アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

鶏は六角形、よって六角鶏?

2017年04月30日 | Weblog
奈良で有名なものの一つに、「奈良女子大学」があります。その奈良女の誰かが書いたらしい「六角形の謎」という小論文の一部・・・。

 「六角形」といえば、「ハチの巣」「雪の結晶」「サッカーゴールの網目」…。
 ミツバチやスズメバチの巣は、六角形の小さな部屋が隙間なくぎっしりと並んでいる。ハチ達は触覚を使って、正確な六角形を作る。これを「ハニカム構造」と呼ぶ(ハニカムは、「ハチの巣」ですから、そのまんまですね)。
「ハニカム構造」は、やわらかいゴムが箱の中でぎゅうぎゅうづめになったり、タバコの束をぎゅっと一握りした場合、六角形に近づいてゆく。この不思議な作用と同じ(ウ~ン、解りにくい。奈良女では、タバコの束を握るらしい)。では、なぜ六角形なのか?(よろしくお願いしまーす)

 1つの正方形があるとする。この正方形をならべると、平面を隙間なくうめることができる。正八角形や正七角形、正九角形は、内角がちょうど360度にならないため、平面を覆うことはできない。
 平面を覆うことのできる正多角形は、「正三角形と正方形と正六角形」の3つだけ。

 ハチの巣の場合・・・ハチは巣を作るとき、まず壁を作り、それから部屋をつくる。
 三角形の部屋を作るとしたら、壁を6っつ作らなければならない。
 正方形の部屋を作る場合は、一定の長さの壁を作り、90度ずつ3方向にのばさなければならない。
 六角形の部屋が一番簡単。一定の長さのかべをつくったら、120度づつ、2方向に伸ばせばよい。
 …よく解らんって?図にすると解りやすいのですがぁ、文章じゃ解らないですよね。

 奈良女子大の優秀な学生は、六角形でハチの巣を連想し、どうしてハチが六角形の巣をつくるかを論理的に解明してしまう。
 ところが、私のレベルでは、「六角形=鶏」なのです。何しろ、「毎日50羽の鶏」をさばいておりましたから(学生時代、アルバイトが高じて鶏肉職人に。何回も聞いたって?そうでしょう!自慢の一つですから。アルバイトでも真剣に首を突っ込む。で、きまって雇い主にスカウトされる…。出前持ちのアルバイトでは、ラーメン屋になれと、スカウトされたことも)。

 なぜ鶏が六角形か?例えば、「首の骨」、見た人は少ないでしょうが、輪切りにすると六角形。胴体の骨格は、「トリガラ」を見ていただくとよく解っていただけるでしょうが、輪切りにすれば六角形。気づかなかったでしょう!なぬ?「首の輪切りなど、ほぼ円だろう」って?そ、そういえなくもないけど、胴体なんかは、「トリカム構造」なんですけどね(ハニカム構造をもじった)。

 近鉄大和八木駅前で、「六角鶏(ろっかっけい)」という名の居酒屋を発見!「ピン」と来ました。「鶏」は六角形であることを知っていた創業者が、鶏肉主体の居酒屋を始めるに当たって、店名を「六角鶏」とした!
 六角鶏は、西日本に展開するチェーン店。東日本の端からの旅行者である私どもにとっては、初めて知った店名。

 「カウンター席がいいか、個室がいいか」と問われた。
 「個室で」
 「はいどうぞ、ここへ」
 「なんじゃこれ?」
 …「かまくら(雪国の人がつくるアレ)」の形状をした2~3人用の個室。これが店内に7~8個ほど並んでいました。
 コストパフォーマンスは普通。唯一気に入ったのは、「生ビール、中ジョッキー(500ML弱かな)で390円」これは出色!3杯飲みましたぁ!ほかの店では、550円~600円ですから。

高取城址by car 2017(保存版)

2017年04月29日 | Weblog
 車で高取城址へ行かれる方のお役に立てるかと、資料を掲載します。
 出発点を、近鉄「壷阪山駅」の前とします。ここは、Rt.169です。カーナビの目的地を、「壺阪寺」にします。Rt.169を南下。
壺坂山駅前から1kmで、小島神社があります。カーナビはその先の信号で、「左折せよ」と言います。左折すると、Rt.119に乗ります。細くて頼りない道で、ほどなく、ハイラムビンガムロード状態になります。現代の乗用車に乗っていてすら、「城址に登るの止めようかなぁ」と、思うほどの道。
 で、高取城を陥落せんと攻めた天誅組が、なすすべもなく退散したのですが、この道、つまり壺坂寺へ辿り着く前の道で疲労困憊したであろうと私は思うのです。

 さて、「壷阪山駅」から、3kmの所に、「壺阪寺」があります。ここまで来る道がハイラムビンガムロードですが、壺坂寺周辺は平地があり、広い駐車場もあります。
 壺坂寺から先は、勾配のきつい登り坂。崖崩れを防ぐ石壁に、「これより先、駐車場なし」と、白ペンキで、大きく書かれております。
 ハイラムビンガムロード状態が続き、谷側へ落ちると、50mは転がり落ちる道。時々車の交差が出来そうなところがありますが、対向車が来たら…考えるだけで怖い。そのリスクを少しでも軽くするために、「平日に行くこと。特に、月曜日がいい。早朝行くこと」これが大切です。

 私は、平成29年4月17日(月曜日)、壷阪山駅前出発が午前8時30分。幸運にも、壺坂寺から先は、対向車には出会いませんでした。なぜ月曜日かといいますと、観光関係施設が全てお休みだからです。出掛ける人にとっても、「月曜日はどこへ行っても休館だから、出掛けるのは止めよう」と、なるのではないか。
 出発から、およそ6kmで、車が通ることが出来る道は途切れます。そこの地名は、「七つ井戸」。高取城には、井戸が沢山ある。「井戸注意」の立て札が。井戸に落ちてしまうと、誰にも発見されることがないでしょう。七つ井戸のあたりは、井戸が七つあったのでしょう。電話ボックス型の簡易トイレが一基ありました。中を見る勇気がなく、中がきれいなのか、汚いのか?蝮(マムシ)がいるのかいないのか?確認できませんでした。
 きちんと駐車すれば、乗用車なら4~5台は駐めておけるスペースがありました。
 
 七つ井戸に駐車し、徒歩で城址の石垣目指して出発。勾配がきついつづら折りの道…もちろん一人が通るのがやっとの道幅。550m登ると…そこは、高取城の石垣!この山城は、難攻不落。ただただ、「素晴らしい!」。

 何層もの石垣で、叫びましたよ!
 「ご先祖様-!来ましたよぉー!」誰もいないので、大声を出しても迷惑にならない。朝早く来た特典ですね。
 石垣の上に大きな桜の木があり、折から、「満開!」。末裔の訪問を歓迎してくれました。

「千人VS二百人」の合戦で二百人の勝ち!

2017年04月28日 | Weblog
 天誅組(尊皇攘夷派の武装集団)は、1,000人の兵力で高取城を攻めた(1863年8月26日)。一方、高取城側の兵力は、200人ほど(高取藩は、25,000石。早い話が、小藩)。「1,000人VS200人」の戦いですから、天誅組の圧倒的な勝利であるはず。
 
 高取城は・・・南北に長い尾根筋に「高石垣」。22基の櫓。5基の多聞櫓。33棟の門。9の橋梁。これは凄い!おまけに、山城なのに、水堀が設けられていた。城内、郭内の周囲は、約30キロメートル。日本最大規模の山城でした。
 公卿中山忠光が率いる天誅組は、狭い小道を進軍。
 高取藩兵は、大砲と鉄砲で迎撃。
 「ヒエー!高取藩に大砲があるなんて聞いてないよー!」天誅組は、逃げるしかなかった。中山忠光はどうしたかって?推測ですが、必死で我先にと逃げたんじゃないかな。その根拠として、この戦闘の死者は天誅組の2名。死因は、「圧死」。逃げるときに、味方の兵士に踏み殺された。
 司馬遼太郎によると、死者2名のほか、「耳鳴りが1名」だという。どういうことか?天誅組の兵士は、ヘルメット等あるはずもなく、「鍋」を被っていたりした。大砲の弾が、鍋を被った兵士の頭に命中。その兵士、1週間耳鳴りがしたという。前回も書いたけどね。

 で、私はこの度、実際に現地を検分したわけですが…
 天誅組の1,000人は、まだ高取城の郭内に辿り着かない「壺阪寺(高取城まで、あと3kmの所にある有名なお寺)」まで登って来ただけで、疲労困憊していたと思います。
 私は、車で行ったのですが、壺阪寺までの道が、現在も、道幅2.5mほどの細さで、勾配がきつく、しかもつづら折りなのです。「払暁」に攻撃しているわけですから、夜通し歩いてきたわけで…。士気は最低だった事でしょう。
 郭内に入っても、「道が細い」。これは、当たり前。城の守りですから、道を細くして敵兵を一列にすると、少人数でも簡単に攻撃できる。また、広い道から急に細い道にすると、ダムの水のように兵士が溜まる。そこを攻撃すると、大量にやっつけることが出来る。 
 高取城の、高石垣では、「行き止まり」も造ってありました。これをめざとく見つけるあたり、私も高取藩士の末裔。敵兵が行き止まりとも知らずに進入し、後続に押されて行き場がなくなる。そこを攻撃すると、もうおわかりですね。大量にやっつけることが出来る。

 なお、司馬遼太郎さんの「おお、大砲(新潮文庫『人斬り以蔵』所収、1969年)」によりますと、高取城の大砲で実際に弾が飛んだのは、一門だけだったと。ほかの大砲は、火薬の調合(調合法は、秘密が漏れないように文書にせず、口伝。それが、100年以上も続いたので、言い間違い、聞き間違いが起こる)が間違っていたり、砲にひび割れが入っていたりで、弾は出なかったと。数100年ぶりの大砲の出番ですから、さもありなん。

 それにしても、私の祖先が勤めていた高取藩、強いでしょう!「1,000VS200人」の戦いで、簡単に勝ってしまうんですから。愉快・痛快!いいぞぉー!高取藩!いいぞぉー!草川太忠!なぬ?「太忠さんは戦ってないだろう!早駕籠で駆けつけたら、天誅組は逃げたあとだったんでしょ!」って?だ、だけど高取藩の重鎮だったわけで、戦ったも同然!
 私がなぜ、ご先祖様の地「高取城址」へ行きたかったか、お分かりいただけたかと。「単なる物好き!」そ、その通りです…。

天誅組の変

2017年04月27日 | Weblog
この度の旅のメインは、高取城址へ行くこと。地元の人に、「どうして?どうして遠路はるばる高取城址へ?」と、いぶかしがられました。で、少々、おさらいを…。

 高取藩(今の奈良県)江戸留守居役家老「草川太忠(くさがわたちゅう)」は、天誅組が高取城を攻めると知って、早籠で江戸から駆けつけたぁ。この草川太忠が私の曾祖父。高取に着いた時には、天誅組は退散しており乱は治まっていた。  
高取城は日本の三大山城(美濃岩村城、備中松山城、大和高取城)の一つで、標高584メートルの高取山の頂にある。1863年8月26日に天誅組が高取城を攻めたわけですが、太平の世に浸かりきった連中に、山城を攻める技術などあるはずがなかった。なにしろ、田んぼの畦道を一列に並んで攻めて来たそうです。また、山頂までの道も細く長く斜度がきつい。大砲を撃たれ、びっくりして逃げ出したそう。この天誅組の変、犠牲者は天誅組の2名のみ。この2名は、逃げる際に転んで、逃げ惑う味方に踏まれて亡くなった。轢死というべきか圧死というべきか…そりゃないだろうというべき戦死の仕方です…。
大砲の直撃をくらった天誅組の兵士は、鉄鍋をかぶっていたのが幸いし、2日間の耳鳴りで済んだという。直撃で耳鳴りだけ…これは凄い!なんとものどかな戦です。
 曾祖父草川太忠、「御家の一大事に早籠で江戸から、高取まで駆けつける…」3~4日はかかったでしょう。これまたのどかなものです。乱は治まったが、残党が不穏な動きをしていたので、剣の達人でもあった太忠はしばらく高取に滞在した。天誅組が完全に壊滅したのは9月24日の鷲家口村の戦闘でした。
太忠が江戸へ戻るにあたり、城主(植村家保:いえもり)は、遠路駆けつけた褒美として、柿をたくさんもたせてくれた。息子の為之介(ためのすけ、私の祖父)は、柿をたらふく食べた記憶がある。量が多かったので、干し柿にもした。為之介にとって父親、「太忠」は、天誅組に早籠で立ち向かおうとした英雄であり、尊敬できる人物であり、甘い甘い柿と、さらには干し柿さえもたらした、絶対の存在であったことは間違いない。この時代父性は、厳然として存在した。

 1868年(慶応4年、明治元年)草川太忠は、高取藩の「参政」に任ぜられ、さらに「東京公用人」を兼務した。江戸は、東京と名称変更された。
 その後の藩政の改革で、家禄は9割減となった。廃藩置県で、高取藩は高取県となり、さらに奈良県となった。
 1871年(明治4年)末。太忠の勤務する東京出張所は閉鎖された。追い打ちをかけるように、武士階級の特権を剥奪する諸制度の改革が相次いだ。草川家は凋落の一途をたどることになる。

司馬遼太郎の短編に、「おお、大砲」というのがあります。天誅組の変のことが書かれています。曾祖父の太忠は、「おお、大砲」には登場しませんが、影を感じます…。 
 1873年(明治6年)私の祖父、草川為之介は19歳になっていた。1月に徴兵令が公布された。政府は、20歳以上の男子を兵籍に入れ、3年間兵役に就かせることにした。草川家に代人料270円(現在の相場に換算して約200万円)を支払うことができれば兵役は免除されるのだが、残念ながら草川家にそのようなお金は無かった。
為之介は、徴兵を忌避し、新天地を求め北海道へ渡った。
と、まあ我が家にはこのような歴史がありまして、太忠さんの足跡を辿ることは出来ませんが、高取城址へ行けばご先祖様が吸った空気を吸い、見た景色を見ることが出来るかな…そんなわけで、是非高取城址へ行きたかったわけです。

嘉雲亭 奈良

2017年04月26日 | Weblog
超濃密度の一日をすごし、今井町の町屋民宿「嘉雲亭」に到着。自分たちへのご褒美の夕食は…!宿から150m程歩くと今井町の端に。そば屋と、寿司屋と、イタリア料理店がありました。散々歩いたので近鉄八木西口駅の近くへは行かず、この3軒のうちのどれかに決めることにしました。
 夕食に、「そば」は軽すぎる。寿司は奈良へ来て2日連続いただいている。奈良と言えばぁ、イタリアン!私の本音は、生ビールを1.5リットル飲めればそれでよし、そばでも寿司でも何でも良かったのですがね。
 なぜ奈良ではイタリアンやフレンチが多いのか?私は、奈良県人の、「進取の気性」だと思います。ふれあう人の全てが前向き。路を曲がれずに難儀していると、6人も集まってくれて何とかしてくれようとする。料理でも、個性を持たせることに躊躇がない。今井町にイタリアンレストランがあるのって、ある意味、出色。
 生ビール(中ジョッキー 600円)を三杯と、「斑鳩の里」を一杯飲みました。飲み過ぎで、フラフラ。カミサンへは、「今日は歩きすぎで腰がだるい」と、フラフラの言い訳。本当は酔っ払っておりました。

 さて、町屋民宿「嘉雲亭」。今井町では、室町時代以降、初めての「宿」だと(ネットに載っていた新聞の切り抜きで)知りました。そもそも、全く知らなかったのですが、御所市出身の方に情報を頂きましてね。あと、JR奈良駅前のトヨタレンタカーで借りた車を、橿原市の近鉄「大和八木駅」近くのトヨタレンタカーで返却できるという情報も頂きまして、これは使えますよ。(乗り捨て不可のレンタカー屋さんもありますので、予約の際確認を)

 嘉雲亭への宿泊予約は、インターネットでOK。アクセスとしては、恐怖の「外部からの侵入者を拒絶した町」ですから、車での進入は困難。今井町を迂回して今井保育所か今井小学校の近くへ来たら、嘉雲亭のご主人に電話して、指示を仰ぐこと。これだけは、守る方がいいです。

 二階が客間。箱階段を上がって行きます。箱階段ですよ!一段一段が、引き出しになっている。室町の香りがします。手すりがないので、酔っ払いはこけます。
 「今日の宿泊は、お客さんたちだけです。二階の三部屋を全て使って下さい」これも、ご先祖様の思し召しか。
 道路に面した二間続きの部屋に、蒲団が敷いてありました。「使っていい」と言われたもう一部屋は、カミサンと二人ですから、使おうにも使えませんでしたワ。

 お風呂は、「お湯が出る」ようになっていました。これは、客のニーズに合わせたモノでしょうねえ。江戸時代の頃は、「五右衛門風呂」だったんじゃないかなあ。私は飲み過ぎなので湯船には入りませんでした。
 お風呂、洗面所、トイレは、近代化してあります。しかし、風情を大切にするためか、冷暖房施設はありません。これは譲れないところだったのでしょう。
 B&Bで、朝食がつきます。ご主人がサイフォンで、コーヒーを淹れてくれました。我が家では、朝食時に2杯飲みますので、嘉雲亭でも、もう一杯飲みたかったのですが、「もう1杯!」とは、言い出せませんでした。シャイなもので…。
 パンも、「胡桃パン」を7枚出してくれまして…全部食べると、「品がない」と思われては沽券に関わるので、1枚残しました。私同様、3枚食べたカミサンも、あとで、「あの1枚、食べたかったぁ」と、言っていました。体重は私より30kg軽いのに、食べる量は同じ。旅先の胡桃パンでも、ライバルがいたわけです。

 そんなこんなで、「タイムスリップ不思議体験」をさせていただきました。貴重な経験です。
 おっと、忘れるところでした。「外部からの侵入者を拒絶した町」その当時、よそ者は今井町では宿泊できなかったのか?出来なかったんですねえ。それで、親類縁者とか、どうしても外部の人を宿泊させたいときは、「許可証」を頂かなければならなかった。私どもも、ご主人から、「宿泊許可証」をいただきました。遊び心ですが、嬉しいモノです。

 そして翌朝、出発の時、ご主人が「火打ち石」で火花を飛ばして、私どもの道中の無事を祈ってくれました。こういうサービス、いいですねえ。お陰様で、道中無事で帰ってこられました。

奈良市~長谷寺~今井町、超濃密度の一日(その2 最終回)

2017年04月24日 | Weblog
 いやはやクオリティの高い一日…!
 幾多の試練を乗り越え、東大寺~春日大社~興福寺~暖暖~長谷寺と回ったところまで前回書きました。その続きです。まだ、一日が終わっていないのです。濃いっ!

 さて、長谷寺(桜井市)から、お隣の橿原市にある、今井町へ。今井町は、現在も江戸時代そのままのたたずまいと情緒を残す町。約500棟の伝統的建造物のうち、国・県・市指定の重要文化財になっているものが、17件。民家建築の貴重な財産。
 江戸時代、「大和の金は今井に七分(奈良県のお金の70%は今井町に集まっていた)」といわれるほど今井町の商業は繁栄しておりました。外部からの侵入者を拒絶して、独立した自治都市を築いてきた。
 さてさて、目指すは、今井町の町家民宿「嘉雲亭」。カーナビに忠実に走っておりましたら、首尾良く今井町に侵入!「進入」じゃないのかって?あのね、「外部からの侵入者を拒絶した町」へ入るのですから、侵入でしょう!ジョークですがね。

 道幅が2m。道の両脇に幅20cmの側溝。道は碁盤の目。直角に交わっている。クラウンなら入り込む気が起きなかったでしょうが、アクアなのでなんとかなるかなと進入。最初に十字路を左折しようとしたが、何しろ道幅が2m。直角に曲がることが出来ない。左前方の家のオジサンが心配して出てきてくれた。自転車で通りかかったオジサンさんも、誘導役をしてくれた。塾帰りの小学生も見物してくれた。前へ行ったり下がったり、町民のおかげで10数分でその場を脱出することが出来ました。「外部からの侵入者を拒絶した町」の面目躍如ということか。侵入者としましては、大変です。
 「もういやだ!」と思いました。この日は、長谷寺の参道で酷い目に遭っていましたから…余計にネガティブになっていました。

 カーナビの声:この先右折です。その先右折です。その先さらに屈折が続きます。
 「嗚呼、もう嘉雲亭を断念したい」と、思いましたよ。かといって、バックすることも無理。前へ進むしかない。カーナビにしたがって次のT字路を土壁に向かって右折…。曲がれない。右後ろが脱輪まで1cm。左前はタイヤが半分側溝にはみ出していましたが、まだ落ちてはいない。外部からの侵入者を拒絶した町なんだなあ…。
 このカーブで集まった人たちは…
 進入してきた車に家の一部を壊されたオバサン。そのオバサンの所で世間話をしていたオバサン。進行方向右2軒前の客だったオバサン。その客を送り出したオバアサン。仕事帰りの40歳代の女性(この方がいい働きをして下さった)。そして、先ほどのカーブで誘導役をしてくれた、自転車に乗っていたオジサン。そのオジサン曰く…「このカーブ、絶対曲がれないと思ったから来てみたんだぁ。やっぱりなあ」。舐めてるけど、ありがたい。総勢6名の応援を頂き、なんとかこのT字路を脱出。カミサンは、「コメツキバッタ」と化し、何度、「アリガトウゴザイマス」を繰り返したか分からない。私は、今井町でミイラ化するのではないか思っていました。ピラミッドの内部に入った時の感じとオーバーラップさせていました。
 このT字路で嘉雲亭までを直線距離にすると、40m。それなのに・・・。
 「どこへ行くの?」という質問に、
 「嘉雲亭へ行きたいんです」と、答えると…
 「聞いたことないねえ?この辺には、ないよ」
 ・・・嘉雲亭、そんなに無名だったとは!(実際、インターネット、旅行雑誌には堂々と載っています。地元の人向けには、宣伝していないらしい)

 兎にも角にも、生きて嘉雲亭に到着。もの凄くクオリティの高い一日でした。このような経験は二度と出来ない。
 自分の事ながら、「よくやった!」と思いました。有森裕子モード。達成感、成就感にヒタヒタと浸って、薄暮の今井町へ夕食に出掛けたのでありました。

奈良市~長谷寺~今井町、超濃密度の一日(その1)

2017年04月23日 | Weblog
 いやはやクオリティの高い一日でした…!
 平成29年4月16日、日曜日。早朝JR奈良駅前のホテルを出て、艱難辛苦の末、夕刻、生きたまま、橿原市今井町の「嘉雲亭」に辿り着くことが出来ました。まさに、ご先祖様のご加護があったからでしょう。

 早起きして、東大寺 (大仏殿)、春日大社、興福寺(国宝館)と回りました。興福寺では、本来、阿修羅像が安置されているところが工事中。アシュラー(阿修羅像のファン)としては、なんとしてもご対面しなければ。そんなわけで、疎開先の建物(興福寺の敷地内にあるんですけどね)まで阿修羅像に会いに行きました。
 「阿修羅像」を見終わったのが、午後1時。そのあとの予定は、レンタカーで、桜井市の長谷寺へ行き、橿原市今井町の「嘉雲亭」に入る。…でした。道路状況が不明なので、とにかく早め行動をしたかった。
 ところが思わぬ伏兵が…!カミサンが、「暖暖(のんのんと読ませている)の、茶がゆが食べたい」と、言い出した。興福寺から、暖暖までは1km歩かなければならない。午前中の寺社巡りで、私の足腰は悲鳴を上げている。自慢じゃないが、脊柱管狭窄症。カミサンは、暖暖目指して歩を早めている。そのあとを私は、「斬られ与三郎」状態で追いかける。猿沢の池のカメたちが、私を見て憫笑していました。タクシーを使えばいいだろうって?入り組んだ細い道に、流しのタクシーなど来ません。
 なんで昼食が、「茶がゆ」なんだぁ~!それって、朝に食べるものでしょ?
 ともあれ、半死半生で茶がゆをたべて、暖暖からまたまた徒歩1kmで、レンタカー屋さんへ。

 レンタカーは、「アクア」。午後2時に奈良駅前を出発。169号を南下。バイパスもあり、30分もかからずに長谷寺近くまで行けました。
 しかし、試練はここからでした。長谷寺の参道は車1台なら徐行すれば通れる(徒歩の参詣客がいるので徐行しなければなりません)。折悪しく、午後3時近くでしたから、長谷寺へ向かうのは私どもの車を先頭に5~6台。長谷寺から帰る車、つまり対向車が列をなしている!左へ寄りすぎると側溝へ脱輪するか、参道にびっしり並んだお土産屋さんを壊すか…。二進も三進も(にっちもさっちも)行かない。少なくなった頭髪は逆立っている。必死のハンドル操作が続いた。カーナビ(カーセンサー)からは、「障害物ありの警報音」と、「左前です」「右後ろです」というアナウンスの連続。ミラーをたたまなければぶつかるので、こちらも対向車もミラーをたたんですれ違う。車と車の隙間は、5cm程。5cmですよ!50cmじゃない。少し傾くだけで、擦ってしまいます。
 カーナビ:ピー、右後ろです。ピー、左前です。ピー、周辺です周辺です。
 カーナビすらパニックになっている。

 この試練を乗り越え、駐車場に入れたときは正直、「茫然自失」でした。強烈な危機に直面したとき、人は妙に冷静になるものです。危機を脱したときは、「茫然自失」…なのです。

 やったぁー!我が家の菩提寺(奈良県桜井市の)長谷寺に到着ぅー!
 ところがまたまた試練が!本堂に辿り着くまでに、399段の階段(登廊)がっ!きいてないよーっ!正直無理だと思いました。朝から寺社を歩き、暖暖まで歩き、レンタカー屋さんまで歩き、長谷寺の参道の運転で神経をすり減らした脊柱管狭窄症の高齢者が、399段を上ることが出来るとは思えない。
 長谷寺では、「牡丹祭」の旗が。しかし、牡丹はまだつぼみでした(4月16日)。カ、カミサンが楽しげに登廊を登っていく。斬られ与三郎は、手すりを頼りに追いすがろうとするが…。399段というのは、「煩悩を消す数字」なのだそう。煩悩でも何でも消してほしい。脊柱管狭窄症を消してくれるとなおありがたいが。
 結局、登り切りました。「茫然自失」ではなく、清々しい達成感がありました。
 長谷寺は、西国三十三所観音霊場の第八番札所。巡礼の装束の人が次々と399段を登ってきました。皆さんご高齢で、「ハアハア」と荒い息をして汗だく。私は、息も乱れていないし、汗もかいていない。毎日の、アクアウオーキングの成果か?実は、ゆっくり登ってきたから…。

 長谷寺の本尊は十一面観音。ご先祖様もお参りした十一面観音、しっかりお参りさせていただきました。
「枕草子」「源氏物語」「更級日記」など、多くの古典文学に登場する長谷寺。我が家の菩提寺。そこに自分が居るということが、なんとも不思議。奈良恐るべし!

 ここまででも、ハイクオリティの一日。しかし、この日のクオリティはまだまだ高くなったのでありました。さて、次なる試練は…?!明日書きます。

シカを引きずる

2017年04月21日 | Weblog
薬師寺・・・どこへ行っても幸運に恵まれるのですが、薬師寺でも年間4回しか公開しない平山郁夫さんの「大唐西域壁画」を見る事が出来ました。
 薬師寺は、「玄奘三蔵」と深いご縁があるのだそうで、玄奘三蔵のお骨を分骨していただいた1991年に、「玄奘三蔵院伽藍」を建立。2000年の大晦日に、平山郁夫さんの、「大唐西域壁画(玄奘三蔵求法の旅をたどる壁画)」を、大唐西域壁画殿(玄奘塔北側)にお祀り。素晴らしいものを鑑賞させていただいて、幸運でした。

唐招提寺・・・鑑真ですよ!鑑真が建立したお寺。「天平の甍」ですよ、井上靖さんの。鑑真は、6年がかりで日本に来たわけで…なぬ?天平の甍を読んだから知ってるって?ハイハイ、知っている人は沢山おられるでしょうね。
 校倉造りの経堂と宝堂が残っておりまして、奈良時代…素晴らしいわ。

 奈良の寺院、神社では、毎日のように修学旅行生と一緒になりました。高校生に、お寺を見せて、「修学旅行で~す!重要なお勉強で~す」は、無理だわ。ガイドの説明など、な~んも聴いていない。思わず、「ちゃんと聴け!」と、注意に行くところでした。カミサンに止められて思いとどまりましたがね。でも、生徒が悪いわけじゃないんですよ。お寺を見に行かせる学校が悪いっ!お金の無駄遣い。

 奈良で困ったのは、「早じまい」。とにかく、午後4時頃には、ぼつぼつ閉店するところが・・・!早すぎます。JR奈良駅にあるイオン(AEON)は、深夜の12時まで営業しておりまして、ありがたかったです。
 どうしてそんなに早く帰宅したいのか?早く寝るためには、早く夕食を食べなければならない。早く夕食を食べるためには、早く帰宅しなければならない。…のだそうで。なぜ、早く寝るかって?それは、「早起きするため」ですね。

 奈良では、「シカを死なせた場合、石子詰めに処せられた」という歴史があります。現代は、石子詰めはありませんがね。
 「石子詰め」というのは、穴を掘って死んだシカを入れ、その上にシカを殺した犯人を生きたまま入れ、首から上だけ地上に出るようにする。ここで、石を投げつけて犯人を殺すのは、「石打の刑」。「石子詰め」は、「石打の刑」のように残酷ではない。石を投げつけず、首の周囲に小石を沢山入れて圧殺した。その方が苦しむ時間が長いから残酷なんじゃないかって?そうとも言えますぅかね?

 小砂利で圧死。こんな死に方はしたくない。「石子詰め」から逃れるには、「自分の家の敷地内で、シカが死んでいないこと」。そのためには、とにかく早起きして、自宅の周囲を点検する。もし、シカが死んでいた場合は、引きずって隣の家の敷地内に運んでおく。隣の家の人が、シカに気づいて自分の家の敷地内に運び込んだら、またシカを隣に引きずって行く・・・。落語の「鹿政談」、そのまんまですね。
 そんな訳で、中世から奈良の人は早起き。よく分かります。「石子詰め」が無くなった現代も、早起きDNAは脈々と受け継がれている。いい話だと思います。

 「早起きは三文の徳」…これも、奈良発祥。この諺、なぜ、「早起きは石子詰めのがれ」じゃないのか?時代が移りかわっても、シカの死体が自分の家の前で発見された場合、その家の住人が責任を取らないといけない事には変わりがなかった。でも、石子詰めはあんまりなので、「罰金三文」に変更した。よって、「早起きは三文の徳」。三文の節約のために、シカを引きずったな!

柿を食っていたら…どの寺の鐘がなった?

2017年04月20日 | Weblog
 法隆寺では、ちょうど正午に居合わせたので、「鐘」を聴くことができました。で、鐘と次の鐘との間が長い!観光客にとっては、長い時間鐘を楽しめるのでうれしい事ですね。

 「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」
 正岡子規の句。知らない?国語の時間、寝てたんじゃないの?国語の教科書にも必ず採用されていますから、日本人であれば赤ちゃん以外知らない人はいない。
 この句の意味は、「奈良を旅し、好物の柿を食っていると、法隆寺の鐘が聞こえてきた」ということ。
 …だからなんなんだって?「法隆寺を、興福寺に替えても、法起寺に替えても、いいんじゃないか?そういう俳句を、『カートリッジ俳句』というんだ!」って? はいはい、「カートリッジ俳句」は、元々は私が言い出したもの。
 で、私は、正岡子規ともあろう人が、カートリッジ俳句を詠むはずがない。きっと、「法隆寺」でなければならない何かがあるはずだ。と、考えておりました。この度は桜が満開。柿は…ないけれど…。
 
 子規は、松山市で夏目漱石と50日ほど一緒に暮らしました。漱石は俳人でもありますが、師匠は子規。この松山暮らし50日に、高浜虚子(どこの子だって?有名な俳人ですよ!男です)も参入していたそうですから、凄い顔ぶれですね。
 おっと、子規に柿を食べさせなきゃ。子規は、松山をあとにして東京へ帰る途中に憧れの奈良へ立ち寄った。奈良を訪れることは年来の念願だったってんだから…その気持ち良く分かります。私と同じ気持ちだったんですね。
 子規の随筆に、「くだもの」というのがあります。その中で、子規は東大寺の近くの宿で柿を食べているんです。さてさて、法隆寺ではないのかぁ…。
 「くだもの」で、柿を食べる子規に、東大寺の鐘が聞こえています。なお、法隆寺は斑鳩町、東大寺は奈良公園の近く。…直線で20km以上離れています。お互いの「鐘」は聞こえない。
 なぜ、「柿食えば鐘がなるなり東大寺」にしなかったのか?私は、「くだもの」に載っている文章から、東大寺を法隆寺にした理由が分かったような気がしています。
 本当は、「柿食えば鐘がなるなり東大寺」にしたかったのでしょうが、そうしてしまうと、「誰に柿をむいてもらったのか?」が分かられてしまう。
 「くだもの」に、東大寺の近くの宿で柿をむいてくれた女の子の事が詳しく書かれています。
 「年齢は16~17歳で、肌の色は雪のように白くて、目鼻立ちまで申分のない美人」と。子規は、この娘が気になってしょうがない。しかし、そんな自分の気持ちを他人に悟られたくない。まして、この娘さんに悟られたくない。そのため、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」と、しなければならなかった。
 なぬ?東大寺以外なら、どこの寺でも良かったんじゃないか?なぜ法隆寺なんだって?それは、東大寺に匹敵する、「格式、規模」の寺でなければならなかったからでしょう。あと、東大寺からできるだけ離れた所の寺にしたかった。
 法隆寺の隣の中宮寺では役不足だった。中宮寺に失礼だって?「柿食えば」の話であって、中宮寺を軽く見ているわけではありません。何しろ、聖徳太子の御母様と深い関係があるお寺ですから。中宮寺の名物は、「山吹」。私どもは非常に幸運に見舞われ、満開の山吹を見る事が出来ました。
 ロダンの彫刻に、「考える人」がありますが、中宮寺のご本尊は、「考える姿の仏像」なんです。お顔も美しい。それまで、仏像の顔など気にもならなかったのですが、古稀近くなりますと気になるのです。「仏像の顔」がわかるようになるんです。齢を重ねることのよさの一つでしょうか。

慈光院…寺なのですが、寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られている。もちろん、慈光院では、「お茶と御菓子」をいただきました。美味かったですよ!何しろ、300年続いた味ですから。
 慈光院を建立したのは、片桐石見守貞昌。号は、「石州」。片桐石州のほうが通りが良い。片桐石州は、な、な、なんと、「徳川四代将軍家綱の茶湯指南」でした。そのような話を住職から聴いたもので、いただいた「お茶」が超美味だったわけです。水戸光圀公(黄門様)も、石州に茶の湯を学んだという。ポジティブに考えると、「水戸の御老公が飲んだお茶と同じお茶を飲んだ」…無理がありますね。

奈良名物わた雪氷

2017年04月19日 | Weblog
御先祖様の地、「奈良県高取町」を訪ねました。道中難儀する場面も少なからずありましたが、無事帰ることができました。
 さて、旅の様子をどこから始めようか…。「奈良に美味いものなし」というお話しを聞きました。私としましては、「そんはずはない!日本最古の文化を誇る奈良に美味いものがないはずがない」と、当然考える訳でございまして…。「奈良の美味いもん」の話から。

 まず、お酒ですが、日本酒の発祥はもちろん「奈良」。で、地酒が100種類以上はある。数えたのかって?概算ですけどね。
 文句なしで一番は、「斑鳩の里」。飲む前に、酒蔵をチェック。「奈良県御所市大字櫛羅621 千代酒造」。おおっ!御所市!これに決めた!というわけで飲み始めました。この度の旅行のアドヴァイスを、御所市ご出身の方からいただきました。「斑鳩の里」については、特段ありませんでしたけどね。
 で、味は…個性を主張しています。よく、「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」といわれます。それはそれでいいのですが、「斑鳩の里」の場合、「上善が1300年の味を付けた」。そういう「美味さ」です。「旨さ」の表記の方がピッタリかな。個性を主張していますから、「から酒(アテなし)でも飲めますし、如水の要素もあるので、料理を邪魔しないからどんな料理にも合う」

 さてさて、たべものですが…
 「お造り・お寿司」・・・「奈良には海がないだろう、鮮度に問題はないのか」って?そう考えるのは、奈良への理解度が低いです。2677年前から、大阪、徳島、三重、和歌山の新鮮な魚介類が今の橿原市に集まっていたんですよ!美味い米も獲れるので、お寿司は絶品。2677年は、どういう計算かって?神武天皇です。
 魚は入ってくるが、保存が利かない。そこで、「柿の葉寿司」が誕生したわけ。「押し寿司」「箱寿司」の類は、味は上等で保存が利く。柿の葉寿司は、さらに柿の葉で巻く。柿の葉は、「防腐効果」があるとされている。
柿の葉寿司は、「鯖」が主流でしたが、今や「鮭」「鯛」の柿の葉寿司もあります。旅行中、毎日食べてました。

 コロッケ・串カツ・・・「ならまち(JR、近鉄の奈良駅の南東に広がる楽しい街)」の、「もちいどの(餅飯殿)」の商店街で、行列ができているコロッケ屋を発見。好奇心に洋服を着せたような性格のカミサンは、すぐさま列の最後尾に!「いまここで、コロッケを食べたら、斑鳩の里と奈良ならではの夕食が…」という私の心情など察するもんじゃない。忖度ってもんがない。行儀が悪いが、路上で、「コロッケと串カツ」を食べさせられました。が、「美味い!」。行列が出来るはずです。

 タケノコ・・・丁度、旬の食べ物。調理法に1300年の歴史があるのか、これまでに食べたタケノコで、もっとも美味しいモノでした。やわらかい!
 ごま豆腐・・・箸で持ち上がる超粘度。味も濃い。
 葛(くず)・・・葛は美味いに決まっています。驚かされたのは、「賞味期限30秒以内」という「葛きり」。吉野山の金峯山寺(きんぷせんじ)の参道にある「葛屋さん」で、実演即売。賞味期限30秒ですから、造った片っ端から食べなければなりません。大変な人だかり。カミサンも参戦しましたが、二度ほど跳ね返されて、あえなく退散。ションボリしながら、「葛うどん」を食べてました。

 まだまだ挙げたらきりがない。奈良の美味いモノのしめに、「わた雪氷」のことを書かなければなりません。
 奈良で食べておきたかったものに、「奈良名物のわた雪氷」がありました。「ならまち」で、はじめに見つけた店で、価格を見てびっくり!小鉢に盛ったわた雪氷が、「750円」ですよ!なめてます!いくら有名だといっても、原価は20円もしない。せいぜい、人件費等を含めても200円でしょう。たかが、かき氷にシロップをかけたモノが、750円!お金の価値というモノを知らない。
 二番目に見つけた店では、「450円」。これでも高いが、「奈良で、名物のわた雪氷を食べたよ」という自慢話づくりのために、450円を払ってしまいましたぁ。
「氷水」なんですが、削り方に工夫があるらしく、「氷がふわふわ。わたのよう」。 なぬ?「どうして、氷水が奈良名物なんだ」って?平城京の時代、すでに朝廷では、夏場には「氷水」をたべて、涼んでいたのです。「日本書紀」に明記されています。冷蔵庫はありませんでしたが、「氷室」がありましたから。
 氷は貴重なモノでしたから、(律令制において)「氷室、製氷職」は、宮内省に属しておりました。

 そんな氷の長い長い歴史が、今の「奈良名物わた雪氷」となっているのです。450円は高いと思いますが、まあ、自慢作りのためですから多少の出費はしょうがない。