさんと運命の出会いをしたという。

テレビに映っていたハルさんの顔を見たが、張りがあって輝いているように見え、素晴らしい。彼は、彼女の語る世界が色に満ちていて豊かなのに驚き、心を打たれる。おそらくそのためだろうか、彼はそれ以後、黒鉛筆だけで肖像画を描き続ける道を選んだようだ。

末っ子が餓死した後、家族を捨てて放浪の旅に出た彼の母親セキさんも、残酷なくらい執拗に描いている。彼が38歳の時にセキさんが車に撥ねられて亡くなる。奥さんの話によると、その時彼は自分の部屋に閉じこもり号泣していたという。後にも先にもそういう姿を見たことはないようだ。

自宅の狭い部屋をアトリエとして、何の衒いもなく黙々と仕事をしている。本当にやろうという気持ちがあれば、これでいいのだと思わせてくれるものがそこにあった。彼の描く対象は見ていてやや苦しくなるようで、私とのアフィニティはなさそうだが、鉛筆だけで人間の本質に迫ろうとする彼の気迫や自らの独自の世界を築き上げようとする意思には感動するものがあった。

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日仏のために(III) RENCONTRE AVEC UN CHERCHEUR D'HANOI

2005-09-20 20:07:53 | 日仏のために

先週、P協会のMW氏とMO氏からのお話があり、パリのIP所属で現在はハノイ在住のPB氏と会うために、指定のホテルに出向いた。彼はアメリカ人であるが、今はフランスの国籍も持つ科学者で、大学まではアメリカ、卒後はパリで教育を受け学位を取っている。アジア担当になった当初は本来の所属先があるパリと往復していたらしいが、今はベトナムに落ち着いているようだ。その経歴からわかるようにフランス語も流暢に話し、日本にも研究のため2年ほど滞在したことがあるとのことで、アクセントのない日本語も少しだけ聞くことができた。

食事をしながらのミーティングは1時間半くらいだっただろうか。話題の幅が広く、充分に楽しむことができた。まず、私が francophile になった4年前の出来事を話すと、本当かと聞き返してきた。嘘ではないことがわかると、病気にはそれなりに存在理由があるという、以前に触れた私の結論と同じことを言っていた。花粉症にお礼を言わなければ、というわけである。また彼のパリの友人を私が知っている事にも驚いていた。"Le monde est petit !" ということなる。

これも以前に触れたことだが (31 août 2005)、アメリカとフランスの科学の進め方の違いについても話が及んだ。彼もアメリカの科学がやや機械的なきらいがあり、背後にあるものについて考えるという姿勢が少ないように感じていた。そういうこともあってのことだとは思うが、アメリカではもう仕事をすることはないだろうとのことであった。日本も戦後、アメリカのシステムを入れ、それをよしとしてやって来て現在がある。少し味(=余裕から醸し出される何か、あるいは愉しむ・味わうという気持ち)が足りないのかな、というのが私の印象である。

彼の指摘では、日本には naturaliste (博物学というニュアンスか) の伝統はあるが、cartésien (デカルト的な論理的・合理的な考え方=西欧的な考え?) の伝統は未だ根付いていないのではないか、というような話をされていたようだ。西欧的な考えからすれば、博物学的な考えは余り高く評価されていないということになるのか。また、彼が研究していた日本の大学で、第二次大戦のためにどのような研究がされていたのか、ということまで教えていただいた。そういう状況になれば、自らの研究の方向性も変えざるを得なくなるということを教えてくれる。

この日の会合では、科学以外の領域、例えば美術、文学、哲学についても話題にできる、愉しめる空間がそこにはあり、あっという間に時間が過ぎていた。

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(version française)

日仏のために(I)
日仏のために(II)
日仏比較

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ユトリロ MAURICE UTRILLO - PEINTRE HONNETE ET SINCERE

2005-09-19 14:45:59 | 展覧会

昨日の朝、NHK-ETVの新日曜美術館を見る。

モーリス・ユトリロ Maurice Utrillo (1883-1955)

ユトリロといえば、生まれ故郷のモンマルトルを描き続けた画家、余り変わりばえのしない絵を描く画家という程度の印象しか持っていなかった。もう忘れかけていたが、先日見たモディリアーニの映画では、苦境のモディリアーニに友情の手を差し伸べる印象的なシーンがあった。また本棚を見てみると、少しは興味があったのだろうか、「ユトリロと古きよきパリ」という小さな本が見つかった。

彼の人生は、結局のところ彼の母親との関係に集約されるようだ。母親はマリー・クレマンチーヌ・ヴァラドン Marie-Clémentine Valadon。後にシュザンヌ・ヴァラドン Suzanne Valadon と改名して画家を目指す。実の父親はわかっていないようだ。シュザンヌも私生児として生まれている。この母親は恋多き女で、昼はアトリエ、夜は男と街に出るという生活。ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec (1864-1901) のモデルをしたことから関係ができる。また、エリク・サティー (1866-1925) の愛人でもあったという。ということで、ユトリロは孤独に苛まれてか、酒に溺れるようになる。母親に刃物を向けたことをきっかけに精神病院へ。集中できるものが必要とのことで、母親は絵筆とパレットをユトリロに与える。これが彼を救うことになった。描いている間は症状は治まり、また母親に褒められることで母親との繋がりを見つける。

ゲストの浅田次郎によると、芸術家は自己と対峙せざるを得ない孤独な作業を営みとしているので、多かれ少なかれ母親と向き合うことになるという。

モディリアーニとは22歳の時に知り合いになっているようだ。ユトリロにとって衝撃的な事件が起こったのは20代半ば。彼の唯一の友人であるアンドレ・ユッテルが母の夫となるのである。それ以来、引き篭もりがひどくなり、当時沢山出ていた絵葉書を参考にして彼独自の詩情溢れるパリの世界を開く。「白の時代 Période Blanche (1910-1914)」の始まり。壁の質感を出すために、漆喰、卵白、苔などなどを塗りつけるという工夫をしていたようだ。

その後も入退院を繰り返したようだが、退院後は絵を描ける喜びのためか、絵は明るく変化してくる。太陽や自然に夢中になったようだ。このころから世間的に認められるようになる。「色彩の時代 Période Colorée (1922-1955)」。

51歳で、12歳年上の女性と結婚し、パリ郊外のル・ヴェジネ Le Vézinet で生活。モディリアーニの映画にも描かれていたように、ピカソ、マティスなどが華やかな活躍をしていたパリの流れにはお構いなしに、自分の昔の作品を、失われ逝くモンマルトルの風景を懐かしむかのように模写していたという。結婚した3年後の1938年に母親が72歳でなくなり、以後は祈りの生活を送ったようだ。

最晩年の1955年に、パリ市が彼への感謝の気持ちの表現として、「パリが彼を愛していることを伝えるために」、彼に4点の作品を委嘱した。この話を聞いて、ある感動を覚えていた。その作品2点がパリ市庁舎(?)に飾られている。いずれも素朴で、とても澄み切っていて、私の中に一番すんなり入ってきた。気に入った作品になった。残念ながら手元の本にはないので記憶に頼るしかないが、ふんわりと浮かんだ雲と空の下に人がのんびりと歩いている街並みを描いたものと冬のエッフェル塔である。この二つの絵を見て、この画家が最後にたどり着いた心の中がわかったような気がした。その絵を完成した2ヶ月後に71歳で亡くなる。最後は平穏な気持ちでいたのではないだろうか。

浅田次郎は、彼は自分の世界を、誰とも付き合わず描き続けた人で、幸福な画家ではなかったのか、そうすることができた人が幸福でなかったはずはない、と締めくくっていた。私もそう思いたい。

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イスタンブール ISTANBUL C'EST MON REVE D'Y ALLER

2005-09-18 08:21:57 | 

昨日の夜はゆっくりする。TV5をつけると、24 h à Istanbul なる贅沢な番組が流れていた。私にとっては何とも嬉しい出来事であった。イスタンブールといえば、昔から私の好奇心を掻き立てる街である。東と西の交差点。どんな雰囲気を醸し出しているのか興味津々で見ていた。

その昔、アメリカからの帰国の機内で、アメリカの大学に在籍し、トルコに帰るところだった学生と隣り合わせたこと、この6月にパリのザッキン美術館でトルコ出身の芸術家に会ったことなどが思い出される。また、2年程前TG大の学生でトルコに1年留学していたというSSさんに数ヶ月トルコ語を習ったこともある。フランス語への興味が増してきたのと、彼女が就職したので止めてしまったが。その時にトルコ関係の本を集めたことがあるが、なかなか打ち込むことはできなかった。また、読み始めたがそのままになっていた、16世紀の建築家を描いた夢枕獏の「シナン」のことも思い出した。

番組を見ると、イスタンブールの歴史から建築、芸術、今のイスタンブールの姿、何でも超廉価 prix imbattable で手に入るというバザール、蚤の市などが存分に伝えられる。ボスポラス海峡 Bosphore から見渡せる素晴らしい眺め、この町の象徴のようなモスクの数々、地震でもあれば潰れてしまいそうな古い町、対立項のある町 la ville d'antagonisme、この町に住んでいる人の話でもアジアのようでもあり、ヨーロッパのようでもある、ラテンアメリカの要素もあれば、アフリカの要素もあるという un peu asiatique, un peu européen, un peu latino-américain, un peu afrique。

さらに、学生時代に聞いてから久しいムスタファ・ケマル Mustafa Kemal (1881-1938) についてのドキュメンタリー。現在のイスタンブール社会で活躍する人々へのインタビューや階段教室での大学生とフランス人との討論会も大いに参考になった(ここでも女子学生の方が active ではっきりものを言っているようであった)。アナトリア Anatolie、高樹のぶ子の小説で知ったエフェソス Éphèse、ビザンティン byzhantine などの音を聞いていると、異様に興奮してくるのがわかる。

番組を通じて、イスタンブールやトルコの姿がぼんやりと浮かび上がってくる。いずれ訪れてみたいところになっているのを感じる。

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(10:25-10:57, 18 septembre 2005)

何かのつながりだろうか。今、NHKの特集でイスタンブールのトプカプ宮殿が取り上げられている。つながりを感じる時、嬉しくもなり、不思議な気分にもなる。小池昌代という詩人が案内役。

日本の映像は昨日のTV5のものと明らかに異なっている。同じ景色を見ているはずなのだが、といつも思ってしまう。日本製には肉から出るものが乏しいのだろうか。

壮麗王スレイマン1世(1494-1566)とその奴隷から皇后になったヒュッレム(ウクライナ出身で「美しく笑う人」という意味の名前を貰う:?-1558)との物語。詩を通して、お互いが近くなったようだ。そのために詩人が案内人になっているのだろう。

ヒュッレムは、スレイマン1世の子供を宿した女性から襲われ、顔に傷を負い、それ以来部屋に引き篭もることになる。一途なヒュッレムに心を動かされ、彼女を正妻にすることにする。王はトプカプ宮殿にハレムをつくる。彼女たちには8年にも及ぶ教養教育が求められたらしい。楽譜なしでの音楽教育など。彼女はスレイマニエ・モスクの完成を見届けて50代に亡くなる。

その後、帝国は衰退の道を進む。それは王子の謀反で殺されるとの強迫観念を持ったスルタンが王子を「黄金の鳥篭」と呼ばれる場所に幽閉したことから始まる。そこには鼓膜に穴を開けられ、舌を切られた宦官が配置される。やがて閉じ込められていた子が王位に就くが、ムスタファ1世は精神に異常をきたし一年で退位。オスマン2世はすぐに弟を殺害。ムラト4世は三人の弟を処刑。

18世紀に入り、中心は西ヨーロッパに移る。スルタンは宮廷の中で穏やかに暮らすようになり、トプカプ宮殿は一時膨張するが、別の宮殿にスルタンの住まいが移る。そして、1909年ハレム解散。400年の物語が終わる。

映像を見ながら書くというのは初めての経験だが、興味深いものであった。

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プラート美術の至宝展 LES TRESORS DE PRATO EN TOSCANE

2005-09-17 14:24:45 | 展覧会

用事があり新宿まで出た。すぐに帰るつもりで歩いていたところ、損保ジャパン東郷青児美術館の前を通っていた。プラート美術の至宝展の看板がかかっていたので、予定を変更して中に入った。こういう思いもかけない展開が私に密かな喜びを運んでくれる。

前回はビュッフェ展で訪れているので、この前来たところだな、という思いで中に入る。しかし全く別の空間がそこにはあった。玄関は同じでも中に入ると毎回違った家を訪れるという印象。当然といえば当然なのだが、美術館というところは面白いものだなと改めて思った。

-フィレンツェに挑戦した都市の物語-という副題がつけられている。今回は、自分にとって新しい領域なので、せめて言葉だけでも親しみたいということで、気が向いたところで簡単なメモを取った。初歩の初歩であるが、書き出しておきたい。

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フィリッポ・リッピ Filippo Lippi (1406-1469):プラート大聖堂の「聖ステファノ伝」と「洗礼者ヨハネ」の壁画を描いたフィレンツェの修道僧。1452-65年の間プラートに滞在してこの仕事に取り掛かったというから、46歳から59歳にかけての大仕事ということになる(今日の写真は彼の若き日の自画像)。

包帯で(がんじがらめに)巻かれているキリスト。これにはどういう意味があるのだろうか。

聖母子 Madonna col Bambino: 変わらぬテーマ。

15世紀末から16世紀にかけてペストの大流行。

聖セパスチアヌス: ローマ皇帝の親衛隊長で、キリスト教徒であることが発覚し処刑される。

聖カタリナ: 教育・科学・哲学などの守護聖人で、古代ローマ時代に殉教したとされる。

聖フランチェスコ: フランチェスコ会の創始者。

Cristo in Pietà (ピエタ = イタリア語で悲しみ、苦しみ)

テラコッタ (彩釉、さいゆう): 粘土に上薬(釉)をかけて焼く。14世紀にスペインからイタリアに入る。親しみやすいが、やや安っぽい印象があった。

聖ヨハネ: キリストの親戚で洗礼者。ヘロデ王に捕らえられて斬首される。聖ヨハネの首というモチーフはフランドル地方で普及。15世紀後半からイタリアでよく描かれるようになる。

カラヴァッジョ派のカラッチョーロ作 「キリストとマグダラの聖女マリア(我に触れるなかれ)」:
 復活したキリストにマグダラの聖女マリアが出会い、キリストが「わたしに触れてはいけない。わたしはまだ父のみもとに上がっていないのだから」とマリアを制する有名な場面とのこと。暗い場面の一部に光りを当てるというカラヴァッジョ派の特徴が出ていて、心理ドラマの表現としては力がありそう。このキリストはカウボーイハットのような帽子をかぶっている。聖人を下層の風俗で描いたため品位を欠くとして教会の頂点があるローマでは忌避されたが、アルプス以北、ナポリ、スペインで浸透したようだ。確かにこのキリストは大胆である。

ナポリ派の肖像画でアルキメデスやユークリッドが描かれていた。

印象に残った表情:
ジョバンニ・ディ・フランチェスコ 「聖母子」
パオロ・ウッチェロ 「ヤコポーネ・ダ・トーディ」
リドルフォ・デル・ギルランダイオ 「バルド・マジーニの肖像」
ルドヴィーゴ・ブーティ 「フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニの肖像」

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急いで取ったメモなので誤りも多いと思われます。ご指摘いただければ幸いです。

コメント (10)
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宮田美乃里 MINORI MIYATA - UNE POETE PURE ET ENTIERE

2005-09-16 23:27:25 | 写真(家)

今日のお昼は、S書店に立ち寄る。帰りがけに手に取ったのが、宮田美乃里という乳がんで片方の乳房を摘出した歌人の歌と、彼女の存在をアラーキーこと荒木経惟が写真に収めたという 「乳房、花なり。」。

全く無防備なお昼時、強烈なブローを食らった思いであった。帰ってネットで調べるとすでに今年の3月に34歳で亡くなられている。

10分ほどの短い時間。写真にはすべて目を通した。歌も飛び飛びに読んだ。歌の良し悪しもわからない身ではあるが、何か強烈なものが伝わってきた。人間という悲しい存在の底の底から激しい声を上げているのを見、聞くことができたような気がした。

若い人間が先の見えてしまう状況に陥った時、抑えた表現などはできないだろう。人間の持っているエネルギーが予想もつかない方向に乱れ飛び、手がつけられないかのようだ。ほとんど暴力的な感情の迸りである。人間の持てるエネルギーのすべてを搾り出して逝った、という印象である。私などは、おそらくそれを小出しにして生きているのだろう、という思いも心に過ぎった。午後は、疲労感が体に漂っているようだった。

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