ホルモン屋徒然草~珍しホルブロだ

新米ホルモン屋の親爺の日々。ホルモンのこと、店の出来事、周辺の自然や話題。

『焼肉屋で思う「寛容さ」』 角田光代

2009-01-09 00:02:06 | 第1紀 生きる
読売新聞1月8日朝刊の文化面の連載「牛のごとく」に作家の角田光代さんが『焼肉屋で思う「寛容さ」』と題した興味ある文章を載せている。

角田光代さんは最近、脚光を浴びている女性作家だが、「たぶん」ワタシは読んだことが無い。
「食べ物では肉が好き」とおっしゃる焼肉ファンなそうである。

「焼き肉屋に行くたび、感心することがある。牛はどんな部位をも、食として提供してくれる。」
たまに行く焼き肉屋に牛の絵と部位が書いてある大きなポスターが貼ってあり、「肩から内臓から、舌から尻尾から、彼らは惜しげなく食べさせてくれる」。

そう、牛も豚も「をかしら屋」のキャッチフレーズじゃないけれど、「舌の先から尻尾まで」全てをなげうって供されるのであります。
もちろん、ワタシ達、人間は供される動物の成就を願い、余すことなく口にするのが礼儀であるとワタシは考える。

そして、「オッパイ」までも「メニュウ」にのる牛を、角田さんは「牛は寛容である」とおっしゃる。

は~あ、誠に優れた焼肉ファンでありますな。

そして取材で訪れた北イタリアでの「牛の乳しぼり」のときの、「牛は、得体の知れない外国人におっぱいをいやというほど搾られているというのに、ちっとも怒らない」と、またまた「牛は寛容である」という。

小岩井農場とか葛巻なんかに行くと、子どもたちがやはり「乳しぼり」体験で喜んでいる。
確かに牛も穏やかで「寛容」なのだが、あの尻のハエを追う尻尾の動きの早いこと。
従事者に聞くと、牛の後ろには注意していかないと蹴飛ばされることもあるそうで、「鈍牛」という首相もかつていたが、勇ましいときの牛は恐ろしいことも事実である。

さて、角田さんは牛の「寛容」さからひるがえし、「どうも時代が、非寛容になってきているように思える。」として、自動改札で引っかかったときの容赦ない舌打ちや、通勤時の動作の遅い老婦人に対する会社員の苛立ちなどを「背筋が冷たくなった」として例に挙げている。

「非寛容は連鎖する。人は非寛容に出会うと、みずからも非寛容で武装する。」
「結果、みんな怒っているように見える。それでいい気分になることなんかないとわかりながらも。」

とし、

「牛の如く(ごとく)、他者から見て、非寛容よりは寛容を感じ取ってほしい。」
と結ぶ。

なるほど、「牛の、あの優雅なマイペースを身につければそうなるのだろうか。」と焼肉を喰いながら、「牛に深く感謝する」のだそうだ。

ふんふん、と考えさせられる一文であった。

「寛容」と相対する「非寛容」。

でも、本当に相対する言葉なのか。

そうでも無い気がする。
ただ、「非」がついただけで反対側にいるのではなく、全く違う暗く意地の悪いところに「非寛容」が存在するのではないかなと思うことがしばしばある。

さてさて、ここは「牛」さんの「寛容」に免じて文章を閉じようか。
「豚」さんでもっている「をかしら屋」ではあるが、今年は「牛」さんと両輪で邁進しますか。