三流というレッテルが貼られた日本の政治、相変わらず国民不在でやってくれております。
国民目線の政治…これは、ひどい言葉だと思います。目線については後半に書くとして、「国民目線の政治」という言葉に、国民から文句が出ないところが凄い。むしろ、国民が安心し、喜んでいる…?
国民の上に我々(政治・政治家)がいる。上から目線、見下ろし目線は当然でしょう。しかし、民主的な政治として、「国民と同じ目線」と、国民をおだてておこう。そうすると、支持率が上がるし、票が集まる。
「国民目線の政治」を歓迎する国民の皆様に言いたいのは、「政治は国民目線ではダメですよ」ということです。
国民目線って何ですか?月千五百万円のお小遣いをもらい、軽井沢の別荘に元死刑囚を泊める人も国民。会社から年間1億円以上の給料をもらう人たちも国民。天下りで、年収一千七百万円の人も国民。年金では暮らしていけず、困り果てている人も国民。50歳を過ぎて無職無収入、老母の年金に頼って暮らしている人も国民。一体どの国民の目線に合わせた政治をするんじゃい!
えっ!平均的国民に合わせる?と、いうことは、平均以下の私のような国民の目線は、巻きワラのように切り捨てられるってことですね。
つまり、「国民目線の政治」など、できっこないということです。できっこないことを言う政治は信用できない。「国民目線じゃあ何も進まない。高い目線で、国をぐんぐん引っ張る」という政治のほうが信頼できます。口先だけはダメということはハト様で懲りているはず。
「目線」が「視線」を凌駕してしまっている。猫も杓子も、「視線」とすべきところを、「目線、目線、目線・・・・」
杓子には目がないだろうって?真面目に書いているのに、そのような、「しょうもないツッコミ」を入れないでください。
私は、「目線」は、「歌舞伎独自の言葉」だと思っていました。その後芸能界で使うようになった。スターたちが、「目線」を多用するから、庶民が、「視線」とすべきところを、「目線」を使うようになった。
「視線」は「死線」をさまよっている。また、音韻連想かって?この部分だけです。
広辞苑では目線の意味に、「視線。映画、演劇、テレビ界の語」。つまり、広辞苑としては「まあ、目線と視線は似たようなもんだなあ」といったところ。「視」と「目」が違うだけで、「線」は共通しているので似たようなものといえば似てますが…。広辞苑に逆らう分けではありませんが、そもそも「視線」と「目線」とは違うと考えています。
「目」は、目そのもので、「視」は目の働き。簡単にいってしまうと、目は名詞で、視は動詞(的)。目線は、目の高さ、視線は目線の動き。
歌舞伎の目線は役者さんが、月を見上げたり、高所から見下ろしたりするときの目のつけどころ。ですから、視線ではなく目線です。
投手と打者が目線を交わす・・・動きがあるから視線です!
温度計は、どのように見る・・・「目線の高さ」です。決して、「視線の高さ」ではない。動きがあると、目盛りが読めないから。
(カメラマンが)目線ください・・・映画界、テレビ界の話だから、「目線」で良いだろうって?動きがありますよ。「視線をカメラへ向けてください」でしょう。
では、「カメラ目線」は間違いかって?これは、「カメラ目線」という言葉になってしまっているので…今更、「カメラ視線と呼ぶ会」を結成しなくてもいいかな。
「安全地帯」の「熱視線」…これは、正しい。「熱目線」となると、その上にヤカンをのせて湯を沸かしてしまいそう。
視線も目線もごっちゃにしないで、考えながら使ったら良いと思います。
目線を合わせるとんでもない実践例を一つ。
教育現場で、「教員は、子供の目線で…」という民主的なスローガンを見ることがあります(注:アンティークマンは、この民主的という言葉には嫌悪感をもっています。念のため)。
そして教室では…な、な、なんと!先生がしゃがんで、目の高さを子供の目の高さに合わせている!ふざけているのかと思いましたが、大まじめ。ただしゃがんだだけで民主的な教育!先生がしゃがんで子供の学力が伸びるなら…足腰が強い人を教員にすればよい。
国民目線の政治…これは、ひどい言葉だと思います。目線については後半に書くとして、「国民目線の政治」という言葉に、国民から文句が出ないところが凄い。むしろ、国民が安心し、喜んでいる…?
国民の上に我々(政治・政治家)がいる。上から目線、見下ろし目線は当然でしょう。しかし、民主的な政治として、「国民と同じ目線」と、国民をおだてておこう。そうすると、支持率が上がるし、票が集まる。
「国民目線の政治」を歓迎する国民の皆様に言いたいのは、「政治は国民目線ではダメですよ」ということです。
国民目線って何ですか?月千五百万円のお小遣いをもらい、軽井沢の別荘に元死刑囚を泊める人も国民。会社から年間1億円以上の給料をもらう人たちも国民。天下りで、年収一千七百万円の人も国民。年金では暮らしていけず、困り果てている人も国民。50歳を過ぎて無職無収入、老母の年金に頼って暮らしている人も国民。一体どの国民の目線に合わせた政治をするんじゃい!
えっ!平均的国民に合わせる?と、いうことは、平均以下の私のような国民の目線は、巻きワラのように切り捨てられるってことですね。
つまり、「国民目線の政治」など、できっこないということです。できっこないことを言う政治は信用できない。「国民目線じゃあ何も進まない。高い目線で、国をぐんぐん引っ張る」という政治のほうが信頼できます。口先だけはダメということはハト様で懲りているはず。
「目線」が「視線」を凌駕してしまっている。猫も杓子も、「視線」とすべきところを、「目線、目線、目線・・・・」
杓子には目がないだろうって?真面目に書いているのに、そのような、「しょうもないツッコミ」を入れないでください。
私は、「目線」は、「歌舞伎独自の言葉」だと思っていました。その後芸能界で使うようになった。スターたちが、「目線」を多用するから、庶民が、「視線」とすべきところを、「目線」を使うようになった。
「視線」は「死線」をさまよっている。また、音韻連想かって?この部分だけです。
広辞苑では目線の意味に、「視線。映画、演劇、テレビ界の語」。つまり、広辞苑としては「まあ、目線と視線は似たようなもんだなあ」といったところ。「視」と「目」が違うだけで、「線」は共通しているので似たようなものといえば似てますが…。広辞苑に逆らう分けではありませんが、そもそも「視線」と「目線」とは違うと考えています。
「目」は、目そのもので、「視」は目の働き。簡単にいってしまうと、目は名詞で、視は動詞(的)。目線は、目の高さ、視線は目線の動き。
歌舞伎の目線は役者さんが、月を見上げたり、高所から見下ろしたりするときの目のつけどころ。ですから、視線ではなく目線です。
投手と打者が目線を交わす・・・動きがあるから視線です!
温度計は、どのように見る・・・「目線の高さ」です。決して、「視線の高さ」ではない。動きがあると、目盛りが読めないから。
(カメラマンが)目線ください・・・映画界、テレビ界の話だから、「目線」で良いだろうって?動きがありますよ。「視線をカメラへ向けてください」でしょう。
では、「カメラ目線」は間違いかって?これは、「カメラ目線」という言葉になってしまっているので…今更、「カメラ視線と呼ぶ会」を結成しなくてもいいかな。
「安全地帯」の「熱視線」…これは、正しい。「熱目線」となると、その上にヤカンをのせて湯を沸かしてしまいそう。
視線も目線もごっちゃにしないで、考えながら使ったら良いと思います。
目線を合わせるとんでもない実践例を一つ。
教育現場で、「教員は、子供の目線で…」という民主的なスローガンを見ることがあります(注:アンティークマンは、この民主的という言葉には嫌悪感をもっています。念のため)。
そして教室では…な、な、なんと!先生がしゃがんで、目の高さを子供の目の高さに合わせている!ふざけているのかと思いましたが、大まじめ。ただしゃがんだだけで民主的な教育!先生がしゃがんで子供の学力が伸びるなら…足腰が強い人を教員にすればよい。