惑染凡夫信心発 わくぜんぼんぶしんじんぽつ
証知生死即涅槃 しょうちしょうじそくねはん
必至無量光明土 ひっしむりょうこうみょうど
諸有衆生皆普化 しょうしゅじょうかいふけ
浄土真宗 経典 「正信偈」より
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惑染の凡夫に信心を発(おこ)しめられたれば、生死即ち涅槃と証知せしまるるなり。必ず無量光明土に至らしめられて、諸有の衆生は皆 普(あまね)く、化す。
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わたしの力は無力である。惑染のままである。凡夫のままである。
しかし、阿弥陀仏の化導によって、必ず、一人残らず、無量光明土に至り着くことができるのだから、安心をして生きて死んでいい。みな、<しかあらしめられて>、涅槃(ねはん)を得るのである。
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わたしの力は無力である。無力であるが、無力のわたしに太陽が昇り太陽が沈んでいる。わたしが太陽を昇らせているのではない。わたしが太陽を沈ませているのではない。その力はない。その力はないが、わたしは日々息を吸うことが出来る。空気がわたしの鼻先まで来ていてくれているからである。大きな顔は出来ない。しなくてもいい。大きな顔をして威張らなくとも小さな顔になって自己卑下をしなくともいい。いいようになっている。みな大きな力が働いているからである。
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惑も染も煩悩のこと。煩悩の濁りのこと。無力の凡人凡夫に、しかし、信心がおこる。そのように仕向けられているから、そうなる。他力が自力に変化して見えて来る。
生死(しょうじ)は迷いの世界のこと。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道を流転して、迷界に留まっている姿。涅槃は生死の迷いの世界を離れた状態。即はそのままで。迷っているままで迷いを離れていられること。証知は、その変化変容に気がつくこと。
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普化(ふけ)は、すべての人が一人残らず阿弥陀仏の化導を受けること。受けたままではいないで、そこからまた信心を起こして、無量光明土に至って仏と成って、仏の涅槃を悟って、他者の救済活動に目を覚ますこと。次の行動へ向かって歩むこと。
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諸有(さまざまな迷妄を抱いている者)のままでは終わらないで、わたしたちはわたしたちを取り巻く大きな大きな力で、次へ向かって動き出し、生きて死んで、次へ次へ向上をしていくことができるのである。
嬉しい。経典にそれを教えられて嬉しい。
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このように、わたしは解釈をしましたが、これはわたしの底の浅い解釈ですから、読者の皆さんはご自分でここのところを解釈してみて下さい。安心に導かれて行って下さい。
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まもなく3時になろうとしています。日が傾き始めます。外に出ます。ミヤコワスレの株分け作業第二日目に入ります。半分もできないでしょう、きっと。