世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

子供の観た史跡名所・文化財「首里観音堂」

2005年09月26日 | Weblog
首里坂下の右手上の方に沖縄の赤瓦屋根の「観音堂」(かんのんどう)があります。新築された観音堂は、遠くからも、よく見えて堂々としており首里の名物になるだろう、と思います。おかあさんの話では、いつもお祈りに来る人たちで、いっぱいだとのことです。資料で調べてみると、1,616年に佐敷王子(<さしきおうじ>尚円王統の6代目、尚永王<しょうえいおう>の弟、尚久<しょうきゅう>の4番目の子で後に尚豊王<しょうほうおう>となる人)が1,609年の「慶長の役」(けいちょうのえき)で薩摩藩(<さつまはん>鹿児島県)の人質になって連れて行かれたそうです。父の尚久王が、王子が、無事に帰ってこられることを祈って「観音像」に祀って建てたのが、このお寺だとのことです。間もなく王子は、無事帰ることが出来たそうです。私達は「首里観音堂」(しゅりかんのんどう)と呼びなれていますが、正式の名は「慈眼院」(じげんいん)と呼ぶそうです。「上り口説」(<ぬぶいくどぅち>=琉球舞踊)にも歌われ、旅に出る時は、ここの観音様に拝んで行く、という様な内容で踊られます。昭和27年に再建されていましたが、広く大きく造りかえられて、現在のような建物になったそうです。(6年 K君)

「観音堂」といえば、あまりにも有名な、そして沖縄の人達からは親しまれている所です。戦前も、そして戦後も人々の心の中に生き続けて来た救いの象徴です。観音堂の由来を知ることは、沖縄の苦難の歴史を知ることにも繋がります。いつも、見慣れている観音堂を新たな歴史の眼で見つめなおしてほしいと思います。(母 K子)

<学習の手引き>・・・「国難」というお芝居がありました。琉球と薩摩との関係を描いた史劇です。調べてみましょう。



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