アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

マチュピチュの日本人遭難事故…

2010年10月31日 | Weblog
 マチュピチュ遺跡は、3メートルずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13平方キロメートルで、石の建物の総数は約200戸。
 遺跡を巡っているうちに、段々畑に、「近道階段」を発見。インカの人たちの智慧…。上の畑(または下の畑)へ行くのに、わざわざ畑の端まで行って通路の階段を利用しなくても、段畑の石垣の石を階段状に出っ張らせた階段を使うと便利。もちろん、私は近道階段を体験。ただ、ヒザを石にぶつけて血をにじませてしまいましたけどね。

 それで…段々畑や通路に、一歩間違えば数十メートルから数百メートル落下する怖い場所がたくさんあるのです。そーっと、下をのぞき込むだけで、足がすくみます。

 そのマチュピチュ(ニュースの報道では、マチュピチュもワイナピチュもインティプンクも、全部「マチュピチュ」と、ひとくくりにしているのでどこのことなのか…)で、つい数か月前とんでもない事故が起こりました。

 日本からのマチュピチュツアー、参加者が添乗員の女性に、「写真を撮って」と頼んだ。添乗員は、もちろん快く引き受けた。
 断崖絶壁側に写真を撮る女性添乗員、石垣側に写真を撮ってもらう参加者。で、写真を撮ってもらう参加者が、添乗員に…
 「もっと、後ろ!もっと、さがって!」
 と、面白半分に声をかけたという。添乗員は、注意深く後ずさりしたのだが…断崖を落ちていった…声をかけても届かない距離の落下…落下地点に姿を目視できなかったという。
 そ、そして、私の情報が正しければ、その場の参加者たちは、救助を求めるでもなく…無為に時を過ごしていたのだと!

 集合時間に添乗員が現れない。当たり前だ。現地ガイドがいぶかしがり参加者たちに聞いて、ようやく添乗員の遭難が分かった。その後添乗員は救助され一命は取り留めたが、重傷。帰国できるような状態ではなかった。(数週間後、帰国し入院)
 
 この話、ペルーへ出発する前にニュースで知っていましたが、忘れてしまっておりました。マチュピチュ遺跡の断崖から下を覗き、思い出しました。
 「もっと、後ろ!もっと、さがって!」は、崖から落としてやろうという意図ではなく、軽いおふざけだったと思います。しかし、そのあとが悪い。おそらく100メートルは滑落したでしょう。いくら茂みを滑り落ちたとはいえ、元気に歩いて戻ってくるはずがない。言葉が分からないとはいえ、「騒ぎもしない、救助を求めない、知らんぷり」これはないです。
 場所が日本なら、業務上過失傷害ですよ。このような事件こそ、検察審議会が「起訴相当」と、すべきではないでしょうか。 
 足場の悪いところでは、「写真を撮ってください」と頼まれても、「ノー!」と、大声で拒否しなければなりません。怖ろしいことになります。

マチュピチュ村の医療事情

2010年10月30日 | Weblog
 前日、はからずも、インティプンク(太陽の門)で雉を撃ち、その腹痛をかかえながらもインカ橋を攻め落とした…そこまではよかった。

 本調子ではない腹をかかえてベッドへ入ったのであるが…猛烈な腹痛が…。
 な、な、なんと!下血している!
 20~60分おきに、トイレヘ駆け込んだ。お下血は、ほんの少量だか朝まで続いた。夜が明けて、マチュピチュ村の病院からの往診をお願いした。
 40歳代と思われる男性医師が、すぐに来てくれた。迅速な対応。問診し、聴診器をあて、血圧を測ってくれた。診断は…

 1 抗生物質は必要ないでしょう。
 2 腹が張っているので、ガスが出やすくなる薬を出します。
 3 痛み止めも出しましょう。
 4 水分が足りないので、いい水(早い話がスポーツドリンクだった)を出します。
 5 血圧が高めなので、塩分を控え、運動をするように。

 イヤハヤ、マチュピチュ村まで来て、「運動をするように」と、健康指導をされるとは思いませんでした。プロのアクアウオーカーに対して「運動しろ」は、ないでしょう。こちとら、下血で苦しんでいるのに。

 さて、診察代金は!ひ、ひ、ひゃくごじゅうどる(150ドル)!往診とはいえ、あんまりじゃないか!聴診器をあてて、血圧を測って、運動しろと言っただけでしょうが!平均的月収が200ドルのペルーで、聴診器と血圧と運動しろで、150ドル!ぼったくりだー!
 現金を払おうとしたら、「領収書を持ってきていない」とのこと。私は、その日は夕刻までホテルで静養し、そのあとクスコヘ向かうことにした。支払いと、領収書の受領はクスコですることにした。マチュピチュ村の病院は、クスコの病院の分院であることが分かりました。

 さて、クスコにて。領収書を持ったクスコの病院職員がホテルへ来てくれた。それで…診察代を60ドルにするという。6割引き?割引の理由をゴチャゴチャ言っていた。「迷惑をかけたので…」みたいなことを言っていたが、聞き取ることはできなかった。150ドル用意していたので、90ドル儲かった格好になったのだが…どうして割り引かれたのか?6割も?

 ともあれ、マチュピチュでは、病院で何時間も待たされることはなく、迅速に往診していただける。診察代もまあまあリズナブル(但し、医者が領収書を忘れた場合ですがね)。

 お下血騒動、インティプンク(太陽の門)で雉撃ちをしたので、マチュピチュの王様がお怒りになった…。

マチュピチュで 雉撃ち…

2010年10月29日 | Weblog
 マチュピチュで雉撃ち?そ、それって雉じゃなくてコンドルじゃないかって?いいえ、「雉(キジ)」で正しいのです。桃太郎の家来になったあの雉です。

 マチュピチュ遺跡を出て、昼食にしました。30分間バスにゆられてマチュピチュ村まで下りなくても、遺跡出入り口前に、「サンクチュアリーロッジ」があり、そこのレストランで食事ができるのです。なお、このロッジ、宿泊はかなり困難。数か月先まで予約が入っているのだそう。一泊一部屋10万円以上。この10万円以上には、レストランでの飲食はもとより、ルームサービスも含んでいる。ただ…これはマチュピチュ村のホテルも同じだと思うのですが、バスルームにバスタブがない。つまり、シャワーオンリー。

 この、サンクチュアリーロッジで昼食をいただいたのですが、ビュッフェ方式で、33ドル。つまり、3,000円近い。ペルーで昼食に3,000円をかけるのは…なかなかないことで…。マチュピチュ村までバスに30分揺られて下りなくてもいいから多少高くても、観光客のみなさんはここで昼食をとる。大変な混みよう。ビュッフェの料理もさすがに良かった。ダチョウのモモのローストがあり、切り分けてくれたりして…。

 2,400メートルなら高山病にはならないだろうから腹八分目にする必要がないので、満腹させていただいた(標高の高いところで満腹だと、高山病の症状がきつくなる)。そして、食休みもそこそこに、再びマチュピチュ遺跡へ入った(購入当日であれば、半券があれば何度でも出入りできる)。
 目指すは、「インティプンク」。インティプンクは太陽の門。マチュピチュ遺跡から、片道1時間ほどインカ道を登った所にある。オリャンタイタンボから2泊3日のトレッキングで来る人は、3日目にこのインティプンクでマチュピチュ遺跡の全景を見ることになる。2泊3日歩いてきて、マチュピチュを見る…感動するでしょうねえ!

 さて、インティプンクまでのインカ道を登っている最中、腹の具合が悪くなってきた。満腹のあと、食休みをせずに登山をはじめたから…?内臓には毛が生えているので、すぐに治まるだろうと歩き続けた。そうしているうちに、冷や汗が出始めた。それでも、どうにかインティプンクに到着。インティプンクから見るマチュピチュ遺跡がまた素晴らしい。(バスで登ってきた)「ハイラム・ビンガム・ロード」の13曲がりもよく見えた。

 ん?やはり腹具合が…雉撃ちの場所を探し始めた。マチュピチュ遺跡内にはトイレは皆無。登山客がたくさんいるので、適当な場所が見つけられない。そうこうしているうちに、絶好の場所を発見!し、し、しかし先客が!これにはたまげた。20歳前後の白人の女性が、「ハーイ!」。堂々と雉撃ちしていた。彼女は、私に向かって、「あなたも雉撃ち?」と、声をかけてきた。不意を突かれた私は、正直に、「イ、イ、イエス…」。まさか、二人並んで雉撃ちをするわけにもいかず、わたしは自分の場所を開拓するしかなかった。

 なんとか、窮地を切り抜けてインティプンク→マチュピチュ遺跡までの下山を開始。しかし、なんともエンジンの回転数が上がらない。あとから出発した雉撃ち娘に追い越されてしまった。雉撃ち娘は、私を記憶しており、「ハ~イ!上手くいったようね」と、満面の笑みで握手を求めてきた。私も笑顔を返したが…こういうのを臭い仲というのだろうか…。

 そのあとがまた大変だったのです。往復で2時間かけてマチュピチ遺跡へ戻った。私としてはそのままバスでマチュピチュ村へ帰りたかったのだが、同行の家人が、「インカ橋へ行こう」と、言い出した。遺跡からインカ橋までは、インカ道を片道20分歩かなければならない。「腹具合が…」と泣き言を言っても、「気のせい、気のせい!」と一笑に付されるに決まっている。売られていく牛のように、トボトボと家人の後ろをインカ橋へ向かって歩き始めた。

 断崖絶壁に、人が一人通れる程度の道がある。そして特に急峻な一カ所に、道をつけず丸太橋を架けた。敵がその道を通って攻めて来たとき、丸太橋を外して攻撃を食い止める算段。その橋が「インカ橋」。崖を削った道ではなく、なんと谷底から石を積み上げて橋脚を造り、橋を渡している。落ちたら命はない。それにしても、どうやって石を積み上げたのか?100m以上も…。
 道も危険だが、腹具合も悪い。しかし、そこは精神力で乗り越えた。どうにか、インカ橋まで行って遺跡へ戻り、最終便である午後5時30分のバスに間に合ってマチュピチュ村へ帰ってくることができました。
 ところがその夜…

マチュピチュ歴史保護区へ入る

2010年10月28日 | Weblog
 マチュピチュ村からマチュピチュ遺跡へは、バスか徒歩。バスで片道30分。徒歩となると…まあ、時間があって、元気がある人は徒歩もいいと思います。レンタカーやタクシーは規制されているらしく、ついぞ見かけませんでした。
 バス乗り場は、観光客が列を作っているのですぐに分かります。運行時間は朝の5時半ごろから午後5時半まで。バスに時刻表はなく、満員になったら出発。

 マチュピチュ遺跡の定番写真の奥に写っている山が、「ワイナピチュ」。このワイナピチュへ登りたい人が異常に多い。険しい山なので、けが人があとを断たない。最近、日本人女性も大けがをした。そんなこんなで、ワイナピチュは1日400人という入山制限をしています。そんなわけで、朝の5時半からバスに乗ってマチュピチュへ着いていなければ、(ワイナピチュへ登ることができる400人には)入ることができない。マチュピチュ遺跡は6時から開くので、マチュピチュの遺跡を通ってワイナピチュの入り口でワイナピチュが開くのを待つことになります。なお、パスポートを持っていかなければ、早起きして400人以内に入っても入山できません。

 マチュピチュ村からマチュピチュ遺跡までの道は、「ハイラム・ビンガム・ロード」と呼ばれています。マチュピチュ遺跡発見者、ハイラム・ビンガムの名にちなんだもの。あたかも、日光のいろは坂のような道。狭くて舗装もされていない。世界遺産なので、舗装もガードレールの設置もできない。落ちたら100mも転げ落ちそうな箇所もある。上り下りのバスが交差できる場所も設けられているが…スレスレ。

 30分ほど登り、もうすぐ終点マチュピチュ遺跡というところで、「見、見、見えたっ!」62歳にもなってこっぱずかしいが、「感動」しました。
 マチュピチュ遺跡を、あの有名な、あの写真で見た、あの空中都市、あの空中の楼閣、あのインカの失われた都市…マチュピチュを自分の目で見ることが出来た…!

 バスを下りて、10段ほどの石段を登ると、野球のダイヤモンドほどの広場がある。そこにマチュピチュ遺跡の入り口がある。入場料は、126ソル。これは、ソルでなければ受け付けていただけない。いくらUSドルでも歯が立たない。126ソルはおよそ4,000円。入場券の半券を持っていれば、その日は何度でも出入りできる。ただ、午後5時を過ぎると、「もう閉めますよ~、帰ってください」と、係の人に追い出される。

 1440年頃(日本では室町時代)、標高2,400mの麓からは全く見ることが出来ない土地に、都市を造った!2万人が10年の歳月をかけて。そして1532年、スペイン人に征服されるまでの約90年間、人々の生活が続いていた。人々は突如姿を消した…。これについては疫病説その他があるが、実際は「夜逃げ」が最有力なのだそう。
 その理由を聞いて頷けた。隔離された土地なので、細菌感染も、ウイルスの侵入もあり得ないのだそう。つまり、疫病説はシロ。マチュピチュ(遺跡)で暮らしていた人は、「選ばれた人たち」だったので、殺人やら暴動やらは起こらなかった。よって、スペイン人が来るという情報からの「夜逃げ」…間違いないでしょう。ちなみに、人口は500人だったというのが研究者の見解。遺跡の寝所のベッド数を調べると、500人という数字がはじき出されたという。

マチュピチュ村へ…!

2010年10月27日 | Weblog
 日本人へのアンケートで、「世界でもっとも行ってみたい観光地」のナンバーワンが、「マチュピチュ」。しかも3年連続ナンバーワン。
 マチピチュがどんなところか?写真はたくさん出回っている…ただ、写真を見るだけで納得しないのが、アンティークな日本人。

 リマからどうやってマチュピチュへ行くか。
 1 リマから飛行機でクスコヘ(1時間15分)。
 2 クスコからバスで、オリャンタイタンボへ(2時間)。
 3 オリャンタイタンボから列車に乗ってマチュピチュへ(2時間)。この列車は、「ペルーレイル」。地球上で2番目に標高の高い場所を走る列車。オリエント急行を運行する「オリエント・エクスプレス・ホテルズ」と、「ペルー資本」によって共同運営されている。
 列車は、豪華な順から、「ハイラム・ビンガム」→「ビスタドーム」→「バックパッカー」という種類がある。いずれの列車も、軽食と飲み物が出る。
 帰路のマチュピチュ→オリャンタイタンボ間では、列車内ファッションショーが行われる。モデルさんは、な、な、なんと乗務員さんたち。もっとも、ファッションは、アルパカ製品のセーター類。ショーのあと、モデルさん(乗務員)たちがセーター類の車内販売をする。

 私は、ビスタドームに乗車。天井の途中まで窓があり、両脇の山々を見ることが出来るようになっている。見上げる…つまり、列車は、ウルバンバ渓谷の谷底を走る形になる。見上げるアンデスの山々には、万年雪が。
 このウルバンバ川…マチュピチュあたりでは川幅5~10mほどですが、この川が、あの世界的大河、アマゾン川の源流なのです。「アマゾン」と聞くと、ブラジルをイメージするのですが、実際はアマゾンの半分以上が、ペルー領。マチュピチュを流れた川が、アマゾン川となって南大西洋へ流れ出す…壮大!現地へ行っていなければ知ることもなかった…。

 単に「マチュピチュ」といった場合、どこを指すか…
 1 マチュピチュ村(標高2,000m。元は、アグアスカリエンテスと呼ばれていたが、マチュピチュ村のほうが通りがよくなってしまった)
 2 マチュピチュ遺跡(歴史保護区。標高2,400m)
 3 マチュピチュ山(標高3,050m)
つまり、単に「マチュピチュ」というと、上記3つのいずれか…どれを指すのか分からない。「村」なのか、「遺跡」なのか、「山」なのかをはっきりさせて話を進めるとよいと思います。もっとも大部分の人は、「マチュピチュ=遺跡」と思っているので…問題ないかなあ…。

 列車が到着するのは、「マチュピチュ村」。日本の山間の温泉郷を彷彿させられます。実際、温泉もあります。水着着用で入浴します。私は、日本から水着を持参しましたが、レンタル水着もあります。水着を借りて、入湯料を払って、脱いだ服はコインロッカーに入れて…640円あれば入浴できます。ただ…近年温泉の温度が徐々に下がってきて、今は37℃程度しかない。ぬるいです。レストラン、スーパー、ファーマシー、郵便局、両替屋、土産物屋…狭い谷間にひしめき合っている。なぜか浮き浮きします。
 マチピチュ村から、「マチュピチュの遺跡」は、全く見えません。山裾からはその存在を確認できないから、「空中都市」と、呼ばれているのです。
 いよいよマチュピチュの遺跡をこの目で見ることが出来る…!

ペルーで自分の土地を持つ方法

2010年10月26日 | Weblog
ペルーという国について、「貧しい」という認識は持っていませんでした。しかし、行ってみて、かなり貧しいことが分かりました。
 首都リマを歩いているぶんには、東京にいるのか、ニューヨークにいるのか分からない。都市部はどこでも同じ。しかし、リマから数十分走って郊外へ出るだけで、景色は一変する。

 まず、エジプト並みのゴミ。インカの昔から、ゴミはそこらへんに捨ててきた。捨てられたゴミは自然に還っていた。しかし、ここ数十年、自然に還らないゴミが増え始めた(ナイロン、ビニール、ペットボトル、プラスティックバッグ…)。人々が暮らしを変えないから、ゴミは蓄積される一方。
 トイレ事情…これも、中国並みに劣悪。使用した紙をトイレに流せない。ホテルで、うっかり流してしまったら便器の水が溢れて情けない目に遭う。それにしても、使用した紙をゴミ箱へ入れる…これには抵抗があります。だけど、持参したシャツを犠牲にして、溢れ出たトイレの水を拭き取るよりはマシ…。

 国民の平均的な月収は、200ドル。それだけで暮らせるという。教員は、400ドル、警察官は500ドルだという。勤務医は、600~1,000ドルで、開業医は、その4~5倍の収入がある。もちろん、破格の大金持ちも多数おられるとのこと…。

 観光客の立ち回り先の物価は、異常に高く設定されている。小売店の水は、32円~64円だが、観光客用のレストランの水は、340円以上になる。10倍以上に…ま、これは普通かな。
 レストランでは、水とビールが同じぐらいの値段。地元の人が、「リマのビール?こんなモノ、水だよ」と言っていたので、値段も同じにしたのか…んなわけないね。しかし、ワインはその倍以上の値段。ペルー産のワインも高い。理由?よく解りません。味?まあ、普通でした。
 ピスコサワーは美味しい。しかし、酸素が薄い高地でこれを飲んで具合を悪くする人もいるので、注意が必要。酸素の薄さに加えて、卵白が入っていることが何らかの作用をするらしい。ウエルカムドリンクとして出してくれるレストランもありました。

 ペルーの貧しい人が、土地を手に入れる方法がなんとも凄い。5年計画で120㎡の土地が入手できる。
 1年目・・・自分のものにしたい土地120㎡に、杭を立てる。市町村側は、住人が増えると税収が上がるので歓迎なのだが、警察は(一応)取り締まる。定期的に警察に杭を撤去されるが、粘り強くその土地に再び杭を立てる。市町村へは、自分の土地にしたい旨を届け出ておく。
 2年目・・・板で土地を囲む。警察がユンボで壊すが、粘り強く再建する。いたちごっことなる。
 3年目・・・日干し煉瓦で家を立て始める。これも壊されることあり。
 4年目・・・警察は、ほぼ諦めるので、本格的に家を建て始める。
 5年目・・・住宅の完成。120㎡の土地も自分のものとして認められる。

 以上のようになっているので、バスで走ると、道の両脇に、1年目の家、2年目の家・・・が並んでいるのが見えて楽しい。130万k㎡の国土に、2,900万人が住んでいる…つまり、土地は無尽蔵にあるような状況。
 ちなみに、「私(日本人)にも、杭を立てて5年間頑張れば土地をくれるのか?」と、ヒゲのオヤジに質問した。「分からん」という素っ気ない返事…。

ナスカの地上絵は…他の星の人の御指導?

2010年10月25日 | Weblog
 中学生の頃、ペルーのナスカ高原という所に、空からでなければ見えない地上絵が描かれていることを知った時に受けたショックは大変なものでした。「生きているうちに一度この目で確かめたい」その思いを、半世紀を経て実現させることができました。

 ナスカの地上絵は、空から見なければ意味がない。そのためには遊覧飛行機に乗るしかない。ナスカ遊覧飛行をする拠点空港は、ピスコとナスカ。
 リマ~ピスコは、バスで4時間。リマ~ナスカは、バスで7時間。リマに泊まっていたので、当然ピスコから飛行機に乗ることに。

 パンアメリカンハイウェイ(アラスカ~チリ、48万km)をリマから南下すること4時間。ピスコの空港に到着。この空港は、ペルー空軍の基地にもなっている(この日に、落下傘降下訓練をしておりました。2週間前の訓練では、落下傘が開かない事故があったとのこと…)
 遊覧飛行機は、5分毎に飛び立つ。ナスカ空港発着の飛行機も5分毎に飛び立つ。つまり、地上絵上空は、トンボの群のように飛行機が飛んでいる状態。過去には、空中衝突も起こった。そのため、現在は、高度差を三層にしている。つまり、全く同じコースを3機飛んでも衝突しないようにしている。

 ピスコを飛び立って1時間。夢にまで見た、ナスカ地上絵上空にさしかかった。想像を絶するものでした。何がかって?これまで、発見されていない地上絵がたくさんあることに気づいたからです。3年前は、ナスカの地上絵はおよそ300といわれておりました。今は、700以上が確認されております。今後も、どんどん発見されていくことは間違いありません。私が45分間地上絵上空を飛んだだけでも、いくつか見つけたぐらいですから。

 「ナスカの地上絵は、行ってみたいところのベスト3でありながら、もっとも失望するベスト3である(ワースト3?)」といわれております。なぜ失望するか?それは、2つの理由が考えられます。
 その1 絵はがきで見るようにくっきりはっきり見えない。
 その2 遊覧飛行機が、左右の座席の乗客に見えるように、機体を左右に傾けながら旋回するので、大半の乗客はゲロを吐く。
 私の場合、ラッキーなことに地上絵をはっきり見ることが出来ました。ただ、持参したデジカメでは地上絵を写すことはできませんでした(一眼レフで、望遠付きでなければ、まともな写真は撮れない)。
 ゲロは吐きませんでしたが、ぐっしょりと冷や汗をかきました。遊覧機の今年の事故は、2月と10月。乗客乗員は全員亡くなっている。そのことが、脳裏にあるため、「落ちたら終わり…」という冷や汗。

 私は、冷や汗でぐしょ濡れになりながら何を見つけようとしていたか。それは、「宇宙人の基地だった説」の正当化の手がかりでした。
 地上絵は…
1 暦関連説…夏至と冬至に太陽が沈む方向に一致するものがある。マリア・ライヒェさんがこの説を唱えておられるが、数千本の線のうち天体の運行と一致するものはあまりにも少ないので…この説は、ないんじゃないかな。
2 雨乞いの儀式で使った説…ナスカの地上絵は一筆書きになっており、それが雨乞いのための楽隊の通り道になったという。しかし、地上絵の線の幅は狭く、楽隊が行進するのは無理だと思うよ。
3 宇宙人関連説…この説は、だれしもが、少しの期待を持ちながらも「ありえない」と思っている説。私にとっては、説明がつく唯一の説なのですが。
 まだ諸説あるようですが、結局、「よく分からない」という結論となる。

 動植物の絵をどう描いたかについては、九産大の諫見さんが、小学生を使ってグラウンドに地上絵を再現させ、小柴昌俊科学教育賞を受賞した。原画を描き、中心点を取って相似拡大する方法(拡大法)を使ったもの。今年も拡大法で、ナスカの本物を40%縮小したハチドリをグラウンドに描いた小学校がある。動植物の絵については、ほぼ間違いなく拡大法で描いたのでしょう。しかし、BUT!直線についてはどう説明する?

 直線や幾何学図形が無数に描かれているのです。 最大の地上絵は、「全長50kmの矢印」です。遊覧飛行機からも見ることは出来ません。成層圏よりはるかに上の900kmからでなければ見えない。発見したのは、アメリカの資源探査衛星ランドサット。いくら小学生が頑張っても、拡大法でこの矢印は描けない。
 しかして、何のために50kmの矢印を?宇宙からしか見えない絵を描いてどうするの?
 私は、「地球へ来た宇宙人が、ナスカの人々に指図して50kmの正確な矢印を描かせた」とするのが妥当だと思います。他の宇宙人が地球着陸のための目印となるようにと。その宇宙人たちは、その後どうしたか?たぶん、自分たちの星へ帰ったでしょう。宇宙からの人たちは地球滞在中、ナスカの人々に、いくつかの文化を伝受した。自然石をナイフで切ったようにくりぬく技術など…。ナスカの人たちは、宇宙人の皆様がまた来てくれるよう願いを込めて、ハチドリ等動植物の地上絵を次々と描いた。

 はっきりしていることは、ナスカの地上絵は、紀元前200年から紀元後800年(ナスカ文化の時代)に描かれたものだということだけでしょうか…。

180mlの液体を飛行機に持ち込んだ男 しかも、ロス空港で!

2010年10月24日 | Weblog
 無事、ペルーから帰って参りました…!ナスカの地上絵、マチュピチュ、ティティカカ湖…想定をはるかに超える素晴らしさでした!何が素晴らしかったか?それは、徐々に書いていきますが…まず、書かなければならないことがあります。そ、そ、それは、180mlの液体を、強引に飛行機に持ち込んだ男を目撃し、インタビューまでさせていただいた…!この報告を真っ先にさせていただきます。いやはや…!日本には凄い男がいるのです!

 ロスで乗り換えてリマへ向かう際の手荷物検査場で…日本人乗客で、「缶コーヒー」を持ち込もうとした男がいた。日本の缶コーヒーを見たことがないと思われる(というか、缶コーヒーは日本独特のモノ)検査官が、眉間に皺を寄せて、「これは何だ?」と質問した。缶コーヒー男は、英語が分からないふり。検査官は、直ちに没収した。いい気味だ。そんな言い方はないだろうって?鼻持ちならない奴だったのでつい…。

 さて、缶コーヒー男の次は、「ワンカップ日本酒の御老人」。180CCの日本酒が、紙のコップに入っている。軽量でコンパクト。ガラスコップではないため割れる心配がないので、アウトドアでお楽しみいただける…。211円で売っている。正式名称は、「上撰金冠ワンカップコンパクト180ml詰」。
 私としましては、「ワンカップの日本酒?そりゃ無理だべぇ、ジイサマ!」だった。検査官は、眉間の皺を最大限に深くして、「こりゃ何だ?」と問いかけた。

 今のアメリカは、とにかく出入国に厳しい。「ベルトを外せ、靴を脱げ」この程度は普通。私など、ベルトを外すと、ズボンが下がるので、大変ですよ。そこへ持ってきて、エックスレイでは何の音も鳴らなかったのに、「両手を広げろ」といわれて、身体を触られる。ズボンが下がるっつうの!
 入国では、「右手の(親指以外の)4本指→右手の親指→左手の4本指→左手の親指」の順に、指紋を(ICデータ)採取され、顔写真を撮られる(日本へ来る外国人も同じようにされますけど)。ま、とにかくアメリカは厳しい。蟻ン子一匹通さんぞ!という決意がうかがえる。

 そこへもってきて、「ワンカップ日本酒老人」の登場である。「搭乗」だろうって?まだ乗っていない。この段階では、「登場」です。
 この御老人は、「近藤さん」。なぜ知っているんだって?…じ、実は、帽子に「近藤」というネームプレートが付いていたのです(仮名ではなく本名ですが、誹謗しているわけではないので問題ないだろうと…近藤さんは、78歳。因島市在住…オット、ここまで書いてしまうと御本人が特定されてしまうかな)。
 「こりゃ何だ?」の英語の問いかけに、近藤さんは何と答えたか?
 「そりゃあ、ワシの薬じゃけん」
 立派な日本語でそう答えたのです。検査の男の眉間の皺の深さは、5cmにも達した。近藤さんは、表情を変えず…きっぱりとダメ押し。
 「そりゃあ、ワシの薬じゃ!」
 …な、な、なんと、検査官は、「OK!」と、通してしまった!ロスでですよ!近藤さんは、リマへ向かう機内でゆっくり薬を楽しんだのでありました。

 復路のリマ空港でも、近藤さんと遭遇。近藤さん、リマの空港でも、手荷物検査場で引っかかった…もちろんワンカップ日本酒で(一体、ワンカップをいくつ持ってきたのか?)。
 「これは何だ?」と、スペイン語。
 「ワシの薬じゃ」と、日本語。
 この問答が数回続いた。ロスのとき同様、検査官が折れて通してしまった。

 近藤さんいわく…
 「検査の奴らは、酒だということぐらい分かっている。没収されてもいいという覚悟がなければ取り上げられる。堂々としているから、許されるのじゃ。ワッハッハ!」
 わ、わたしの場合、リマでは手荷物検査を通ってから、中で買った水まで搭乗寸前に取り上げられてしまいました。「検査を通ってから、水をそこの売店で買ったんだ!水が必要なんだ。そこの水はセーフだろう」と、懇願しても、「飲んでしまえ」と…。

 「私は、静脈血栓塞栓症(肺血栓塞栓症、深部静脈血栓症)にかかりやすい病気なので、水分を摂取しなければ死ぬ。この水を没収しないで!」と、説明するだけの英語力がなかった。静脈は言えるが、血栓は…。まして、スペイン語では…
 ここでようやく分かったことが…静脈血栓塞栓症が、なぜ「エコノミークラス症候群」と呼ばれているかということです。旅行者血栓症やロングフライト血栓症に名称を変えようとする動きもありますが、定着しない。ファーストクラスや、ビジネスクラスの乗客へはペットボトルの水がサービスされるが、エコノミークラスの客へは、(8時間半で)カップ2杯の水(ジュースを含む)だけ…。つまり、エコノミークラス特有の症状ということです。だから他の呼び方が普及しない。「地獄の沙汰も金次第」ってことか…。
 「この水は、ワシの薬じゃ!」と、言ったらどうなったのかなあ…。「水は百薬の長」とはいわないから、だめだっただろうなあ。

ペルーへ行ってきます (10月24日再開予定)

2010年10月12日 | Weblog
 プールにて家人が、しばらくぶりでお会いした御婦人へ呼び掛けた。「お久しぶりぃ!」御婦人は、「ボート・ピープルへ行っていたの!これで3度目」と返答。日本人離れしたお顔だとは思っていましたが、ボート・ピープルだったとは!私は、笑いをこらえるのが精一杯。家人は、私へ向き直り、大きな声で、「ボート・ピープルへ行ってきたんですって!」

 もうこらえられず吹き出してしまいましたが、咳き込むようなふりをして何とかしのぎました。「ピース・ボート」を、「ボート・ピープル」と、間違えている。「全然違うだろうがぁ!」と、ツッコミを入れるところですが、相手はボケではなく正気ですから。

 ピース・ボートは、横浜発着で、80日間かけて世界一周する旅。家内が、「ペルーへも行ったんですか?」とインタビュー。「オプショナルツアーでマチュピチュへ行ってきたんだけど、絵はがきと同じでした。凄くよかったけど…ボート・ピープルはオプショナルツアーが多く、都度お金がかかるんです」…そうだったのか!ピース・ボートは、旅行費用のおよそ90万円の他に、オプショナルツアーに参加するのであれば、その度にお金がかかるのかー!知りませんでした。全て込みかと思っていました。注意しなければ。

 家人がなぜ、「ペルーへも行ったの?」と、尋ねたかといいますと、我々がペルー旅行を計画していたからです。実は、今日、これから出発です。
 頭も体も何とか動くうちに、是非行っておきたい国の一つがペルーでした。24年前、アメリカ勤務の時に、詳細な計画を立てて南米旅行をしようとしました。ところが、領事館の人も、「う~ん…」会社関係の人は、「やめなさい!」理由は、「飛行機がよく落ちる」。(当時)南米を飛んでいる飛行機の多くは、北米でもう飛べなくなった飛行機を整備したものを使っていた。行方不明機は数知れず。「もう3日も経つのに、来ないなあ」という飛行機は、決まってアマゾンのジャングルのどこかか、アンデス山脈のどこかに墜落しているのだと…。実話を元にした映画で、南米で墜落した飛行機でただ一人生き残った少女が小川の流に従ってジャングルを歩き続け、救助されたというのがありました。また、アンデスの雪深い山に墜落し、生き残った人たちが亡くなった人の肉を食うということがありました(これも映画化された)。それで、私としても、24年前は南米を断念しました。

 そして、この度、さあ行くぞ!と決意を新たにしていたら、ナスカの地上絵遊覧の飛行機が墜落。パイロット、観光客全員死亡。2月にも、ナスカで遊覧飛行機が墜落して全員死亡。いやはや、相変わらず落ちていますなあ。生還できるといいのですが。ナスカの地上絵は、飛行機から観なければ意味がないでしょう!死を覚悟して乗ります!

 リマ→クスコ、フリアカ→リマも飛行機利用。この飛行機会社の2ケタコードは、LP。調べたが、「LP」というコードの飛行機会社は見つけられなかった。早い話が、ラン航空のペルー国内専用機(ラン航空のコードはLA)なのでしょう。これも…大丈夫かなあ?

 飛行機の他の強敵は、高山病。3,400mのところ(クスコ)、3,800mのところ(プーノ:ティティカカ湖畔の町)で宿泊予定。4,300mのララヤ峠も越えます。若い頃、ユングフラウヨッホの3,500m地点で高山病にかかりひどい目に遭ったので、不安です。そんなこともあり、ペルー旅行は、動きにキレが残っている(ホントカ!)今しかないかと。

 ともあれ、生きているうちは、「前進あるのみ」。飛行機の墜落と高山病が怖いなら、一生を押し入れに隠れて過ごさなければなりません。無事帰ってきましたら、アンティークマンで報告します。早くて、10月24日かな…。

泣かせられ、あきれさせられ…心は体のどこにある?

2010年10月11日 | Weblog
 小学生の頃、担任が、「心は、体のどこにあるか?」という質問をした。私は、即座に「頭」と答えた。ところが、担任は、「バカこの!」と一喝。心臓のあたりを指さし、「ここにあります」と答えた子が、正解だとして褒められていた。あれから50数年、いまだに心が本当に心臓部分にあるのか…先生がウソをつくはずがないのでしょうが…。

 毎日新聞の、「近事片々」から…(文面通りではありません)
 昨年、10歳の息子さんがひき逃げされて亡くなった。母親は、息子さんが生前、「甘栗を買ってぇー!」とねだったことを思い出した。そのとき、母親は、「ダメ」と言って買ってあげなかった。「あのとき、買ってあげればよかった…」買い物中のスーパーでぼろぼろ涙を流し泣いた。…そのような記事が新聞に載ったのだそう。

 その記事に心を打たれた東京都の渡邉という方が、「甘ぐりを供えて」と、3,000円入りの封書を母親へ送った。母親は、渡邉さんの心を、天国の子への手紙に込めた。そして、「お母さんは頑張って生きてみます」と…。

 ねだる子に買ってあげるのは簡単なこと。「ダメ」「我慢しなさい」これを言うのは正直辛いことです。本心は、買ってあげたい。しかしそれでは、子供はおかしな伸び方をする。親の責任として、我慢させる…。我慢させた子が先立ってしまった。あのとき買ってあげればよかったなあ…悔やんでも悔やみきれない。

 渡邉さんが、3,000円を送った。渡邉さん御自身も、子供さんにねだられ、心を鬼にして我慢させた経験がおありなのでしょう。やむにやまれず、封筒に3,000円をねじ込んで送った。金額の問題ではなく、その行為が打ちひしがれていた母親に、「頑張って生きてみます」と決意させたと思います。心は、行為で十分通じるものなのですね。

 行為で心を伝えたかったが、心が全く通じないどころか、不信感をもたれる事態になった。
 長浜市(滋賀県)が、今年の敬老の日に合わせ、お年寄りに祝賀品として歩数計をプレゼントしたところ、「寝たきりだから使えない」「足が弱った年寄りに、皮肉か」などと苦情が相次いだ…。

 どうしてこのようなことになったか?「目線」が1mもずれている。「歩数計、いいんじゃないの。たくさん歩いてますます健康になってということで喜ばれると思うよ」…とまあ、高齢福祉介護課は考えたのでしょう。贈られる方の目線など考えていない。つまり「心」がない。
9月15日時点で88歳、90歳と99歳以上の市内在住者への贈り物です。該当者は御高齢。健康状況を把握していなければなりません。失礼ながら、歩数計を付けて歩ける人が何人おられるの?「歩数計を使えるほど健康になって、との願いを込めたと聞いている」と市長が言っていた。市長さんにお尋ねしたい。99歳を越え寝たきりとなって、「…この歩数計を使えるほど健康になって」と言われても…「心」が伝わりますか?「バカにしているのか!」と、血圧を上げてしまいますよ。

 1,000円札1枚でいいから、「些少ではございますが、敬老の日のお祝いでございます」これでいいのです。99歳が1,000円もらってもしょうがないと思う人がいたとしたら、その人の目線も高さが違う。自分で使わなくても、日頃世話をしてくれる人へ心遣いができる。「果物でも買って食べなさい」いただいた方も、1,000円をいただいたのではなく、「心」をいただいた。歩数計よりどれだけ心が伝わるか。

なお、歩数計に添えていた祝賀状の敬老の日の日付を、9月15日としていた(正しくは、9月20日)。いかにたるんでいるか?「祝意の心」など、みじんも感じられない。機械的に作業し、チェック体制も機能していない。なんなんだ!

 甘ぐりのお話では泣かされました。しかし、歩数計の市には憤りを感じました。それにしても、「心」は人体のどこにあるのか?正解が分かったような気がします。「心=体」ではないでしょうか。どこかの部分にあるわけではない…。