気の遠くなるような38億年の地球史の中で、その又、人類誕生の
500万年史の中の一瞬、それは100年足らずの興亡の歴史の中の出来事に
しか過ぎないかも知れない。でも掛替えのない命と命との巡り会いである。この
“親と子”という不思議な 縁 の巡り合わせは!。それは偶然とも必然 とも受
け摂れる邂逅である。これからも地球存続がある限り広大無辺の点的存在の
100年の自分史の中での“親と子”の出逢いは、だから、何ものにも代え難
い、最大、大事にしなければならない運命的・宿命的<縁>である。昨今、世
間を戦慄させている肉親の殺傷事件を見るにつけ短絡的で自己中心的な刹那
的行為に喝を入れたい義憤を感じる。きょっと、立ち止まって考えて見るに他
愛のない理由での行為である事に行き着く。当事者も行為後に事の重大さを
思い知る事になる。複雑に絡み合った理由で為す場合もあろうが自己にブレー
キを掛ける、自己抑制が効かない、それが短絡的行為に走らせる。遠因は幼
少の頃から育まれていない規範意識 その欠如、人倫・道徳育成の希薄、自己
規制訓練の皆無、社会常識と情操陶冶の育み、躾の有無、正しい食育、果て
しない欲望の放任等々が複雑に絡み合って、そういう青少年、大人を産出して
いる。一朝一夕に解決の方法は見出せないかも知れないが、事の原因・真相
が分かれば、打つ手は自ずと分かってくる。指導にあたる当事者や当局は指
導の手だてを講じて地道に指導に当たるべきだ。肉親の殺傷事件に事が敷衍
したが、その対極にある「“親と子”の情愛に結ばれた<縁>」を後生、大事に
したい、という思いに駆られたから、そういう有ってはならない事件にまで触れ
ざるを得なかった。もう一度、この<偶然・必然の不思議な縁>、“親と子の
縁”を省みる心の余裕を持ち、じっくり考えてみる機会を持ちたいと思う。今日
この頃、頻りに思う情念の一端である。そういう思いに駆られるのも親子の意
思の疎通の無さを痛感するからである。それには何でも話せる親子が前提に
なる。双方の歩み寄りの努力が必要である事は言うまでもない。悠久の宇宙・
地球史の永遠の一瞬の点的存在の100年間に、この親の子として、この子の
親として100年という<同時代>に生まれ合わせ、存在した事、自体が、“不
思議な縁(えにし)”である。理性的論理の世界を遥かに超えて自然の畏敬の
念に慄き、ひれ伏し、甘んじてこの“巡り合わせ”(親と子の邂逅)に感謝せず
にはおれない。この親も、この子も、この縁(えにし)を(意識的に)自覚して「親
と子」の在り方、<縁>を 情愛を基 に親密にしていく努力をしていきたいもの
だと思う。・・・
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