<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

広い空間の片隅にある狭い空間のあじわい

2023年11月25日 18時19分18秒 | Weblog

法師蝉 煮炊きといふも二人かな

富安風生

俳句のなんたるかをつゆ解せぬ男が、次々と俳句の庭に足を入れています。不届き者です。ごめんなさいごめんなさい。

煮炊きをしている人は奥さんでしょうか。夏の夕暮れがそろそろと暮れて行きます。法師蝉が鳴いています。大勢の人が働く都会の勤めからご主人が帰宅しました。外の土間に七輪が燃えています。塩イワシが焼かれています。煙が煙たいです。土間まで出て見ます。「今日も暑かったなあ」の声が出ます。「お疲れになったでしょう」のいたわりを奥さんがかけてきます。緊張がほどけます。二人が夕食をとるだけの煮炊きですからすぐに終わってしまいます。

それがふたりをしみじみとさせています。広い空間が欲しいときがありますが、それに飽きることもあります。そういうときには狭い空間が、広い空間以上の力を発揮して登場して来る。それが煮炊きの狭い空間です。そこに力がふっくらふっくら満ちて来ます。樫藪から法師蝉が抜けて来て声を貼り付けます。

いい加減な空想をして遊びました。作者に怒られそうです。

 

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富安風生の句を鑑賞する。木の実落つるしきりにしきりに。

2023年11月25日 18時08分26秒 | Weblog

よろこべばしきりに落つる木の実かな

富安風生

空も、よろこびたいのであります。雲も、よろこびたいのであります。風も、よろこびたいのであります。秋の日もよろこびたいのであります。木の実の山も、よろこびたいのであります。きっかけがありさえすれば、それらがみんな、どっとどっとよろこびへ駆けだしていきたいのであります。

木の実が1個ぽつんとわたしの足下に落ちてころげました。秋が来ているからあったりまえといえばあったりまえだったのですが、それがふいにこの日は一人でよろこべたのでありました。木の実は、それからそれへ、その後、落ちて来るのでありました。

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富安風生の句を鑑賞する。老いの春も春である。

2023年11月25日 17時43分19秒 | Weblog

生きることやうやく楽し老いの春

富安風生

作者は東大法科を出て通信省に職を得、時を動かす官僚となった。のち、高浜虚子に師事して俳句会をリードした。その分野にいても、大成をした人だ。それでけ苦労も重ねたのかもしれない。緊張が解けたようなさばさばした句だ、これはまた。

誰もが楽しんでいい。生きることを楽しんでいい。いつからでもいい。早過ぎるということもない。遅過ぎるということもない。浅くてもいい。深くてもいい。高い地位に就いている人だけというような限定もない。その反対の限定もない。

作者は、「老いていまやっとすこおしばかり生きるのが楽しくなってきたぞ、これからだな万事は」などという慎みの境地に辿り着いて、いくばくか安堵している。いよいよこれから生きることを真正面に据えて過ごしていけそうだ、老いのカーテンの隙間越しにちらりと明るい光が灯っているぞ、と覗き見をしている。

それは俳句になって、朗らかな春の光が朗らかに照らしている。

そんなイマジネーションを試みてみました。わたしはすぐにこの句に心引かれました。

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竈、竈猫、竈の神、竈小屋、こがらし吹き荒ぶ。

2023年11月25日 16時58分11秒 | Weblog

何もかも知ってをるなり竈猫

富安風生(1885~1979)愛知県の人。高浜虚子に師事した。

季語は竈猫。冬。猫が竈に入って眠っている。

「竈」なんか知るまい、今を生きる若い人たちは。このお爺さんは知っていますよ。竈は「へっついさん」と呼んでいました。火伏せの神の竈の神が祀られていました。母屋とは別棟になっていました。竈は、大中小の3個が横様に列んでいました。大きな竈には大釜がかけられ、お湯が沸いていました。赤壁で仕切られていましたが、入口の仕切りなんてありません。北風がびゅうびゅう吹き込みました。藁で編んだ薄っぺら筵がドアの代わりをしていました。炊くのは米藁、麦藁が主。小笹もありました。山から引きずり下ろしてきた木っ端もありました。それらが隣の藁小屋に堆く積み上げてありました。

おっかあが、そこにいました。きっとほっかぶりをしていました。学校から戻って来ると竈の火にあたりに行きました。

昼の日中は竈には火が入っていません。その間は飼い猫が主をしていました。朝飯を炊いたあとの藁灰はまだぬくぬくとしています。猫は此処へ潜り込んでいます。「おれがこの家の主だぞ」「おれはこの家のことなら何でも知って入るぞ」「この家の財産がどこに隠してあるかまで知って入るぞ」という顔をしていました。

いまは竈のことも竈猫のことも竈の神様のことも、誰も知っていません。飼い猫も泥棒猫も知りません。知っているのは此処に生き残っているこのお爺さまばかりです。

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復調が延びているようだ。

2023年11月25日 11時53分07秒 | Weblog

外は、どうやら、ぽかぽか陽気のようだ。風は全くない。白い蝶がひらひら飛んでいる。

僕はあいかわらずだ。食事意欲なし。動き出す意欲なし。きつい。へなへなしている。復調が延びているようだ。

いいかなあと思うとこれだ。逆戻りだ。インフルエンザ治療薬タミフルは規定の10錠を、今朝で飲み終えた。クリニックからもらったほかの薬も飲み終えた。

朝はお粥を啜った、お茶碗半分ほど。塩昆布と高菜の一夜漬けをぶっこんで。まったくおいしくなかった。

今日は土曜日。明日は日曜日。何をすることもなし。正午を知らせる市役所のチャイムが鳴っている。

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