フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

ブリヂストン美術館 - 印象派から21世紀へ MUSEE BRIDGESTONE

2006-07-16 13:39:04 | 展覧会

昨日は日本橋、人形町のあたりをさ迷い歩く。その前にブリヂストン美術館が目に入り数時間を過ごす。今は亡き叔父により連れて行かれたところである。記憶にある最初の美術館かもしれない。

なつの常設展示 ― 印象派から21世紀へ

会場は明るく、綺麗で、手がよく入っているという印象。一時間ほどですべてを見て回る。コンパクトに中心的な作家の作品が詰まっているという印象。この一年で以前とは比べものにならないほど自分の中の感度が増していることを感じる。もう少しここで時間を過ごそうと考え、音声ガイドを借りてみた。非常に真面目な案内である。以前にも触れたが、裏ガイドを作るような遊び心溢れる美術館は出てこないだろうか。密かな願いである。

入り口には5-6点の彫刻が置かれている。ブランクーシ Constantin Brancusi の 「接吻」 が目に留まる。階段のところにあったマイヨール Aristide Maillol の 「欲望」 も印象に残っている。ロダン Auguste Rodin のものもいくつかあった。例えば、小さい青銅時代。

ロダンの弟子でもあったブールデル Bourdelle の 「弓を引くヘラクレス」、「風の中のベートーベン」など。昨年パリのブールデル美術館を訪れた時にたっぷり触れることができた作家だが、今回ベートーベンの彫刻を見て、彫刻家 (あるいは画家) が肖像を描くという意味を少し考えさせられた。それはベートーベンの足、ゆび、爪をまじかに見た時である。筋肉質の脹脛に比べて、全体のサイズが小さいためか、足の指先がやけにかわいらしくのだ。ベートーベンの足の細部にこういう形を与えるということは、対象に対するかなり具体的な思いがなければ製作できないということをはっきり意識することができた。そこには対象に対する思い入れや想像力が確かに介在しているということを。"À l'homme était Dieu Beethoven" (神であった男ベートーベンへ)という言葉が下の方に刻まれている。このほかには、衣の下に隠された豊満な下半身を感じさせる 「ぺネロープ Penelope」 も印象に残っている。

この展示で見られる代表的な画家には以下のような人がいる。この一年ほどでそのほとんどの画家に触れていることに驚いている。

Camille Corot
Jean-Francois Millet
Gustave Courbet
Eugene Boudin
Camille Pissaro
Alfred Sisley
Edouard Manet
Edgar Degas
Claude Monet
Pierre-Auguste Renoir
Paul Cezanne
Odilon Redon
Paul Gauguin
Vincent van Gogh
Pierre Bonnard
Henri Matisse
Pablo Picasso
Maurice Utrillo
Paul Signac
Raoul Dufy
Hans Arp
Joan Miro
 
今回、モディリアーニ Amedeo Modigliani の 「若い農夫」 が出ていたが、印象深い絵を描く画家であることを再確認。アンリ・ルソー Henri Rousseau の醸し出す雰囲気にはいつもながら惹き込まれる (「イヴリー河岸」、「牧場」 が展示)。ジョルジュ・ルオー Georges Rouault の素晴らしさに改めて感動。それからどこかで見たことがあるような気がするのだが、ゲオルゲ・グロッス George Grosz (26 juillet 1893 à Berlin -l6 juillet 1959 à Berlin) という画家の批判精神に溢れる絵にも、その形のためか親しみを感じた。

日本の画家では、
山下新太郎
黒田清輝
青木繁
藤田嗣治
菅井汲
佐伯祐三

古賀春江 (1895年6月18日 - 1933年9月10日):初めての人。あの時代に、こんなシュールな絵をやっていた日本女性がいたのかと少し驚いたが、調べてみると男性であった。

国吉康雄 (「横たわる女」、「夢」):少しマルク・シャガール Marc Chagall を思わせる 「夢」 を見ていて感じる。アメリカに長くなり、ひょっとするとこのままずーっといることになるかもしれないと感じた時に見た夢のことを思い出させてくれた。こんな感じだったな、という思いである。彼はまさにそれ以上に感じていただろうから、その頭の中に共感していた。

岡鹿之助の 「雪の発電所」 を見て驚いた。一瞬、自分の子供時代に戻ったような錯覚に陥る。子供の時に焼きついている家の近くの風景そのものがそこに描かれていた。

岸田劉生 「冬瓜図」:今まで静物画には興味を覚えなかったが、この絵の色と筆遣いを見ているうちになぜ画家が静物画を描くのかということに思いが至った。おそらく、なぜそこにものがあるのかという哲学的な問いからのこともあるだろう、あるいはそうは意識はしないものの、ものがそこにあることに対するこころからの驚きから始まっているのではないのか。そう考えることができた時に、静物画が非常に近いものになっていた。ものに対する画家の目を探るという視点で、これから静物画を見てみようという気持ちが芽生えていることに気づく。

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今回もボールペン使用で注意が入り、白けてしまった。入り口で借りようという考えが一瞬浮かんだのだが、そのままにして2階に上がった。なかなか学習しないようだ。

もうひとつ気になったこと。印象派の絵画のタイトルがすべて英語になっている。趣が全くないのでがっかりする。帰りに何とかならないかと話してみたが、煩雑になるので英語にしているとのビジネスライクなお答え。単にフランス語かドイツ語を加えるだけでよいのだ。部外者から見れば、わずかそれくらい、というようなことなのだが、、。せめて芸術をやっている人くらいは余裕が持てないものだろうか。残念に思いながら会場を後にした。

コメント
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