フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

水木しげるという人 QUI EST SHIGERU MIZUKI ?

2007-02-27 00:54:11 | 自由人

週末の夜中にテレビをつけると、NHK アーカイブスが流れていた。その日は漫画家の水木しげるが取り上げられていた。彼の作品を読んだことはないし、ご本人についても何も知らない。しかし、話を聞いていると面白そうな人なので、途中からだったがついつい最後まで見てしまった。彼が60代中ごろの映像とのことなので、もう20年も前のことになる。

水木しげる: 大正11年 (1922年) 3月8日 -

第二次大戦中、南の戦地でマラリアに罹るが、隊を抜け出しては土地の人と付き合っていた。彼らの生活が 「木の生活?」 (自然とともにあるということか) で、人間が大らかで言葉は分からないものの気持ちのよい付き合いであったという。言葉だけではないコミュニケーションができそうな人である。むしろ言葉ではない方が人間の中身が出るような人とお見受けした。いずれにせよ、土地の人との付き合いのお陰で病気もよくなり、引き上げる時にはそこに留まりたいと本気で思い上官に申し出たが諭されて日本に帰ってきたという。彼の心の底には今でも、その生活が息づいているように見えた。

日本に帰ってからの生活は苦しく、貸し本作家として6-7年を過ごすが、この時の収入は微々たるもので食うや食わずの生活が続いたという。本当に苦しかったようだが、彼の顔にはその間に刻まれたはずの証拠が全く見て取れなかった。日常の苦境をどこか別のものとして処理できる何かがあったとしか思えない。そのことにまず驚いた。根っからの楽天家で、マイペースで生きるのが自分に一番心地よい生き方とでも思っているかのようだ。南洋での生活が何かを与えたのか、あるいは現世にありながら別世界を見ることのできる視界の深さがあったのだろうか。その理由はわからないが、お顔が特に印象に残った。

もう一つ印象的であったのは、60になったら仕事をしないで、のんびりぼやーっとして生活するのが最高という考え方。仕事をしないということはすべてから解放されるということ、解放されながら生きる、そんないいことがどこにありますか、という調子である。最後まで見てしまったのは、おそらく彼の中に何か共通するものを見たように感じたからではないだろうか。

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狩野亨吉 - 百科全書派 KOKICHI KANO, ENCYCLOPEDISTE JAPONAIS

2007-02-26 00:54:43 | 自由人

この週末、金子兜太の 「中年からの俳句人生塾」 を何気なく見ていると、彼が俳句を始めるようになった経緯が書かれているところにぶつかる。旧制高校の時代、太平洋戦争に向かっていた厳しい情勢の中、飄々と時勢を超越している自由人であった1年先輩に誘われて始めたようである。その句会に会場を提供してくれていた英文学の先生にも自由人の魅力を見ていたようだ。その他、戦後に読んだ E.H. ノーマンの 「忘れられた思想家」 に出ていた安藤昌益にも惹かれたという。

 安藤昌益: 1703年 (元禄16年) - 1762年11月29日 (宝暦12年10月14日) 

「朋友を求むることなかれ、而も友に非らざるといふことなし」 との言葉に、弟子が注記をして、この世には 「人は万万人にして一人なれば誰をか朋友と為さん。万万にして一人乃 (すなわ) ち朋なり。故に朋友に非らざる人無きなり」 と記している。

ノーマンの悲劇的最後を何年か前のテレビ番組で見ていたこともあり、医者にして思想家であった安藤昌益についても知りたくなっていた。そしてネットサーフしている時に、この人に出会う。

 狩野亨吉: かのう こうきち、1865年9月17日 (慶応元年7月28日) - 1942年 (昭和17年) 12月22日

若い頃に日本思想史の探究を志し、並々ならぬ熱意をもって古書を蒐集。哲学や宗教に限らず科学や芸術等々を含むその探究によって、安藤昌益だけでなく本多利明志筑忠雄ら、近世日本の科学者を発掘。その学識を讃えられながら、生涯一冊の著書も出版しなかった、自然科学的合理主義による百科全書的な思想家。一高校長を経て京大学長となるも、自己が官吏として生きることと学者として生きることが両立しないと考え、四十三歳で京大学長を辞任。以後はつましく暮らしながら探究を続け、書画鑑定業を営む中で「アイデンティティ」に関する科学的認識論としての「鑑定理論」を研磨した。略歴は以下の通り。

1865年、秋田に生まれる。父親の内務省出仕に伴い一家東京に移住。
1879年、東京大学予備門入学。
1884年、東京大学理学部入学(数学専攻)。
1889年、東京帝国大学文科大学入学(哲学専攻)。
1891年、同大学院入学。
1892 年、第四高等中学校教授。
1898年、漱石らの招きで第五高等学校教授。同年、第一高等学校校長となり、在任中、岩波茂雄をはじめ後に岩波文化人となる学生たちと交わる。
1906年、京都帝国大学文科大学教授、初代文科大学長。
1908年、同職辞任。
1913年、皇太子教育係職の斡旋を再三受けるが思想上の不適任を主張し固辞。
1914年、東北帝国大学総長への推薦を辞退。以後、五十代半ばで文書・図書・書画鑑定等の「明鑑社」を開業し生計を立てる。
1942年、満77歳5ヶ月の生涯を終える。

 (以上は、彼の著作 「安藤昌益」 (書肆心水) の紹介文からの引用)

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  彼の興味の抱き方と仕事というものの捉え方に痛く感じ入っていた。

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ワールドカップのジダン LA COLERE EST MAUVAISE CONSEILLERE ?

2006-07-12 01:54:07 | 自由人

ある人の底力は、究極の場面で発揮されることになる。逆に言うと、それがないと極限状態では目を覆うようなことになる。その状態を想像して日々鍛錬する以外にない。これがワールドカップの私の中での教訓である。

ところで、ジダン Zidane のプレーを見て感じていることがある。彼のプレーには自分が自分がという自己主張を余り感じない。その代わりに、全体を見回して全体を生かすようにプレーしているように見えることが多い。以前から気づいていた彼のプレーの感触はどこかで出会ったことがあるような気がしていた。それを今回の頭突き事件とともに思い出した。

私の滞米時代にインディアナ大学からプロに進み、ボストン・セルティクス Boston Celtics で大活躍したバスケットボール・プレーヤーのラリー・バード Larry Bird (7 décembre 1956 -) だ (マジック・ジョンソンと同年代)。調べてみると、1978年にプロになり13シーズンプレーした後、1992年に引退している (その後、インディアナ・ペーサーズ Indiana Pacers の監督をし、2003年からはその会長をしているようだ)。彼のスタイルは予想もできないような美しいパスを出し、まさに人を引き立てる、無私 (désintéressé) に見えるものであった。このようなプレースタイルはそれまで見たことがなかったので、衝撃を受け、感心しながら見ていたことを思い出した。それがジダンのプレーと重なったのだ。

彼の復帰に関していろいろな憶測がされたことは以前に (2005-8-18) 触れた。しかし最終的には大正解の復帰になった。

決勝での頭突き事件は、フランス・チームの成功から見ると些細なことだろう。私もやっと数年前から "La colère est mauvaise conseillère." (怒りから行動すると碌なことにはならない。← 怒りは悪しき忠告者。) を頭に浮べるようにしているが、これとて自分の存在に触れることが関わってくるとそうは言っていられないだろう。もしジダンにも彼の存在を掻き乱す言葉が吐かれたとすれば、彼の行為は正当化されてしかるべき。抑える必要はなかったはずだ。それくらいの個の強さがなければ世界では勝てないのではないか。この事件の真相はまだ明らかになっていないが、ジダンに関しては寛容でありたい、というのが今の姿勢である。

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牧野富太郎を再発見 REDECOUVRIR TOMITARO MAKINO, BOTANISTE

2006-05-23 00:19:44 | 自由人

先週末、近くに寄ったついでに昭和記念公園に向かう。朝の空気を吸いながら、人のいない道を歩くのは気持ちがよい。まず"花みどり文化センター"があったのでその中に入る。入り口近くに牧野富太郎についての展示があり、その昔在野の植物学者として新種を見つけマスコミに取り上げられていたことを思い出す。展示のパネルにあった彼の笑顔が妙に印象に残った。私のそれまでぼんやりと思い描いていた彼の印象と違ったからだろう。

牧野富太郎 (1862年5月22日 - 1957年1月18日)

さらに奥の方に進むとミュージアムショップがある。何気なく目をやっていると、高知県立牧野植物園発行の 「牧野富太郎写真集」 や彼の蔵書についての本が並べられている。写真集をぱらぱらと捲っていると、彼の心の底から出たと思われる笑顔がよく出てくる (家族といる時の表情は硬いが)。こういう笑顔にはなかなかお目にかかれないためだろうか、その顔を見ているとなぜか心が和んでいる。それから高齢になってからも飽くことを知らない活動の様子も紹介されている。その根底には、いつまでも失われなかった遊び心があるかのようだ。

今日の写真は彼が78歳の時ものだという。こんなことが80歳近くになってもできるだろうか、と自問する。もしその時があれば、この記事を思い出してみたい。

写真集に 「牧野富太郎に、とうとう時代が追いついた。」 という書き出しで始まる荒俣宏のエッセイ 「マキノ的笑いに寄せて」 を見つけて、同じようなことを感じているな!、と思わず膝を叩いた。博物学的な興味で仕事をしている荒俣氏の共感もあるのだろうか。

それから彼の5万冊にも及ぶと言われる蔵書についての本もあわせて眺めながら、以前にも少しだけ触れたことがある博物学の評価についてもう一度考えていた。博物学的研究というのは専門の中枢からは余り評価されにくい分野という印象を持っており、それは今も変わっていない。どうしても分析的な研究が中心になる。したがって、その方が社会で生きていきやすいということにも通じる。しかしどうだろうか。人の一生を眺めてみる時、どちらの方の仕事が残るのだろうか。当時の学会中枢にいた人たちはほとんど忘れ去られ、彼のような生き方がある評価を受けて現在まで生き残ってある。

このお話は、これも最近触れた「先送り」 の件ともどこかで繋がっていそうである。博物学はある結論を出そうというのではなく、ものに浴びつづける生き方に通じるように感じる。とにかくこの世のものに触れ、何かを見つけ、その過程を楽しむ。何かに向かうのではなく、とにかく浸リ続けるのである。そこに本当の満足を見出すことができれば、この世は素晴らしいところになるのだろう。彼の笑顔がそれを語っているようにも感じた。その後の公園の散策がどことなく晴れやかなものになっていた。

そう言えば、若くして南米に渡り植物の採集と分類をひたすら続けている日本人 (おそらく橋本梧郎さん) が何年か前のNHKテレビで紹介されていたことがあり、不思議な感動を覚えながら見ていたことが甦ってきた。

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ネット検索の結果、橋本氏の番組は平成9年9月15日のNHK-TV特別番組「人間ドキュメント」 だった可能性が高い。もう9年も前のことになるとは、驚きである。

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渡辺恒雄をテレビで見て LE SECRET DE TSUNEO WATANABE

2006-05-03 09:54:52 | 自由人

以前に意外な印象を持ったことがある人に渡辺恒雄がいる。見直したと言った方が正確かもしれない。この休日に再び見てみてその感を新たにした。

彼の意見のかなりの部分に同意できたが、それ以上にものをはっきりと言い、それだけではなく議論しようという姿勢があるところを発見し、そのあり方にシンパシーを感じた。その背景には、おそらく誤魔化すことなく自らの目で現実を見、自らの頭で考え、誤りを正すことに吝かではなく、それらを表明してきたことがあり、そのためかどっしりと根が張っている印象を受ける。今年で80歳とのこと。もっと年寄りには語ってほしいものである。

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二巨星逝く DEUX GEANTS SONT MORTS

2006-05-02 06:45:28 | 自由人

最近このブログで触れたお二人が、時をほぼ同じくして亡くなった。

一人は、ジョン・ケネス・ガルブレイス John Kenneth Galbraith (15 octobre 1908 – 29 avril 2006)。先週末テレビを見ていて、97歳で亡くなったことを知る。今、彼の伝記を読んでいることもあり、すぐに反応する。

本日、CDマンボ様からのTB (スペイン語新聞スクラップ) で、先日取り上げたジャン・フランソワ・ルヴェル Jean-François Revel (19 janvier 1924 - 30 avril 2006) が82歳で亡くなったことを知る。

ジャック・ブレルの言葉の影響か、生まれた日と亡くなった日にまで目が行くようになっている。

16 avril 2006 ガルブレイス伝記 "JOHN KENNETH GALBRAITH: HIS LIFE"
7 avril 2006 自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (II) REVEL L'HOMME LIBRE
6 avril 2006 自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (I) REVEL L'HOMME LIBRE

(version française)

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自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (II) REVEL L'HOMME LIBRE

2006-04-07 21:53:43 | 自由人

昨日、ルヴェルの本をネットでサーフしていて、あれっと思った。こういう驚きはいつも楽しくなる。上の写真は "Pourquoi des philosophes" が収められている論文集の表紙だが、この写真に見覚えがあったのだ。

もう4‐5年前から、その時々に気になった芸術家 (作家、画家、音楽家、哲学者、歴史学者、科学者、なぜか政治家、俳優など、言ってしまえば興味深い人間ということになるのか) やその作品を画像で私のパワーポイントに取り込み、Arts あるいは Artists と名づけたファイルで保存している。

昨日 Amazon.fr を見て、この表紙をファイルしたことを思い出したのだ。どういう経緯でそこに入れたのか、今となっては思い出せないが、おそらく誰かの文章で紹介されたのを見て興味を持ったものと思われる。このファイルはごみ箱のようなもので (中の方には失礼だが)、入れた途端に忘れてしまうようだ。このようにその箱から蘇ってくれると嬉しくなる。

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さて、Le Point から再び彼の声を聞いてみたい。

LP: イデオロギーは現実に道を譲らなければならないのか?
 (Faut-il que l'idéologie cède le pas à la réalité ?)

JFR: パロス生まれのアーシロック (Archiloque de Paros; 712-664 av. J.-C.) が 「狐はいろんなことを知っている。ハリネズミはただ一つのことしか知らない、ただし重要なことを。」 ということを言っている。私はハリネズミに近い。私のもっとも深いところにある確信は、人の運命は情報の正確さ、誤りによって決まるというもの。それはこれまで教師、エッセイスト、編集者 (雑誌 L'Express の責任者を 1966-1981年の15年間勤める) の経験から培われ、確固たるものになった。

ただ、なぜ人は (個人、団体、政府すべてのレベルで) もっとも手に入りやすい真実ではなく、しばしば彼らのためにならない誤りや嘘を好むのか、という問題に常に直面した。この問題は "La connaissance inutile" 「無益な知識」 で論じている。

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[私語]
マスコミを見ていつも感じていることは、どうしてこうもふわふわした情報と議論に終始しているのだろうか、ということ。問題の在り処を示すような番組をほとんど見たことがない。そして何か過ちがあると、これから気をつけなければ、反省して出直さなければならないとその場をしのぎ、また同じことを繰り返す。ルヴェルさんの認識に立つとよく理解できる。要するに、人間とは真実など欲していないのだ、正しい判断であろうとなかろうとどうでもいいと思っている生き物なのだ、ということになる。人の求めるところに依存するマスコミにあっては、当然の内容ということになる。
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1997年に自伝的作品 "Le voleur dans la maison vide" (「空き巣」 ?) を発表、アカデミー・フランセーズの会員に選ばれる。プラトンは常に問題を引き起こした。アカデミーにいるということは、型にはまるということ (conformiste) ではない、この8年ほど常に流れに逆らってきた。彼はそこにこそ真実があると考えている。

事実を正確に捉え、的確に解釈する。そのためには言葉が重要。アカデミーはそこでも重要な役割をしている。フランス語が乱れていると認めることは、必ずしも保守的な考えを意味するものではない。外国語が入ってくることは、正確に使いさえすればむしろフランス語を豊かにする。同じことが知識の増加に伴い新しい言葉を使う時にも言える。ただフランス語を駄目にするのは、アングロサクソンではなくフランス人である。怠慢や無知によって。

2002年に "L'obsession anti-américaine" (邦題は 「インチキな反米主義者、マヌケな親米主義者」 となっているが、売らんかなの印象が拭えず全くいただけない) を出版してから一冊も発表していない。82歳になり、老化についても考えなければならなくなる。体は今まで通りとは行かない。知的活動については、これまで誇りに思っていた記憶力も衰え始めている。しかし、しかし、記憶力は知性とは何の関係もない、モンテーニュの記憶力もひどいものだった、問題を感じない、と言っている。

ただ、老年になるとすべてがゆっくりとしてくる。老年期に満足を与えるものを見つけ出した古代人の知恵へ導かれるようだ。キケロ (Cicéron, 106-43 av. J.-C.) が 「老年について "De la veillesse"」 カトー (Caton, 234-149 av. J.-C.) に語らせたように。
 
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やはり年寄りの話は聞くものである。


自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (I) REVEL L'HOMME LIBRE
(6 avril 2006)
二巨星逝く DEUX GEANTS SONT MORTS (2 mai 2006)

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自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (I) REVEL L'HOMME LIBRE

2006-04-06 21:16:05 | 自由人

今週の Le Point に出ていたインタビュー記事について先日触れた。その人は、もう少しで半世紀のキャリアを迎える今最も重要な思想家として紹介されている。数回に分けて読んでみたい。

ジャン・フランソワ・ルヴェル Jean-François Revel (1924 - )

マルセイユに Jean-François Ricard として生まれる。1957年 (32歳) に最初の作品 "Pourquoi des philosophes ?" (なぜ哲学者か?) を発表する時に Jean-François Revel という偽名を使う。それはパリ1区にあったレストラン Chez Revel から採った。そこに一緒に顔を出していた友人の勧めで。イニシャルも変わらないので丁度よかったとのこと。

30年ほど前に発表した "Descartes inutile et incertain" (無益にして不確実なるデカルト) において、哲学の死を論じている。18世紀の終わりのカントの時代から哲学はその歴史的役割を終え、真の知識は神話の世界から科学へ移り、哲学は文学の領域に入ってきた。彼自身も自分を哲学者ではなく作家として定義している。

哲学者はもはや職業でも身分でもない。ソクラテスが語り、モンテーニュがやったように、精神を完全に自由な状態に置き熟考する人は誰でも哲学者となる。デカルトやヘーゲルのように体系化されている人よりも、より哲学者に見えるとルヴェルは語っている。

彼は若い時の6年間 (26-32歳) をメキシコ、フィレンツェで先生として過ごす。その過程で、土地の言葉を学び、異文化の中に身を置き、外から物を見ることを学び (パリ中心主義 parisianisme から逃れ)、考えるということ、そして特別な感受性を身に付ける。このような経験が 「精神を開くこと」 (une ouverture d'esprit) につながったという (余談だが、この言葉は非常に好きな言葉になっている)。

  (歴史のある町や世界の中心を誇る町では parisianisme に似たものがあり、それはしばしば英語で言うところの parochialism* に陥りやすいことは私自身も体験しているので、彼の言うことは100%同意できる。)

この6年間にラテンに対する嗜好が生まれ、イタリア、スペイン、ポルトガル、南アメリカは今や彼のお好みの国になっている。またこの重要な時期に海外にいたことで、共産主義を免れることができたと振り返っている。

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*フランス語で paroissial 小教区の、という形容詞はあるがその名詞はないようで、むしろ esprit de clocher という表現がこの英語に対応しているのだろうか?どなたかご教示いただければ幸いです。


自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (II) REVEL L'HOMME LIBRE
(7 avril 2006)
二巨星逝く DEUX GEANTS SONT MORTS (2 mai 2006)

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パトリック・ブルエル、ジャン・フランソワ・ルヴェル P BRUEL ET JF REVEL

2006-04-03 22:58:10 | 自由人

パトリック・ブルエルのCD "PUZZLE" を初めて聞く。お昼の散策時にざっーと流してみた。よい曲が詰まっている。夜、"Qui a le droit ?" だけを聞き続ける。なかなかよい。当分付きまとわれそうである。

本日、Le Point が届いた。哲学欄 (Idées Philosophie) に興味を引く人のインタビューが出ていた。その人の名は、ジャン・フランソワ・ルヴェル Jean-François Revel。1924年生れと言うから御年82。東洋的な穏やかな老後とは程遠い、俺は死ぬまでやり続ける、あきらめないぞ、とでも言いたげな精悍な顔つきである。以前に中世学者のル・ゴフ (ルヴェルと同じ1924年生れ) について触れたことがあるが、彼の顔を思い出していた。こういう年寄りの顔を見せ付けられると本当に元気が出てくるから不思議だ。この記事 "Revel L'Homme Libre" 「自由人 ルヴェル」 については、いずれ書いてみたい。

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6 avril 2006 自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (I)REVEL L'HOMME LIBRE
7 avril 2006 自由人ジャン・フランソワ・ルヴェル (II)REVEL L'HOMME LIBRE


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荒川静香を見て LE SECRET DE SHIZUKA ARAKAWA

2006-03-04 08:59:34 | 自由人

花粉の影響で引き篭もりの日々である。今回のトリノオリンピックは全く目に入ってこなかった。今までにはなかったことで、どこかに変化が起こっているようだ。ただ日本の調子が悪いこと、最後に荒川静香さんが金メダルを取ったことは知っていた。という状況なので、彼女の演技をじっくり見ることもなかった。しかし、オリンピックが終わってからニュース番組に出てきて彼女が話すところを何度か見ていて感じるところがあった。

第一印象は、彼女の心は開いているのだろうが、とにかく爆発しないのである。浮ついたところが全くないのだ。努めてそうしているというのではないようだ。それが性格によると簡単には片付けられそうもない。冷静とも言われているようだが、それも少し違うような気がする。

これは想像だが、彼女がこれまで人生を歩むうちに自分の中から生まれた、自分の外のものに影響されない、自分が達成すべきレベルを決めることができたのではないだろうか。だから金メダルを獲っても、嬉しいはずだが飛ばない、弾けないのだ。彼女の目指すものはもっと高いところにあり、今は一つの段階にしか過ぎないと思っているような気がしてしようがない。この年齢でそれができるというのは、凄いことである。

自分の中に、他のものが干渉することのできないものを見つけた人ほど強い存在はない。これからの彼女の行く末が楽しみである。

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ミッテラン没後10年 10 ANS APRES LA MORT DE MITTERRAND

2006-01-13 01:30:28 | 自由人

フランソワ・ミッテランが亡くなってから10年が経ったのを機に、Le Point が特集を組んでいる。彼のもう一つの家族の娘、マザリン・パンジョについて以前に触れたことがある(8 mai 2005)。

特集では、彼に関係があった30人ほどのコメントが出ている。名前を知っている人は数えるほど。その中でニコラス・サルコジ(現在の内務大臣)は、1994年にウズベキスタンのサマルカンドに大統領と同行した時のエピソードを語っている。晩餐が終わった時、大統領は彼の方を向いて 「あなたはマルローが好きなんだろう」 と聞いてきた。それに対して、「いえ、私はヘミングウェイの方が性に合っています、大統領。」と答えると、それは面白い、と大統領は返答した。そしてヘミングウェイの後はセリーヌ、カミュ、クノー Queneau、サンドラール Cendrars などが話題に上がり、まるで試験を受けているようだった (J'avais l'impression de passer un examen.) という。大統領の文学的素養の深さに感嘆している。

マザリンの話も出ていた。彼女が高等師範 (Normale sup) に入った時は、彼は大喜びで誇り高い父親であった。何も言わずに彼女の手をとり、その甲をさするような仕草をしていたという。辛かったのは彼女が哲学の上級教員資格 (L'agreg de philo) を取った時に父親がいなかったこと。

マザリンの本を読んだ時にも感じたのだが、教養溢れる哲学的な大統領として、また第二の家庭でも父親として人生を生きたミッテランが少しだけ羨ましく思えてくるのはどうしてだろうか。一筋縄ではいかない、その複雑な人間に、人間の業とでも言うべきものを感じさせるその人生に興味が湧いてくる。

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17 septembre 2006 ブレーズ・サンドラール

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翻訳者鴎外 OHGAI MORI - TRADUCTEUR CULTUREL

2005-12-09 00:38:28 | 自由人

先日のお昼の散歩時、鴎外を文化の翻訳者という視点から見直している本に目が行き、通勤時に読む。

長島 要一 (著) 「森鴎外―文化の翻訳者」 (岩波新書)

鴎外の場合は、単に外国語を訳すというのではなく、西欧のものを日本に根付かせるために、削ったり、付け加えたり、書き直したりしていることを初めて知る。ある場合には原作とは異なる趣のものもあるという。北欧の文学もすべてドイツ語からの翻訳なので、そのための誤りや鴎外自身の誤訳もあるようだ。鴎外にしてこれである。私のフランス語訳にも相当の誤りがありそうだ。ご指摘いただきたい。

鴎外の作家の原点には常に原作(原典)があり、最後まで翻訳の作業は止めなかった。その中で年代が進むにつれて作品を作る手法が変異・発展していった様子もわかり、興味が尽きなかった。最初は西洋小説を日本に移植する作業から始まり、日本の歴史的事実をそのまま書く過程 ( 「歴史其儘」 ) を経てそこから徐々に離れ ( 「歴史離れ」 )、最後は歴史の資料を漁る 「史伝」 に行きついた。彼の心の奥に潜む底知れぬ孤独感が、自分の共感や尊敬できるような人物を求めさせたのではないかと想像している。彼の理想とする女性像や権力に批判的な精神もはっきりと表れているようだ。

彼は若い時から日本に期待され、その重責を果たしてきた。創作の上ではいつも原作がどこかにあり、それを翻訳する人生。その指揮をとっているのは鴎外自身。小説『妄想』の中で作中人物に語らせた次の言葉は彼の心の反映なのだろうか。

「生まれてから今日まで...終始何物かに策(むち)打たれ駆られてゐる...自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないように感ぜられる」

「赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗って、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考えて」みたい。

彼の人生は今ここにない世界に生き、「ここではないどこか」 を求め続けたものだったのではないか、自分の人生を自分の思うように生きたかったのではないか、と著者は考えてみる。しかし、鴎外はあのようにしか生きられなかっただろうと結論する。すべてを操っていたのは鴎外その人だったのだから。

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以前に鴎外の小説 「かのように」 について書いています (13 mai & 22 mai 2005)。

(注)文字化けするため、略字を使っています。

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三浦カズを見て LE SECRET DE KAZU MIURA

2005-12-01 00:27:21 | 自由人

三浦カズが先日、移籍先のオーストラリアで2得点を挙げたというニュースを見る。何となく嬉しくなる。彼の歩みを見ていて考えさせられることがある。

人間は環境によって大きく変わる。行き詰まりを感じた時には場所を変えるのがひとつの有効な方法だ。ただそれができるかどうかは、その人にかかっている。それができれば、前とは全く違う価値観や人間に取り囲まれ、時間の流れが変わり、見えなかったものが見えるようになり、思ってもみなかったところが刺激されて生まれ変わることが可能になる。

彼はサッカーが好きだということもあるかもしれない。しかしそれ以上に、若い時に日本を離れ、全く異なる世界を経験していく過程でそのことに気付いたのではないだろうか。そしてそのメカニズムを使って自分の運命を変えることに抵抗を感じなくなったのではないだろうか。このような生き方を選んだ彼の心の奥には、どこまでも成長し続けたいという強い思いが見て取れる。それらしくまとまりたくない、そんな叫びが聞こえてくるようでもある。

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マイケル・ブルームバーグ再び BLOOMBERG - UN GRAND PHILANTHROPE

2005-11-26 18:08:12 | 自由人

ブルームバーグの人権と報道の自由に対する基本的な考え方を知り、彼を尊敬するようになったと以前に書いた(14 avril 2005)。今週届いた Le Point でブルームバーグがニューヨーク市長に大差(59% vs 39%)で再選されたというニュースを読みながら、その思いは益々強くなっている。

民主党の強いニューヨークでのこの勝利は何かを意味しているのだろう。一期目には前任者ジュリアーニが得意とした犯罪との戦いをよりうまく片付け、ニューヨークの公立学校システムの建て直しについてもメディアの大物を責任者に抜擢し、財政的援助を裕福な友人(ビル・ゲイツ、キャロリン・ケネディ、前GE会長ジャック・ウェルチなど)に頼み、この3年間で2億75万ドルを集めている。これらの成果がニューヨーカーの支持を集めた原因ではないかと分析している。

1942年マサチューセッツ生まれで、24歳でハーバード大学を卒業後、Salomon-Brothersに就職。15年間勤めた後、権力闘争に敗れそこを辞める。その時に手に入った1000万ドルのうち400万ドルをもとに自ら会社を設立。1994年からは奉仕活動を始める。1997年には自伝 « Bloomberg by Bloomberg » を出版。2001年にニューヨーク市長に選出される。

彼の奉仕精神は素晴らしいもので、市長になる前からアメリカ最大の寄付者の一人 « l'un des plus généreux donateurs du pays » とされている。毎年1億3000万ドルを数百の団体に出している。見返りを一切求めず、名前は絶対に出さないという条件付で。Liz Smith も秘密を守るという条件で莫大な額のチェックを貰ったことを打ち明けている。 «Ell reçoit d'énormes chèques à condition qu'on garde le secret. »

2001年の市長選に出る前に夕食をともにした人の話で締めくくられている。
彼は「ビジネスの分野ではもう自分を証明するものは何もない。どの分野で特徴を出しながら自分を役立てることができるだろうか。」と話したという。
« Dans le business, maintenant, je n'ai plus rien à prouver. Où pourrais-je être utile, faire une différence ? »

そして彼は市長になり、その莫大な資産を有効に使おうと決心した。
« Bloomberg a pensé que c'était là qu'il pouvait être plus utile. »

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柴田宵曲 SHOKYOKU SHIBATA - ERMITE REVEUR DU PASSE

2005-11-07 23:56:03 | 自由人

今日の夕食時、新聞の小さな囲み記事に目が行く。柴田宵曲という初めての人について、文芸評論家の川本三郎氏が小文を書いている。読んでいくと興味深い人である。すぐに魅かれる。

柴田宵曲 (1897-1966、明治30年-昭和41年)

俳句を正岡子規の弟子に学び、江戸や明治の過去に遊ぶ。世に認められることを欲せず、世捨て人か隠者のように都会の片隅に身を潜め古書をいじり、現代に興味を示すことなく昔の東京に夢を遊ばせていたという。これを読んだ時、以前に触れた古代を専門にする哲学者にして歴史学者のジェルファニョンのことを思い出した。

味のある文章を書いたとされている。面白そうな題名の本も書いている。十年ほど前に小沢書店から出た「柴田宵曲文集」全8巻は今や絶版。手に入るものから、ご相伴に預かりたいものである。

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