遠出の電車の中で村田吉弘氏の 「
京都料亭の味わい方」 を読む。京言葉によるお話を聞くという感じが心地よく、3時間ほどで読み切ってしまう。
著者は、京都で割烹 「露庵」 と料亭 「菊乃井」、赤坂で料亭 「菊乃井」 を経営している料理人。読んでいて、日本の伝統的な家族、商売のあり方の原型を見るような思いがして、落ち着いた気分にさせられた。それからいくつかお勉強することもできた。
まず、「割烹」 と 「料亭」 の違い。一言で言うと、「動」 の 「割烹」、「静」 の 「料亭」 ということになる。
「割烹」 では、カウンター越しに、料理人が刺身をひいたり、魚を焼いたりするさまを逐次、目で追いながら、時には料理人たちと会話をしながら、活気のある雰囲気の中で食事ができる。
一方、「料亭」 では、建物の構えや庭の佇まい、床の間の掛け軸や置物など調度品の贅沢さ、生けてある花の風情、女将の挨拶や立ち居振舞いなど、すべての要素を複合的に楽しめる。著者は 「大人のアミューズメントパーク」 と言っている。その料亭では、「格」 を大切になり、それを理解するのが客のマナーとも。マナーを守れない人が増えているということか。
「懐石」 とは、文字通り 「懐の石」 という意味で、その昔、修行中のお坊さんが空腹を忍ぶために温めた石を懐に入れていたことが語源だという。そこから、空腹を凌ぐための軽食に意味が転じた。現代の懐石料理の形式は千利休が確立したもので、本来は茶席で亭主が客に出す食事のこと。濃茶は時に空腹では強すぎることがあるので、それを和らげるために小腹を満たすのがその役割。著者によると、懐石は海外にも浸透していて、フランス語の "kaiseki cuisine" の説明など言い回しが詩的で気恥ずかしくなるほどだというので、ウィキを覗いてみた。気恥ずかしいところまでは行っていないように見えるが、。
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La cuisine kaiseki est normalement strictement végétarienne, mais de nos jours, le poisson et d'autres mets peuvent être occasionnellement servis.
懐石料理は、普通は厳密にはベジタリアンであるが、現在では魚や他の料理も時には出される。
Dans le kaiseki, ne sont utilisés que des ingrédients frais de la saison, préparés de manière à mettre en valeur leurs goûts et leurs odeurs. Une précaution exquise est prise dans la sélection des ingrédients et des types de nourriture. Les plats sont magnifiquement arrangés et garnis, souvent avec de vraies feuilles et de vraies fleurs, si bien que certains plats ressemblent à des plantes naturelles ou à des animaux. L'aspect esthétique est tout aussi important que la nourriture lors du kaiseki.
懐石では、味や匂いを生かした方法で調理された季節の新鮮な材料しか使われない。素材と食事の様式の選択に細心の注意が払われる。料理はしばしば本物の葉や花が用いられ、見事に準備され、皿に盛り付けられるため、自然の植物や動物と見紛うほどである。懐石料理においては、美的要素が栄養と同じくらい重要なのである。
Les mets sont servis en petites quantités dans des plats individuels et le repas est mangé en étant assis en position de seiza. Chaque repas possède son petit plateau. Les personnes très importantes ont leur propre table basse ou plusieurs petites tables.
料理は別々の皿で少しずつ出され、正座をしていただく。それぞれの食事は小さなお盆に出される。その場の重要人物には相応の食台か、いくつかの小さな食台が用意される。
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著者は、実際に慶尚 (キヨサン) 南道にある尼寺で食事をし、余りに京料理に似ているので驚いている。京料理のルーツを韓国に見ている所以だ。その昔、京文化 (友禅、西陣織、陶芸など) をつくったのは帰化人なので、彼らが料理人を一緒に連れてきても何ら不思議ではなく、むしろ自然だったのではないかと考えている。
それから大阪と京都の出汁の取り方が違う。
京都では14世紀ごろ、北国船で利尻昆布が、また大阪へはその後の北前船で羅臼昆布が入っていた。羅臼昆布は濃厚で香りが高く、出汁の色が濃い。旨味もあるが、臭みやぬめりが出るので一晩水につける。それから水に入れ、ぐらっときたらすぐに火を止め、ちょっと分厚く削った、血合いを削り落としていない本節を入れる。一方、京都の利尻昆布は沸点までもっていってから火を止め、血合い抜きで薄く削った鰹節を入れるという違いがある。ところで、東京のものは日高昆布を使い、ぐらぐらと炊いた後、大阪よりもさらに分厚く削った血合い入りを入れるという。
村田氏が東京に店を出そうとして売りに出されている料亭を見て回り、政治家を、しかも政治家だけを相手にしていたと思われる料亭に入った時の驚きが語られている。料亭の本来の仕事を忘れてしまったその姿は 「席貸家」 に堕してしまったお寒いものである。初心を忘れるとこういうことになるのか、と思い知らされる。
若い時には 「食は食のみに完結すべし」 と気負っていたのが、時が経つと 「食は食のみに完結せず」 と悟るに至った村田氏。客に喜びを与えることこそ、その仕事であり、時には自分にご褒美をあげようと思う人たちが来れるような値段でなければならないと考えている。いずれそう思う時がくれば、訪れてみたいものだと思わせてくれる語り口であった。