小沢代表の続投に対する是非を地方県連の幹部にアンケートで回答して
もらった(共同通信社)。結果は大半が続投を支持、一部の県連は条件を付け
て容認が大勢を占めた。否定的か不明にしたのは一部に留まった。・・・然もあ
りなん、と小生も納得した。・・・元々、日本は外来文化の受容に寛大で神仏混
淆の例でも、本地垂迹説(その逆本地垂迹説)でも鷹揚に取り入れている。国
境線のない(それに相当するものはあるが)海洋国家 島国の日本は独自の文
化を築き上げてきた。即ち、競争原理に貫かれた個々の闘争を原理とする西
欧の 狩猟民族 と違い、島国という自然条件を背景に助け合って生きなければ
ならない 農耕民族 の特性 故、村の原理、共同体の原理、個々種々の所属集
団の原理が絶対優先され(その原理に悖れば、違反すれば、悪く言うと? “村
八分” にされた )、その上に個々の個性が形成され、ひいては個人の人格形
成、性格形成をなしてきた。少なくとも戦前までの封建的家族制までは社会集
団の大勢を占めてきた。良い方向に向かえば絶大な力 故、社会を動かす原動
力になったが、反対の方向に向かうと一途に悪しき方向へと突っ走った(戦争
への道)。平たく言えば、日本的あの“空気”の為せるわざである。日本的美風
も情操も情緒も個々の考え方も、その根底には、“あ うん”の呼吸 という所属
集団として分かりあえる<暗黙の了解>が存在した。共同体としての濃厚な
“絆意識”である。それが今日では薄れてきた、と言うより皆無になり個々バラ
バラの“自己中(じこちゅう)”になってきた。現代の風潮になって来た。“空気”
という 心意気・風の読み違いである。近代的個性の確立も民主主義も日本で
はそういう“空気”の上に成り立つ。“自己中”は、その肝心要の“空気”が根底
にない ふわふわ した不安定な上にある風船の様なものである。だから何時か
萎み又は破裂し消滅する運命にある。 今回の小沢秘書の献金事件も永田町
と地方とでは受け止め方が違っている。永田町という 政治とカネ に塗れ、政
争に明け暮れている特殊な空間の汚染された地帯と地方のそれとは同列では
語れない。そもそも“空気”が全く違う。そういう眼で観ると地方の大勢は良く理
解できる。翻って現在、日本の政治の位置(位相)は奈辺にあるのか大所高所
から俯瞰する必要がある。懸案の“政治とカネ”の在るべき姿は当然、叡智を
結集して国民の前に提示し納得を得る必要がある。と同時に“日本の将来の
政治の方向”をこそ、明確にして一党独占的政治の寡占状態を二分させ相互
に啓発し合える体制にして論戦を戦わす、そういう国民に見える形の政治にし
てくべきである。
※付記:日本的“空気”の意義と存在は、それ自体、小論に値する。このブログ
では記述に限界があるので意を汲み取る様にお願いし了解を得たい。
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