子供でも分かりそうな単純な事が取り返しの付かない不覚の事件を
起こした。事前にそういう行為をするとどうなるのか、事後にはどういう事にな
るのか、普通の常識で考えても察しがつくものだ。敢えてそういう行動に走る短
絡的行為の原因は奈辺にあるのか、当事者には考えられなかったのか・・・。
ごく普通の人には考えられない事を仕出かした。背景に社会的歪(ひずみ)が
有るにせよ被害者やその家族(遺族)には通用しない。理由を分析し原因を究
明し明らかにしても、死んでしまった人 には何の償いにもならない。人生の半
ばに希望を奪われ全てを無に帰した被害者の無念の思いを察するに断腸の思
いを禁じ得ない。遺族にとっても同じだ。・・・欧米では、親と子、家族、兄弟姉
妹は 別人格 で責任の所在は<本人に有る>という。何れにせよ欧米と日本
とでは、思想的背景、文化の背景が違い、日本の国民性は 情 が優先する。
義理と人情だ。親と子、兄弟は、同じ血筋を共有している。親子、兄弟姉妹の
情愛に基づく繋がりは絶対である。社会に対して、ひれ伏して、お詫びするの
は当然である。・・・極論すれば 人 一人でも殺したら、もう、親は、この世に殺
人を起こした我が子は居なかったものと観念すべきである。無念の思いが有る
にせよ被害者の遺族に対して、社会に対して、子に代わって、<死に値する同
等>の 罪の償い をすべきである。具体的な態様は 「死相応な罪の償い」を一
生 懸けて償うべきだ。罪を犯した当事者の親や家族はそう断念すべきであ
る。・・・しかし<人殺しの子>であっても 子 は 子。親にしてみれば 眼に入れ
ても痛くない程、可愛い 我が子 である。その思いを断ち切って、“この世に生
まれてこなかった子”として無に帰する覚悟が遺族に対する謝罪の形態にな
る。<罪相応の償い>を牢獄(死)で果たすべきだ。メディアを介して謝罪する
構図には、もう辟易している。来年から裁判制度も始まる。人を裁く行為が如
何に難しいかが実感するようになる。被害者も加害者も公平な裁きを望んでい
る。被害者の無念の思いを察する事前事後の 豊かな「想像力」と「的確な判
断」で持って誤った行為に走る事にストップを掛けるべきである。・・・今回の秋
葉原、無差別殺傷事件に関して日頃、考えたいた事の一端を述べた・・・
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