アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

子供たちからトロッコの良平が消えている  

2010年07月18日 | Weblog
 小・中・高校生とは、ここ2年半話をしたことがない。しかし、子供達に係わる情報量は多い。どこで情報を得るか?プールの更衣室です。毎日確実に、「小・中・高校生の本音」が耳に入ってくる。プールへ行く楽しみのひとつになっています。盗み聞きだろうって?聞こえてくるんだからしょうがないでしょう!
 放課後にプールへ来る子たち(高校生は、水泳部の練習)ですから、思考・行動が高いレベルにあると思える。しかし、何かが足りない…ラーメンから「ナルト」が姿を消して物足りなくなったような…。

 物足りないのは…デジタル仕様になっている。アナログのしっとりとした感情が乾いているなあと思います。「思いやり」「受容」「感謝」「我慢」…これらが欠乏している子が増えてきている。良いとか悪いとかはではなく、本音トークから私が感じ取ったことです。

 着替えた子供たちは、帰宅すべくロビーで親が車で迎えに来るのを待っている…。トロッコの良平は、暗い道を涙をこらえて家へ走ったんだよなあ。プールの子たちは、車で送迎。時代が違う…子供の心が変わるのは当然。しかし、できれば「思いやり」「受容」「感謝」「我慢」は薄めてほしくない。

 私は「トロッコ」を読んだとき、自身と重ね合わせ衝撃を受けたものでした。その感覚は半世紀経った今も残っています。車で送迎してもらう子供達、トロッコを読んで感動するかなあ?
 芥川龍之介…読めないだろうなあ。「茶川(ちゃがわ)」と読んだりなんかして…おっと、「三丁目の夕日」のパクリでした。

 「この野郎!誰に断ってトロに触った!」と、土工に怒鳴られ、逃げた良平でしたが、十日余りたってから、また工事場へ行った。・・・プールの中学生には、「(良平は)バカだ、こいつ」と、言われそう。その前に、トロッコの説明が大変。今も線路敷設工事現場ではトロッコを使っているが、すでに手押しではない。

 トロッコを押している若い男たちが、親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」「おじさん。押してやろうか?」・・・仕事中に、8歳の子が出しゃばることがおかしい。あり得ない話だ。こう言われちゃあ龍之介も形無しだね。

 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
「われはなかなか力があるな」 他の一人も、こう良平を褒めてくれた。
 ・・・褒めて8歳の子を労働力として使うとは、狡猾な大人たちだ。「褒めりゃいい」と、思っているところが甘い。こう言うだろうなあ。

 トロッコは上り下りを繰り返し遠くまでやって来た。西日の光が消えかかっていた。良平は、「もう日が暮れる」と思った。その時二人の土工は…
 「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
 「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」
 ・・・この場面、今でも切なくなります。暗い道を一人で引き返さなければならない。泣いたところでだれも助けてくれない。プールの子供達には、「ほら見ろ、よけいなことをするからそういう目に遭うんだ」と冷たく突き放されるだろうなあ。

 「彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊(こと)に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜(すす)り上げ啜り上げ泣き続けた」。
 ・・・闇の中、トロッコの線路を必死で走って帰ってきた。推測するに、8~10km。良平は、「家へ帰りたい。家族の元へ帰りたい」ただその一心で、走り続けた。懐の菓子を捨て、草履を捨て、羽織を捨て…。そうです。メロスと同じ。
 良平には、全てを受け入れてくれる温かい家庭があった。
 半密室である更衣室の子供達…文字通り裸のつきあいということか、親にも先生にも聞かれないという安心感からか本音が語られる。8割方、先生と親への不満・悪口。大声の本音トークに、監視員の宮家(ミヤケ)さんが、「早く帰れよー」と声をかけた。子供達は、「ハーイ!」と明るく返事した。宮家さんが去ると、「るっせんだよ、クソジジイ」と…。これじゃあ、良平については「単なるアホなガキ」ってことになるんだろうなあ。年配の女性指導員に注意された小学生も、少し離れてから、「ウルセエ、コノ、クソババア」と、言っていました。クソをしないジジイやババアなどいるはずがないのに…。

 今日も複雑な思いを抱き、家路を急ぐ私でありました。